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狂える鳩に永久の騒音あれ


(担当 処刑マニア)
前十三世紀のヒッタイト・エジプト戦争

前13世紀のヒッタイトとエジプトの状況

 ヒッタイトでムワタリ二世が即位した時期、西のアルザワ諸国はヒッタイトの従属下にあり、北のカスカ族は前王ムルシリ二世の度重なる遠征によりほぼ制圧され、東の従属国もヒッタイト王家の者が治めるカルケミッシュ、アレッポ王国共、ヒッタイト本国のコントロール下にあり、ヒッタイトは過去になく安定した状態に入っていた。しかし、不安材料がないわけではない、旧ミタンニ領では東方の新興国アッシリアの勢力が増大し、南の大国エジプトはアメンヘテプ四世に始まり、ツタンカーメン、アイへと続いていた政治的混乱が軍人出身のホルエムヘブの即位により収拾に向かい、セティ一世の時世にはシリアへ向かって本格的な攻勢を再開していた(1)。そして、西でも新たな敵が現れる。アルザワの更に西のアヒヤワ、ギリシアがヒッタイトの西部従属国へ影響力を及ぼしてきたのである。ムワタリ二世が即位した頃にはアナトリア西岸の旧アルザワ王国首都ミラワタがギリシアに寝返っていた。これに対し、ムワタリ二世も新たにアナトリア西北部のトロイを含む、ヴィルサ地方を支配下に入れている。ギリシア側はヒッタイトと本格的に事を構える気はなかった様だが、ギリシアの従属国はヒッタイト領への攻撃を繰り返し、ヒッタイトもそれに対応して従属国や本国軍を西方に派遣している(2)
 一方、エジプトはセティ一世の時世に入り、国内は安定し、シリアの再奪還へ向けて動き出した。セティ一世はウピ州の湾岸都市テュルスからビュブロスに至る地域を奪還し、更に進んで一度はカデッシュ近郊まで進出しヒッタイトと戦闘を交えた。しかし、それまで平穏であったはずの西部国境地帯に新たな来訪者達、一説には北方から海を越えてやって来たアーリア系の人々、海の民などと呼ばれている人々の移住が始まり、西部国境を脅かし始めた。セティ一世は新たな来訪者を容易に制圧したが来訪者はその後も増大を続け、エジプトの新たな脅威となった(3)



前十三世紀のヒッタイトに対する周辺国からの攻勢

ヒッタイト・エジプト戦争

 エジプトでラムセス二世が即位し、エジプトのシリア奪還への動きが本格化した。時世4年目にラムセスは海岸沿いに北上し、ヒッタイトの属国アムルへ侵入し、かつてのエジプトの占領地区たるアムル州都シミュラに進出した。ヒッタイトの属国アムルはエジプトの進出をヒッタイトに伝え、ヒッタイト本国もエジプト迎撃の準備を開始した。翌年、ラムセス二世の本隊は内陸を通り、別働隊は海路、カデッシュへ向かった。一方、ヒッタイトも近隣属国の軍を招集し、本国からも軍をカデッシュへと差し向けた。両軍はカデッシュで激突したが、決着はつかず、エジプトはカデッシュからの撤退を余儀なくされ、今度は逆にヒッタイトがエジプト領ウピ州へと侵攻した。ラムセス二世は時世8年目にも軍を起こし、ウピ州を奪還し、カデッシュ近郊にも進出した。時世10年目にもアムル地方に進出し、アムル地方の奪還はならなかったが、カデッシュ以北のアムル地方北部の占領に成功した。この頃、旧ミタンニ王国ではエジプトとヒッタイトの二大帝国が争っている隙をつき、東方の新興国アッシリアが拡張を開始し、瞬く間に旧ミタンニ王国の大半を席巻し、ヒッタイトとエジプト両国の領土を窺うまでになった。この新たな脅威に対し、エジプト・ヒッタイトはムワタリから数えて三代目のハットゥシリ三世の時世、ラムセス二世の時世二一年目に平和条約を結び、更に進んで軍事同盟を結び、両国は同盟をより強固にする為にラムセス二世へハットゥシリ三世の娘を嫁がせた(4)。アッシリアのみならず、両国は近隣に不安材料を抱えている。エジプトは西部国境に新来の移住者達、ヒッタイトは北部にカスカ、西部にギリシアと本国に直接脅威を及ぼして来るであろう敵を抱えている。この敵の存在も両国を同盟に踏み切らせた要因だったのだろう。



カデッシュの戦いに至るラムセス二世の進路

注釈

  1. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998」241頁
  2. 「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998」244から248頁
  3. 「ジャン・ウェルクテール著 大島清次訳 古代エジプト 白水社 1990年」96から97頁と「Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998」255頁
  4. 「ビル・マンリー著 鈴木まどか訳監 古代エジプト 河出書房新社 1998年」90と91頁と「吉成薫著 エジプト王国三千年 講談社 2000年」133から142頁と、「ジャン・ウェルクテール著 大島清次訳 古代エジプト 白水社 1990年」97から98頁


カデッシュの戦い

カデッシュの戦い時のラムセス二世
紀元前1255年頃作成 アブ・シンベル神殿の浮き彫り
http://www.talariaenterprises.com/ より

 ラムセス二世の時世5年目、恐らく1285年頃、ラムセス二世はエジプト全土はもとよりヌビアやエティオピアなどの庇護国の兵、エジプト西部国境を脅かすようになった新たな移住者達、特にサルディニア島からやって来たシェルデン兵など、併せて約2万の兵員を動員した。主力はテーベ貴族を中心とした二人乗り戦車である。そして、エジプト正規軍のアメン、ラー、プター、ステックの各5000人からなる四軍団が陸路から、傭兵を中心とした別働隊は海路から、それぞれカデッシュへ向けて進軍を開始した。
 一方、ラムセス二世出陣の報を受けたヒッタイト王国はシリアの諸属国の兵を動員し、本国からも兵を派遣して、総勢約二万の兵を用意し、カデッシュ近郊に兵を伏せ、エジプト軍へヒッタイト軍がカデッシュ近郊にはいないとした偽情報を流してエジプト軍を待ち伏せすることとした。
 カデッシュ近郊にヒッタイト軍主力がいないとの情報を得たラムセス二世はカデッシュ攻撃を急ぐことに決し、アメン軍団と直営部隊を自ら率いて先行させた。ラムセスは進軍を急ぐ余り、アメン軍団も置き去りにしてしまい、直営部隊のみでカデッシュ近郊に進出してカデッシュ攻撃の為の宿営地を定めた。
 ラムセス二世の直営隊はカデッシュ近郊で宿営した頃、すぐ南からアメン軍団、ラー軍団、半日行程くらい南にプター軍団、ステック軍団が続き、海路を取った別働隊が西から接近中であった。
 アメン軍団がラムセス二世の宿営地に到着した時、カデッシュ近郊にヒッタイト軍主力が潜んでいるとの情報がラムセス二世の元に届いた。ラムセス二世はラー軍団に伝令を出し、すぐに合流するように促した。
 ヒッタイト軍の主力戦車隊2500台はオロンテス河に側面を晒して北上を続けるラー軍団の側面を捉え、ラー軍団を敗走させた。ラー軍団はラムセスの宿営地に向けて敗走し、ヒッタイト戦車隊が後を追った。ラムセスの宿営地では長途の強行軍に疲労したアメン軍団が休止中で戦闘を行える状態にはなく、ラムセスの陣営にラー軍団の敗走兵が雪崩れ込み、そこへヒッタイト軍の攻撃が加わると、アメン軍団も壊乱状態に陥った。しかし、ヒッタイト軍はラムセスの宿営地に侵入すると略奪に夢中になり、混乱を来してしまう。そこへ西からエジプト軍の別働隊が到着し、ヒッタイト軍へ奇襲攻撃を行い、ヒッタイト軍の攻勢は頓挫した。この隙にラムセス二世は全軍の体勢を立て直した。ヒッタイト側は更に1000台の戦車を投入して攻勢を続行したが、エジプト軍の陣列を崩すことができず、南からプター軍団が到着して背後を襲われ、ラムセス本隊とプター軍団の挟撃にあい戦車隊は壊滅してしまう。ヒッタイトは予備として後置していた8000の歩兵と生き残った戦車隊をカデッシュ市内へ後退させて戦いは終わった。
 ラムセス二世はやむなく軍を退き、ヒッタイト側はカデッシュの防衛に成功したのだった。

ヒッタイト軍の奇襲 エジプト軍の逆襲

参考文献

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