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アッコンの聖トマス騎士修道会

 この騎士修道会は12世紀末頃に聖地でイギリス人が中心となって創設された病院が起源だと考えられている。この病院はイギリスの聖人トマス・ベケットの名前を冠しているところから、ヘンリー二世がベケットを殺害した罪滅ぼしの為に創設したとか、ベケットの親類がロンドンに創設した病院が起源であるとか言われているが、13世紀にローマ教皇グレゴリウス九世から創設者は誰かとを質問された際に修道会総長はイギリス王リチャード一世だと答えており、1458年にローマ教皇ピウス二世から同じ質問を受けた際にも同じ答えを返している。聖トマス修道会のロンドン館創設は1227年以降であり、ベケットの親類がロンドン館創設に直接関わったとする史料はないらしい。第三次十字軍で聖地に来訪したイギリス人がイギリス王の協力を得て創設したというところだろう。
 イギリス諸候との結びつきは強く、1207年には捕虜の身代金をイギリス王ジョンに肩代わりしてもらい、1213年にはエセックス伯ジェフリーからバーカムステッドの2つの病院を寄贈され、1239年には土地取得の代金300ポンドをイギリス王ヘンリー3世に支払ってもらっている。同じ頃に、フランスや聖地でも幾つかの不動産の取得に成功しているが、イギリスで得た物権が最も多く、特にロンドンの物が多い。しかし、イギリスでの立場は弱く、1279年にカンタベリー大司教から教会税の徴収を強行されている。経済的状況も芳しくなく、最も収入が多いロンドン館ですら年収は50ポンドに過ぎず、イギリスの所領維持だけで精一杯であり、聖地の十字軍支援に回せるゆとりはなかった。借金も莫大な額に達し、聖ヨハネ騎士修道会からも約250ポンドの借金をしている。1289年に二つの病院を聖ヨハネ騎士修道会に売却して会の規模と借金を減少させて経済的窮状は改善されたようだ。
 1220年代後半にウインチェスター司教ピーターの後押しで騎士修道会として再編成された。ドイツ騎士修道会と関係があったせいなのかは分からないが、ドイツ騎士修道会の会則を採用してドイツ騎士修道会のアッコン病院の近くに新しい本部を建設している。1236年にローマ教皇グレゴリウス九世から正式に騎士修道会として承認を受け、白いマントにテンプル騎士修道会とは異なる形の赤い十字の制服を与えられ、1256年にアレクサンドル四世から他の騎士修道会と同等の十字軍特権を認められた。騎士修道会に再編された直後あたりにロンドンの病院を寄贈された。騎士修道会に再編されてからは軍事活動にも関与したのだろうが、13世紀の同時代史料には軍事活動に関する記録は殆どない。おそらく軍の規模が極めて小さく、聖地諸侯などの目にとまるような働きが全くなかったのだろう。イスラーム教徒に対する戦いぶりの記録はないが、より規模の小さな争乱に参加した記録が残っている。1256年にジェノヴァとベネティアがアッコン市の聖サバス修道院の所有権を巡り戦いを起こした際に、ジェノヴァを支持する聖ヨハネ騎士修道会に対して、聖トマス騎士修道会はテンプルやドイツ騎士修道会と共にヴェネティアを支持してアッコン市内の小競り合いに参加した。この戦いでは当初、ジェノヴァ勢が優位に立ち、聖サバス修道院を占拠するに至ったが、ヴェネティア勢が巻き返してジェノヴァ勢を修道院から追い出して修道院を手にしている。15世紀に作られたドイツ騎士修道会の年代記によると1291年にアッコンが陥落した戦いで聖トマス騎士修道会総長が五千の兵を率いて戦ったと記録されているが、同時期に修道会で最も規模が大きいロンドン館の会士が総勢十三名で、年収が50ポンドという点を考えるとこの兵力は誇張と考えられる。別の史料によると参加兵力は九人である。聖地では小規模な部隊しか配置していないドイツ騎士修道会の参加兵力が数名で、聖トマスと同様に小規模な修道会の聖ラザロ騎士修道会が二十五人だという点を考えると九人という方が妥当だと思われる。ちなみに、ドイツ騎士修道会の兵力が少ないのは戦いの直前に総長ブルヒャルド・フォン・シュヴァンデンが聖ヨハネ騎士修道会へ鞍替えしてしまった為で、当初は四十名の会士をアッコンに配置していた。アッコン陥落後、本部はキュプロスへ移動した。
 13世紀後半に教皇庁からテンプル騎士修道会へ吸収させる提案が出されたが、イギリス王ヘンリー三世が拒否したことで実現しなかった。次代のイギリス王エドワード一世はテンプル騎士修道会の支援を期待してこの案を支持し、聖トマス騎士修道会側も同意したようだが、一部の会士が吸収に反対して実現には至らなかった。特にロンドン館の会士の抵抗が激しく、エドワード一世は1304年にトマス・ベケットの一族の者でキングス・クラーク(一種の王の役人)たるロンドンのエドマンドをロンドン館に派遣した。守護聖人の一族の者が説得すればロンドン館の会士も説得に応じるのではと考えたようだが、説得は失敗した。次代のエドワード二世も吸収案を支持し、更に進んでロンドン館を本部とは別に扱い、ロンドン館はアシブリッジ女子修道院へ吸収させることとした。1309年にロンドン館長サウザンプトンのリチャードはロンドン館の存続を訴えるべくアヴィニョンへ行き、1311年にローマ教皇クレメンス五世の元で協議が行われたが結論は出なかった。1313年にはエドワード二世が再び女子修道院への吸収案の支持を表明している。ロンドン館の会士は吸収案の撤廃を求めて1315年にイギリス議会で諸候の支持を求めた。議会はロンドン館を支持し、女子修道院への吸収案は廃案となり、テンプル騎士修道会への吸収案もうやむやになったようだ。
 吸収案を巡る騒動がきっかけとなり、イギリスでの活動を重んじるロンドン館と、あくまで聖地奪還を目指すキュプロスの会士の間でどちらが主導権を握るかで争いが始まっている。これはトマス修道会に限った話ではなく、聖地喪失後には各修道会とも今後の目的について内部対立を起こしている。たいていは、なおも聖地奪還を目指すか、別の目標に向かうかの二局対立に陥り、どちらかを選択することとなる。例えばドイツ騎士修道会だと別の目標たる北方十字軍に向かい、テンプル騎士修道会は目標を定め切れずに解散の憂き目にあい、聖ヨハネ騎士修道会は聖地奪還という目標を維持して地中海で戦い続け、聖ラザロ騎士修道会は軍事的な方面から手を引きハンセン病患者の為の病院として存続することを選択している。トマス騎士修道会も他の騎士修道会が味わったのと同じジレンマに陥った。但し、聖トマス騎士修道会は本来のであれ、別のであれ、目標を定めることができずに縮小していく。
 1318年にエドワード二世はキュプロス本部に便宜を図り、キュプロスの総長ベドフォートのヘンリーをイギリスに呼び寄せてロンドン館長リチャードを告発させた。そして、リチャードは逮捕され、ロンドン館はヘンリーに掌握された。しかし、ヘンリーはキュプロス本部を見限っていたらしく、キュプロスの金や家具などの動産をロンドン館へ移送して不動産の多くを売却した。キュプロスの会士達はこれを裏切りと捉え、1324年にクリフトンのニコラウスが彼らを代表してヘンリーを訴えた。訴えを受けたリモーザン司教はヘンリーに対して聖職録売買の罪により有罪を言い渡した。立て続く総長の逮捕に修道会は混乱し、次の総長の選出ができなくり、キュプロスの会士達は教皇庁に助けを求めた。1325年7月に教皇庁はニコラウスを総長に指名したが、ロンドン館はヘンリーを支持して反対を続けた。1328年7月にイギリス王エドワード三世がヘンリー支持を表明したが、11月にロンドン司教がニコラウスの代理人たるパルュスのジョンをロンドン館長に指名して、イギリス王に支持を願い出たことでイギリス王は方針を変更してヘンリー支持を取り消してしまう。しかし、キュプロス本部がロンドン館に対して支配力を行使することは叶わず、1329年にロンドン館長はカンベのラルフに変わり、エドワード三世はラルフを支持してキュプロス王ユーグ四世へラルフのために便宜を計るよう要請する手紙を出している。1333年にロンドン館長はコルチェスターのバーソロミューに変わり、これまで通りキュプロス本部に対するロンドン館の優位を主張した。1344年にロンドン館長に就任したケンダルのロバートはキュプロス本部の総長ニコラウスへ手紙を出している。彼は手紙の中で自らを聖トマス騎士修道会の総長だと名乗り、ロンドン館の優位を主張している。そして、この手紙を見るに当時修道会はイギリス全域と低地地方、イタリアとキュプロスに所領を有していたことが読みとれる。この後もキュプロスとロンドンの戦いは続いたが、どちらが優位を取ると言うこともなく修道会その物が縮小の一途を辿り、キュプロス、ロンドンはそれぞれ別の道を辿った。1357年にコルテイのヒューグがキュプロスの総長に就任して十年間在任していたが、修道会の全権を主張していたかは不明であり、彼の治世を最後にキュプロスの修道会は史料から完全に姿を消している。だいたい同時期にロンドン館はドイツ騎士修道会の会則を捨てて新たに聖アウグスティヌス修道会の会則を導入して軍事活動を完全に止め、病院業務に専念するようになる。
 15世紀以降の修道会の歴史は殆どわかっていない。16世紀初頭にロンドン館はマース商会と提携して資金援助を受けたが、経済的に破綻してしまいマース商会は約970ポンドで修道会の資産を買い受け、ロンドン館は消滅した。結局のところ明確な存在理由を立てられずに自然消滅したと言った感じである。
 聖トマス騎士修道会はドイツ騎士修道会と同様に極めて民族的な色合いの強い騎士修道会だった。創設経緯もドイツ騎士修道会に大変似通い、当初はイギリス人の為の病院として創設され、イギリス人の後押しで騎士修道会へ改編され、イギリス人の後援で存続した。只、ドイツ騎士修道会と決定的に異なるのは後援者の意に添うような目標を見いだせなかった点にある。ドイツ騎士修道会はドイツ帝国の拡大に寄与し、諸侯に十字軍の名を借りた娯楽を供し、中小貴族の子弟の口減らし先として機能することで、ドイツ諸侯にとって都合の良い存在であり続けた。一方、聖トマス騎士修道会はイギリス諸侯から寄付を受けて存続するだけの寄生的な存在で、イギリス諸侯にとって只のお荷物に過ぎなかった。これが聖地喪失後の両騎士修道会のその後を分けた違いだったのではないかと思われる。


参考資料
「Forey著 The Military Order of St Thomas of Acre English Historical Review 92 1977年」481から503頁
「Desmond Seward著 The Monks of War PENGUIN 1995年」60、77、87、206から208頁
「K.M.Setton編 A History of The Crusades 5 THE UNIVERSITY OF WISCONSIN PRESS 1985年」376から377頁 
http://www.the-orb.net/encyclop/religion/monastic/st._thos.html 

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