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狂える鳩に永久の騒音あれ


(担当 処刑マニア)
前14世紀のヒッタイトの拡張戦争



ヒッタイトの三人乗り戦車
ラメセウスの浮き彫り
http://zeus.fltr.ucl.ac.be/ より

トットハリア王(前1400から1370年)

 前17世紀にはバビロニアでさえ討ち滅ぼしたヒッタイトだが(1)、前15世紀には混乱の中にあり、外へ向かう余力はなく、西方のアルザワ諸国、北方のカスカ諸族、南のミタンニの脅威に曝されていた。現存する記録も少なく王の名は解っているがその関係や在位の順序すら諸説あり明確な歴史像が構築されているとは言い難い(2)
 前14世紀初頭か前15世紀末、ムワタリ王が暗殺れさ王位を巡る内乱が近隣諸国を巻き込む形で発生した。トットハリア一世は南方のフルリ人の支援を受けた王護衛隊長ムワを撃ち破り、王位につく。このような王の暗殺や王位を巡る争いはこの当時のヒッタイトには珍しくなかった(3)。しかし、王位奪取の方法は従来と同じだったが、王の治世は従来の王とは異なっていた。
 トットハリア一世(4)は内乱の勝利により国内をまとめると、西部国境地帯の安定を目指してアルザワ遠征を開始する。アルザワは統一した王国などではなく多数の小国家が存在する地域であり、最初の遠征は大した抵抗もなく成功したようであるが、支配体制を固める前にアルザワ諸国は大同盟を結びヒッタイトに対抗してきた。そこで、トットハリア一世は二度目の遠征でアルザワ同盟を撃ち破り、アルザワ同盟軍の一万の歩兵と六〇〇乗の戦車を本国へ植民させた。敵の主力部隊を手元に置くことで敵の力を殺ぐ、一種の人質みたいなものである。この勝利によりアナトリア半島西側の大半を勢力下に納めた(5)。しかし、ヒッタイトにとり西部国境は安定していればそれでよく、本格的に西部を征服支配する気はなかったようで、それほど強力な支配体制は敷かれなかったようだ(6)
 トットハリア一世が西方へ向かっている隙をついて北のカスカ諸族がヒッタイト本国に侵入を開始した。西で勝利を収めたトットハリア一世は返す刀で本国へ急遽帰還するとカスカ連合軍を撃ち破り、敗走するカスカ連合軍を追ってカスカの地へ追撃を行い、翌年カスカへ本格侵攻を行い、この地の大半を支配下に納めたが、その後も再三に渡りカスカ諸族はヒッタイトに反抗し、トットハリア一世の治世の内には完全制圧は叶わなかったようである(7)。ここでも征服支配することが目的なのではなく、北部国境の安定が目的だったために支配を徹底できなかったようだ。
 西と北を不安定ながらとりあえず制圧したトットハリアの目は東へ向かった。東にはアルザワやカスカのような雑多な国の連合ではなく、ミタンニという強力な統一王国があり、ミタンニとヒッタイトの間には幾つかの小国家が存在し、その多くがミタンニに従属する立場をとっていた。そのような小国の一つイスワはミタンニの後援を受けてヒッタイトに戦いを挑んだ。トットハリアは最初の攻撃でイスワを撃ち破り一時的にイスワを制圧したが、ミタンニの支援でイスワは再度蜂起し、トットハリアはイスワを屈服させることが出来なかった(8)。トットハリアはイスワ方面だけでなく、アレッポ方面からもシリアやミタンニへ向けて侵攻を行い、アレッポを征服しミタンニの一部をも征服したようだが、ミタンニのシリアへの影響力を排除することは出来なかった(9)

奸雄マットトゥワッタ

 トットハリアの治世末頃、アヒヤワのアタリシィヤスに国を追われたマットトゥワッタという人物がトットハリアの宮廷に現れた。アヒヤハとはギリシアのことで、マットトゥワッタはギリシア軍の攻撃で国を追われた有力者のようで、ある程度の戦闘部隊を引き連れてきたようである。マットトゥワッタはトットハリア王からヒッタイト本国西隣にジィパスラという国を貰い、そこの統治者として部下と共にトットハリア王に忠誠を誓った(10)。トットハリア王にとっては西部国境地帯の防衛を目的とした従属国の創設であり、安価な国境守備隊長程度にマットトゥワッタを見ていたのだろう。
 マットトゥワッタは国を貰うと早々に隣国のクパンタ−クルンタ王の国へ侵攻したが、逆にクパンタ−クルンタ王の逆襲にあって自国を占領されてしまう。この報に接したトットハリア王はマットトゥワッタを救うべく軍を派遣し、クパンタ−クルンタ王を撃ち破り、マットトゥワッタの国を再建した。次にマットトゥワッタをヒッタイトへ走らせたアヒヤワのアタリシィヤスがマットトゥワッタの国へ侵攻してきた。これに対してもヒッタイトのキスナピリス将軍率いる西部国境守備軍が直ちに出動し、アヒヤワ軍を撃退した。
 親ヒッタイトでいることにうまみを感じなかったためか、マットトゥワッタは親ヒッタイト路線から反ヒッタイト路線へと政策を変更する。そこで、ヒッタイト西部国境地帯を預かる勇将キスナピリス将軍を排除すべく陰謀を巡らす。密かにルッカの国々を扇動し、ルッカ諸国に反乱の兆し有りとヒッタイト本国に報告したのである。そして、マットトゥワッタはキスナピリス将軍に共同して反乱を鎮圧すべきだと進言し、将軍がヒンドゥワを攻める、自分がダラワを攻めるとした作戦を提案し、言葉巧みに将軍を誘いだしたのだった。キスナピリス将軍がヒンドゥワに出陣すると、マットトゥワッタは軍を出さず、ダラワにキスナピリス将軍率いるヒッタイト西部方面軍を一網打尽にするチャンスだと唆した。キスナピリス将軍は罠にはまり、ダラワとヒンドゥワ軍の挟み撃ちにあい、将軍もろともヒッタイト軍は全滅してしまう。
 次に、昨日の敵は今日の友というのだろうかマットトゥワッタは最初に攻撃したクパンタ−クルンタ王の娘と結婚することで同盟を結び、ヒッタイトの従属国たるハパラを攻略し、ルッカ諸国を占領し、ヒッタイト従属国のピタサで反乱を扇動した。これにはヒッタイト王トットハリアも看過できないとみてマットトゥワッタに詰問状を送りつけた。マットトゥワッタはヒッタイトとの全面対決は得策ではないと考えてか、ヒッタイトの従属国のハパラを返還した。トットハリア王も西で事を荒立てたくないと考えてか、これ以上活動を起こすことはなかった。マットトゥワッタは最後にキュプロス島へ遠征軍を送り、この島をも占領してしまう。ここにヒッタイトにとっては極めて扱い辛い西方大国家が誕生してしまう(11)

アルヌワンダ王とトットハリア三世(前1370から1344年)

 トットハリア王が死ぬと、王の息子アルヌワンダが特に障害もなく跡を継いだ。アルヌワンダ王の治世は特に戦いもなくトットハリア一世の成果を維持したに留まっている。次代のトットハリア三世の時世に西と東からカスカとアルザワ両国による侵略を被る。
 北から侵攻したカスカ人は首都ハットゥシャシュを占領し、ヒッタイト王宮はサムハへ避難した。カスカ人の成功に乗じ、西のアルザワもヒッタイト西方の諸属国に侵攻、占領してしまう。恐らく、ヒッタイト西方国境を守るマットトゥワッタの国はアルザワに寝返ったと考えられる。アルザワはヒッタイト本国を占領するには至らなかったが、ヒッタイト北西部の主要な属国たる低地国を支配下に納めた。アルザワ王ターフンダラドゥは時のエジプト王アメンヘテプV世の娘と結婚し、エジプトと同盟を結び、今回のヒッタイト侵攻によりアナトリア半島の支配権を握ることになり名実ともにオリエントの強国の一つとしての地位を手にしたのだった。
 サムハへ一時退いたヒッタイト王家だが、トットハリア三世の息子シュッピルリウマ皇太子が主導する反撃が直ちに開始された。最初の攻撃目標は本国を占領しているカスカ人に向けられ一時本国を奪回したが、再びカスカの大軍が南下を開始し、ヒッタイト軍はサムハへ退却を余儀なくされた。カスカ軍はヒッタイト軍を追ってサムハへ向かった。トットハリア三世とシュッピルリウマ皇太子率いるヒッタイト軍はカスカ軍をクマハで迎え撃ち、大勝利を納める。この勝利の余勢を駆ってヒッタイト軍は本国の奪還に成功する。
 カスカの脅威を退けたシュッピルリウマ皇太子はアルザワへの攻撃を開始した。最初にシリアとヒッタイトとアルザワを結ぶ街道の交差点にして要衝たるサラパを占領した。そこから、ヒッタイトの元従属国たる低地国へ侵攻した。この地でアルザワ軍の大規模な抵抗にあったが、アルザワ軍を撃破して低地国の支配を取り戻すことにも成功した。シュッピルリウマ皇太子は低地国の太守としてハンナッティ将軍を赴任させた。ハンナッティ将軍は太守の座に着くと隣国のアルザワ諸国の一つたるハパラ国を攻撃し、アルザワに大規模な損害を与えた。だいたいこのあたりでヒッタイトはトットハリアV世時世初期に有していた領土の大半を取り戻すことに成功したようだ(12)

シュッピルリウマ大王(前1344から1322年)

 トットハリア三世が死に、シュッピルリウマが後を継いだ。西方と北方の敵を制圧し、一段落ついたところでの即位だった。東方の大国たるミタンニで王が死にその後継者と定められていた息子が軍幹部により殺害され、王族のトゥシュラッタが王位につき、それに不満を持つ他の王族との間に王位を巡る内乱の危機が生じていた。シュッピルリウマはこの機会を掴み、王位を握り損ねたミタンニの王族のアルタタマに接近し、彼にミタンニ王位を約束してミタンニへ向けて侵攻を開始した。最初にミタンニの属国たるイスワに侵攻したが後退を余儀なくされる。これに喜んだミタンニ王トゥシュラッタは主従関係にあったエジプト王に勝利の報告をしている(13)
 余勢を駆ってミタンニ王はミタンニの南に位置するヌハッセを攻撃した。この隙をついてシュッピルリウマはイスワへ侵攻し、瞬く間にイスワを蹂躙すると、そのままミタンニへと侵攻した。ミタンニ王トゥシュラッタが有効な防衛手段をとる前にシュッピルリウマはミタンニの首都ワズスガニを占領した。ミタンニを征服するとすぐにシリアへ矛先を向け、シリア北部の多くの都市を占領したが、当時エジプトの従属下にあったカデッシュだけはエジプトと事を構えないために占領を控えた。しかし、カデッシュ王は軍を集めてシュッピルリウマの軍へ攻撃を仕掛けてきた。やむなく、シュッピルリウマはカデッシュ軍を打ち破り、実質的にはカデッシュを支配下に納めた。これが後年エジプトと直接対決する遠因の一つにもなったようである。
 シリア遠征に先立ち、シュッピルリウマはシリア北部のウガリト、ミタンニ南部のヌハッセ、シリア中部のアムルと同盟を結んでいた。侵攻ルート上に友好国を設けて侵攻を容易にするための外交的方策だったようだ。これらの外交的準備と、速攻のおかげでわずか一年でミタンニとシリア北部を征服した。
 しかし、征服が完成したわけでもなかった。ミタンニにはまだ有力な軍と根拠地としてカルケミッシュ市が残されており、シリア諸都市もまだ完全にヒッタイトに従属したわけではない。シュッピルリウマはシリアの支配をより確固としたものとするためにアレッポ王に息子のテレピヌスを置き、ミタンニ征服の前線基地としてムルムリジに補給基地を建設し、守備隊を配置した。シュッピルリウマがミタンニ征服の準備を進めている中、ミタンニも反撃の機会を狙っていた。シュッピルリウマ王とテレピヌスがある宗教的な祭りの為に本国へ帰還すると、ミタンニはこの機会を掴んでムルムリジを攻撃し、この町を包囲下においた。同時期にエジプトのファラオもヒッタイトに奪われたカデッシュを取り戻す為に軍を出発させた。この報に接したシュッピルリウマは急ぎ軍を引き連れムルムリジへ向かい、ミタンニの包囲軍を打ち破ってそのままミタンニ最後の拠点たるカルケミッシュへと雪崩れ込んだ。カルケミッシュとは別に支隊はカデッシュの報復にエジプトの属国アムカを攻撃した。カルケミッシュが陥落し、ミタンニ王国は実質的に滅亡した。シュッピルリウマはミタンニ支配の要として息子のピヤシリをサーリ・クスハと改名させてカルケミッシュ王につけた。
 カルケミッシュ攻城戦の最中、エジプト王妃からシュッピルリウマに、シュッピルリウマの息子を一人エジプトのファラオとして迎えたいとの手紙が届いた。当初シュッピルリウマはこの手紙を信用せず無視していたのだが、その後再び同様の内容の手紙が届き、最終的にシュッピルリウマは息子の一人をエジプトへと送ったのだが、息子はエジプトにたどり着く前に殺され、シュッピルリウマは報復にエジプト領シリアへ攻撃を加えた。エジプトは国内が混乱しており、シュッピルリウマの攻撃に対して為す術がなかったようだ。
 シュッピルリウマの時世にヒッタイトは宿敵のミタンニを滅ぼし、念願のシリア征服を果たす。シリアに強力な影響力を行使していたエジプトはアメンヘテプW世の宗教改革により国内が混乱し、続くツタンカーメン、アイの時世でもこの混乱は収拾されず、シリアに影響力を行使できない状態にあった。故にシリアはヒッタイトの独占的な支配下にあるも同然の状態でなったのである(14)

ムルシリ二世(前1321から1295年)

 シュッピルリウマ大王の後をアルヌワンダ二世が継いだ。アルヌワンダ二世の時世に入ってすぐ、北方のカスカ人が南下を開始し、ヒッタイト北部国境地帯が荒れされた。そこで、アルヌワンダ二世は西部国境を守る勇将ハンナッティ将軍を召還した。ハンナッティ将軍は巧みな指導によりシュッピルリウマ大王時世の間、西の隣国アルザワを抑えつけ西部国境を安定させ、シュッピルリウマ大王の東征に少なからぬ貢献をしていた。その手腕を買われての召還である。しかし、北部に赴任したハンナッティ将軍は着任早々に死去してしまう。そして、アルヌワンダ二世もその直後に死去し、後をアルヌワンダの弟のムルシリ二世が継いだ。ムルシリ二世は即位したその年にカスカ討伐軍を起こし、カスカ領へ侵攻して二年に渡る戦いの末、一時的にカスカを制圧した。
 アルザワ王はギリシアと同盟を結び、エーゲ海岸のヒッタイトの従属国たるミラワタを自陣営に抱き込み、ヒッタイトへの攻撃を準備した。
 ムルシリ二世はすぐに軍を起こし、兄のカルケミッシュ王サーリ・クスハの来援を得て、一気にミタンニの首都、エーゲ海東岸の都市アパサへ向けて侵攻した。アルザワ軍は国境のアスタラ川でヒッタイト軍を迎え撃ったが、大敗を喫し、首都へ向けて敗走した。ヒッタイト軍はアルザワ軍を追ってアルザワ首都アパサに到達した。
 アルザワ王ウハツィティスはヒッタイト軍の攻撃に耐えかね、ギリシアの同盟者を頼って逃亡し、亡命先で病死した。アルザワ王の息子が祖国奪還を目指してギリシアから帰還を試みたが、失敗し再びギリシアに亡命した。
 翌年、ムルシリ二世は残りのアルザワの拠点を制圧し、アルザワを幾つかの従属国に分割し、それぞれに子飼いの者を王として配置し、六万五千二及ぶアルザワ人をアルザワの力をそぐ為と一種の同化政策を目指してヒッタイトに移住させ支配を強化した。この段階でヒッタイトの西を常に脅かし続けたアルザワは完全にヒッタイトの支配下に収まったのだった。
 西は収まったが、北のカスカは再三に渡り、ヒッタイトの支配に逆らい、ヒッタイト本国へも侵攻を繰り返していた。カスカはアルザワと違い一つの王国ではなく多数の部族の集まりで、容易には制圧できず、ムワタリ二世は実に十回に及ぶ遠征を繰り返したが、ついに制圧はできなかったようだ。
 シリアでのヌハッセとカデッシュの反乱とそれに乗じたエジプトの侵攻により北伐は一時中断した。ムワタリ二世は反乱を迅速に鎮圧し、エジプト軍を打ち破って南を収めたが、エジプトは武人出身の新ファラオ、ホルエムヘブの元、国内の混乱を収拾し、外へ向かっての活動を始めていた。だが、この頃はまだ本格化していなかったようだ。エジプトが本格的にシリアへ向かうにはラムセス二世の登場を待たなければならない(15)



前14世紀のヒッタイト帝国の勢力範囲

注釈

  1. 「0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952」18頁、各王の在位期間は181頁より
  2. の時期の在位リストを比較しただけでもその混乱ぶりが見受けられる。「0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952」181頁、「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」前置13頁、「中村光男著 ヒッタイト史研究の現状 歴史評論543 1995年」3頁、「クルート・ビッテル著 大村幸弘/吉田大輔訳 ヒッタイト王国の発見 山本書店 1991年」241頁、http://www.asor.org/HITTITE/Kings.html(現在閉鎖) に掲載されている前15世紀のヒッタイト王リストを比較。
  3. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」131と132頁
  4. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」133頁、「中村光男著 ヒッタイト史研究の現状 歴史評論543 1995年」3頁によるとトットハリア一世と二世については同一人物かいなか、トットハリア王前後の王が誰であったかについて諸説は一致していないようである。ここでは同一人物だったとして話を進める。
  5. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」134と137頁
  6. 「Trevor Bryce Madduwatta and Hittite Policy in Western Anatolia HISTORIA35-1 1986」12頁
  7. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」137頁
  8. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」138から139頁
  9. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」151から154頁
  10. 「Trevor Bryce Madduwatta and Hittite Policy in Western Anatolia HISTORIA35-1 1986」7から8頁
  11. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」143から147頁と、「岸本通夫著 ヒッタイト歴史地理考2 京都大学西南アジア研究8 1962年」16から20頁。
  12. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」158から161頁
  13. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」169から171頁
  14. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」174から189頁
  15. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 」207から219頁、「岸本通夫著 ヒッタイト歴史地理考1 京都大学西南アジア研究7 1961年」12から22頁、「0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952」26頁、http://www.multimania.com/hatti/texts/mursili1-8.html(ムルシリ二世の年代記:現在閉鎖)
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