狂える鳩に永久の騒音あれがんばれジョン様

がんばれジョン様

参考文献

(担当 客人の例のにゃあにゃあ)

目次

通史

  1. 青山吉信編,イギリス史1,山川出版社,1991,pp.230-334
     ヘンリー二世からジョン様の部分では政治史にあまり、紙面を割いていない。ヘンリー二世の統治は行政改革と、裁判制度の改革の解説が大半を占めている。特に裁判制度の解説が多い。軍制改革については騎士数の把握、自由人も武装するように定めた法、軍役代納金の推進などが上げられている。
     裁判制度で大きく取り上げられているのは陪審制度で、従来の決闘裁判や神判などに較べると遙かに合理的な制度である。陪審員は裁判が行われる地域の村や州などの代表で構成され、判決は彼らの一致した意見で出される形になっている。この陪審員制度の起源はフランク王国からかスカンディナヴィアからかがはっきりしていないみたいだけど、ノルマン・コンクエストあたりから見られるようになった制度みたいだ。スティヴン王治世の混乱を収拾する目的で不当な差し押さえに対する対策として土地占有回復の手続きを制度化して土地の所有者の保護に務めている。これも一種の裁判という形になる。教会裁判と国王裁判についても明確な規定を定めて、教会裁判の管轄範囲を狭めようとして教会と衝突している。最終的に聖職者の刑事事件については裁判権の一部を教皇庁に任せることで決着が付いた。裁判制度はおおまかに国王裁判、地域住民の裁判、領主裁判の三系統から成る。国王裁判は国王臨席の元で行われる封建諸侯の集会、国王が全国を巡業して行う大巡察などがある。地域住民の裁判はたいてい月1回、シェリフ主催の元で行われた。時に、国王の大巡察と重なり、大規模な裁判集会になることもあった。領主裁判は領主が領民を裁く裁判全般のことで、当初は流血裁判なども行われていたが、ヘンリー二世の頃には王の特別な許可を受けた領主のみが流血裁判権を持つ形になっている。
     リチャードとジョン様の治世は簡単な政治史とマグナ・カルタの解説で構成されている。ほとんどはジョン様治世の話し。ジョン様は行政実務能力に優れていたが、軍事的才幹に乏しく家臣の信頼を勝ち得ることが出来ない性格的欠陥を持つと評価されている。ジョン様が大陸領を失ったことで、従来イングランド諸候にとって大陸領を維持するための単なる補給基地に過ぎなかったイングランドが唯一の領土になってしまい、イングランドの領土経営に集中しなければならない状況を作り出した。一方、王家は大陸領の奪還を目指すようになる。そして以後、大陸領奪還の試みが失敗するつどにイングランドの国内体制は発展成長するといった状態が繰り返されることになった。その一つの例がジョン様の大陸領奪還の努力と、ブーヴィーヌの戦いでの挫折につづくマグナ・カルタの登場ってことになる。マグナ・カルタをめぐる闘争はそれ以前の反乱や王位継承を巡るごたごたとは大きく異なる。諸候が統一された政治的要求を持って王に対抗したもので、以前のように誰を王にするとか領土を増やすためとかいうのと目的が根本的に異なっている。国制改革運動って感じだ。
     他に、ウェールズとスコットランドの情勢についての解説がある。ウェールズはポウィス、デハイバース、グウィネッズの三つの公国で構成されていた。デハイバース王リースはヘンリー二世と友好関係を結んで、イングランドから行政・軍事技術の摂取に務め、他の公国に対して優位に立っていたが、リチャードが即位するとイングランドとの友好関係が崩れてイングランドと戦争になり、この戦争につけ込まれてポウィス、グウィネッヅからも攻撃を受けて領土は大幅に縮小し、リースの死と共に内乱状態に陥ってしまう。次に、ポウィスが覇権を握ろうとしたが、ジョン様と戦って敗れて事実上の降伏に追い込まれてしまう。これ以降はグウィネッヅがウェールズをリードする。グウィネッズのルウェリン王はジョン様との友好関係を築いてジョン様の庶子を嫁に貰い、ウェールズ大公の称号を称するまでになっている。1211年にジョン様が攻め込んできた時にはそれを逆手にとってウェールズ人全体を取り込むことに成功し、ジョン様が内乱に謀殺されるようになった所で反撃に出ている。最終的に東南部以外の全ウェールズの支配を承認させるのに成功している。
     スコットランドでは、1173年の大敗以降、イングランドに服従する日々が続いたって感じだ。


  2. 朝治啓三,アンジュー帝国;川北稔編,イギリス史,山川出版社,1998,pp.54-69
     ヘンリー二世からジョン様までの簡単な政治史が中心になっている。ヘンリー二世の章は騎士封の調査、軍役代納金の推進、裁判制度の整備と、行政史って感じだ。政治史ではカンタベリー大司教の暗殺、アイルランド征服、息子達の反乱の話があるくらい。リチャードの治世はシチリアとの条約でシチリアとの関係を強化し、フランス王フィリップとの条約でフィリップの妹との婚約を解消してナヴァラ王の娘と結婚した話で、十字軍に向けての下準備って感じだ。金銭面でも官職や特権を売り払って十字軍費用の捻出に務めている。スコットランドからも独立を保証する代わりに一万マルクものお金を引き出している。その過程でイーリー司教の免職が行われて、有能な行政官のヒューバート・ウォルターが登場している。
     ジョン様の治世の説明は前半はフランス王フィリップとのやりとりが中心で、後半はマグナ・カルタ関連になっている。ル・グーレ条約を結び、一旦友好関係を築いたけど、ポワトゥーの争いに首を突っ込んだせいでフィリップの攻撃を誘発してしまい、大陸領を失う。ローマ教皇とか神聖ローマ皇帝の協力を取り付けて反撃に出ようとしたけど、大陸遠征を望まない諸候の抵抗にあって実現せず、カンタベリ司教選任問題でローマ教皇とも喧嘩になってしまう。それでもなんとかローマ教皇と仲直りをして、大陸領奪還の戦いを起こしたけど、ブーヴィーヌの大敗ですべては失敗し、再び軍を起こそうとしてイングランド諸候からお金を取ろうとしたけど、諸候の反発にあって内乱が起き、マグナ・カルタを突きつけられ、フランス王太子ルイまでイングランドに上陸してきてにっちもさっちもいかなくなって急死する。だいたいこんな感じの流れになっている。
     ほんとうにごくごく簡単な概史って感じだ。

  3. 石井美樹子,イギリス王妃たちの物語,朝日新聞社,1997,pp.97-146
     ヘンリー二世妃でジョン様のママ、エアノールと、兄リチャードの妻ベランガリア、ジョン様の二番目の妻イザベルの伝記がある。小説風の書き方で登場人物の発言のようにして史料からの引用が幾つかある。関係する場所に著者が訪れた時の印象とかの記述もあり突然旅行記風になることもある。
     ジョン様関連の記述はイザベラの章にしかない。他の二人の章では数行で流されてるだけ。最初はサント・ラドゴンド礼拝堂のイザベラの略奪を描いた絵の紹介で次がイザベルの略奪の話。イザベルの略奪をイザベルの美しさに心奪われたジョン様の暴挙って感じに捉えてるみたいにも見えたけど、ジョン様がイザベルと結婚した場合の政治的な利点も簡単に説明されている。イザベルを奪われたリュジャニャン家が反乱を起こしてジョン様が勝利し、その勢いでアーサーを殺害し、大陸領を失うって流れが一気に解説されてる。ジョン様とイザベラがラブラブだったけど、イザベラがいつまでたっても懐妊しないのに業を煮やして女遊びをはじめ対抗してイザベラも不倫をして、ジョン様がイザベラの愛人を殺害したエピソードが紹介されている。イザベラはようやくヘンリー三世を生んだが、フランス王太子ルイがイングランドに侵攻してきてジョン様が病死してしまう。ここでイザベラががんばってヘンリー三世を即位させた。王太子ルイはイングランド国民の激しい抵抗で撃退される。そして、イザベラはフランスに帰って昔の婚約者リュジャニャンのユーグの息子ユーグと結婚してしまう。その後もイザベルは策謀を尽くしてイングランド王家に影響力を行使したみたい。この中でイザベラがユーグと結婚したいいわけを書いた手紙の訳が掲載されている。ヘンリー三世による大陸領脱会の努力が失敗した後でイザベラはフランス王ルイ9世から反逆者の烙印を押されて修道院に逃げ込みそこで生涯を閉じた。
     だいたいこんな内容。物語として筋を通す為に少し史料をいじったのかなって感じるところもあるけど物語としては読み易くて面白かった。


  4. 佐藤賢一,英仏百年戦争,集英社,2003,pp.34-54
     歴史本としてはけっこう話題になった本だ。著者は西洋史関連の小説で有名な人だ。この本も小説風。ヘンリー1世からジョン様の治世についてはフランス王とプランタジネット家の関係に着目して描いている。プランタジネット家がフランスの貴族で、ヘンリー2世の所領は小領地の寄せ集めって点が強調されている感じだ。なんとなく、ヘンリー二世が戦いと幸運だけが取り柄で、凄い親ばかな君主に見えてしまう。あんまり見かけない面白い見方だ。リチャードもただの戦バカってことになっている。ジョン様にいたっては、イザベルに一目惚れして奪い取り、対抗馬のアーサーを殺害したって感じで欲望を抑えきれずに突っ走る手に負えない暗君って感じだ。ジョン様ファンとしてはこれはいい過ぎだよって泣きたくなるよ。
     なんとなく、当時の君主の治める地域は現代的なまとまりのある国とは異なる家臣たる小領主の集合体だってことを強調している感じ。それでプランタジネット家の物語としてはヘンリー1世が幸運だけで大きな領地を取得して、ジョン様が無能なせいですべてが失われたって感じの流れに見える。そして、この因縁がエドワード三世の頃に始まる第二次百年戦争へと繋がっていくってことかな。


  5. 城戸毅,マグナ・カルタの世紀,東京大学出版会,1980,pp.12-81
     13世紀のイングランドの国制の通史でヘンリー2世からエドワード1世までの治世を解説してる。ヘンリー2世とリチャード1世の治世は序章の様なものでジョン様の治世から本題に入る感じだ。フランス北西部の喪失と教皇との対決が別立てで、その後でブーヴィーヌからマグナ・カルタ受諾までが解説されている。フランス北西部の喪失と教皇の臣下になるといった二つの敗北、その巻き返しを計ったブーヴィーヌの戦いと最終的な敗北を受け権威を失墜したジョン様にマグナ・カルタが襲いかかるって感じの流れだ。
     フランス北西部の喪失はジョン様自身の問題というより既にどうにもならなかったって感じだ。ジョン様がアングレームのイザベルを奪ったのはアングレームとリュジャニャンが婚姻により結ばれることでフランス西部にジョン様の勢力を凌ぐ大勢力が出現することを阻止する為で政治的に必要なことだったがそれでもフランス北西部の喪失を防げなかった。アーサーの死は考慮されていない。ジョン様に問題があるとしたら軍事的に能力の欠如と大陸諸候を掌握できなかった点にあると見ている。フランス北西部を失った結果イングランド諸候は大陸に対する権益を失いイングランド内の領地経営に専念するようになり大陸への遠征を嫌うようになった。教皇との戦いではどっちが偉いのかってことでケンカしていた程度で教皇に服従してもジョン様が失う物は殆どなかったと見ている。むしろ教皇に服従したことで教皇の支持っていう強力かもしれない武器を手にした。ブーヴィーヌで大陸領奪還の最後の努力が粉砕されると諸候は団結してジョン様に抵抗しジョン様は教皇の支援で諸候に対抗する。ブーヴィーヌ以前には諸候は団結できていなかった。
     面白いのは1191年の事件を大きく取り上げている。この事件はリチャードが十字軍に行っている間にリチャードからイングランド統治を任せられたウィリアム・ロンシャンが王権を悪用して諸候から土地を奪ったりするのでジョン様が諸候を団結させてロンシャンの専横に反対して王権を制限するような条件を突きつけている。マグナ・カルタがジョン様に突きつけられたのと似たような流れで起きた事件だけどジョン様の立場が逆なのが面白い。
     ジョン様は軍事的能力がなく人を信頼できず人から信頼されない人格だけど行政や財政ついては非常に高い能力を持つ実務家でこの方面では行動力、判断力、決断力共に優れていたとしている。


  6. 田中正義,第三章封建イングランド;大野真弓編,世界各国史1イギリス史,山川出版社,1965,pp.75-88
     この手の通史にありがちな政治史の概説はあまりない。法制史って感じだ。ヘンリー二世の改革として、従来からあったがきちんと整備されていなかった大法官、財務府長官などの官職を確立し、地方長官たるシェリフの任命方法を変え、巡回裁判所の制度を恒久的なものにし、裁判に陪審員制度を導入し、すべての自由人が武装することを定め、騎士奉仕の代わりに軍役代納金を納めることを推進した。簡単にまとめるとこんな感じで解説されている。これらの改革でヘンリー二世の王権は強化され、以前より強力な軍事力と財政的基盤を確保した。
     封建社会の変化の解説もある。貨幣経済の進展に伴い実際に領主のために労働力を提供するような賦役に代わり、貨幣を納入する形の貨幣地代へと変化し、騎士賦役も実際に武器を取って戦うのではなく、軍役代納金を支払う形へと移行したって話しだ。
     リチャードとジョン様の治世については簡単な政治史の解説もある。二人の治世の間に、諸候、更には騎士階層に到る人々に財政的に過大な要求が突きつけられて、人々の不満が蓄積して、最期にマグナ・カルタという形で爆発するって流れだ。それで、最期にマグナ・カルタの解説が付いている。これが後の時代に言われるような人民の権利を歌い上げたような法ではなく、単なる封建諸侯の要求文に過ぎない点が指摘されている。
     簡単な法制史概説って感じだ。


  7. 富沢霊岸,イギリス中世史概説,ミネルヴァ書房,1970,pp.118-140
     イングランド中世史全体を概観した本で、前史として前1世紀頃の古代の解説から始まり、15世紀の薔薇戦争あたりで終わっている。政治史の概説は簡単に流して、法制史の方に力を入れている感じに見える。ヘンリー二世の統治はスティヴン治世を否定してそれ以前のヘンリー1世の治世を手本とするとしたプロパガンダが行われて、王を中心とした統治機構の整備へと進む。ここの章では1159年の国王法廷の強固を目指す法、1163年に地方毎に陪審員を任命して裁判を行う陪審員裁判を規定したクラレンドン法、1166年に課税体制強化を狙って封臣の実態調査を行ったバロン表、1176年にシェリフや巡回裁判を強化してクラレンドン法の強化を目指したノーサンプトン法、1181年に10ポンド以上の財産を持つすべての臣民に武装を義務づけた武器令などが簡単に解説されている。
     リチャードの治世はごく簡単に行政官を中心に行政史と、政治史が解説されている。ジョン様の治世はリチャードよりも解説が多い。政治史と、課税増大を狙ってジョン様が行った幾つかの内政改革について、そしてマグナ・カルタの解説がある。政治史は大陸領の喪失、教皇に対する敗北、ブーヴィーヌの敗北からマグナ・カルタへといった簡単な流れ。ジョン様の内政改革で目新しいものとしてシェリフを請負制から財務府の監視下に置くことにしたこととか、武器令の財産資格を撤廃して全臣民に武装することを求めた武器令などが上げられてる。ジョン様は失策の多い君主だったって感じにも見えるけど、なにもしなかったというよりはかなり努力はしたけど、ダメだったって感じに描かれてるみたいに見えた。


  8. 富沢霊岸,イギリス中世文化史,ミネルヴァ書房,1996,pp.69-127
    概史もあるけど、中心は社会の雰囲気とか王の周辺にいた人々の簡単な伝記。紹介されているのは出身身分不明の司祭からヘンリー二世のセネシャルに登りつめたリチャード・オブ・イルチェスター、地方行政官の家の出で最高法官になったラナルフ・グランヴィル、騎士の家の出で地方官僚から最高法官、エセックス伯に出世してジョン様政権を支えた重鎮の一人ジェフリ・フィッツ・ピーター、そして騎士の中の騎士と言われた12世紀のイングランド騎士を代表する人物と言われ、騎士の家の4男としてあまり出世が望めない立場から剣の腕1つで出世してヘンリー二世、リチャード、ジョン様、ヘンリー三世のプランタジネット家4代に仕え、各々の王の重鎮として力量を振るい、ペンブルック伯に登りつめたウィリアム・マーシャルが紹介されている。4人の中ではマーシャルの紹介が最も長い。これをみてもマーシャルの人生が創作の騎士物語なんじゃないかと思えてしまう。逆に、彼の出世がエレアノールの引き立てによって始まった点なんかを考えると、彼の人生談が当時の騎士物語の参考にされたのかもしれない、とか思えてしまう。
     中世の生活の章では12から13世紀を中心にイングランドの戦争や農民の生活、医療とか、教会の話がまとめられている。中世の戦術では他の邦書だとあまり取りあげられることのないヴェゲティウスの戦術書のチョットした解説があって、なぜか嬉しかった。農家の話では三圃制と結婚の話がある。農家では17か18で結婚し、結婚に領主が介入することがある。家庭はたいてい核家族の形を取ることが多いみたい。聖フリーデスウィーダの奇跡に絡める形で当時の医療についての話がある。基本的に聖人の奇跡を頼ってその聖人を祀った療養所に療養にやってくるって形みたいだ。治療とは違うように見える。教会は地元領主により整備されることが多いけど、教皇庁がこれに介入して教会を支配下に組み込もうとするって形だ。1172年にヘンリー二世とローマ教皇アレクサンデル三世との間に協定が結ばれて教皇庁の教会支配が確認されている。
     ジョン様の治世は大陸領喪失頃の簡単な政治史があるけど、リチャードと、ヘンリー二世の政治史はない。ジョン様がアングレームのイザベルをウィリアム・マーシャルの進言に従ってリュジャニャンのヒューから奪い取り、ヒューがフランス王フィリップに訴え出たことで戦いが始まり、ジョン様は戦いのどさくさに紛れて王位継承権がある甥のアーサーを暗殺した。この暗殺が原因でジョン様の立場は一気に悪化して大陸領を失ったって感じの流れだ。


  9. 波多野裕造,物語アイルランドの歴史,中央公論,1994,pp.47-68
     アイルランドの歴史の本だけど、政治史を中心にしてるって訳じゃない。政治史と社会の様子を描こうとした感じ。ヘンリー二世からジョン様付近の話は政治史が中心になっている。アイルランドの覇権争いに敗れたレンスター王マクマローがヘンリー二世に援助を求めたことでイングランドによるアイルランド侵攻が始まった。ヘンリー二世はローマ教皇の支援でアイルランド侵攻を計画していたけど、即位したてで準備が出来ていなかったから最初の誘いは断っている。マクマローは次にウェールズのノルマン貴族のストロングボウに誘いを掛けてストロングボウからの支援の約束を取り付けている。そして、ノルマンによるアイルランド侵攻が始まった。武器の差と戦術の差でノルマンはアイルランドの民を凌駕していたのでストロングボウの遠征隊は短期間のうちにダブリン周辺のアイルランドの平地地帯を制圧した。これを聞き知ったヘンリー二世がアイルランドにヘンリー二世に対抗するような王国が立つと困るってことで戦いに介入してきた。ストロングボウはヘンリー二世に服従を誓い、アイルランドはヘンリー二世の手に落ちた。
     その後はアイルランドに入植したノルマン貴族同士の争いが増えたみたいだ。そのせいで、ジョン様も1210年にアイルランドの反乱鎮圧のために赴いている。ジョン様の治世にダブリン城が作られて、7つの州と6つの特別行政区が設けられ司法組織や行政組織が整えられた。現地のノルマン人はアイルランド人の有力者と血縁関係を結んで土着化し、同時にノルマンの文化とローマ教会の影響力が広がり、アイルランドのノルマンかも進んだみたいだ。
     アイルランド侵攻のさきがけになったストロングボウの人となりと肖像画が紹介されているけど、けっこう華奢で顔は女性的で声は弱々しい。獰猛な戦士って感じじゃなく、優男の陰謀家って感じみたい。髭も生やしてない。けど、戦上手でアイルランドでは連戦連勝だった。


  10. 森護,英国王室史話,大修館書店,1986,pp.44-88
    ヘンリー二世、リチャード、ジョン様の簡単な伝記がある。エピソードを紹介する感じだ。ヘンリー二世ではヘンリー二世が継承した領土の紹介、イングランドの言葉を理解しなかった件、トマス・ベケットとの戦い、エレアノールとの結婚、愛人のロザモント、ロザモントとの関連からイングランドで最初に紋章を使ったロングソード、最後の息子達の反乱が解説されている。一番長いのはベケットとの戦いの話で、ベケットのカンタベリー大司教就任からベケットの殺害まで。リチャードでは十字軍の準備、アッコの戦いでしでかした大量虐殺とか、オーストリア公に対してしでかした粗相とその結果、借金をなしにする為にしでかした玉璽の変更、妻の話が解説されている。十字軍の話が主。
     ジョン様は最初に評価についての解説がある。従来の悪人で無能な王という評価に対して近年その評価が変わってきている点が強調されている。ジョン様は父ヘンリー二世に最も愛されていたが領地は貰えずに父から「ラックランド」って呼ばれている。だけどラックランドかって言えば違ってグロスター伯の娘イザベルと結婚してグロスター伯領を受け継いでいたので土地はけっこうたくさん持っていた。グロスターのイザベルとはイザベルの父ロバートがヘンリー一世の庶子だから近親相姦に当たるってことにして離婚してる。リチャードは十字軍出発前にアーサーを後継者に指名したが、帰国後にジョン様を後継者にして死後、ジョン様は俊敏な行動で王位を奪取している。ジョン様が即位するとアーサーを支持する諸候がフランス王フィリップに性の後押しを受けて反発したけど、上手くいかなかった。ここでジョン様がアングレーム家のイザベルを略奪結婚したせいでイザベルの婚約者リュジャニャン家を怒らせて反乱が起きてしまう。但し、この結婚は南仏の有力家のアングレーム家と結ぶことでアーサー支持派に楔を打ち込むことになり、政治的に有利な状況を生みだす政略だったみたい。ジョン様は反乱を鎮圧するのに成功したけどアーサーを含む多数の貴族を殺害したことで再び反乱が起こり、大陸領喪失って結果に終わってしまう。これが原因でイングランドの諸候はフランスとイングランドを股にかけたフランスの領主ではなく、イングランドにだけ領土を持つイングランドの領主になることになり、正真正銘のイングランド王国へ進む原因となる。大陸領そう失語ジョン様はフィッツ・ピーターとヒュバート・ウォルターのジョン政権を支えた二人の行政官を失った。次にウォルターの死により空席になったカンタベリー大司教職を誰にするかをきっかけにしてローマ教皇インノケンティウスとの戦いが始まり、ジョン様の破門を機にフランス王がイングランド侵攻を企て、イングランドの諸候の反発も強まり、ジョン様は教皇に領土を献じて教皇に降伏することで危機を回避する。そして最後にマグナ・カルタを巡る戦いの会が始まる。この戦いを利用してフランス王太子ルイが侵攻してきたが、イングランドではフランスに対する反発が巻き起こり、ジョン様はこの流れに乗って有利に戦いを勧めはじめたところで死去してしまう。だいたいこんな感じの流れになっている。最後に神聖ローマ皇帝になったジョン様の次男リチャードについての解説がある。所々にシェイクスピアの「ジョン王」と絡める形での解説もある。細かいところではアレっ?てところもあるけど全体的には要領よくまとめられた感じ。


  11. 森護,英国王と愛人たち,河出書房新社,1991,pp.30-47
     ヘンリー二世、リチャード、ジョン様の愛人に纏わるエピソードが紹介されている。ヘンリー二世の章ではやっぱりロザモントの話が中心になっている。ロザモントは一説にはロングソードの
    母とされているが、実際のところは違うみたい。それとロザモントを殺したのはヘンリー二世妃エレアノールという伝説もあるがこれも単なる伝説に過ぎない。
     ジョン様とリチャードはヘンリー二世の息子達ってことでまとめられている。それもそのはずでリチャードは庶子がいたのは分かっているが愛人に関しては全く分かっていないのでほとんど記述がない。シェイクスピアの「ジョン王」に出てきた庶子フィリップのモデルとなったのがリチャード1世の庶子フィリップだそうだ。
     ヘンリー二世の息子達の章の中心はやっぱりジョン様。ジョン様は女性にだらしないことで知られ、人妻が大好きだった。名前の分かっている8人の愛人の内、6人が人妻だった。他にも愛人が多数いていったい何人愛人がいるのか分からない。そのせいで諸候の不満の一つに妻に手を出すのがイヤって言うのがあったし、死んだ時の伝説には尼僧にてをだそうとして修道僧に毒殺されたって言うのがあるくらい。とにかく女癖が悪かった。二番目の妻アングレームのイザベルを略奪婚した話もある。ジョン様の庶子についても記述が少しある。名前がわかっているだけで12人の庶子がいた。その内、オーマール女伯に生ませたオリヴァーは十字軍で戦死。騎士ヘンリーの妻クレメンティナに生ませたジョアンはウェールズ大公シャウエリンと結婚した。


  12. 森護,スコットランド王国史話,中央公論社,2002,pp.96-110
     スコットランド王の簡単な伝記集で、ヘンリー二世の頃のスコットランド王、マルカム4世、リチャードとジョン様の治世のウィリアム1世、ジョン様の治世末期に即位したアレグザンダー2世の4人がジョン様と関係がある。この時期はまずヘンリー二世によりスコットランドが制圧されて、スコットランド王はイングランドに従属する状態が続いている。イングランドに逆らったのは1168年にヘンリー二世の供でフランスに行ったウィリアム1世がフランスと同盟を結び、1174年にリチャードの反乱に乗じてイングランドに侵攻したくらいだけど、逆にウィリアムが捕虜になってしまう。リチャードの治世に状況が変化する。リチャードは十字軍費用捻出のためにスコットランド王にイングランドがスコットランドに有していた影響力を売り渡している。ただ、これで直ぐにスコットランド王がイングランドに刃向かってくるようになったのではない。むしろ、西部のスコットランド王に反抗的な地域の制圧を進め、国内の統一を進め、イングランドとは友好的な関係を保っている。ジョン様の治世になってもスコットランドの方針は変わらず、ジョン様と旧スコットランド王国領の返還を求めて交渉を続けている。ジョン様もリチャードと同様にお金に困っていたのでスコットランド王からの領土買収交渉に応じている。1214年に即位したアレグザンダー2世はマグナ・カルタを巡る争いを利用して、反抗貴族に味方して旧領回復を目指している。だいたいこの本から読みとれるのはこんな流れだ。


  13. アンリ・ルゴエレル,プランタジネット家の人びと,白水社,2000(orig.ed.1999)
     10世紀頃から15世紀までのプランタジネットの歴史で、物語風に政治史を描いている。政治史ばかりじゃなく、メリジューヌの伝説とかの伝説なども織り交ぜ、ヘンリー二世と息子達の章あたりではプランタジネット帝国に含まれた地域の解説とか、オック語圏、オイル後圏の違いとその融合ぶりとか、フランス辺りの話題が中心にあるが、地域的な背景の解説もある。pp.43-87にヘンリー二世からジョン様の治世に到る政治史の概説がある。
     ヘンリー二世により、プランタジネット家はフランスの半分とイングランド全域、アイルランドに及ぶ巨大な領土を手にした。ヘンリー二世は裁判制度の改革を通して国王を中心にした行政組織を作り上げていく。この際、王の代理人たる地方行政官を部門ごと、地方ごとに配置し、各行政官が各自の職分を管理する体制を作り、王が不在でも各部門が自動的に機能する組織を作り、財政部門を強化して、軍事制度ではこの財政に裏打ちされた財源をもとに主に傭兵を利用した形にしている。プランタジネット帝国の制度を完全に作り上げ、次のリチャードへ譲ったということみたい。
     次代のリチャードは十字軍で長期の間、帝国を留守にしていたが、ヘンリー二世の作り上げた行政組織と事前に作り上げられていた外交体制により、リチャードが不在でも帝国は安定していた。一時、帝国が乱れたのはリチャードがオーストリア公の捕虜となり、ジョン様がフランス王フィリップと組んで反乱を起こした時ぐらいだが、この時も母エレアノールとリチャードの妻の祖国ナバラがフィリップを牽制したために大事に至らず、リチャードの帰国と共に混乱は直ぐに収集される。
     問題は次のジョン様の治世でジョン様は浅慮によりアキテーヌの有力家、リュジャニャン家との対立を引き起こしてフランス王フィリップの介入を許してしまい、その結果として大陸領を失い、教皇と争いを起こして敗北して権威を失い、1214年のブーヴィーヌの戦いの敗戦によりとどめを刺される形になり、マグナ・カルタを突きつけられて更にはフランス王太子ルイのイングランド侵攻を受けてイングランドすら失う危機に曝されてしまう。その最中に急死したって感じだ。ヘンリー二世が作り上げ、リチャードが維持し、ジョン様がすべてを台無しにしてしまうって流れだ。流れとしては凄く分かり易く、ジョン様を愚王と評価する見方の典型的なタイプとしても捉えることもできそう。


  14. ギー・ブルトン,フランスの歴史をつくった女たち 第1巻,中央公論社,1993(orig.ed.1955),pp.111-180
     フランス史の著名な女性の伝記集で、ジョン様関連ではママのエレアノール、フィリップ・オーギュストの妻でデンマーク王の娘インゲボルク、フィリップの息子のルイの妻でジョン様の姪に当たるブランシュ・ド・カスティーユの三人が紹介されている。政治史とかはほとんどなくて夫婦の話が中心で、エレアノールではルイとの夫婦生活に始まって夫婦生活の不満からエレアノールが浮気に走るようになってついには離婚となり、次にヘンリー二世と結婚したけどこの結婚も上手くいかず、エレアノールが息子べったりになって夫を裏切るって感じの流れになっている。エレアノールが文芸の保護者として宮廷文学を発展させた話とか、恋愛法典なんかを作った話も入っている。リチャード、ジョン様などの息子の治世の頃の話は殆どない。
     インゲボルクの話は可哀想の一言に尽きる。フィリップとの初夜で、フィリップがインゲボルクを抱けなかったことをインゲボルクのせいにして彼女を幽閉してしまう。その後、父のデンマーク王が抗議したり、教皇庁から強い調子で勧告を受けたにもかかわらずフィリップはインゲボルクへの仕打ちを止めなかった。インゲボルクの方はひたすらフィリップが自分の方を向いてくれることを待っていたみたい。幽閉開始から20年目にフィリップはデンマークとの同盟強化に迫られてようやくインゲボルクを王妃として認めて一緒に暮らすようになり、王妃として認められてから10年目にフィリップが死んでしまう。待ち続ける王妃。エレアノールと正反対な感じ。
     ブランシュ・ド・カスティーユはエレアノールの外交政策の一環としてフィリップ・オーギュストの息子のルイと結婚させられた。最初はブランシュとウラカの二人の姉妹のうちどちらかという話だったんだけど、ウラカって名前はフランス人受けしないって理由でブランシュが結婚することに決まったというのはなんとなく可笑しかった。ブランシュは三人の中で一番幸せな夫婦生活を送ったみたいに見える。ルイがジョン様に対して反乱を起こした諸候に求められてイングランドに行った時もフランスに残って夫の支援のためにかなりがんばっている。ジョン様関連の話もこの章が最も多い。1200年のフランスとイングランドの和平条約ではジョン様がブランシュとルイの結婚のためにフィリップの人質になることに快く応じたとか、ジョン様最後の戦いとジョン様の死についての記述なんかもある。


  15. クライムズ,中世イングランド行政史概説,創文社,1985(orig.ed.1966),pp.45-108
     イングランドの中央行政がどのような形だったのかを解説した本で、大まかに行政システムが似たような状態の時期毎に分けて解説が行われている。大きな区分の中では、ヘンリー二世からヘンリー三世の時期くらいでひとくくりにされていて、この辺りにジョン様治世の行政も解説されている。基本的にこの時期の中央行政は王個人に帰属する宮廷で中央行政が一括されていたって理解しておけばいいみたい。現代的に縦割りの行政官庁があるって感じじゃなく、一人の行政官が複数の行政活動に関わる形で、財務府とかいっても財務ばかりしていた訳でなく裁判などもやっていたたって感じで明確に区分がある訳でもない。ヘンリー二世の治世には新しい行政システムが現れたというより、ヘンリー1世の治世からあったものの形が整えられたみたいだ。そのおかげで財務行政はより効率の良い仕事が出来るようになっている。
     ヘンリー二世、リチャードとイングランドを留守にすることが多かったために、王の代理としての最高法官の権限が強化され、王不在でも行政システムが機能するように作られた。但し、最高法官の権限が強く成りすぎることのないように原則的には複数の最高法官が任命されることになっていたけど、必ずしもそれが守られることはなく、リチャードの治世などにはリチャード・ド・ルースィの暴走などがおきている。ジョン様の治世に入っても、最高法官の権限は強く、ジョン様治世初期の最高法官ジェフリ・フィツピーターが死去した時に、ジョン様は「これでようやく主君になれた」と漏らすほどだったとか。フィツピーターの死以降はジョン様、ヘンリー三世と王による統治が強化されて相対的に最高法官の権限は縮小して、1234年に事実上消滅することになる。
     お金の徴収についての具体的な記述もある。財務役人達が決められた鞄などを持って各地の財務集会に派遣されてお金を受け取り、鞄に封をして、受領額、支払者、支払理由を記録し、領収割り符を発行した。この割り符は20センチくらいの長さで、金額に合わせた切り込みがしてあり、半分に折って片方を支払者に渡し、もう片方が財務府で保管された。他に、ゲームみたいな財務報告例なども紹介されている。
     ジョン様の治世に、ヘンリー二世の治世から始まった行政組織の整備が完成の域に達した。特に、ジョン様が行政に大きな関心を払い積極的に関わってきたことで進化が促進されたみたい。財務文書のまとめを作り、割り符を簡素化して、財務文章の写しを保存するようになった。これらの改革には大法官ヒューバート・ウォルターの能力と行政経験が大きく寄与したと考えられている。金庫は元々はウェストミンスターにあったが、ジョン様は何時でもどこでも直ぐに資金を運用できるようにと、イングランド各地に支部を置いて分散配置することにしている。ジョン様の治世に行政文書が飛躍的に増大し、行政活動が活発になった所から、一部の研究者はジョン様を皮肉を込めて「アンジュー朝最強の国王」だとか、「極めて強力な行政上の頭脳」とか、呼んでいる。実際、行政の分野に大きな力を振るったのは確か見たい。


  16. プラクネット,イギリス法制史総説編上巻,1959(orig.ed.1956),pp.27-47
     ヘンリー2世からジョン様に至るイングランドの法制史の概説がある。ヘンリー2世が裁判制度を王の元に集中して有能な行政官を育て上げたって感じだ。リチャードの治世の解説は殆どない。法制史的に見て意味がない時期と見られているみたいだ。この時期はヘンリー2世の育て上げた有能な行政官がいればイングランドの統治はできるって事を証明した時期ってことみたい。特に、リチャードの治世からジョン様の治世前半の間、大法官の職にあったヒューバート・ウォルターの存在が大きいと見ている。ヒューバートは王の権限すらも制限するほどの力を持ち、ジョン様はヒューバートがいる限り好き勝手はできなかったと見ている。教皇がカンタベリー大司教に推してジョン様が拒否したスティーヴン・ラングトンもヒューバートと同じ学派に属していたからジョン様と衝突するのは必至だった。有能な行政官がジョン様の無軌道な暴走を抑制し断ってみているように見える。
     ジョン様と教皇の関係は対立的だったが、突如ジョン様がこれまでの方針を放棄して教皇に屈服したって感じで描かれている。ジョン様が教皇の推すラングトンを拒否した理由はヒューバートの後継者ラングトンが再びジョン様の行動を抑制すると考えたからって感じで捉えているように見える。それと司教は王の官吏であるとした教会が王国に従属する立場にあるとしたジョン様の考えに対してラングトンの考えは教会と王国は別物だとして分離する考えみたいで両者の原理も大きく異なっている。
     今となってはそのまま受け入れることはできないような内容だけど、ヘンリー2世からジョン様に至る旧来の主要説を確認する意味ではいいかもしれない。


  17. モーリス・キーン,ヨーロッパ中世史,芸立出版,1978,pp.55-117
     中世全般を紹介した概説書で、ヘンリー2世からジョン様の治世あたりを中世の変化の節目と捉えている。商業と都市が活況を呈し、古代ギリシア文学が広く受容されて文学や法などの発展が見られ、それに伴い文書行政を元にした行政組織が整備されて、フランスやイングランドではフィリップ・オーギュストやヘンリー二世による法の整備に伴い王権が大きく拡大し、インノケンティウス三世の元で教皇庁の権威が最高潮に達するって感じだ。ただし、イングランドには元々アングロ・サクソン期に整備されてきた行政機構があったので、ヘンリー二世はそれを拡大したって感じみたい。もしヘンリー二世がイングランドだけを支配した王なら、イングランドでの王権はさらに大きく延びたのだろうって推測している。文学の世界では世俗文学に対する教会の修正が加えられてきている。その例としてアーサー王文学が挙げられている。教会側の用意したキャラクターがガラハトで彼は聖杯を見付けた騎士としてランスロットより高い地位を与えられいる。世俗的な価値観に対する教会側の挑戦ってことみたい。第三次十字軍は失敗と言っていいものだったけど、リチャードの行ったキュプロス島の占領が唯一の成功だとされている。オットーはインノケンティウスに振り回された道化のようにも見える。インノケンティウスはシチリアとドイツが一人の君主に統治されることを嫌っていた。だからシュタウフェン家よりヴェルフェン家を選んだんだけど、オットーがシチリア確保に動くと一転シュタウフェン支持に周り、オットーを追い落としている。インノケンティウスがシュタウフェン家を制御する道具として利用したって感じに見える。それで、ジョン様はというと、気弱なダメ王って感じだ。フィリップにノルマンディーを奪われて、奪還に焦って行政権を濫用して諸侯の反発を買ってマグナ・カルタを押しつけられた。フィリップとの戦いにオットーを引きずり込んで敗北してオットーの足も引っ張っている。ヴーブィーヌの戦いはジョン様のやけっぱち攻撃ってことになっている。このおかげでドイツに対してもフィリップの優位が確立した。こんな感じ。


  18. メイトランド,イングランド憲法史,創文社,1981(orig.ed.1908),pp.3-219
     イングランドの法の変化を解説した本だけど一定の時間枠の中を設けてその中で項目別に解説を行っている。ジョン様が関係する項目はアングロ・サクソン期からエドワード1世までを扱った項目にある。まとまった記述は15から21、87から94頁にあってここでヘンリー2世からジョン様までの治世の統治システムの変化が解説されている。誰の治世でのことかわからない記述が多いがどうもほとんどはヘンリー2世の治世の話みたいだ。ヘンリー2世の最も大きな改革は裁判の分野で行われたみたいだ。裁判システムを王の元に集中しようとした。そこで、陪審制度やアサイズ制度を導入した。この制度はヘンリー2世の治世には完成の域に達しなかったが、ジョン様の治世に完成されたみたいだ。ヘンリー2世の治世に有能な行政官が育っていたおかげでリチャードが長期間不在でもヘンリー2世のシステムは機能していた。
     諸候が国政に参加する形のシステムはヘンリー2世の頃に現れてジョン様の治世に現実のものとなった。諸候はヘンリー2世の元で立法に参加する訓練をうけ、ジョン様の暴政によりそれを行使したって事みたい。
     ホントのことを言うとこの本の内容を余り理解できなかった。ただ、必要に応じて部分的に深く読んでいけばいいんじゃないかって気する。


  19. nick barratt,lackland:the loss of normandy in 1204,history today vol.54-3,2004,pp.32-37
     ヘースティングスの戦いからブーヴィーヌの戦いに至るノルマンディーの簡単な通史で表題通り中心はジョン様のノルマンディ喪失。ジョン様に好意的な感じでジョン様が即位した頃には情勢は最悪で特に財政が破綻していたと見ている。財政破綻の原因はリチャードが推進したノルマンディ公領とフランス王領の間に作られたシャトー・ガイヤールを中心にした大規模な要塞線でここの守備隊の費用だけでノルマンディー公領から得られる収入を凌駕していた。足りない分はイングランドから持ってくるしかなかった。即位した時にはもうどうにもならない状況だったといった感じだ。
     1203から4年の戦いでは当初ジョン様に有利に進んだが、結局惨敗。この辺りはジョン様の軍事能力のなさが指摘されてるようにも見える。それからジョン様は旧領奪還の為に死にものぐるいで金を集めて同盟者を募ったがブーヴィーヌの敗戦で全ては終わる。しかし、ジョン様はノルマンディー喪失以降、アイルランドやウェールズなどに攻勢方向を変更してそれなりに成功を収めた。ジョン様の方針変更はエドワード1世に受け継がれる。この最後の部分はジョン様擁護のこじつけって気もする。
     ルーアン攻城戦、アンジュー伯ジェフリー、ブーヴィーヌの戦い、リチャード獅子心王など、同時代史料からのカラーの図版やフィリップ・オーギュストの肖像入り貨幣、ジョン様の妻アングレームのイザベルの彫像の写真なんかもページ数の割には豊富に入ってる。


  20. ralph.v.turner,king john,london,1994
     ジョン様の総合概説書みたいな本。著者のターナーは、1949年に今まで暗君の代表格とされていたジョン様が実は行政能力などではもの凄く有能だったと言うことを行政文書などから始めて論証したペインターのお弟子さんで、ターナーの本でもジョン様が従来言われていたように暗愚で無能な君主ではない点が指摘されている。外交能力、軍事能力、行政能力では優秀な能力を持っているが、ここ一番の詰めが甘くて家臣の心を掴むのが下手で人望がなく、立派な騎士、といったイメージからも遠い。当時の理想的な君主からはほど遠い実務家って感じだ。特に家臣の心を掴むのが苦手というのは致命的で、1203年に大陸諸候にそっぽを向かれて大陸領を喪失し1205から14年にはイングランドの諸候をまとめきれずに大陸領への反撃が遅れ、1214年の大陸領への反撃では大陸諸候に見限られ、つづくイングランド内戦ではイングランドの諸候にも見放されてしまう。こんな感じだ。それと、後の時代に悪評ばかりが伝わる原因になったのはジョン様治世後半にイングランドの教会人に悪い印象を与えたことが上げられる。ただでさえフリーの教会関係者は王の悪口を書く傾向にある上に、教会の弾圧者と思われていたジョン様はことさら悪く書かれることになった。もう一つは他の王と違いジョン様は公式の記録者を持たなかったことが上げられる。たいていの王は、悪名高いスティブン王でさえ、王の事績とかいう感じの公式の伝記が作られる。だけど、ジョン様にはそのように業績を称えるような伝記がない。そのせいで、フリーの教会人が書いた年代記史料しか残らず、よけいに悪評が際だつことになったみたい。
     本の構成は項目毎に年代順の解説がつづく形式になっている。ジョン様の評価の次の第二章ではジョン様が生まれてからリチャードが死ぬまでで、ジョン様の行動を中心に当時の王家の様子や貴族の様子を交えながら描いている。第三章はヘンリー二世のつくったアンジュー帝国と言われる領地の話で、帝国は大まかに分けてイングランド・ノルマンディーのアングロ・ノルマン地域、アンジューの発祥の地たるアンジュー、メーヌ、メインのフランス西部、アキテーヌ公領を中心にしたフランス南部の3つの部分から成るとの理解から、ノルマンディー・イングランドの状況、他の地域の状況に分けて解説が行われている。第4章は財政の話で、ヘンリー二世即位からヘンリー三世統治初期頃までイングランド王家は増大する軍事費の支出に苦しめられ、それを克服するために財政が開発されてきた流れが解説されている。当然全体の流れとは別にジョン様の財政政策については別に解説がある。簡単にいえば従来のやり方をより強力に押し進めたって感じだ。第5章でノルマンディーの喪失からブーヴィーヌの戦いまでの大陸領での政治的、外交的活動の話と、それとは別のまとまりとしてウェールズ、スコットランド、アイルランドに対する政策が解説されている。外交的な駆け引きとか、諸候の動向とか政治史的な記述がメインで戦いの話は簡単に流している。第6章は教皇庁との戦いがまとめられている。第7章は諸候とジョン様の関係とか、政策とか、駆け引きなど。第8章がマグナ・カルタの戦いだ。当然戦いよりも政治的な駆け引きなんかが中心になっている。最後の9章は総括みたいなものでジョン様の評価なんかを簡単に解説している。
     ジョン様を比較的好意的に見た概史って感じだ。


  21. w.w.warren,king john,yale,1997(orig.ed.1961)
     この本はジョン様復権に大きく寄与した本で、ジョン様概説本では最も情報量が多く基本的文献の一つとされているみたい。ただ、出版当初は実証面で色々と粗が目立ち、つっこみもたくさん受けている。ジョン様と兄リチャードの比較の中にこの本のジョン様の評価がよく現れていると思う。リチャードはジョン様が持っていない軍事的な能力、特に前戦での統率力を持つが、戦いに取り憑かれた無慈悲で粗野な人物で、政治や行政には無頓着だった。一方ジョン様は政治的知識に富み、十字軍の夢物語に熱することもない。ジョン様に匹敵するのはヘンリー二世だけだった、って感じに比較されている。ジョン様はクールなインテリで、リチャードは野蛮人ってことだ。
     構成は年代順に、場合によっては物語風にジョン様の活動を記述する方法が採られている。時には、ジョン様の政策やエピソードなんかを交えながら解説されている。例えば、ジョン様即位当初はリチャードの戦争政策を放棄して平和政策に転換した旨が解説されている。その平和政策が如何にすぐれたものか、リチャードが取った戦争政策の一環として作られたフランス王領とノルマンディーの間に作られた一大要塞ラインと、その要塞ラインを維持するために必要な費用を算出する形で解説が行われている。原史料からの引用も多く、ジョン様の遺書とか手紙とか、ジョン様が吐いた台詞などが数多く収録されている。ジョン様の「ソフトソード」という綽名もこの平和政策を皮肉って名付けられたっていう逸話も紹介されている。
     ジョン様復権に必要な作業として、ジョン様の姿を伝える主要史料たる、ウェンドーヴァーの年代記やマシューパリスの年代記の検討も行われている。二人とも、ジョン様を快く思わぬ修道院の出身で、その年代記には荒唐無稽な話も多く、第一級の史料としては信用に値しない旨が論証されている。その例として、ジョン様がイスラーム教に改宗した話とか、教会の奇跡談などの話が紹介されている。ジョン様の悪行としてよく言われる、甥のアーサー殺害や、妻の略奪婚についても当時の情勢を分析する形で解説されている。妻アングレームの略奪は衝動的行動というより、当時の情勢から考えて至極合理的な行動だった点が指摘されている。当時、ジョン様は西部フランスに有力な支持者を持ってなく、裏切りかねない危険な家臣のルジャニャン家もいた。妻のアングレームのイザベルは西部フランスの有力家のアングレーム家の相続人で、リュジャニャン家の当主の婚約者だった。ここでもし両家が婚姻で結びつくことになると、ジョン様の西部フランス支配が揺らぐことになる。そこで、この両家の合体を阻止し、西部フランスに有力な支持者を手に入れるために強行されたのがイザベルの略奪だった、ってことみたい。甥のアーサー殺害は事故であり、ジョン様は殺害を支持していないという立場に立っている。結局この事故がジョン様の戦略を崩壊させる原因になったってこと。
     愛人の話とか、家臣の妻にやたらと手を出した話など、醜言やエピソードも多く紹介されていて、事件を解説するための地図や表、写真なども結構あって読み易い。政治史や伝記だけじゃなくて、戦史の部分もそれなりに解説がある。現在出版されている本の中では最もジョン様のことを広く解説した本だと思う。但し、ジョン様マンセー過ぎるきらいはあるかもしれない。


  22. ソビエト科学アカデミー,世界史中世2,東京図書,1962(orig.ed.1957),pp.528-535
     11から13世紀の政治史の中でヘンリー2世の治世に一気に王権が強まり、中央集権的な体制が作られてリチャード1世が戦争を繰り返してイギリスの臣民の不満を増大させ、ジョン様がフランス王、ローマ教皇に惨敗して諸候の不満が大爆発してジョン様が諸候の要求に屈してマグナカルタに署名したって感じの流れで記されている。
     ヘンリー2世の王権の強化をアンジュー帝国全域で行われたかのように記しているのはちょっと行き過ぎって気がする。たぶん騎士強制の事を記していると思われる部分が自由人の権利の拡大として描かれているように感じた。ヘンリー2世は軍役代納金制度を最大限に利用したなんだけど、ヘンリー2世が創設したような印象を持たせる記述がある。何となく変な気がした。
     ジョン様の部分についてはヴーブィーヌの戦いは省かれてノルマンディの喪失、インノケンティウス3世との戦い、マグナカルタの順で、マグナカルタが出てきた最大の原因をインノケンティウス3世に対する敗北だとしているように見える。記述の大半はマグナカルタの解説でマグナカルタを諸候の権限を強めて王中心の中央集権国家建設を阻害するものだと捉えている。
     ソビエト科学アカデミーの本だけあり、経済関係の流れも記されていて貨幣経済の拡大とその流れに伴う貨幣地代の進展なんかや農民に対する負担の増大や農民の反抗のエピソードなんかも紹介されている。


  23. nicholas hooper/matthew bennett,cambridge illustrated atlas warfare the middle ages 768-1487,cambridge,1996
     中世の戦争の地図絵本で、文章は簡単で分かり易くて、主要な戦いはコラムで紹介されている。主要な戦場と都市を示した地図に矢印で軍の動きを示した戦況図とか、個々の会戦や攻城戦ではイラストのような地図で表現していたりする。出来事とか攻城機などを描いた同時代の絵などもカラーで載っている。最後の方に武器とか戦術とかの解説がまとめられている。最後の頁に事項ごとにまとめられた参考文献集がある。主要な史料と概説書を選別していて使いでがある。ジョン様関連の戦いだと、最も大きいのは獅子心王リチャードの第三次十字軍で、本国を出てから聖地に着くまでの航路、キュプロス攻略戦、そしてメインのエルサレム攻略戦の戦役図、個々の戦いではアルスフーフの戦いなどの解説が矢印ツキの地図を使って説明されている。ジョン様メインの戦いだと、最後の内戦の解説がある。南に北にジョン様はかなり活発に活動しているのが分かる。それに対して反乱軍の動きが鈍く見える。ジョン様は1月にスコットランドを攻撃したかと思うと、2月にはベドフォードに帰還して3月にはエセックスの反乱軍を攻撃している。だけど、王太子ルイの上陸で一気に諸侯が裏切って全ての努力が水泡に帰したって感じだ。それとアルビジョア十字軍の章でも少し出てくる。ジョン様は十字軍の標的となったトゥールーズ伯を支援していたので、様子を見に来たって感じだ。逆にフィリップ・オーギュストは十字軍を支援していた。ある意味この戦いも代理戦争って見方も出来るかもしれない。こちらもフィリップが支援する側が勝利をおさめている。他はアイルランドの戦役で少し触れられてるくらい。


マグナ・カルタ

  1. 森岡敬一郎,マグナ・カルタの成立過程−主として諸候とマグナ・カルタとの関係−,慶応大学法学研究42-8,1969,pp.33-66
     マグナ・カルタ成立の背景を財政と政治的な観点から解説している。ジョン様はアンジュー帝国を維持する為に大規模な軍資金を必要として軍役代納金の徴収を強化し、相続税、結婚同意権、後見権などの王の権利をとおして得られる収入も以前の王より盛んに活用している。ユダヤ人対策の解説がけっこう詳しい。ユダヤ人は王の動産と考えられていて王は自由に課税することが出来た。金の卵を産むガチョウみたいな存在ってこと。ジョン様は重税を課し、ユダヤ人が持つ債権を税の代わりに収めさせて債務者に厳しい取り立てをしてたみたい。さらに進んでユダヤ人を弾圧して資産を差し押さえも盛んに行っている。ただ、裕福なユダヤ人は一万マルクを王に上納できたっていうから当時のユダヤ人が如何に大きな資産を持っていたかが想像できる。だけどユダヤ人の債権を利用して金の徴集をやりすぎたみたいでマグナ・カルタでもユダヤ人の債権を制限する条項が盛り込まれている。
     ジョン様の評価もある。19世紀まではジョン様は無能で極悪な君主の代表格とされ、マグナ・カルタを突きつけた諸候はそれに対した正義の味方みたいな支配的だったみたい。20世紀に入って行政文書の研究が進み、ジョン様が行政、経済の分野においては極めて有能で常に法を順守、というより巧みに利用していたことが分かってきた。特に王を中心とした行政組織の整備に成功し、財政収支の均衡に力を入れていたことが分かっている。ジョン様治世の行政組織の発達が解説されている。最も発展したのは財務府で税の徴収能力が拡大している。財務府の活動を支援する為に文書行政の強化が行われている。簡単にいうと二つのことをはじめたと言えるように見える。一つは王の発給した文書の写しを作り、保存することにした。第二にそれら文章の必要事項をまとめた文章を作るようになったってことだ。ここから見えることは森岡先生もジョン様に肯定的な評価を下しているってこと。
     マグナ・カルタ成立の背景として当時の王と法に対する考え方がある。理念としては王は法に従い国を治めるべきで、自分勝手にやるのはただの独裁者だって考えがあったけど、問題はどこまでが法でどこまでが王の自分勝手な振る舞いかの境界線がなく、法が不完全なものだからどうしても王による判断を含めなければならず、その判断が自分勝手な振る舞いだって見えてしまうことみたい。ただ、ジョン様は古来の慣習による法を順守する立場に立ち、根拠をヘンリー二世治世の慣習に求めていた。そこで諸候が持ち出したのがヘンリー一世治世の慣習でそれを具体的に表すヘンリー一世の「戴冠証書」だった。両者とも法を順守しようという立場なんだけど、その根拠としたものが違ったってことみたい。
     当時の諸候が法についての知識と経験を十分に持ち得た原因としては地方自治の発達という点が重要みたい。これはヘンリー二世、リチャード一世共にイングランドを留守にすることが多く、王がいなくても国制が進むような形にイングランドの統治体制が発達して個々の地方自治が自立した形で発達し、行政や裁判の経験を積んだ地方の騎士などの下級貴族が多く現れることになり、同時に諸候などの高級貴族がもっと上位の統治経験を積むことになった。
     1212年から1215年に至る政治的事件の解説もある。1212年にジョン様暗殺未遂事件が起こり、これにショックを受けたジョン様は1213年にローマ教皇にイングランドを差し出して破門を解除して貰って教皇を味方に付け、1214年にフランス戦役を戦って負けて、1215年にマグナ・カルタを突きつけられるっていう感じ。
     全体として分かり易いけど、章と章の繋がりがなんとなく分かり難い気がした。


  2. 森岡敬一郎,マグナ・カルタと中世イングランドの租税制度−特に軍役代納金と臨時御用金−,西洋史学88,1972,pp.1-22
     ジョン様治世の軍役代納金と臨時御用金について検討した論文。ヘンリー二世、リチャード一世の治世にも軍役代納金や臨時御用金の徴集は行われていたが、ジョン様治世には前二王より頻繁に徴集が行われるようになっている。ヘンリー二世の治世以前にも軍役代納金や臨時御用金は行われていたが、それは騎士封一に対して幾らという形で、ヘンリー二世以降は財産に応じた徴集が行われている。財産査定は王の役人と地方の有力者、テンプルやヨハネ騎士団員などで構成された査定委員会が行っている。ジョン様の徴集した軍役代納金については年毎の徴収額の詳細なデータが添付されていて、その徴集理由が解説されている。但し、データはある一つの研究者が自説に従って算出した値なので絶対的なものではないが、概ね信用していい値みたいだ。軍役代納金は一騎士封毎に二マルクとされる定額のScutageと、徴集毎に不定のFineに分けられる。定額とされるScutageも徐々に値上がりを続けている。1214年のジョン様の治世では最後の軍役代納金の徴収時には一騎士封三マルクに上昇している。Fineの方は当然ながら増額が続き、時に財産の何分の何を収めよという具合に財産課税の形を取ることもあった。軍役代納金は基本的に戦費を目的とした目的税みたいなものだけど、時に破門を解いて貰う条件となった弁済金を集める為に徴集されたり、将来起こるかもしれない戦争の為にとかいう理由で集められたりと、戦争以外の理由で徴集されることも多々あったみたい。
     軍役代納金の他の相続税やシェリフからの収入、空席の司教領などキリスト教官職者領で空席の領土の収入を王が受け取るとした権利による収入などが簡単に解説されている。相続税の支払いは慣習的には一騎士封につき100ポンドだけど実際にはそれより多く徴集されることが多かった。これは王側の要求もさることながら王の歓心を買う為に支払う側が多めに払ったというのも原因の一つみたい。シェリフからの収入はもともとは定額制で、シェリフは決まった額さえ王に納入していれば残りは自分のものにできたが、ジョン様治世にこの額が増額され、収支報告を王に申告して必要額を王から給与として受けるみたいな形へ変更された。シェリフがまるうけの請け負い業者みたいな形から王支配下の官僚という形へ改編されたってことみたい。それと都市とか村はシェリフの管轄であることが多かったのを独立させて、それぞれの都市や村の自治体が運営する形として、税金をシェリフを通さずに王へ直接収めることにする等の方策が採られている。より直接的に税を徴収して増収を狙ったみたい。空席の司教領などからの徴集は聖務停止を受けた時に盛んに活用され、聖務停止期間中は停止以前以後より財務状態が好転していた。ジョン様を苦しめるつもりで聖務停止にしたところが、かえってジョン様の財政を好転させてしまったっていう皮肉な結果が生まれたってこと。
     ジョン様治世の財務状況が具体的なデータ付きで見通せる。その他の収入の説明もけっこう分かり易かった。


  3. デーヴィス,マグナ・カルタ,ほるぷ総連合,1990(orig.ed.1963)
     大英図書館のパンフレットの邦訳でマグナ・カルタ成立直前のブーヴィーヌの敗戦辺りからジョン様死去に至る諸候とジョン様の動向の歴史がある。法的にどうのとかではなく誰が何をしたといった感じの記述で分かり易い内容だ。ウェンドヴァーのロジャーの年代記を土台にしているみたい。
     諸候の軍事的な圧力に負けてマグナ・カルタを承認したみたいに見える。内乱になった原因の最後の一撃は教皇のマグナ・カルタは無効だとの宣言だというのがよく分かる。教皇にしてみればジョン様を助けようとして宣言したみたいだけど結果的にジョン様を追い詰めることになっている。諸候とジョン様の間で調停役を果たしていたカンタベリー大司教ラングトンはとばっちりを受けてマグナ・カルタを認めた廉により教皇から停職処分を受けている。
     ジョン様が教皇の臣下になったと宣言する文書とか、諸候がジョン様に突きつけた要求文とか、ジョン様が発行したマグナ・カルタ、1225年にヘンリー3世が再発行したマグナ・カルタ、アイルランドで作られたジョン様のペニー貨、ジョン様の印章など、マグナ・カルタ関連の文書の写真や印章の写真なんかたくさん用意されている。
     ジョン様が発行したマグナ・カルタ全文の邦訳と大英博物館で展示されているマグナ・カルタ関連文章の解説もある。40頁足らずしかなくマグナ・カルタ成立の概略を掴むのにいいかも。


  4. ホゥルト,マグナ・カルタ,慶応大学出版会,2000(orig.ed.1992)
     マグナ・カルタを当時の政治状況から慣習法、自由の概念、後世でのマグナ・カルタの扱いなど様々な側面から分析した本で700頁を超える凄いボリューム。マグナ・カルタ成立の背景を論じていて、もっぱらジョン様が行った徴税活動や特権の売買、法の執行からマグナ・カルタの内容がどのように形作られていったかを時間の流れに合わせて解説している。マグナ・カルタは特別な法ではなく、同時代に各地で現れた様々な王の特許状、フリードリッヒ・バルバロッサの「コンスタンツ条約」とか、アルフォンソの1188年の勅令、アンドラーシュ二世の「黄金勅書」といったものの一つと言ったところみたいだ。個々の慣習法やその適用については個々に事項や専門用語を精査しないとよく理解できない。正直言って理解しきれなかった。そして、マグナ・カルタを作る原因となった諸候の反抗はジョン様自身を標的にしたものではなく、ヘンリー二世が土台を作り、リチャード、ジョン様と受け継がれて完成の域に達した諸候から収奪するシステムを攻撃したもので、ジョン様の悪政がどうとかいう問題ではなかった。
     破門からブーヴィーヌに至る間、ジョン様は大陸領奪還の為の資金を必要としていた。そのために諸候に対して様々な特権を売り、様々な理由をもうけては資金の提供を求めた。しかし、ブーヴィーヌの敗戦に至るまでジョン様は、譲歩と恫喝を巧みに組み合わせて諸候の不満を抑え、資金を手にしている。諸候に譲歩したとしても後で取り戻せる範囲に留めていたみたいだ。教皇の臣下になったのも、それで失う物よりそれで得られる教皇の支持の方が価値があったからみたいで臣下の反抗に対して教皇からの支援で対抗することもしばしばあった。
     ブーヴィーヌの敗戦で事態は一気に悪化してしまう。諸候は団結して反抗するようになる。それでも当初は両者共に慣習法に則り、自らの正当性を主張して戦っていた。ラニミードでの「マグナ・カルタ」を承認するという形で一度は諸候に敗れたが、ジョン様は教皇も巻き込む形で自らの行動が「マグナ・カルタ」や慣習法の上でも極めて正当なものだという形に策を巡らせてもっていくと、諸候としては自らの権限を守る為に武器をとるしかなくなってしまい。教皇からも厳しい非難を浴びて戦いは不可避になったみたいだ。内戦はここから内戦が始まるとか言ったはっきりした感じではなく両者とも武装して緊張した状態が続き、諸候派がロンドンを制圧して、ジョン様がそれに応酬するといった感じで徐々にエスカレートしていく感じみたいだ。
     これを見ている限りでは君主が誰であろうと諸候と王が対立して諸候が王を制限する何らかの処置、ジョン様の件では「マグナ・カルタ」で象徴されるが、このような処置が出てくるのは不可避だったんじゃないかと思えてならない。ジョン様は若い頃から裁判や法に関心が強く、慣習法などが深く関わる政争にある程度才能があり手慣れていたのに、最終的には武力に訴えなければならなくなり、敗北してしまった。リチャード辺りだったら、もっと早期に武力に訴える事態になり、最終的には孤立して敗北してしまったんじゃないかと思える。
     マグナ・カルタとその成立に纏わる原典史料の日本語訳とラテン語原文、史料の性質なども付録として多数収録されている。マグナ・カルタ本文も、1215年版と1225年版の二つが収録されている。マグナ・カルタやジョン様の政争だけでなく、中世イングランドの慣習法や裁判などの実例やその解説なども豊富に用意されている。これは中世イングランドの慣習法などを調べるのにもの凄く有用な本なんだと感じた。


  5. マッケクニ,マグナ・カルタ,ミネルヴァ書房,1993(orig.ed.1913)
     この本はマグナ・カルタの古典的かつ、基本的な研究書みたいだ。全体の半分以上はマグナカルタの本文の訳、注釈、解説に費やされている。マグナ・カルタの注釈部分以外の部分は200頁くらいで残りの400頁くらいがマグナカルタの注釈に宛てられている。
     前半の半分くらいはノルマンコンクエストあたりからヘンリー三世に至る政治や法制史の背景の解説がある。当然ジョン様の治世の説明が最も詳しい。基本的にウェンドヴァーのロジャーの年代記を土台にして流れを記しているみたいだ。ウェンドヴァーの記述はジョン様に非好意的な記述が多いことが知られていてそれを土台としているだけあり、この本の説明でもジョン様が無能な悪人みたいに描かれている部分もある。
     騎士奉仕封とか自由鋤奉仕封とかみたいな当時の土地保有形態や、婚姻権とか成年者相続料みたいな君主が臣下に対して行使できる権利とか、封建援助金や軍役代納金みたいな君主が臣下に要求できる税なんかが分かり易くまとめられている。
     ジョン様はこれらの権利をヘンリー2世やリチャード1世よりも拡大解釈して自分に都合良いように活用してお金を集めている。これらの諸権利はウィリアム1世の頃から少しづつ現れ、ヘンリー二世により確立された権利でジョン様はこれを王に有利なように最大限に拡大したって事みたい。だから、諸候は王の権利の乱用を抑えようとジョン様に反抗したって事みたい。その結果現れたのがマグナ・カルタだけど、エドワード1世はマグナ・カルタを逆手にとって王の権限を強化している。
     その後も新しい法や法概念を持ち出す時にマグナ・カルタを都合良いように解釈して新たな法に権威を持たせるって事が行われるようになった。マグナ・カルタは王と諸候の条約文みたいな物だったのにいつの間にかイングランドの法の根元、憲法みたいな扱われ方をするようになった。


母エレアノール

  1. 石井美樹子,王妃エレアノール−十二世紀ルネッサンスの華,朝日新聞社,1994
     ジョン様の母上エレアノールの小説風の伝記。史料に書かれてないような部分を想像で大きく補っている。
     最初の二人の夫、ルイとヘンリーとの話がメインになっている。ルイとの話は北フランスと南フランスの文化や気候の違いから来る慣習の違いと、それが原因で起こる衝突を背景にした感じがある。トゥルバドゥールの愛の詩などで有名な南の開放的で陽気な雰囲気と暖かい気候、それに比べてパリを中心にした北は南よりキリスト教の影響が濃厚で陰気な感じで寒い気候。その影響で南の人はお祭り騒ぎが好きで恋愛もオープンな感じだけど、北の人達は生真面目で色恋沙汰を軽蔑する傾向にあるって感じだ。ここで出てくる南の大費用はエレアノールで、北の代表がフランス王ルイってことだ。ルイはエレアノールの影響で恋愛感情に目覚めていくけどそれを罪悪と捉えて悩んでいる。北の諸候もルイの失敗はエレアノールと南フランスの諸候の無責任な気質が原因だと捉えている。それが頂点に達するのが第二次十字軍って事みたい。これが原因で二人は別れることになる。南と北の気質の違いってことで全体の流れができていて凄く単純化し過ぎなって思えるけど、そのおかげで物語の筋を掴むのが容易だ。
     次のヘンリーは互いに情熱的で活動力に富みベストカップルに見えるけど、どっちもしっかりと政治的方針をもって事に当たるものだから結局意見の相違が表面化してぶつかり合うことになってしまう。それに油を注ぐようにヘンリーが浮気を繰り返すから二人の間は悪化するばかりだ。子供が成人してからはヘンリーが子供達に自分のやり方を押しつけるもんだからよけい事態が悪化してしまう。だけどヘンリー対エレアノールの戦いはいつもエレアノールの方が一枚上手でエレアノールがヘンリーに先んじているって感じで描かれている。それでもヘンリーの力業は凄く息子達とエレアノールをうまく押さえ込んでアンジュー帝国を運営していく。最後はエレアノールに敗れて空しく最後を迎えるって感じだ。ヘンリー最大の失敗はエレアノールを敵に回したことみたいに見える。
     リチャードの治世はエレアノールが思いっきりバックアップしたおかげで上手くいき、リチャード長期間にわたって不在でもアンジュー帝国がなんとかやっていけたのもエレアノールの手腕によっていたって感じで描かれている。
     ジョン様の治世はエレアノールがフランス王に臣下の礼をとったり孫をフランス王太子と結婚させたりしてフランス王家との関係を強化したりアキテーヌ諸候を掌握したりしてアンジュー帝国を守ろうとがんばったけど、ジョン様がアングレームの娘を誘拐したり、アーサーを殺したりとバカばかりやるせいでエレアノールの苦労が無駄になってしまうって感じだ。だけどエレアノールはジョン様が失敗するって事も見越してフランス王太子に孫を娶らせていた。安全策をとっていたのだってことで物語は終わる。
     エレアノールの政治的な能力を高く評価した賛歌って感じの物語だった。ヘンリーやルイが過小評価されてるとも感じた。


  2. 福本秀子,ヨーロッパ中世を変えた女たち,日本放送出版協会,2004,pp.9-40
     著者の福本先生はレジーヌ・ペルヌーの本を幾つも訳されている翻訳家。この本は中世の女性の伝記集で、ジョン様関連ではママのエレアノールが紹介されている。
     この本のエレアノールの章は前後半に分かれていて、フランス王妃の時が前半で、イングランド王妃の時が後半になっている。フランス王妃時代はわがままな妻と、妻に従順な夫って感じだ。妹が不倫をすると、妹の不倫相手を強引に離婚させて妹の思いを遂げさせる。そのあげくに教皇と大げんかになって破門されてしまうし、有力な家臣は裏切るしとさんざんな目に遭いながら、夫はなおも妻に味方して3000人もの市民を虐殺するは、教皇の任命した司教を追い出すはと、無茶を繰り返す始末。エレアノールの領地で反乱が起きれば、みずから出陣して徹底的に弾圧すると言った具合に妻にいいように振り回される。そして、十字軍では大量の私物とお付きを連れて夫についていき、聖地に着くと初恋の人、叔父のアンティオキア公と不倫をしでかし、夫に愛想を尽かされて離婚する。こんな感じの流れで、ですます調の文章なので、なんとなく子供向けのお話番組を見ているみたいな気がしてくる。
     後半は前夫を苦しめる元妻みたいな感じで始まる。イングランド王と結婚したエレアノールはとにかく自分の子供を英仏両国王にしようと策謀を巡らし、前夫に女の子しか生まれないことをいいことに自分の子供と前夫の子供をくっつけて王位を奪おうと画策するが、前夫に男の子が生まれてしまい計画が瓦解してしまう。続いて現夫、イングランド王との間にも夫の浮気が原因で亀裂を生じてしまう。そうなると今度は現夫を苦しめる子煩悩な母になってしまう。とにかく夫を引きずり落として息子を王位につけようとする。だけど、陰謀は失敗して幽閉の憂き目にあう。息子のリチャードの反乱が成功して、ようやく自由のみになり、なんとか孫をフランス王の息子と結婚させて、フランス王とイングランド王に自分の血筋のものをつけることに成功してエレアノールの願いが叶いましたで、お終い。こんな感じだ。読み物としてはまとまりが良くて面白い。けど、何か極端な気がする。


  3. レジーヌ・ペルヌー,王妃アリエノール・ダキテーヌ,ハピルス,1996(orig.ed.1965)
     ジャンヌ・ダルク研究で有名なフランスの研究者だけど、歴史上の人物に対する好き嫌いをはっきりと示す傾向があるみたい。
     この本だと、エレアノールは当然好きで、リチャードは好き、ジョン様は嫌いって感じに見えた。好き嫌いは、はっきりしていても史料に従うって態度もはっきりしていて、史料からの引用やその背景なんかの解説も多い。歴史上の事件などだけでなく、トゥルバドールや、宮廷恋愛文学、アーサー王伝説などのエレアノールに関わる文学関係の話しもそれなりにある。エピソードからエピソードへと飛び回るというより、エレアノールの足跡を追いかける感じだ。
     中心は政治史にあるけど、そこから話を広げてエレアノールが関わった事件に関わる人物の解説や活動、当時の社会の様子などが描かれている。その過程で人物の史料上に現れる評価が紹介されて、その中に個人的な評価を織り交ぜ、時に話が進みすぎて歴史家批判みたいなところに話が発展することもある。
     全体のページ数の割り当てはルイの王妃の時代、ヘンリーの王妃の時代、リチャードの時代とそれなりにバランスが取れていると思う。だけど、ジョン様の時代はもの凄く少なくて一気に流す感じだ。エレアノールはジョンを補佐してアンジュー帝国を守ろうと頑張ったけど、ジョン様の無分別な行動で全てが失われたって感じだ。それと、ジョン様の件より、フランス王太子ルイとエレアノールの娘のブランシュの結婚の話が中心になっている。
     けっこう細かいエピソードなんかも紹介されていて、周辺の人物の解説や史料の紹介なんかも多い。物語風の構成なんだけど、なんとなく、エレアノール大辞典みたいな印象を受けた。ただ、この本には索引がないので辞典みたいに目的の項目や人物を引くことは出来ないから、年代と関連項目から目的の項目を引くってことになる。


フランス王フィリップ・オーギュスト

  1. 木村尚三郎,フランス社会の形成;井上幸治編,世界各国史2フランス史,山川出版社,1968,pp.60-116
     11から13世紀のフランス社会の概説で、農村、封建制、教会、商業についての大まかな解説で構成されている。フランスの封建制は11世紀に形成され始めて、13世紀に崩壊が始まるってことで解説されている。まずは農業の話で、11世紀頃から農業技術の革新が始まり、農業生産力が向上を始めた。特に三圃制の影響が大きいみたい。農業技術の進展に伴い新たな開墾が活発になって農村が増加している。これに伴い複数の村を所有する領主制が確立していった。ここで領主の賦役と流血裁判権の解説がある。そして領主支配は城を中心に行われた。慣習法は地域毎に様々だったが、13世紀頃には地域の慣習法同士の接近が見られて慣習法が文書化されるようになる。フランス北部は慣習法が優位を占めていたが、南フランスは新たな慣習法が作られることが少なくローマ法の影響が強かった。
     封建領主同士に関しては封建的主従関係の解説がある。封主は封土を与える代わりに封臣から奉仕を受けるって話し。国王はフランス内の封建的関係の頂点にあるとされ、教会から正当性を与えられる形になっている。国王の正当性だけでなく、平和についても教会の論理に頼っている。
     フランス内の教会組織は11から13世紀にかけて発展し、クリュニー修道会やシトー修道会などが生まれ出て、教会建築や神学などが盛んになっている。
     13世紀は大学の黄金期で、パリ大学などは国王から特別な特許を得て、パリ司教の管轄から教皇直属に昇格して一つの自治体として発展している。
     手工業ギルドやシャンパーニュ大市の解説もある。ギルドは同一職種の親方で構成され、キリスト教的な相互扶助団体の兄弟団と一致していて、ギルドには詳細な規約がある。シャンパーニュ大市は南北を結ぶ重要な市だったけど13世紀末頃には衰退してしまう。というくらい。
     フランスの都市は北東部では自治権を実現している都市が多いが、中西部では領主支配が厳しく、南部は完全に自立した都市が多かった。特に南は王権の浸透が遅かったのも都市の自立に一役買ったみたい。
     最期にフランス王権の話が出てくる。やはりフィリップ・オーギュストの存在が大きい。この頃に完成とまでは行かなかったけど、中央集権的な体制の基礎が作られ始め、フランス王は相手が皇帝であろうと世俗のいかなる権力の下につくことはないとした考えが生まれている。フィリップの名乗った「オーギュスト」とは皇帝を意識しての物ってこと。
     何となくまとまりをつけられなかったけど、解説は多岐に及んでいて、時代も11から13世紀のどこかって感じであまり限定していない。


  2. 佐藤彰一,中世フランスの国家と社会;福井憲彦編,フランス史,山川出版社,2001,pp.93-120
      フランスの概史だけど、単純な年表式の概史ではない。大まかに分けて、政治史、社会史、経済史の三本だてになっている感じだ。
     フィリップ・オーギュストに関する政治史は半分づつに分けられてしまう。構成としては、フィリップが王位についてからブーヴィーヌで勝利して大陸のアンジュー家領を手に入れて、真じゅー家のやり方をまねて横領地の統治を整備するまでの前半の政治史、社会史、経済史、イングランドで内戦が起きてそれへ介入する件と、過去に例のない葬儀を開いて王の権威を高める件が解説された後半の政治史という形になっている。政治史の部分にはあまり大した話はない。面白い所では、フィリップがフレルヴァルの戦いで、リチャードに負けて公文書を失った経験から公文書を保管する部署をつくったという話がある。この戦いはフランス側の年代記に記録されていない、とか言われている戦いだけど、実際の所はどうなんだろう。とか思った。
     社会史では主に教会関係の話を中心にしているが、10から13世紀とフィリップ・オーギュストの治世より範囲が広い。教会関係ではクリュニーとシトー修道会のフランスでの活動と、十字軍の解説がある。ベネディクトゥスの戒律を掲げてクリュニー修道会がブルゴーニュに起こり、さらに厳しく戒律を守るとしたシトー修道会がディジョンで起こった。十字軍では中東とアルビジョア十字軍に言及している。13世紀頃のフランスの十字軍運動のエネルギーは二つの方向に向けられていたって事みたい。他に騎士文学などのフランスでの文学についてと、パリ大学についての話がある。
     一番のメインは経済史の部分。フランスの人口が13世紀には2000万人に達し、人口増加に伴い、人口が農村から都市へと流れ込み都市人口が飛躍的に増大した点が指摘されている。この人口増加を支えたのが、フランス全土で進んだ大規模な開墾で、この開墾の進展を支えたのが様々な農業技術の進歩だった。開墾に伴い新しい村も多く作られ、この力をてこに領主に対する農民の立場が強化された。なぜなら、領主は自領の農民を優遇しないと、農民が新村へと流れ出してしまうので、農民を自領につなぎ止めておくために農民に有利な条件を提示しなければならなかったからだ。シャンパーニュの大市の解説もある。この市はヨーロッパの北と南を繋ぐ重要な市で、シャンパーニュ地方の都市が時期をずらしながら市を開き、シャンパーニュのどこかでほぼ一年中市が開かる状態にしていた。13世紀終わり頃には商業路の変化や大規模な戦争、各地の商人が在地化したりなどが原因で衰退してしまう。13世紀には手工業の発展も著しく、手工業の専門化が進んでいる。


  3. 宮松浩憲,カペー朝・封建時代;世界歴史大系フランス史1−先史〜15世紀−,山川出版社,1995,pp.192-210
     フィリップ2世の治世がフランス王権拡大の画期と捉えている。フランスの地方の統合が進み行政組織が整い始めた。地方に細かい城主支配地が乱立する「城主の時代」から、城主達を統合した諸候がより広い領域を支配する「領主の時代」に突入する時期と説明している。
     フランス王の影響範囲も拡大している。ジョン様からフランス北部と西部を奪い、アルビジョア十字軍をきっかけに南部にも鋭気揚力を拡大している。
     イングランド王に対する攻撃法はリチャードの時もジョン様の時も同じで対立する王族の者、リチャードの時はジョン様、ジョン様の時はアーサーを支援してイングランド王の封臣を相争わせて自身はノルマンディーへ攻め込んでいる。
     主役はフランス王フィリップ2世だからジョン様の記述は少ない。ジョン様に関する記述はアングレームの娘イザベルの強奪、ブーヴィーヌの敗戦と失敗ばかりといった感じになっている。フィリップ2世はイングランドまで攻め込む気でいたが、離婚問題で教皇と仲違いして不注意から艦隊を失いとフィリップ側の不都合が原因で侵攻できなかった。ジョン様はイングランドを失いかけるほどの失敗をしでかしたといいたいみたい。
     リチャードの軍事能力のおかげでイングランドはフランスに対して優位に立てたがジョン様は失策続きで優位を失ったといった感じだ。
     フィリップはアルビジョア十字軍には積極的に介入しなかったみたいだ。他のフランス諸候に処理を委ねている。南より北の方が重要って事みたい。北ではフランドルやブルゴーニュに働きかけを盛んに行っている。
     この本はそれぞれの事件や事柄に関わったのがフィリップ2世かルイ7世か9世なのか解らなくなるような部分があってちょっと解りづらい。事柄によっては時代が前後する感じで記述されている。


  4. 渡辺節夫,カペー朝期フランスにおける王国統治と聖俗諸侯層,青山学院大学青山史学23,2005,pp.171-188
     フィリップに焦点にした論文じゃないけど、フランスの王国集会、王の助言集団についてその変化を概観した感じ。11世紀に入るまではカロリング期の統治法が継承されて全体集会による聖俗諸候との合議による統治が行われていた。11世紀中頃になると、全体集会に参加する諸候が限られた地域的に限定されるようになった。有力諸候抜きで王とその側近だけで政治を進める形に向かったみたい。12世紀半ばに再び有力諸候が全体集会に関わるようになり、王の政策に大きな影響を及ぼすようになる。十字軍など王が行う事業が大きなものになって有力諸候の助けなくして政策の実行が困難になったからみたい。12世紀後半は王と有力諸候の関係が強まっていく時期に当たる。そして、フィリップ2世の治世に全体集会が法的に整えられている。続くルイ8世の時期には頻繁に大規模な集会が開かれるようになっている。ただ、集会で有力諸候が独自の提案を持って王に臨むことはなく、基本的に王の提案に対して助言と同意を与えるに留まり、最終決定も王自身の判断で行われている。全体集会が王権に従属したものとした形を確立したのはフィリップ2世だった。全体集会はフィリップ2世の治世に王権の拡大に伴い整備されたって感じだ。
     この論文では全体集会だけでなくて勅令についての検討も行われている。勅令は簡単に言うと王による法の制定ってことみたい。勅令は最初は王領地に限られてたけど、11世紀中頃のルイ7世の治世に適用範囲が王領地を越えて王国全体へと広がり始め、フィリップ2世の治世には王国全体に対して自由に発することが出来るようになっていた。但し、諸候も自分の領土内では自分の出す法の方が勅令より優先されるべきと抵抗を示していたみたいだけど、13世紀末には勅令が王国の法として諸候を従わせるまでになったみたい。そして16世紀には王の立法権として十分に活用されるまでになる。
     こんな流れが見て取れるように思う。
     カロリング期からの諸候の力が強い全体集会、諸候を排除して王の陪臣だけに限定された全体集会、王権が優位に立った諸候を交えての全体集会、王権に従属した形での諸候を交えた全体集会といった感じ。この流れでの最後の段階へ到達したのがフィリップ2世の頃ってことなんだろう。王権の強化の流れを全体集会と勅令から解説したともみえる。どちらにしてもフィリップ2世の頃に王権の優位が固められたって感じなんだろう。


ローマ教皇インノケンティウス3世

  1. 梅津尚志,<最盛期>教皇権の理念と現実−インノケンティウス三世の対英政策に見る−;橋口倫介編,西洋中世のキリスト教と社会,刀水書房,1983,pp.178-196
     リチャード1世からジョン様治世初期のローマ教皇インノケンティウス三世の対イングランド対策をオットー即位に纏わる問題を中心に論じた論文。リチャード1世は教皇に対して従順でオットー即位を支持している。教皇はリチャードの対応の気をよくしてリチャードに高価な宝物を送るし、オーストリア公に捕まった際にはオーストリア公に恐喝じみた手紙で釈放を要求するしでリチャードに色々な便宜を図っている。しかし、フランス王フィリップ2世がリチャードの留守中にリチャードの領土を攻撃した件については両者の和平斡旋を目指して中立的な立場を取っている。教皇が目指したフィリップとリチャードの和平はリチャードが拒否したことで実現しなかったけどリチャードが死去したことで状況が変化することになる。
     ジョン様の治世に入り、教皇はジョン様もリチャードと同様に教皇に従順だろうと予想していたみたいだ。フィリップとジョン様は和平を結んで教皇の思惑通りに行ったみたいに見えたが、ジョン様はフィリップとの和平条件にオットーを助けないとした条件を入れていたので教皇が目論んだイングランドによるオットー支援は実現しなくなってしまう。更にジョン様はリチャードの遺産のオットーの取り分を懐に入れてしまいオットーに何一つ渡さなかった。目論見の外れた教皇はフィリップとジョン様の和平は無効だと宣言してジョン様にオットーの相続分を引き渡し聖地支援の為に100人の騎士を差し出すようにに迫り、なんとかオットーへの支援を引き出そうと画策する。だけど、ジョン様は教皇の要求をことごとく無視した。
     フィリップがイングランド王の大陸領へ侵攻した際に教皇はジョン様とフィリップとの和平を斡旋しようと教皇の勧告を無視して戦う者は破門すると脅しをちらつかせたが、戦いを止めることができずジョン様は大陸領を全て失ってしまう。
     ローマ教皇インノケンティウス三世は教皇権の拡大を狙って当時最大の敵対者たるシュタウフェン家のドイツ王フィリップを倒す為にヴェルフェン家のオットー擁立を狙ってフランス王フィリップ2世とイングランド王ジョンに働きかけを行ったが、両者の拒絶にあって思惑通りに事が運ばなかったといった感じだ。教皇の主張は世俗君主の利害と一致した時は容易に通るが、世俗君主と利害が一致せず君主側が自らの意志を通そうとした場合、教皇の主張は容易に跳ね返されてしまう。これはその一例だって感じだ。


  2. 梅津尚志,ジョン王と教皇権;磯見辰典編,彷徨−西洋中世世界,南窓社,1996,pp.64-74
     1205年のカンタベリー大司教選任問題から1214年のジョン様の破門解除までの教皇とジョン様とローマ教皇インノケンティウス3世の間の交渉の流れの概略。大司教選出の権限を持つ聖職者達のいざこざに最初にローマ教皇が巻き込まれて次にジョン様が巻き込まれて戦いが始まったって感じだ。教皇にしてもジョン様にしても大司教が誰になろうとかまわず、むしろ相手に対して自らの上位を主張するきっかけとして捉えてたんじゃないかと思う。
     この本では最初のいざこざから聖務停止命令迄と、破門から破門解除までの二部に分かれている感じだ。聖務停止はジョン様にとって全くダメージにはならなかったみたいだ。むしろイングランド臣民の教会に対する不信感を募らせ、反抗する聖職者に対する罰として財産没収などの処置を執る口実になっただけだった。破門も当初はダメージにならなかったが、諸候の陰謀事件などやウェールズ情勢の不安定化、フランス王フィリップの暗躍などで教皇の支持を必要とする状態陥ってやむなく教皇に服従した。しかし、教皇に反抗を続け場合と服従した場合に得られる利益を天秤にかけて服従の方が得だとジョン様が判断した結果みたいだ。
     流れを持った物語みたいで凄く分かり易い。


  3. 梅津尚志,イングランドへの聖務停止(1208-14)における「罪なき者」innocentiiへの制裁の問題,清泉女子大学キリスト教文化研究所年報11,2003,pp.51-73
     1208年にローマ教皇インノケンティウス3世がイングランドに発した聖務停止命令の目的とかその過程を検討した論文。前半ではカンタベリー司教選任問題に教皇が関わってから聖務停止命令に至る流れが教皇の手紙の解説を挟みながら行われている。ここを見るに教皇は聖務停止にかなり躊躇している。現地の司教、特にロンドン、イーリー、ウスターの3司教にジョン様が教皇の命令を受け入れるように説得するように何度も要請している。だめなら、3司教の判断で聖務禁止を執行するようにと要望している。当然ジョン様自身にも聖書の引用をやたらと使った手紙を何通も出して、イングランド王には色々としてやったのになんで命令に従わないんだ、みたいなことをいって説得に努めている。
     結局最後は3司教からではなく教皇自ら聖務停止命令を出している。問題は聖務停止の具体的内容が決まってなかったことでイングランドで実際に作業に当たる牧師などの下級聖職者の間にずいぶん混乱が起きたみたいだ。聖務停止が宣告された後で司教クラスの上級聖職者の多くがフランスなどに亡命してしまったせいで混乱に拍車がかかっている。イングランドの17司教座の内、8司教は海外に逃げてしまい、6司教は新たな司教を選出できず空位で残っていたのはカーライル、ウィンチェスター、ノリッジの3司教だけだった。
     それと、聖務停止命令はジョン様にではなく一般の信徒や実際に聖務に当たる下級聖職者にとって非常に迷惑な命令だった。この聖務停止命令の目的は目的の君主に何らかの制裁を科すのではなく、その臣民に制裁を科すことで君主に反省を即すといった形で実のところジョン様はさして困らないといった問題もあった。「罪なき者」に対する制裁だったということ。インノケンティウス3世は元々教会法学者として知られた人物で聖務禁止命令の性質は十分に知っていたし、1198年にはレオン王国に聖務禁止命令を発した経験があり、聖務禁止命令の効果は承知していた。レオン王国に対しても聖務禁止命令では効果がないとしてレオン王に対する破門に切り替えている。ジョン様に対しても聖務禁止では効果がなくジョン様個人に対する破門に切り替えている。ただ、ンノケンティウス3世があまり効果が期待できない聖務禁止命令をイングランド王国に課したのは教皇が強い姿勢を示せばジョン様は直ぐに妥協するだろうとの読みがあったからみたいだ。だから聖務禁止命令は短期間で済むと考え、具体的な禁止内容は決めていなかった。結果的に下級聖職者は聖務禁止命令が具体的には何を意味しているかを判断できず、ジョン様の反撃と相まって禁止令は効果を上げず6年間も続くことになってしまう。
     聖務禁止令に至る流れとか教皇側の意図なんかが読みとれるような気がする面白い論文。


  4. 半田元夫/今野國雄,キリスト教史1,山川出版社,1977,pp.412-430
     大まかに分けて、皇帝対策、英仏対策、第4次十字軍、第4回ラテラノ公会議の4つに分けてインノケンティウスの行動をおった感じだ。皇帝問題はヴェルフェン家とシュタウフェン家の対立という形で、教皇は当初中立の立場だったが、シュタウフェン派が教皇の介入を非難したことで教皇はヴェルフェン家を支持してシュタウフェン家支持者の切り崩しを計り、シュタウフェン家の優位を覆すのに成功している。しかし、ジョン様がフランス王フィリップに敗北して大陸領を失い、ヴェルフェン家のオットーもヴァッセンベルクの戦いでシュタウフェン陣営に敗北して、ヴェルフェン家の優位は崩れてシュタウフェンのフィリップがドイツ王になる。フィリップが暗殺されると、再びヴェルフェン家が盛り返したが、オットーは教皇に逆らい、教皇も一転してシュタウフェン家に肩入れして、ブーヴィーヌの戦いでオットーが負けたことでシュタウフェン家の優位が確定するって流れだ。
     イングランドとフランスにも積極的に介入し、フランス王フィリップの結婚問題でフィリップを破門し、カンタベリー大司教問題でジョン様を破門で屈服させて封臣とし、ポーランドも封臣にとすることに成功し、アラゴン、ナヴァル、レオン、ポルトガルも封臣と見なすくらいの影響力を行使した。デンマークにも強力な影響力を振るっている。
     第4次十字軍の章では神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の主導で開始された十字軍が皇帝の死で頓挫したのを受けて、インノケンティウスが再始動に尽力し、軍と資金を準備している。只、シトー修道会などが資金提供に抵抗したりして資金が十分に集まらず、第4次十字軍の暴走に繋がる。第4次十字軍は当初エジプトへ行く予定であったが、資金不足が原因で方向転換を余儀なくされてビザンツ帝国を攻撃した。インノケンティウスはこの行為を非難し破門までしたが、十字軍の方向転換を是正することは出来なかった。
     そこで次の十字軍を用意すべく第4次ラテラノ公会議を招集して十字軍の準備を呼びかけている。この公会議は最強の教皇と言われたインノケンティウスが招集しただけあり、1500人もの参加者が集まる中世史上最大規模の公会議となった。この公会議でヨーロッパ各地の紛争の解決と教会改革も議題として上がっている。この会議で第五次十字軍が決定されたが、インノケンティウスは十字軍を待たずに死去した。
     だいたいこんな内容だった。年代順に事件を解説する感じで、比較的簡易な書き方で読み易かった。基本的には政治史だ。


  5. ジャン・リシャール,十字軍の精神,法政大学出版局,2004(orig.ed.1957),pp.78-94
     十字軍に参加した人、呼びかけた人、率いた人がどのような思いで十字軍に関わったかを史料を通して論じていて聖王ルイの家臣のジョワンヴィルを中心に置いている。全体は解説と、史料集で構成されていて史料は呼びかけた人、それに対する反応、参加した人の3章で構成されている。その中で呼びかけた人としてローマ教皇インノケンティウス三世の手紙が取り上げられている。一つはカイロのスルターンへ宛てた手紙で簡単に言うと「エルサレムを返せ。返さないと十字軍を送るぞ」。これを、エルサレムをスルターンが持つことは意味がないし、流血の原因になっているから返した方がいいよと、遠回しに遜った感じで言っている。次のはマインツ大司教区に向けて十字軍を勧説した手紙で十字軍に参加すれば罪が許されるし、イスラーム教徒の支配地は元々キリスト教徒のものだし、キリスト教徒はイスラーム教徒に酷い目に遭わされている、参加しない者は主君を裏切ることと同じだと、主張している。最後の史料はインノケンティウス三世が主催した第四回ラテラノ公会議の決定がある。これは十字軍の行動計画と、規則のようなもので、教会は十字軍の為にお金を用意し、諸侯は軍とお金をだす。借金は一時棚上げ。ユダヤ人は不正に儲けているから利子を返却する。イスラーム教徒に武器を売ったり船を与えたりしてはいけない。逆らうなら破門する。といった感じ。聖書の事例を例に出しながら要求を突きつけるような感じに見える。これでも他の教皇の文書に比べれば簡潔に伝えたい事項を述べている感じにも見えた。他にケレスティヌス三世がカンタベリー大司教にリチャードを十字軍に勧誘せよと命じた史料などリチャード獅子心王に関係した史料が幾つかある。


  6. M.D.ノウルズ/D.オボレンスキー,キリスト教史4 中世キリスト教の発展,平凡社,1996(orig.ed.1969),pp.187-206
     インノケンティウス三世の評価と、神聖ローマ皇帝との戦いについての解説がある。インノケンティウス三世は教皇としては史上最も若い37歳で教皇に就任している。パリで神学を学び、ボローニャで教会法を学び、26歳で枢機卿になっている。現場の経験が豊富な実務家というより、教会法の知識が理論家タイプだ。インノケンティウスは十字軍を組織して、教会を教皇の直接支配下に置き、キリスト教世界の刷新を目指していた。インノケンティウスは今までの教皇達よりも自制心の強いとてつもない精神力の持ち主だった。そして目指す所を実現するには俗権に対する教権の優位を確立することが必要だった。これは現実的に実現不可能なことだけど、インノケンティウスは最期まで諦めることなくこれを目指している。現実の政策の上では多くの誤りを犯している。異端に対する激情から第4次十字軍や、アルビジョア十字軍の暴走を許してしまい、イングランドの情勢判断を誤り、神聖ローマ皇帝との戦いでは策謀に溺れ、事態を悪化させている。インノケンティウスにはキリスト教的な聖性はないし、人を感動させるような言葉を言えるような人ではなかったが、冷徹な政治家というわけでもなかった。インノケンティウスが後20年生きていたら、インノケンティウスはさらに大きな事を為し遂げただろう。だいたいこんな感じの評価がなされている。この評価の部分は感想文って感じがする。
     皇帝との関係の章ではケレスティヌス三世からインノケンティウス4世の治世の解説がある。ここの部分は簡単な概説って感じだ。皇帝側はハインリヒ6世からフリードリヒ二世の治世である。インノケンティウス三世の治世の解説が最も長い。フィリップとオットーの戦いではオットーを支持したが、最終的にはフィリップの王位を認めた。フィリップの死後、再びオットーを支持して強い要求を突きつけたが、オットーが要求を反故にして逆らったので、今度はフリードリヒを担ぎ出してオットーに対抗させている。目的実現のためにシュタウフェンとヴォルフェンの戦いに積極的に介入して、両派の間を行き来していたが、結局混乱を助長しただけで目的達成にいたらなかったって感じだ。


兄リチャード獅子心王

  1. レジーヌ・ペルヌー,リチャード獅子心王,白水社,2005(orig.ed.1988)
     リチャード獅子心王の伝記、のはずだけど、ジョンママ、エレアノールの伝記にも見える。著者のペルヌー先生はエレアノールが大好きで、エレアノールが最も愛した子リチャードも、もの凄く気に入ってるみたいで、好意的な評価に溢れてる。戦争が上手で、詩も書く文才もあり、政略もお手の物って感じだ。リチャード最大の汚点、アッコンでの大虐殺にも弁護の手が入っている。あれはサラディンが捕虜交換の約束をいつまでたっても果たそうとしないせいで、捕虜の食糧などの支給が限界に達してやむなくやったって感じに描かれている。フィリップとリチャードの戦いでも、戦争でも政争でもリチャードの方が一枚も二枚も上って見える。そのリチャードを陰に日向にときには支え、ときには支配していたのがエレアノールってことみたい。ジョン様はというと、リチャードの足を引っぱるできの悪い弟だけど、完全にバカって分けじゃない、それなりに優秀なところもあるんだよって感じだ。特に、リチャードが聖地に出かけている時に巧みに陰謀を巡らして大法官を失権に追い込み、リチャードの後継者に地位を固めている。王にもなっていないジョン様を「ジョン欠地王」と訳しているのはちょっと違和感がある。だけど、リチャードが留守なのをいいことにフィリップと組んで反乱を起こしたのは浅はかで、リチャードが寛大な人物だったからジョン様は許されたって感じだ。それと、もう一人の蔭の主役はウィリアム・マーシャルだ。ヘンリー二世に忠誠を尽くして最初はリチャードから睨まれだが、その忠誠心の高さからリチャードの最も信頼できる臣下になった騎士の中の騎士、とにかく実直な臣下として描かれている。リチャードに関わるエピソード集としてみれば史料の引用も多くて凄くよさそう。だけど、評価や解釈に関しては思い入れの強さが目につく。


  2. j.gillingham,richard I and the science of war in the middle ages;matthew strickland(ed.),anglo-norman warfare,suffolk,1992,pp.194-207
     リチャード獅子心王の戦績から中世の戦いの戦略がなんだったかを論じている。これまで中世の戦争というと大会戦や武器ばかりに目がいき、彼らがどのような戦略に基づいて戦っていたとか研究されたことがない。戦略なんて持ってなかったていう研究者も多い。この論文だと中世の戦いでは大会戦はあんまり意味を持っていなかったみたい。うまくいけば大会戦の結果が戦争を左右することもあるけど、例えばハッティンの戦いとか、ブーヴィーヌの戦いみたいに、だけどアルスフーフの戦いとか、ヤッファの戦いのみたいに結果が戦局に影響を与えなかった戦いも多い。中世の兵法書と見られているウェゲティウスの本にも、会戦はするなと強調されている。中世の戦いで重要なのは大会戦じゃなくて攻城と略奪で、城を獲ったり作ったりして支配地域を広げて、敵地を略奪することで敵の力を弱める。特に略奪は下級の兵にとっても重要な収入源だから盛んに行われている。たいていの基本戦略は防御側は敵の補給を遮断して退却に追い込むか、略奪中を襲って打撃を与えるって事になる。略奪中は部隊が拡散するので防御側にとっては攻撃のチャンス。補給を切られて敗退した例としてマンスーラの戦いが大きく取り上げられている。攻撃側は目標の地域を略奪して敵の経済に打撃を与えるか、城をとってその地域を奪うことになる。それで、攻撃側にとって重要なのは補給線の維持になる。リチャード獅子心王がガイヤール城を作った目的は、防御よりヴィクサン地方攻撃の補給網を整備することにある。リチャード獅子心王が行政能力のない戦い馬鹿な王と見る傾向もあるが、中東での補給を重視しての戦いぶりや、ガイヤール城に代表される補給網の整備などを見るに行政管理能力が高いことが見て取れるって事みたい。中世の戦いが補給の戦いだったってことをリチャード獅子心王を通して論じた感じだ。それとリチャード獅子心王が戦いだけじゃなくて、管理能力にも優れた王だということみたい。
神聖ローマ皇帝オットー
  1. 西川洋一,初期シュタウフェン朝;世界歴史大系ドイツ史1−先史〜1648年−,山川出版社,1997,pp.250-259
     1198年のフィリップのドイツ王選出から1215年のブーヴィーヌの戦い辺りまでのドイツ皇帝オットーの話がある。オットーはシュタウフェン家に対抗しようとしたローマ教皇インノケンティウス3世に踊らされて皇帝になった感じに見える。
     ジョン様はオットーを支持していた。なぜならドイツ王フィリップはフランス王フィリップ2世の支持受けていたし、オットーはジョン様の甥っ子だからである。だけどドイツ王フィリップが暗殺されてオットーがイタリア支配を目指すと教皇は立場をコロッと変えてシュタウフェン家のフリードリヒ2世を押してオットーを破門した。おかげでフリードリヒ2世の勢力は急激に増大してオットーはブーヴィーヌでフランス王フィリップ相手に大博打を仕掛けなければならなくなった。オットーは大敗して勢力をほとんど失いブラウンシュバイクに閉じ篭もって残りの生涯を過ごした。
     ローマ教皇インノケンティウス3世を中心に記述している感じだ。教皇はヴェルフェン家からシュタウフェン家へと自分の都合に合わせて支持を切り替えて全体の流れ歩リードしているように見える。オットーの最大の失敗は教皇を敵に回したって事みたい。


  2. フリードリヒ・フォン・ラウマー,騎士の時代−−中世の王家の興亡−−,法政大学出版会,1992(orig.ed.1825),pp.270-294
    19世紀に書かれたシュタウフェン家の皇帝達を中心にした物語風の歴史書の一部を訳した本で12世紀の初め頃から13世紀終わり頃までをカバーしている。ジョン様に一番関わりがある甥っ子で皇帝のオットーのこともフリードリヒ二世との戦いを中心に描かれている。この辺りの主人公は当然フリードリヒ二世だ。最初の方はシュバーベンのフィリップ王に対抗する形で担ぎ出される。最初に動いたのはリチャード獅子心王でオットーを金銭的に支援している。これに対抗して1198年にフィリップ・オーギュストはシュタウフェン家のフィリップと対リチャード同盟を結んだ。当初はダブル、フィリップコンビの方がドイツでは大きな支持を集めていた。オットー・リチャード同盟はローマ教皇インノケンティウスの支持を受けていた。両陣営共に直ぐに武力に訴えるようなことをせずに味方を募り、1200年代に入ってから徐々に戦いが始まっていったって感じだ。ジョン様がノルマンディーを失った1204年頃からドイツでもシュタウフェン家の攻勢が強まり、教皇はシュタウフェン家のフィリップを破門し、ヴェルフェン家のオットーはジョン様に援軍を求めたりしているけど、不利な状況をひっくり返すことは出来なかった。ダブル、フィリップコンビ絶頂って感じで、ジョン様陣営はボロボロだ。だけど、1208年にシュタウフェン家のフィリップが暗殺されて事態が急変して、オットー有利な状況になりオットーはドイツ王になって、そのままローマへ進撃して皇帝に即位する。この後、イタリアをめぐる争いから教皇とオットーが仲違いし、オットーが破門されて、フリードリヒ二世が強く求められるようになり、オットーはイタリアにいられなくなって退却した。フリードリヒ二世はドイツの諸侯からも大きな支持を受けて、ドイツへ進んだ。ここでオットーはドイツでフリードリヒ二世と戦うか、フランスへ進んでフリードリヒ二世の最も強力な同盟者フィリップ・オーギュストと戦うかの選択に迫られてフランス王と戦うことを選んでヴーブィーヌの戦いで敗退した。後は自領の引き締めを計り、最後は病気になって気が弱くなって教会に謝罪して破門を解いてもらって死去した。フリードリヒの敵役って感じだ。


ブーヴィーヌの戦い

  1. 高橋陽子,フランドル都市の「ブーヴィーヌの戦い」;関西西洋史研究会編,西洋中世の秩序と多元性,法律文化社,1994,pp.251-268
     ブーヴィーヌの戦い直前あたりのフランドルとイングランドやフランスとの関係を論じた論文。フランドルは元々ノルマンディ公領とは隣接していたがフランス王領からは距離がありノルマンディ公は脅威に感じてもフランス王は脅威に感じていなかったところからフランス王と同盟してノルマンディ公、イングランド王と戦うとしたことが多かった。しかし、ジョン様がノルマンディ公領を失いイングランド王の脅威が薄れてフランス王領が隣接してくると親フランスの伝統が崩れてイングランドよりの党派も現れてくる。フランドル諸都市はイングランドとの貿易上の関係から親イングランドの立場を取っていた。フランドルの貴族達はフランス派とイングランド派に分かれていたが王太子ルイがフランドル対策を誤りロングソードがフランドルでフランス艦隊を壊滅させたことで親イングランドへと転んでいる。ジョン様は親イングランドの立場を取るフランドル都市に対して商品の差し押さえや商船の入港拒否などけっこう厳しい対応をしている。フランドル諸都市に圧力をかけてフランス側へ流れるのを阻止する考えだったみたいだ。その最中、フランドル商人シモン・サフィールだけがジョン様の信頼を勝ち得てフランドル諸都市とジョン様の間の仲介役を果たしている。ブーヴィーヌの戦い後、フランスはフランドル都市に対して人質の差し出しを命じてるけど人質の多くは簡単に逃げ出したみたいだし、それ以外の処置を執らずに寛大に扱っている。というより関心無かったみたい。フランドル伯はこの戦いで権威を失いフランスに従属していく。イングランドは戦いの後に何度かフランドル商人の財産差し押さえなんかをしたみたいだけど、羊毛の売却先としてフランドルを必要としたからそれ以上敵対的なこともせずフランドル貿易は再開している。フランドル商人シモン・サフィールはブーヴィーヌの後もジョン様と良好な関係を保ちジョン様死後もイングランドやその関係者と商売を続けてオットー4世にも融資をしてる。


  2. ジョルジュ・デュビー,ブーヴィーヌの戦い,平凡社,1992(org.ed.1973)
     ブーヴィーヌの戦いを中心に西洋中世の戦いの様子とか、意識とかの戦いに関することから、ブーヴィーヌの戦いが後代に如何に伝説化されてきて、最後には忘れ去られていったかを解説してる。ブーヴィーヌの戦いそのものの分析や、史料とその解説なども詳細にある。ブーヴィーヌの戦いは悪の神聖ローマ皇帝オットーと、ジョン様の連合が、正義のフランス王フィリップに叩きのめされるって感じの啓蒙書か物語風に描かれている。といってもこの部分はフランス側の意識を大げさに表現したって事みたい。この最初の事件の章だけ読むと、この著者はちよっと危ないかな、とか思えてしまうけど、全体を通して読めばギョーム・ル・ブルトンの史料を読む上での脚色なんだなって思えてくる。事件の章の後半にブーヴィーヌの戦いの主要史料たるギョーム・ル・ブルトンの年代記のブーヴィーヌの部分の全訳が掲載されている。戦いの様子はこの史料ではっきりする。
     次の注釈の章では当時の戦争がどのようなものかの解説が行われている。この章は平和、戦争、決戦、勝利の4ツに分かたれ、これらの当時の事情が解説されている。平和は主に教会の担当する分野といった感じだ。教会は「神の平和」の名の下に、治安維持に努めて地域の平和の樹立を目指した。その手段は破門と、破門者に対する武力制裁で、武力制裁の際には十字軍と同じような訴えが行われて騎士に限らず、広く兵力を集めている。この教会による平和はどちらかというと小地域内の平和から王国全体の目指す下からの平和って感じだけど、王権が強くなてってくると、王が平和の維持を受け持つようになり、王は教会の「神の平和」を利用して上からの平和を実践するようになる。強いてはこの王による平和は王の政治的な武器の1つになるってことみたい。戦争は軍隊同士の衝突よりも略奪や、身代金などを目的とした商売といった感じで、傭兵がかなり重要な働きをしている。騎士の話では馬上槍試合の話題が中心だ。槍試合は実戦とあまり変わらず、騎士だけじゃなくて実戦と同様に歩兵なんかも参加して、二つの軍に分かれて戦うことがよく行われて、戦死者、というより事故死者もよく出ていた。槍試合も商売としての性質が強く、相手の武具や馬を奪ったり、捕虜を捕まえて身代金を取ったりしている。主要な史料はジョン様の重鎮になった騎士の中の騎士、ウィリアム・マーシャルの伝記みたい。決戦では大規模な会戦は、当時の感覚では戦争ではなく、決闘、或いは和平へ向けての最終的な手続きとして捉えられていたって点が指摘されている。決戦は相手を殺すことが主要な目的じゃない。どちらが勝ったかハッキリさせることが重要で、どちらかの大将が逃げるか、捕まったら、終わりだ。
     ブーヴィーヌの戦いは14世紀以降には忘れ去れらていく。19世紀に市民社会のプロパガンダとしてブーヴィーヌの戦いで市民歩兵が活躍したって宣伝して貴族階級や下層民などの異なる階級が一致団結して戦ったって宣伝されている。ドイツとの戦いが起こった時にもプロパガンダの一環としてブーヴィーヌの戦いが取り上げられているけど、ジャンヌ・ダルクの宣伝効果を越えることは出来なかった。1945年以降は完全に忘却の彼方へ飛んで行ってしまったみたい。
     ギョーム・ル・ブルトンの年代記以外のブーヴィーヌの戦いに関する史料も数多く紹介されている。だけど、単純にブーヴィーヌの戦いの研究書って訳じゃない。これを題材にとりながら、1つの歴史研究のやり方を示した本って気もする。


  3. john beeler,warfare in feudal europe 730-1200,ithaca,1971,pp.40-56
     8世紀から13世紀初頭頃までの西欧の戦争を解説した概説書で、基本的に地域別に解説を行っている。だけど、イングランドの章はない。たぶん、著者のbeelerはイングランド関連の本は他にたくさん出しているから、そっちを読めってことかもしれない。建前としてはカロリング帝国からカペー王朝を通して封建軍制が発展する様子を描き、次に封建軍制の影響が小さい地域を選んで、地域毎の軍事システムと封建軍制像の修正を試みるとかなんとかいうことみたい。イングランドや北部フランスは封建軍制の影響が強いので外したってこと。ジョン様関連はカペー王朝の戦争に解説がある。前半はフィリップ・オーギュストの治世の軍制の変化を解説している。フィリップの治世に王を中心とした新封建制へ移行し、軍の中核も傭兵などの有給兵を中心とした軍制へ移行した。傭兵はノルマン・コンクエストの時にも使われているが、兵数の点でも傭兵が軍の中核になったのはフィリップの治世からということみたい。
     後半はブーヴィーヌの戦いの解説で、戦略的な面の解説が中心になっている。ジョン様の戦略は南北からフィリップを挟み撃ちにすることで、タイミングさえ合えば中世の戦争では余り例のない大包囲が出来たのかもしれない。実際にはオットー皇帝軍の進撃が大幅に遅れたためにこの戦略は破綻してしまう。ジョン様は外交、戦略の能力を欠いていたわけじゃないという評価だ。戦略に対しては輝かしい戦略だと評価している。ルイとの睨み合いで動けなくなったのことで、ジョン様を非難するには当たらない。記述の殆どはジョン様の行動と、それに対応したフィリップの動きで、ブーヴィーヌの戦いの記述は殆どない。それから、この戦いは典型的な封建軍同士の戦いと見られているが、実際には有給の傭兵を中心にした傭兵軍同士の戦いであった。


  4. john farnce,western warfare in the age of the crusades 1000-1300,ithaca,1999,pp.235-241
     11世紀から13世紀の西洋中世の会戦について、実際の戦いを例に取りながら武器、戦術、兵科、部隊の指揮なんかを解説している。戦いの例の紹介では複数の史料から描き出せる戦いの様子を比較検証したり、複数の説を列挙したりして、一つの筋ですべてを説明するようなことを避けている感じで、史料や説を紐解く助けになる。兵力の検討も盛んに行われている。会戦だけでなく攻城戦などの解説も少しある。
     ブーヴィーヌの解説ではこの戦いが行軍中の二つの軍が遭遇するような形で始まり、行軍隊形から戦闘隊形へと布陣を変えながら戦いを交えていたって感じだと分析している。フランスは時速7キロで退却し、隊列の長さは5キロにもなった。ブーヴィーヌの戦いが始まった時には歩兵を中心とした前衛2から3キロの部分が橋を渡った後だった。皇帝軍は20キロ先にいるフランス軍に追いつくためにかなり急いで行軍を行っている。隊列の長さは7キロになった。戦いは皇帝軍の前衛がフランス軍の後衛とぶつかったことで始まり、フィリップは既に橋を渡り終えていた本隊を呼び戻し、まだ橋を渡っていない騎士部隊の戦闘態勢を整えて皇帝軍を迎え撃つ準備をしている。フランス軍の騎士部隊が素早く体制を整えたことで、フランスが戦いのイニシアティブを握ることになる。皇帝軍本隊は戦闘態勢を整えたフランスの騎士部隊を避けてもう少し北の橋の正面へ移動した。フランス軍の騎士部隊と対面した皇帝軍左翼は行軍隊形から戦闘隊形へとうまく展開できずに、フランス軍の騎士部隊の攻撃を受けて敗走してしまう。左翼では皇帝軍側がイニシアティブを握り、再三に渡ってフランス軍に攻撃を仕掛けている。皇帝軍から見て左翼ではトーナメントのような騎士同士の戦いが行われ、右翼では歩兵を中心にした白兵戦が行われていた。皇帝軍は行軍隊形から戦闘隊形への混乱を収拾できずに敗北するって感じだ。この本以外では両軍とも戦闘隊形を整えてから戦いにはいるって感じで解説されることが多いけど、この本では行軍隊形からそのまま乱戦へ引き込まれていくって感じで解説が行われている。
     戦いの段階毎の図が用意されているので戦いの流れが掴みやすい。両軍とも最初はけっこう混乱している。最後はフィリップとオットーの本隊が正面から激突して雌雄が決せられるって感じだ。兵力はフランスが騎士1400、歩兵5000から6000、皇帝が騎士1400、歩兵7500と見積もっている。


  5. sir charles oman,a history of the art of war in the middle ages vol.1,london,1978(orig.ed.1898),pp.467-490
     西洋中世軍事史の最も古典的かつ主要な研究書で、10世紀から15世紀に行われた100以上の主要な戦いが解説されている。問題は複数の史料を比較検討して描いている感じじゃなく、主要な年代記を根拠にして一つの筋で解説を展開し、戦いの意義や勝因などの分析が行われている。現在でもこの書のみを資料にして戦史を描く本もあるみたい。全体は大まかに分けて、中世初期、封建騎士優位の時代、中世後期に分けることができる。歩兵中心の古代から、騎士が戦いの主役になり、再び歩兵の優位が始まるって流れを想定している。戦いの記述は年代順ではなく、地域毎にまとめられている。イギリスの研究者だけあって、イングランドの戦いの解説が最も多い。
     ブーヴィーヌの戦いの解説は他の戦いに較べるとかなり詳しい部類にはいる。ジョン様がフランスに上陸してから、ブーヴィーヌで神聖ローマ皇帝が敗北するまでを描いている。ジョン様の戦略はジョン様がフランス西部に上陸してフィリップを誘い出し、その隙に東部から神聖ローマ皇帝オットーが手薄になったパリを直撃すると言うものなので、ジョン様の軍の主力もロングソードと供にオットーの軍に合流することになっていた。だけど、オットーの出発が遅れたせいで作戦は失敗して、ジョン様は王太子ルイに押さえつけられ、フィリップの主力軍の北上を許してしまう。オットーの軍はフィリップの軍より大軍だったが、騎士の数では負けていた。そして、フィリップがより有利な位置へ移動を開始したところを突いてオットーの軍がフィリップの軍を追撃してブーヴィーヌで戦いが起こった。戦いは最初の散発的な戦いの後で両軍はきちんと部隊の布陣を整えて正面から激突した。オットーは歩兵を活用する戦術を選択して中央の部隊を歩兵を先陣にして騎士を後陣においた。他の部分では騎士を先頭にしている。そのせいで、オットーの中央の騎士部隊の戦線投入が阻害されて、それが最終的な敗北の一因になったってことみたい。他にも、オットー右翼部隊が初手でミスを犯したこと、フランスの砲が騎士が多かったこと、オットーが戦い途中でフランスの騎士に捕捉されて逃げ出さなければならなくなったこと、ブラバンド公の油断などが上げられている。
     部隊の編成とか布陣とか兵力なども詳細に解説されている。兵力はオットーは1500騎の騎士、4000名の乗馬戦士、20000名の歩兵で、フランスは2000名の騎士、5000名の騎馬戦し、15000名の歩兵となっている。
     現在はより詳細な研究が出ていてこの本の内容を信じることは出来なくなっているけど、戦史を追いかける際には出発点になる本みたいだし、この本でしか解説されていない戦いも結構ある。


  6. j.f.verbruggen,the art of warfare in western europe during the middle ages,suffolk,1997(orig.ed.1954)
     西欧中世軍事史の基本文献中の基本文献って言いたくなる重要な本。西欧軍事史学会ではこの本を記念してバーブルュッゲン賞が制定されているくらい。8世紀から1340年までの戦争について、論じている本で、大まかに分けて騎士、歩兵に分けてこれらの戦士がどのような戦術でどのように運営されて、どのような武器で戦ったかなんかが解説されている。戦術と戦略についても実際の戦いを例に取りながら解説が行われている。この本が出る以前は中世に戦術、戦略はない、と言われていたが、この本では中世にも戦術、戦略といえるような者があった点を論証している。戦術についていえば、中世の戦術は戦い前の下準備と布陣にあって、戦いが始まった後は予備の投入のタイミングにあるってことみたい。そして、歩兵は主に防御、騎兵は攻撃に使われ、歩兵だけの部隊が騎兵を中心にした部隊に勝つのは歩兵の士気の関係から難しいってことみたい。当時の歩兵の主力が都市民とか、傭兵が主でまともに戦おうって意志が弱いってことからみたい。具体的な戦闘例としては、歩兵戦闘例がクールトレー、アルクエ、モンス・エ・ペーウェルの3つ、総合例としてはアンティオキア、ティールト、アルスフーフ、ブーヴィーヌ、ワーリンゲンの5つがある。
     ブーヴィーヌの戦いでは最初の節で、戦いに到る両軍の機動から皇帝軍の敗北までの解説が行われている。次の節ではフランス軍の兵力の検討が詳細におこなれている。総兵力は騎士が1200から1300で、右翼に、490騎、中央に175騎、左翼に275騎が配置され、他の騎士がどこに配置されたかはわからない。歩兵は4から5000名。皇帝軍の兵力は騎士が1300から1500騎で、歩兵が7500名と推測している。行軍速度や隊列についての検討されていて、皇帝軍の隊列は10キロに及ぶ。この戦いの史料を見るとまるで騎士の一騎打ちのばかりのような印象を与えるが、実際には部隊同士の衝突の方が戦いの帰趨には重要な要素で、そらに騎士の一騎打ちと見られる部分はその騎士を含む戦術ユニットの戦いと見ることができる。この辺りのことをブルトンの年代記から読みとれることをもとに、一騎打ちの部分と、部隊戦闘の部分を抜き出して時系列的に並べて表にして示している。この戦いでのフランスの勝因は皇帝軍が無理な行軍で戦場に急いだせいで、全軍の準備が整う前に戦いが始まってしまい、そのせいで負けたってことみたい。例えば、先陣のブラバンド公の部隊は隊列が整っていなかった。そこで、フランス側は最初に軽騎兵を投入してブラバンド公の部隊を攪乱してから、騎士部隊を突撃させることで大きな成功を収めている。最近のブーヴィーヌの戦いに関する本では、たいていこの本の分析に基づいて記述すしているら、ブーヴィーヌの戦いを調べる上ではこの本とデュビーが必読の書ってことになるみたい。デュビーも兵力とか戦いの様子についてはこの本に依拠する部分が多い。


その他の事例

  1. 荒木洋育,「アングロ=ノルマン王国」崩壊期における国王とクロス=チャネル=バロンズ,西洋史学225,2007,pp22-37
     ジョン時世にジョンを支持した貴族層をリチャードやヘンリー二世を支持した貴族層と比較する形で分析している。分析する貴族層ではノルマンディーとイングランド両方に領土をもつクロスチャネルバロネーズと研究者から呼ばれている貴族層に重点を置いている。
     リチャードやヘンリー二世はイングランド在住貴族よりフランス在住貴族の支持を集め、彼らを重用していた。リチャードにいたってはイングランドの内政にほとんど携わっていなかったのも大きいみたいだ。それに対してジョンは即位前はイングランドの大領主で、リチャード不在時に代理を任されていたロンシャンとの対決ではイングランドの大領主の大きな支持を集めたりもした。イングランド貴族との関係が深い。ロンシャンとの対決や即位時にもう一人の王位継承者アーサーと争った時に明らかになったのがフランスの諸侯がジョンを支持ないという傾向だ。ここからジョンは前二代と異なり、イングランドの貴族を支持母体としていたことが分かるという話。逆にフランスの貴族の支持を全く得られていない。ただし、ジョンがフランスの貴族の支持を集める努力をしなかったわけではない。ただ成果を上げられなかっただけ。リチャードのフランス大陸中心から、ジョンにとっては不本意ながらにもイングランド中心に移行する様子を両者の支持母体の違いから概観した感じもする。

  2. 遠山茂樹,ノルマン・初期アンジェヴィン王朝下における御料林,明治大学大学院紀要21−4,1983,pp.103-116
     ノルマン・コンクエストからヘンリー三世あたりまでの御料林政策をまとめている。御料林とは何かから始まっている感じだ。御料林とはまとめると、国王が完全に自由に出来る地域で、国王が狩猟を楽しむための場所と、規定される。国王が狩猟を楽しむ場所だからそこの動物は傷つけてはいけない。御料林は森や林とは限らない。その中には村落とか、未開墾の荒野なども含まれていた。イングランドで御料林の規定は11世紀の「クヌート法典」にまで遡ることができる。ノルマン・コンクエストの後も、狩猟地保護の目的で御料林が定められて違反者には残酷な刑罰が与えられている。ヘンリー1世の治世に御料林の管理体制が整い、御料林内での武器所持や、木の伐採、開墾などが厳しく取り締まられた。
     ヘンリー二世の治世に御料林の扱いが大きく変化した。それ以前は王のための狩猟地保護が目的だったけど、ヘンリー二世は御料林を収入源の一つとして捉えた。御料林を巡る裁判から多額の収入を得たり、御料林で家畜の放牧や飼育を行わせて地代を取ったりと、御料林を収入源の一つとして改編している。リチャードとジョン様の治世には御料林を売却して収入を得よう取る傾向が強くなる。
     13世紀半ばには御料林はトレント河で南北に分けられ、王直属の二人の御料林長官の管轄下にあって、その下には一定の地域の御料林毎に御料林管理官が配置され、さらにその下には林務官が置かれた。実際に御料林での日常業務はこの林務官がやっていた。彼らの無給の官吏で、決まった額を上司に上納する義務があった。上納額以上に稼いだら、それは懐に入れることができるから、それがそのまま給料ってことになった。ロビン・フッドの話に出てくる悪代官みたいな真似をすればたくさん稼げるってことみたい。他に、シェリフに任命される地元の騎士12名で構成された御料林巡察官という官吏もいた。巡察官は3年に一度、御料林を見回って、不法行為がないか調査することになっていた。
     御料林で鹿の死体が見つかり、近くの村にその罪が着せられて村全体が処罰の対象になった事例や、御料林で兎が疫病で死んだときには近くの村がこの原因を調べようとしなかったからと、罰を与えられたり、鹿の肉を食べたからと投獄されて死亡した人がいた話とか、御料林を巡る具体的な事例も幾つか紹介されて、解説が入っている。
     御料林が地元住民にとっていかに迷惑なものかがよくわかる。大金を払っても買い取りたいと思うのも当然な気がする。ジョン様などはそれを逆手にとって高額で売りつけるようなことを盛んにやったみたいだ。


  3. 遠山茂樹,ジョン王ならびにヘンリ3世治下における御料林政策,明治大学大学院紀要22-4,1984,pp.201-214
     御料林とは簡単に言えば王直属の森のことで王の許可なく狩猟をしたり開墾することが禁じられた森のこと。この論文ではジョン様とヘンリー三世治世の御料林政策を論じているけど、主になっているのはヘンリー三世時。ジョン様の治世では御領地は多額の金銭と引き替えに村とか領主なんかに賦与されることが多い。ヘンリー二世の治世には御料林を増やして王の財産を増やそうとする傾向にあったけど、リチャードの治世からこの状況が逆転し、ジョン様の治世に加速されたって感じみたい。この政策は地方の人にとってはありがたい政策だったみたい。地方としては新たな開墾地を求めて御料林に手を伸ばしたいって思っていた。御料林を開墾すれば王に支払った以上の利益を期待できるってこと。それと御料林の実際の管理はシェリフがやってたけど、シェリフが御料林を利用して地方住民に罰を科したり搾取することが多々あり、地方民としてはこのシェリフの搾取の温床ともなっている御料林を自分たちの管理下に置きシェリフの策動を抑えるという目的もあったみたいだ。ちなみに地方民とは村とかの自治組織とか騎士とかの小領主のことを指す。この御料林売却の結果として御料林を買った地方民の結束をもたらしている。御料林を買う為にはそれ相応の金が必要だけど小領主の騎士や村一つ程度で用意できる額ではない。そこで地方民は数か村とか数人の領主が集まって買うことになり、これらの人々の団結が必要になる。それと、ジョン様治世に御料林は基本的に減る傾向にあったが、「マグナ・カルタ」にはジョン様が御料林に指定した森の指定を解除すべしとする条項がある。ここから、ジョン様が新たな御料林の設定も行っていたことが読みとれる。たぶん、新たな資金源としての目論見があったのだろう。
     ヘンリー三世の治世は「マグナ・カルタ」の御料林に関する条項が独立して「御料林憲章」という形になっている。ヘンリー三世の治世にはどこが御料林か明確にする作業を通して王と諸候の間で綱引きが続いたって感じだ。基本的にヘンリー二世の治世までの御料林は残し、それ以降のものは解除するってことになっていた。しかし、ヘンリー一世が御料林とした地域まで解除されるような事態も発生している。ヘンリー三世は強攻策に出て強引にジョン様治世の状態にまで御料林を回復して、諸候と対立する原因を作ったみたいだ。
     御料林とは何かってところから解説されてるから内容はくみ取りやすい。基本的に王にとっての御料林とは有事の際に売却して資金を得る為の資産って感じだ。地方民にとっては何かと制約が多く扱いにくい邪魔な地域ってことみたい。


  4. 佐藤伊久男,前記プランタジネット朝の歴史的地位−−「イングランド国民国家」形成史覚書−−;吉岡庄彦編,政治権力の史的分析,お茶の水書房,1975,pp.77-104
     プランタジネット帝国と呼び慣わされたヘンリー二世の作り上げた支配地域が従来言われてきたようにバラバラな所領の寄せ集めなんかじゃなくて、ヘンリー二世とか、ジョン様とかの一人の個人を頂点として一体的に結びつけられていたという説の紹介論文みたいだ。一体性を強調する初期の説では王の任命した城主やセネシャルとかの行政官が支配地域を統治する形がとられてアンジュー帝国全域を支配下に治めていたと見ていて、この行政システムのおかげでリチャード獅子心王の長い不在の間もアンジュー帝国の行政システムは機能し続けたということみたい。だけど、この一体性を保っていたアンジュー帝国もジョン様のノルマンディ喪失で終わりを告げた。
     この論文で扱っている新説ではアンジュー帝国、ノルマン帝国、アキテーヌ帝国の3つの異なる領域の複合体でドミニオンズと定義している。これらはヘンリー二世の元で統合された不可分の世襲財産で、行政面では最上位に王の巡回統治があって、その下に在地の行政官がいるとした形で、アンジュー・ドミニオンズは世襲財産の積み重ねで作り上げられ、最初は王の巡回統治により治められていたけど、徐々に各地に行政官を配置していくことで王が不在でも統治が行われる形へ変化していった。この統治の方法の所は旧説と同じに見える。この中でイングランドは自己完結的な統治システムを持つと言われていたけど、実はアンジュー帝国の統治システムと深く結びついた一部でしかないってことみたい。旧説と一番違うところはアンジュー帝国がいつ終わったかってところで、これは段階的に解体へ進んだと見ている。ジョン様がノルマンディーを失った段階ではまだアンジュー・ドミニオンズの統治形態も世襲財産としての一体性も失われてない。土地を一部失ったって感じみたい。その後、ヘンリー三世の時代に統治の中心がイングランドへ移り、最終的には百年戦争を通してイングランドを含むアンジュー・ドミニオンズの統治形態は解体していった。20世紀前半の通説的なイギリス史的な解釈と、アンジュー帝国の非一体性を主張する説に対する反対説の紹介って感じだ。


  5. 直江真一,一二世紀イングランドの学識層について−コモン・ローの形成と学識法覚書−,東北大学法学48-5,1984,pp.657-706
     イングランドの法体系はローマ法の影響が強いフランスとかドイツとは異なる独自路線を歩んだと言われている。その原因が何かという議論がある。従来の説ではイングランドは他の地域より早く中央集権化が進んだせいでローマ法を受容せずゲルマン法から続く伝統的な慣習法を維持できたためと説明されてきた。これに対して偶然の産物とする説がある。ローマ法が学問として成熟する前に、イングランドではアングロ・サクソン統一王朝のシステムとノルマンやアンジューの統治システムの統合やヘンリー二世の個人的資質などがたまたま重なったことで裁判制度が早期に固まり、独自の慣習法が形作られた。特にイングランド及びノルマンディは12世紀には知的活動が活発に行われた先進地域であったこともそれを促進する要因だったみたい。この論文では偶然説を土台にして12世紀イングランドの知識層の二人、ヴァカリウスとラルフ・ナイジァがイングランドの慣習法とローマ法をどう捉えていたのかを検討している。
     ヴァカリウスは1120年頃生まれ、ボローニャでローマ法を学び、1140年代にカンタベリ大司教の求めに応じてイングランドへ渡った法学者で、イングランドにローマ法を伝えた人物ととされている。ヴァカリウスは1149年頃に「貧しき法学徒の書」という教会法の教科書を書いている。この教科書はオックスフォードなどで法を学ぶ者の間で広く流布している。この本は基本的にローマ法に関する書だが、慣習法にもローマ法に匹敵する地位を与えていると見ることが出来るみたいだ。慣習は人民の同意に由来するものだから、君主の立法と同等に効力あるものとヴァカリウスは考えていたとこの論文では解釈されている。他方、慣習法に対置するものとして君主の立法があるとヴァカリウスは考えていたとする説もあるみたい。
     ラルフ・ナイジァは1140年頃生まれ、1160年代にパリで進学を学んだ。1170年代にヘンリー二世から追放令を受けてヘンリー二世に敵愾心を持ち、国王と側近のローマ法学者達を攻撃する目的で1180年頃に当時のイングランドの裁判官を批判した本を書いている。ラルフはその批判の過程でヴァカリウスの「貧しき法学徒の書」を非難している。この本で法を学んだ気になった者が裁判官になり、自己の利益追求をしていると聖書の文言を援用しながら非難している。ラルフはヘンリー二世を攻撃する側にあり、ラルフの他にヘンリー二世に不満を持つ学識層がいた。逆に、ヘンリー二世のもとにもローマ法を学んだような学識層がいて、両派の対立抗争を通して法学の理論が磨かれていったみたい。
     コモン・ロー、イングランド古来の慣習法という概念はヘンリー二世の時期の対教会闘争を通して形づけられてきた概念で、その過程で文書化されてきたってことで、最初からローマ法に対立する概念として存在したって事でもないみたいに見える。ヴァカリウスの時期はローマ法と慣習法の違いが何となく現れてきて、ラルフの時期に学識層の対立闘争過程ではっきりと現れてきた、という流れがあるように読みとれた。だけど、イングランドの慣習法に関する議論をある程度理解した上で読まないとなかなか理解が難しい。そのあたりを知らない私には全容の理解はできなかった。


  6. 直江真一,代襲相続とジョン王の即位−「国王の事例」をめぐって−,九州大学法政研究61-3,1995,pp.545-581
     代襲相続とは父親の代わりにその子が父の権利を引き継ぐって話で、ジョン様に当てはめると、兄リチャードが死んだ時にリチャードには子供がいなかったので、後を継ぐのは次男のジェフリーになるんだけど、ジェフリーも既に死去していたのでジェフリーの代わりにジェフリーの子供アーサーがジェフリーの権利を引き継ぎ、王位継承権一番になるってこと。だから、代襲相続を認めると王位はジョン様ではなくアーサーが継ぐことになる。ジョン様が即位した時期はイングランド式の長子相続と、アンジュー伯家などフランス諸候の分割相続など相続制度が錯綜していた。さらに王位についても世襲権と選立権と異なる原理による即位が可能な状態にあり、法的にははっきりせずに錯綜していた。ジョン様は代襲相続を認めない立場に立った為に、世襲権による即位を主張できず、即位の際には選立権による即位を主張している。ジョン様即位の時期はちょうど代襲相続とかの世襲制度が確立してくる時期で、この後、家臣の世襲問題を処理する際に、自身の即位状況から家臣に代襲相続を認めるのに障害が生じるようになっている。例えば、ジョン様の行政長官とも言えるジェフリー・フィツピーターもジョン様即位直後に逆の立場で相続問題を抱えていたが、ジョン様の働きかけで叔父を差し置いて甥のピーターがエセックス伯を相続している。法的な意味ではこの二人のせいで相続法が破綻してしまっているといえる。それで代襲相続を認めずに相続制度を曖昧な状態にしておく必要が出てしまい、相続に纏わる騒動の原因の一つになってしまったみたいだ。ピーターが書いたと言われる法書グランヴィルは基本的に代襲相続を認める立場に立っているが、これはピーターの立場を反映したものと言う事みたいだ。
     この後の相続問題でも「国王の事例」が引き合いに出されて甥の相続が阻害されるという事態が発生した。「国王の事例」が問題となった具体的な裁判事例の解説なんかもある。このような事態はヘンリー三世治世の間も続き、代襲相続が障害なく認められるのはエドワード一世の治世に入ってからだった。ジョン様の即位に関して生じた相続法に関する問題とその影響を論じたって感じだ。


  7. 福田誠,バルフリュル港とイングランド諸王の英仏海峡往来(一一〇〇ころ−一二〇〇年ころ),就実女子大学 就実論叢29,1999,pp.61-77
     ヘンリー1世からジョン様の治世にイングランド王がイングランドとフランスの間を往復したときにフランス側の港としてバルフリュル港をどのくらい使ったか検討した論文。この港はノルマン征服後に現れた港でコタンタン半島の先端部東端にある。
     ヘンリー2世とスティブン王は余り使っていなかったみたいだが、ヘンリー二世とリチャード1世は盛んに利用してる。
     ジョン様の治世でもノルマンディ喪失まではバルフリュル港が王の港として盛んに利用されている。王自身の移動だけでなく王の財貨やワイン、犬などの品物の輸送でもバルフュル港が使われている。
     1200年から1203年の間にジョン様は6回英仏海峡を往復しているが、その内4回はバルフリュル港を利用している。ノルマンディを失うとポワトゥ北部のラ・ロシュを使う。
     バルフリュル港はイングランドとフランスを繋ぐ最も重要な港として機能していたが、両方の繋がりがなくなった時点でその重要性を失い寂れていったみたいだ。原因は港の防備が困難なことでイングランド王とフランス王が敵対してコタンタン半島が両者の最前線となると地形的により防備が容易なシェルブール港にその地位を奪われていったみたいだ。


  8. 福田誠,ポーツマス港とイングランド諸王の英仏海峡往来(一一〇〇ころ−一二〇〇年ころ),就実女子大学 就実論叢32,2002,pp.49-64
     ヘンリー1世からジョン様の治世にイングランド王がイングランドとフランスの間を往復したときにイングランド側の港としてポーツマス港をどのくらい使ったか検討した論文。ポーツマスと言っても現在のポーツマス港があるポーツィ島ではなくより内陸の本土側にあったポーツマスで現在のポーツマスは12世紀末頃にその土台が建設されたもの。
     ウィリアム1世と2世はドーヴァーやヘイスティングなど東側の港を利用していた。ポーツマス側締め手多重ような港として現れるのは12世紀初頭のノルマンディ公ロベールがイングランド侵入の際に利用したという時からみたいだ。ヘンリー2世は不確実なものも含めてわかっているだけで英仏海峡を渡るのに21回中12回ポーツマスを利用している。ヘンリー2世王は27回中多くて21回ポーツマスを利用している。これを見るとポーツマス−バルフリュルの航路が王の基本航路になっているように見える。
     リチャード1世の治世に新しいポーツマスが作られてリチャード1世は一度この新しい港を利用したみたいだ。
     ジョン様もポーツマスを盛んに利用してノルマンディ喪失前はポーツマス−バルフリュル航路を利用していて喪失後はポーツマス−ラ・ロシュ航路を使っている。
     ジョン様が利用したポーツマスはリチャード1世の頃に作られた新しいポーツマスみたいだ。


  9. 吉武憲司,アングロ・ノルマン王国と封建諸侯層1066年−1204年,西洋史学177,1995,pp.1-16
     ノルマンコンクエストによってノルマンディとイングランドの両方に所領を持つ事になった諸候の所領の状態と動向を分析した論文。諸候はノルマンディとイングランドが一つであるとの認識で行動して両方が一人の統治者により治められることを望んでいたが、実際にはノルマンディ公とイングランド王が別人という期間が長く不安定な状態に置かれていた。両地域の支配者が別なのに両地域が一つの地域として存続できたのは両方に領地を持つ諸候の存在によっていた。
     ジョン様が大陸領もろともノルマンディを失うと、ウィリアム・マーシャルなどの一部諸候を除き、諸候はノルマンディかイングランドかどちらかの領土を採る選択に迫られる。それで諸候はどちらかを選びイングランドを選んだ諸候は大陸との繋がりを失ってしまう。ここでまた問題だったのはイングランド王に残された大陸領がガスコーニュだけで、イングランドとガスコーニュの両方に領土を持つイングランドの領主がほとんどいなかったことだった。王は領地を守ろうと大陸へ出兵したがるが大陸にはもう守る物がなくなった諸候は大陸に出たがらなくなり、イングランドでの権益を守ろうとして王と対立するようになる。イングランドがイングランド王国共同体として内に向かうようになったって事みたい。イングランド王に付いた諸候とフランス王に付いた諸候のリストや12世紀の諸候の領土の状態なんかをまとめた表なんかも付いてる。
     この論文を見るとジョン様がノルマンディを失った1204年をもってイングランド王国がフランスから分かれて、イングランド人の独立した王国になったんだって思えてくる。


  10. 吉武憲司, Domina Anglorum と Dominus Anglie−12世紀イングランド王位継承に関する一考察−;國方敬司/直江眞一編,史料が語る中世ヨーロッパ,刀水書房,2004,pp.123-141
     王位継承予定者が名乗った名称から王位継承の原則を探った論文。Domina Anglorum はヘンリー1世妃アデライト、ヘンリー2世の母マチルダが使用した名称で、Dominus Anglieはリチャード1世とジョン様が名乗った名称で意味はイングランドの支配者って感じである。エドワード2世以降は前王死去と同時に自動的に王位継承権が最も高い人が王になっているが、それ以前は次の王が現れるまでにタイムラグがあった。理由は王位継承のルールが明確に定められていなかったせいだ。それでもヘンリー2世辺りの頃から長子相続の慣行が形作られてきていてヘンリー3世即位あたりからはイングランド王位継承のルールが明確になっている。
     王位継承のルールが不明瞭な頃は王位につくには戴冠式が重要な位置を占め、戴冠式を終えて始めて王になれるという形だった。そのせいでどうしても前王の死去から新王が現れるまでにタイムラグができてしまう。そこで王位継承予定者はDomina Anglorum とか Dominus Anglieと名乗って自分が王位を継ぐと言うことを宣伝する必要があった。子が自動的に王位につくのではなく諸候の選挙により王を選ぶとした慣行も生きていた為にリチャードにしてもジョン様にしても王位につく際には選挙により選ばれたという点も主張する必要があったみたいだ。しかし、同時代史料などによると選挙がどうのという主張は余り注目されていないところからリチャード、ジョン様の治世には長子相続の慣行が広く根付いていて従来王位を主張する際に重要だった選挙により王を選ぶとした慣行は重要性を失ってきていたみたいだ。


  11. アシル・リュシェール,フランス中世の社会−フィリップ=オーギュストの時代,東京書籍,1990(orig.ed.1909)
     フィリップ・オーギュストの時代の社会の雰囲気を解説した本で、項目がたくさんあり、各項目は大項目に分類されてまとめられている。項目に関係するエピソードからエピソードに飛ぶ感じで、年代記や手紙、武勇詩などの引用を使いながらそのエピソードを解説する形が取られている。史料の引用が豊富なのがもの凄く嬉しい。騎士関係の話ではウィリアム・マーシャル伝の引用がけっこう多い。大項目は13章あるが大まかに分類すると教会、封建領主、庶民といった感じだ。
     最初の章に社会の全体的な雰囲気が解説されている。その中に平和結社の講の話がある。夜盗と化した傭兵達の暗躍と、それに対抗して教会が中心になって結成された講。講は教会関係者だけでなく手工業者や農民、領主などが参加して非常に大きな組織に成長したそうだ。講により殺害された夜盗の数は年代記資料などによると数千人規模の大変な数に上ったと伝えられている。ただ、この講は大きく成りすぎて高位聖職者や領主の敵意を買い、大規模に弾圧されてしまう。
     教会の話では教会関係の知識が全くない者が司祭になったりとか、全く仕事をせずに代理人にすべて任している司祭とかの教会関係者の悪事が色々ある。そのせいで、文学作品の中でも聖職者を悪人扱いして描くものが多いみたい。聖職者は現地の世俗領主と敵対関係に陥ることが多く、世俗領主と同様に武装して戦いを繰り返していた。参事会員の生活についての細目なんかも紹介されている。大学も教会に帰属しているのでこのジャンルにはいる。この本では特にパリ大学について解説している。
     封建領主のところでは、戦時はもちろんのこと、平和時の領主の娯楽が紹介されている。馬上槍試合、狩猟、槍的つきと戦いに関係したものが多い。特に馬上槍試合は戦時と全く同じ武装、戦術を尽くして行われ、戦死者や負傷者が数多く出ている様子が描かれている。狩猟は馬上槍試合よりは安全な娯楽だけど、これでも死者や負傷者がよく出ていたみたいだ。領主の借金の話しもある。例えば、ヘンリー二世の息子のヘンリーの借金を家臣のウィリアム・マーシャルに取り立てようとした人の話がある。主君の借金は家臣が保証するものだろって、なんくせつけたみたい。マーシャルはヘンリー二世にそれを振っている。結局、借金を払ったのはヘンリー二世だった。女領主にも一章割いている。女性も軍の先頭に立って戦うことがあったととか、基本的に女領主は財産とセットになったものだって感じなこととかが解説されている。具体的に何人かの個人に着目して解説している節もある。
     最期の章は庶民の話で、農民と都市民の話で構成されている。当時の庶民には社会を変えようと言う感覚がなく、むしろ現在の価値観を維持しようという傾向が強く、農民が領主に逆らうことは少なかった。農民は主に離村という形で領主に抵抗しただけみたい。領主も離村を抑えるために飴と鞭の両方を駆使して農民をつなぎ止めようとしたみたい。
     一つ一つのエピソードを上げていたらきりがなくなるけど、原史料の検索にも使えるし、面白いエピソードも多く含まれているて、読んでいてけっこう引き込まれたしまった。

  12. デヴィッド・ニコル,中世フランスの軍隊 1000-1300 軍事大国の源流,新紀元社,2001(orig.ed.1991)
     中世フランスの軍隊について解説した本で、カラフルな挿絵や写真が多い、いわゆる歴史絵本の類の一つ。著者のニコルは中世の鎧の専門家でこの手の入門書を数多く手がけている。だけど、鎧や武具の話ばかりではない、時代はけっこう飛び回ったりするけど、フランスの軍事システムや編成、騎士やそれ以外の兵士のことなどの解説もある。それでもやっぱり、武具関係の解説が最も詳細な感じだ。
     北フランスと南フランスに分けて解説が行われている。主要な解説は北フランスの部に集中している。騎士、傭兵、民兵に兵種分けをして、騎士は基本的に封建軍制で動員される騎馬戦士と定義しているみたいだけど、傭兵騎士は騎士と傭兵両方に分類している。いわゆる軍事的な意味の騎士で、騎士を装備で分類するやり方に見える。傭兵は給金を貰う兵士全般を指し、13世紀にはフランスの軍の主力はこうした傭兵になっていたと見ている。フィリップ・オーギュストの治世には王の代官へ昇進する傭兵も現れている。民兵の主流は元は自由農民だったが、フィリップ・オーギュストの治世には都市民兵が主流になっていた。大半が歩兵だが、裕福な市民は騎兵として参戦することもあったという。南フランスは北と違い、まとまりに欠けていた。その欠点がはっきりと露呈したのが13世紀に発生したアルビジョア十字軍で、この欠点のために南フランスの諸候は敗北を重ねることになってしまう。
      最後の戦略と戦術の章で、中世の戦いの基本は単なる略奪である点や、中世に戦術がないとかいう考えが間違いである点などが指摘されている。この本でもヴェゲティウスの戦術書に基ずく戦術思想が中世にあったことが言われている。
      この本のイラストはちょっと違和感があった。どの人物も凄くきれいな軍装を身につけていて、泥だらけなイメージの中世らしくないって気がしたけど、分かり易いって点ではこれでいいのかもしれない。補助的な図として当時の絵画や彫刻の白黒写真、スケッチなども数多く掲載されている。


  13. ウィリアム・シェイクスピア,ジョン王,白水社,1983(orig.ed.1590-97)
    16世紀イギリス最高の作家シェイクスピアのジョン様の物語。シェイクスピア最大の失敗作との呼び声も高い。ジョン様即位からヘンリー三世即位までを扱っている。主人公はジョン様で、悲劇の名君。敵手はフィリップ・オーギュスト。主人公を破滅させる陰謀の首魁は教皇特使パンダルフ、より小物の煽り屋さんが兄リチャードの庶子フィリップ。だけど、この劇ではフィリップの活躍する場面が多くて真の主人公はフィリップだという説もある。ジョン様の故兄ジェフリーの妻コンスタンツとママ・エレアノールの対立。だいたいこんな構図。フランス王はコンスタンツを支持してジェフリーの子アーサーをイングランド王に押し、ジョン様を「仮の王」とかよんで敵対する。それでオーストリアと同盟したフランスとイングランドの戦闘が起こるけど、決着が付かないままなし崩し的に両者は和解してしまう。それでジョン様の姪のブランシュとフランス王太子ルイが結婚してすべて丸く収まりましたって事になりそうになるけど、ローマ教皇特使パンダルフがジョンさまを破門して、フィリップを破門で脅して両者の和解を潰してしまう。戦いはジョン様有利で続き、オーストリア公は戦死、アーサーは捕らえられた。ジョン様上り坂の局面で前半終了。だけどジョン様はアーサー処刑命令を出す、という致命的なミスを犯してしまう。ジョン様の家臣の機転で処刑は実行されなかったけど、アーサーは事故死してしまい、これを聞き知ったジョン様の家臣、ソールズベリ伯、ペンブルック伯などがフランス側に寝返ってフランス皇太子がイングランドに上陸して戦いがつづく中、ジョン様が病気に倒れてしまう。ここでソールズベリ伯、ペンブルック伯がジョン様のもとに舞い戻り、ジョン様の死後すぐに王太子ルイとの和解が成立してイングランドが救われるって内容だ。マグナ・カルタは完全にオミットされていて、ノルマンディの喪失から王太子ルイのイングランド上陸までが一つの戦いとしてまとめて表現されている。主要な舞台は英仏戦争と教皇の暗躍って感じ。


  14. リチャード・バーバー,騎士道物語,原書房,1996(orig.ed.1980),pp.16-44
     騎士のイメージを解説した感じの本だ。全体は4章に分かれていて、戦い、文学、宗教、騎士の紳士への変化って感じだ。文学ではアーサー王伝説を中心に騎士がどのように描かれていたのか引用なんかを使って解説している。宗教では十字軍と騎士修道会の具体例を引きながら宗教と騎士の関係を解説し、騎士から紳士へでは世俗騎士団の解説とか16世紀以降の文学から騎士のイメージがどう変化していったかを解説している。
     図が多くて解説は分かり易い文で書かれ、具体例なんかが多くて分かり易い。注釈も初心者向けに作られているから騎士とか中世のことを知らない人にも読み易いと思う。
     ジョン様関連ではウィリアム・マーシャルの伝記とブーヴィーヌの戦いの解説がある。マーシャルは騎士の中の騎士といわれた人物で騎士を解説する本ではよく引き合いに出される。この本では生まれてから、死ぬまでをトーナメントとか戦いのエピソードを紹介する形で紹介している。解説の中心はトーナメントにあって、ヘンリー二世の息子のヘンリーの従者をしている頃の話が多い。マーシャルの参加したトーナメントは映画にあるような一対一の戦いではなく、多い時には数千名の騎士が参加するほとんど野戦と変わらないタイプの物が多かった。そのせいで死傷者も多かった。戦いなので単純に正面からぶつかるだけでなく、伏兵を仕掛けたり、城に逃げ込んで籠もったりと、実戦さながらのことが行われている。ランスロットの伝説の影響からかヘンリー王子の妻と出来てるなんて噂も立ったみたいだ。
     ブーヴィーヌの戦いは歩兵の活躍の幅が少ない騎士同士の戦いだったと捉えている。この戦いから騎士の戦いのパターンを解説している。まず、槍で突撃、その後で剣や短刀を使ったつかみ合いって感じだ。ヴーブィーヌの勝因はフランス王の軍が十分に休息を取った上で戦い、神聖ローマ皇帝が行軍途上から急に戦いに移行した点が上げられている。


  15. ジョン・ボズウェル,キリスト教と同性愛,国文社,1990(orig.ed.1980)
     中世というと同性愛に不寛容で厳しい罰則を与えたと考えられがちだけど、この本によると違うみたい。最初は教会からも不倫とか乱交とかと同じに性的に不道徳な事の一つって言う程度で、特別に忌み嫌われていたって事じゃないみたい。ソドミーの意味も特に同性愛だけを指して使われていたんじゃない。不道徳なこと全般を指す語として使われていた。教会は同性愛に対してたいして関心を払ってなくて、一般でも嫌われも好かれもしていないって感じだったみたい。12世紀ルネサンスとか研究者にいわれている時期に古代文学の復活にともなって同性愛を賛美するような風潮が生まれて、それに反発するように非難する論調が現れた。それでも12世紀、リチャード獅子心王の治世辺りは同性愛を賛美する文学や同性愛者を標榜する人が増えたみたい。中世で同性愛が最も受け入れられた時代って事。だけど、十字軍を通してイスラームの悪い風習の一つとして同性愛が取り上げられるようになって、同性愛に対する非難が増えて法的にも規制する動きが出てきた。それが始まったのがだいたいジョン様の治世辺りで、本格化したのはエドワード1世辺りみたいだ。罰則も最初は司教などに対する降格程度だったのが、一般にも罰則が広がって去勢、死刑と段々罰則が重くなっていっている。エドワード2世の頃は思いっきり嫌われる性癖となっていて、そのせいもあってエドワード2世は過酷な死に方をしなきゃならなくなったみたいだ。
     リチャード獅子心王が同性愛者だったって史料も引用されている。リチャードは若い頃にハマった同性愛を悔いていたっていわれている。だけど同性愛を特に悔いてたんじゃなくてその他の若気の至りの性的な暴走の一つとして悔いていたって事みたい。史料の引用が多くて、けっこう面白い。

  16. エリザベス・ハラム,十字軍大全,東洋書林,2006(org.ed.2000)
    ジョン様関連だと、ジョン様のママ、エレアノールが参加した第二次十字軍、兄リチャードが参加した第三次十字軍、家臣で義兄のウィリアム・ロングソードの参加したエジプトへの十字軍がある。年代順に事件に合わせて当時の年代記とか、手紙の引用を集めた史料集で、章の話題から外れそうな史料をコラムにして付け加えてる。ヨーロッパ側だけでなくて、イスラーム側の史料も幾つか収録している。ジョンママの十字軍では十字軍の原因になったエデッサ伯国の滅亡から聖ベルナールの十字軍勧誘、十字軍の失敗までの史料があって、エレアノールと叔父のアンティオキア公との不倫疑惑の史料なんかもある。エレアノールは特別にコラムが用意されて解説がある。不倫疑惑とか、贅沢品を大量に持ち歩いて軍の邪魔になったこととか、サラディンとのロマンス伝説なんかも紹介されてる。リチャードの十字軍ではシチリアで起きた戦いとフランス王との仲違い、キュプロス島占領、リチャード自身が書いた手紙、リチャードが期間途上で捕まった話し、なんかの史料がある。アッコン陥落直後にリチャードが書いた手紙によると直ぐに帰るつもりだったみたい。だけど、リチャードがしでかした大虐殺の史料は収録されてなかった。ロングソードの十字軍の史料にロングソードの名前が入っているものはなかった。ダミエッタ包囲開始から十字軍の壊滅までの史料がある。解説は少ないけど史料集としておもしろい。

  17. ホウルト,ロビン・フッド,みすず書房,1994(org.ed.1982)
    ロビン・フッドとは誰なのか?そもそもこんな人が実在したのか?実在しないとしたらモデルはなんだったのか?こんな所を検討している。だいたい15世紀頃からロビンの伝説が現れてきて18世紀から19世紀にかけて実在の人として物語が作られたってことみたい。ロビンの墓とか、弓とか、系図などの物証も17世紀頃に捏造されたものらしい。ロビンが活躍した時期をリチャードが十字軍に行ってる頃としたのは16世紀のことみたい。だけど、年代についてはけっこう揺れていて13世紀中頃のシモンの改革の時期とか、14世紀初め頃のエドワード二世の治世とか変化している。歴史家は裁判文書とか税金関係の文書の中に出てきたロビンという名の人を見付けてはそれをロビンフッドと結びつけて持論を展開していく感じでロビン伝説を補強したみたいに見える。ロビン伝説はロビン伝説の影響を受けたアウトロー達の行動がそのままロビン伝説として取り込まれ、そして新しいロビン伝説の影響を受けたアウトローがと言う具合に成長してきた。修道士ユースタス、フルク・フィッツ・ウォーリンなどの物語として取り上げられたアウトロー達も大きな影響を与えたのだろうとしている。いま分かることは1261年頃にはロビン伝説はある程度知られるようになっていたってこと。1261年の史料に現れた犯罪者ウィリアム・ロウブフッドは本当の名はロウブフッドではない。ロウブフッドと書かれた理由がロビン伝説の影響を受けた書記に拠るものではないかと言うことである。ロビンのオリジナルかが誰かは分からないけど、この手の伝説が実際の出来事を吸収し、逆に実際の出来事に影響を与えながら、伝説と現実が相互に影響を与えながら伝説が成長してきたってことを実際の史料に即して追跡したって感じだ。

  18. c.warren hollister,the military organization of norman england,oxford,1965
     ノルマン・コンクエストからエドワード1世治世辺りのイングランドの軍制について論じた本で、11から12世紀の話が多い。ジョン様治世に関する話しもちらほらある。時代毎に論じるんじゃなくて項目毎に論じる形でその項目に関連した事例や説、なんかを紹介したり批判したりしている。項目はノルマンの封建制の到来、騎士への報酬、王の封建軍、城の勤務、軍役代納金、傭兵、ノルマン征服後のハイド制がある。戦術論だと、オーマンやバーブルュッゲンなどの封建期は戦術的には封建騎兵の優位が続いた時代だとの主張に対して、ホリスターは封建期にも主力は歩兵だったとする主張を展開している。但し、この歩兵とは下馬した騎士も含むってことになっている。
     ジョン様関連の記述は王の封建軍の項目に多い。ジョン様の1212年のウェールズ戦役では騎士の40日の奉仕期間が過ぎた後に給料を払うことで期間の延長をしていた。これが、発展してエドワード1世紀頃には完全有給の騎士軍が作られていった。大陸領喪失後、イングランド諸侯が大陸の戦役を拒否する傾向にあったのかって問題も論じているが、事態はそう単純じゃなくて一概には言えないって曖昧な結論になっていた。ヴーブィーヌの戦いについての考察もある。通説ではこの戦いは騎馬の騎士同士で歩兵は存在意義がなかったなどと言われていたけど、そんなことはないと主張している。歩兵は騎兵と共同で戦ったりしている。通常歩兵は防御的な使われ方をして騎士が突撃に失敗した場合などに一旦歩兵の線の後ろに下がって再編成して再び突撃する戦術が使われる。ここから、イングランドが大陸に比べて歩兵戦術に長じていた点なんかが指摘されている。ジョン様治世のノルマンディとロンドン周辺の要塞網が城主の裏切りで簡単に崩れ去っている点が指摘されている。軍役代納金ではジョン様の治世に兵士の給料が一気に高騰した点が指摘されていた。
     けっこう話が飛ぶからちょっと読みにくい感じだ。


  19. david nicolle,arms&armour of the crusading era 1050-1350,new york,1999
    十一世紀から十四世紀のヨーロッパの兵士を描いた絵画や彫刻のスケッチ集で、ジョン様治世のフランスやイングランドのスケッチもある。解説が前半にあって、スケッチが後半にあるので両方を対応させてみるのがめんどくさいのと、全体的に小さいスケッチが多くて細部は見づらいのが欠点だ。収録されている絵は千近くあり、大きく地域別にまとめられて年代順に並んでいる。解説は絵の装備の解説が中心で出展の解説は最低限に抑えられているみたい。剣とか、斧とかの個々の武器そのもののスケッチもある。スケッチは一つの絵全体を描くのではなく、そのなかの個々の兵士を抜き描きする形が多い。ジョン様に一番関係のある地域は北フランスとイングランドでここでの装備の主流は鎧はチェインメールで槍はランス、ヘルメットはバケツのような形、盾は逆三角形、剣は真っ直ぐな長剣の映画などで見る典型的な騎士の姿そのものに見える。騎士だけでなく一般の兵士も描かれていて、ヘルメットが鍋のような形の物が主流に見える。武器は剣が多い。ウェールズ人弓兵のちょっと有名な絵もある。スコットランドの兵は斧を持つ者が多い気がする。リチャード獅子心王の押印の図柄とか、ロングソードと息子のお墓の彫刻も収録されている。ジョン様の頃のスケッチにはお墓の彫刻が比較的多い。


  20. e.l.g.stones(ed.),anglo-scottish relations 1174-1328,oxford,1965,pp.xlv-xlviii,25-27
    1174年から1328年のスコットランドとイングランドの関係を示す史料を集めた史料集で、ジョン様関連史料は1本しかないけど、リチャードのものが2本あって失われた1209年と1212年の条約の再構築がある。最初に歴史的な背景説明があるけど、ジョン様の治世についてはほとんど説明がない。
    失われた二つの条約はジョン様の息子とスコットランド王ウィリアムの娘の結婚を決めたもので、リチャードの手紙やマグナ・カルタ、年代記などから構築を行っている。1209年の条約はジョン様の息子の誰かとウィリアムの娘の誰かを結婚させてウィリアムがジョン様へ15000マルクを支払い、ノーザンバーランド、カンバーランド、ウエストモランドの権利を放棄するって内容だったみたい。1212年の条約ははっきりと再構築できない。政略結婚を約束したのは確かみたい。収録されているジョン様関連の唯一の史料はスコットランド王ウィリアムからジョン様に宛てた手紙。政略結婚の確認を求めた感じの手紙だ。我らの主君ジョンとか呼んで臣下の礼をとる形をとっている。手紙は原文のラテン語との対比訳になっている。


  21. s.d.church(ed.),king jhon new interpretations,suffolk,1999
     ジョン様関連の最新の論文を集めた論文集で、15本の論文が掲載されている。ジャンルは様々で経済や財政の話や、ジョンママ、妻イザベル、フィリップなどの個人の話題、ウェールズ、スコットランドの地域的な話題、教会や裁判について等々、扱っている範囲は広い。
     最初のgillingham論文はジョン様の復権が進む現状に反対した論文で、ジョン様は同時代人から見てもやっぱりバカ王様だって事を論証しようとしている。現代の学者はジョン様は大陸領を失ったせいでバカ王様の評価を受けることになったが、治世初期は有能な君主と評価されていたと考えがちだけど、実際は治世初期も余りよい評価は受けていなかったって点が指摘されている。
     第2から第5論文はジョン様の財政とイングランドの経済について論じられているけど、簡単に4ツの論文をまとめると、財政的に見てジョン様はリチャードの頃より不利な状況にあって、フィリップに対しても財政面で負けていた。大陸領を失って収入は一気に半減してさらに不利な状態に立たされる、って感じ。面白い所だと第2論文のboltonによるとイングランドはジョン様の治世初期にはインフレが発生してたけど、大陸領喪失後はジョン様の極端な財政政策により貨幣不足が起きてデフレになっている。
     第6のpower論文はノルマンディー公国の諸候がジョン様を支持していたかどうかを検討していて東部はフランス王を支持し、中央はジョン様を支持し、他の地域は日和見を決め込んでいたみたい。
     第7のmartindale論文はジョン・ママと大陸領喪失の関係を論じていてママのおかげで初期には防衛に成功したって感じ。
     第8のvincent論文はジョン様の二番目の妻イザベルの生涯について検討している。
     第9のduffy論文は1210年のジョン様のアイルランド遠征について論じていて従来この遠征は成功したと見られていたけど、これを失敗と見ている。
     第10のduncan論文はジョン様治世のスコットランド、イングランド、フランスの関係をまとめている。
     第11のrowlands論文はジョン様治世のウェールズ、特に1212年戦役について論じている。この戦役でウェールズをフランスに接近させる事になってしまう。
     第12のharper-bill論文はイングランドの教会について論じた論文で、当然教皇との戦いが中心になっている。だけど、戦い前はジョン様とイングランドの教会の関係は良好だったみたい。
     第13のturner論文はジョン様治世の司法制度を分析した論文で、ジョン様は小領主保護を目的に司法制度の拡大を計っている。逆に有力者からは絞れるだけ搾り取るように相続に盛んに介入してお金を集めていたみたい。
     第14のFryde論文はイングランド王は伝統的にシュタウフェン家と友好的な関係にあったけど、リチャードが皇帝ハインリヒの捕虜になって以来、ヴォルフェン家よりに変わっている。ジョン様の治世にこの方針が再び変わり、両家に対して距離を置いて中立を保つ政策に変わっている。1204年に大陸領を失った後は大陸領回復を目的にヴォルフェン家に近づき、ヴーブィーヌの戦いに繋がっていく。
     最期のbradbury論文はフランス王フィリップの評価についてで、同時代人の評価では信心深い王とされているが、現代の歴史家だけが信心を欠く王と評価している。といった感じ。ジョン様研究の最前線の論文集って感じの本だ。


  22. fred.a.cazel.jr,the legates guala and pandulf;p.r.coss and s.d.lloyd(ed.),thirteenth century england 2,suffolk,1987,pp.15-21
     ジョン様の治世にイングランドに来た教皇特使のガウロ枢機卿とパンダルフの2人の違いから教皇特使の役割を検討している。ガウロ枢機卿は1215年にインノケンティウス三世の命令でジョン様を助ける為にやってきた。以前にイングランドに来た経験はない。ジョン様が遺書の執行人の筆頭にあげるくらいジョン様の信頼は厚かった。約950日イングランドにいたけど移動のない日は68日だけだった。それだけ盛んにイングランド中を動き回っていたみたい。もっぱらイングランド教会に対して色々な働きかけをしていて、王室や世俗諸侯に対して影響力を行使することはなかったと言われている。反乱諸侯の破門に関わったくらいみたい。教会の代表としての役割を守ったってことみたい。教会の代表として王太子ルイやスコットランド王との交渉にも参加していた。
     パンダルフは枢機卿でもなく、教皇特使としてはあまり高い地位になかったけど、1211年、13,15と何度もイングランドに来ていて現地での経験は豊富だった。1218年にガウロの後を継いでイングランドの教皇特使になった。だけど、ガウロの半分くらいしか文章を残していない。教皇庁にあまり報告書を出していなかったみたい。だからガウロに比べて行動を再現するのが大変みたい。パンダルフはガウロと違いイングランドの王室に積極的に関わって影響力を行使した。イングランドの行政業務などにも関わっていたみたい。


  23. j.gillingham,war and chivalry in the history of william the marshal;matthew strickland(ed.),anglo-norman warfare,suffolk,1992,pp.251-263
     ジョン様の重鎮の一人、ウィリアム・マーシャルの武勇伝から中世の戦争を検討した論文で、従来この武勇伝を使って騎士の研究をしてきた研究者達に論叢を仕掛ける感じで各場面の検討が行われている。従来の研究者達はマーシャルを騎士のモデルと考え、若い頃の事件やトーナメントに着目して騎士の若い頃の武者修行とか、騎士の価値観を探ってきた。しかし、マーシャルがあるていどの地位を得てからの部分、特に戦争に纏わる部分は軽視する傾向にあった。武勇伝自体にはトーナメントの記述に対して戦争の記述は倍以上あり、武勇伝が戦争をトーナメントより軽視していると言った傾向はない。この論文の著者のギリングハムは中世の戦争や戦争に対する騎士の価値観を知る上ではこの戦争の部分にもっと注目すべきだと主張している。中にはこの戦争の部分に着目している研究者もいるにはいるが、一部分だけを抜き出して騎士の蛮勇を強調するために使っているに過ぎないという。
     具体的に戦争に関する記述を一つ一つ取り上げて従来の研究者がその部分をどう扱ったと、その批判を展開する形で話は進んでいく。例を見る限りではマーシャルは結構な策士だ。それに敵と正面切って戦うことを避けて敵の領土を略奪を選択する傾向が強い。これはマーシャル特有の考え方って訳ではないみたい。ヘンリー二世の元で、フィリップ・オーギュストと戦った時は軍隊を解散ふりをしてフィリップを油断させて領土を破壊尽くしてやるとよい、と提案して、提案が受け入れられるとみずから先頭切って略奪部隊を指揮している。従来の研究者がマーシャルが逃げるより、正面切って戦う傾向がある証拠とされる例もある。この時、マーシャルは城を攻撃していたのだが、フィリップが城の救援に来ると聞き、撤退を主張する同僚達に反対して十分な防御態勢をしいて、フィリップを迎え撃つべきだと主張している。結局、フィリップは無用な損害を避ける方がよいと判断して撤退したために戦いは起こらなかった。これはマーシャルの無謀な一面というよりは思慮深い一面を表しているとギリングハムは捉えている。実際のところ、マーシャルが参加した会戦は少ない。武勇伝には17回の攻城戦が記されているけど、会戦は3回か4回しかなく、マーシャルが参加したものは2回しかない。これは当時、会戦を避ける傾向が強かったことを表していると考えられる。
     マーシャルがリチャードの重鎮として戦いに参加した際に無謀にも先頭切って梯子を登り、同僚から愚かな行為をするなと注意された話がある。これも従来の研究者からは騎士の無謀さを表す一例とされてきたが、この戦いが奇襲攻撃だった点を考えると、一概に無謀な行為だったとは言えないことになるみたい。奇襲攻撃については他にも、幾つか例があり、十分な偵察の上で奇襲を行うとする、当時の戦い方の一つが見えてくる。
     結論として、戦争で騎士にあるまじき行為というものは主君を見捨てることや、都市などで一度も抵抗せずに降伏することくらいで敵を目の前にして逃げたり、騙し討ちを仕掛けたりなどは当たり前の行為だったってことみたい。だけど、従来の騎士のイメージからいうと、マーシャルってずるがしこい。

  24. matthew bennett/jim bradbury/kelly devries/iain dickie/phyllis jestice,fighting techniques of the medieval world ad500-ad1500,new york,2005
     複数の著者の共著の本だけど、各記述がどうも繋がってなく、独立した本の寄せ集めって感じがする。歩兵、騎兵、指揮、攻城、海軍の5章に分かれている。兵種と戦術の例としての会戦の解説で構成された感じだ。ジョン様関連の戦いは全章にある。歩兵の章ではリチャード獅子心王のアルスフーフの戦いが取り上げられている。カラーの独立したコラムが用意されている。行軍開始からサラディン軍の潰走までを解説している。その解説の中に十字軍の歩兵の解説があり、歩兵が壁のように防御の役割が与えられた点が指摘されている。アルスフーフの戦いでは歩兵が方陣を組んで騎兵や補給品を守りながら進む形がとられた。槍兵とクロスボウ兵を組み合わせた防御の態勢のイラストも用意されている。クロスボウ兵は一人が撃ち、その間にもう一人が準備するって形だ。
     騎兵の章ではブーヴィーヌの戦いが取り上げられている。これは大規模騎兵軍同士の戦いとして位置づけられていて、オットーの敗因は無理な強行軍と戦力の逐次投入にありと見ている。こちらも図入りのカラーコラムで解説が行われている。
     指揮ではジョン様と大きく関係するわけではないけど、ミュレの会戦がある。
     攻城ではシャトー・ガイヤールの戦いが解説されている。フィリップの正攻法と、ジョン様の城救援に行った奇策が解説される。ジョン様の作戦は河から行く部隊と陸から行く部隊の連携ミスで失敗してしまう。陸から攻め込んだマーシャルだけがそれなりに戦果を挙げたって感じだ。ガイヤール城は外の防御施設をほとんど失った後で、トイレから侵入されて降伏に至ったってある。
     会戦ではロングソードがフィリップの艦隊を奇襲して壊滅させたズヴェイン会戦に少しだけ触れている。カラーの戦いの図とイラストのおかげで分かり易い。

  25. simon lioyd,'political crusades' in england c.1215-17 and c.1263-5;peter.w.edbury(ed.),crusade and settlemant,cardiff,1985,pp.113-119
    1215年から1216年のジョン様の死、ヘンリー三世即位を経て1217年までのリンカンの戦いと、1263年から1265年のモンフォールの乱の二つの内乱を十字軍と見ることができる主張してる。ジョン様と関係あるのは1215年の内乱。従来の主流の見解は十字軍に非常に似通ってるけど、十字軍ではないってことみたい。だけど、十字軍の宣言自体に明確な規定がなくて十字軍かそうじゃないかを見極めるのは難しいみたい。当時の年代記などを見るとこの戦いを十字軍と見る傾向が強い。この辺りは主にヘンリー三世即位からリンカンの戦いに至る戦いの記録から分析している。例えばリンカンの戦いでは王党派の指揮官はキリストの軍の指揮官と呼ばれ、聖地十字軍と同様に十字架を授与されている。教皇庁もこの戦いを十字軍と位置づけてブールージュ大司教に十字軍の招集を命じている。そして反乱諸侯をイスラーム教徒よりあくどいと非難し、イングランド内戦へ参加する者に十字軍と同じような赦免を与えると宣言している。インノケンティウスの後を継いだ時代の教皇ホノリウスもインノケンティウスの方針を継承している。最後に1215年内戦では反乱軍の総司令官はイギリスの聖なる教会と神の軍の司令官と名乗り、1263年の内戦ではモンフォール軍は白い十字をシンボルとして使っているがこれは何を意味するのかと今後の検討課題を掲げて終わってる。


  26. richard eales,castles and politics in england 1215-1224;p.r.coss and s.d.lloyd(ed.),thirteenth century england 2,suffolk,1987,pp.23-43
    13世紀のイングランドの城と王室の関わりを解説したいて、ジョン様治世の1216から17年の内乱とその後のヘンリー三世の時の城に関する王室の政策が中心になっている感じだ。イングランドの城はヘンリー二世以前はモッテ・アンド・ベイリータイプの土盛りと木の壁でできた城ばかりだったけど、ヘンリー二世以降は石の城が築城されるようになった。王の城もこの頃から一気に増加している。1154年に諸侯の城255、王の城49で5対1のレートだったのが、1214年には諸侯の城179、王の城93で2対1にまで差が縮まっている。その原因は諸侯の城を王が取り上げていったり、諸侯が城を造る権利を王が取り上げたりと、ヘンリー二世から組織的に諸侯の城の数を抑えたことと、新しいタイプの石の城を王の城として積極的に建設していったことにあるみたい。城にかける予算もヘンリー二世からジョン様の治世へと上昇を続けていた。ヘンリー二世当時、城の予算は年650ポンドだったが、ジョン様の治世には1000ポンドに上昇している。ドーバや、ニューキャッスル、オックスフォード、ランカスーなどの重要な拠点は石の城へと改築がなされている。このヘンリー二世から始まった城政策の成果がはっきりと現れたのが、1215年から始まった内戦で、この内戦に関わった城209の内、149が王陣営で、諸侯陣営は60しかなかった。それと、王側の城、特に王の城の大半が石の城で奪取することが困難だった。一方諸侯の城の多くは従来型の土盛りの城で王軍の攻撃で容易に陥落したり、降伏したりした。城は防御施設としてだけでなく、城の周囲を支配しておく為の支配拠点であり、収入源であり、金庫として機能していた。その意味でも防御力の高い石の城の重要性は大きかった。王の城政策はヘンリー三世にも受け継がれて王の城の強化と拡充が続けられた。1215年の内戦を城の視点から記述した部分も結構あって城から見た内戦の解説にも見える論文だ。


  27. kathryn faulkner,the knights in the magna carta civil war;michael prestwich,richard britnell,robin frame(ed.)(ed.),thirteenth century england 8,suffolk,1999,pp.1-12
    1215年の内戦に反乱軍として参加した騎士について主君、その地域での地位、家族、王室への影響力の4点から整理している。検討対象の人数はベドフォード州16人、ケンブリッジ州27人、ハンティンドン州5人、ノーザンプトン州30人の名前が知られている合計78人。主君とはいっても、たいていの騎士は複数の諸侯から土地を保証されて複数の君主を持つ状態にあるけど、ほとんどの騎士は反乱を起こした諸侯を君主に持っていた。中には王に付いた諸侯と、反乱諸侯の両方を君主に持つ者も多い。その地域ではシェリフや判事などの重要な地位についた者が多くいるみたい。だけど記録に残るくらいの人なんだからこれは当然の結果のような気がする。家族の関係では家族だけでなく、血の繋がった親族一同で反乱側に付くケースが多いみたい。王室への影響力はほとんど無い。王室に直接お金を払った経験のある者はいない。だけど地方の実力者が多いから地方の共同体に影響力を行使してそこから王室へ影響を与えるって形の影響力を持つって形みたい。ただ、検討対象が史料の関係からどうしても少なくなるからこの結果を一般化するのは難しいって点が指摘されている。


  28. louise.j.wilkinson,joan wife of llywelyn the great;michael prestwich,richard britnell,robin frame(ed.),thirteenth century england 10,suffolk,2005,pp.81-93
    ジョン様の庶子でウェールズのグウィネズ公リュウェリンに嫁いだジョアンの簡単な伝記。ジョアンはジョン様の庶子ということは多くの史料から分かっているけど母は不明みたい。ジョアン自身の記録も1204年にリュウェリンとの結婚に関わる物が出てくるまでほとんど無い。だからいつ生まれたとかも分からない。たぶん結婚した時には15,6じゃないかな。結婚後のジョアンはイングランド王室とウェールズを結ぶパイプ役として振る舞っている。同時にイングランドの文学とか宮廷作法なんかのイングランド文化ももたらしたみたい。ただジョアンの前にヘンリー二世の義妹のエンマが前代のグウィネズ公に嫁いでいる。エンマもイングランド王室とのパイプ役になっている。ジョアンはジョン様に盛んに手紙を出してイングランド王室とグウィネズ公の間を取り持っていた。1211年にグウィネズ公がジョン様に背いた時はジョン様の方に付いたみたい。グウィネズ公の策略でジョン様が暗殺されそうになった時、ジョアンが暗殺のことをジョン様に伝えてジョン様が助かった逸話も紹介されている。ジョン様死後の1218年にグウィネズ公と新国王ヘンリー三世との間を取り持ったのもジョアンだった。1228年にグウィネズ公とイングランドの諸侯の間に戦いが起こり、ウィリアム・ブラオーゼが捕虜になった。これを機にリュウェリンはブラオーゼ家やペンブルック伯と身内の婚姻も含めた条約を結ぼうとした。だけどウィリアム・ブラオーゼとジョアンが浮気をして、それをリュウェリンに見付けられてウィリアムが処刑されてこの条約は破棄になってしまう。ジョアンは犯罪者としてヘンリー三世の元へ送り返された。リュウェリンは条約を結び直そうと努力したみたいだけど、条約は結べなかった。その結果としてリュウェリンはイングランド王室と太いパイプを持つジョアンを必要とし、1232年のヘンリー三世とリュウェリンとの会談の時にジョアンはリュウェリンの元へ帰った。1237年2月にジョアンは死去した。ジョアンの生涯から当時の妃が現代で言うところの大使館のような役割をしていた様子が見て取れる。


inserted by FC2 system