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ザウレの戦いの史料
1237年に行われたザウレの戦いは刀剣騎士修道会がドイツ騎士修道会へ併合されるきっかけとなった戦いである。刀剣騎士修道会とはドイツ騎士修道会到来以前にリヴォニア(現在のエストニア、ラトビア)を支配し、リトアニアに対する十字軍を主導していた騎士修道会である。
刀剣騎士修道会はこの戦いに敗れて総長以下多数の会士を失い、生き残りの為にドイツ騎士修道会への併合の道を選ぶことになり、ドイツ騎士修道会はリヴォニアを手にすることとなった。。


ノヴゴロド第一年代記 1237年
 この年ネムツィが大軍勢で海の向こうからリガにやって来たので、そこにすべての者、リガの人々とチュヂの全土が集結した。プスコフの人々も二百人の援軍を送り、神を知らないリトヴァに向かって兵を進めた。このようにして私たちの罪のために、人々は神を知らない異教徒によって打ち負かされ、家に帰り着いたのは十人に一人であった。

注.
 元となった文は13世紀に書かれた。
  「− ノヴゴロド第一年代記5 ロシア研究17 1989年」127頁より。
 チュヂはエストニア人、ネムツィはドイツ人を表す。リトヴァはリトアニアである。


リヴォニア・ライム年代記 1859−1950
 不運にもフォークウィンが殺された時に彼の責任ではないにしてもリガへ来た多くの十字軍士が彼と共に死んだ。十字軍士達はしばしばこの地ではどのように振る舞うべきか聞き、フォークウィンに頼み、夏期戦役の実行を主張した。ハーゼルドルフから来た貴族とダネンベルクから来た善良なる伯、他の良き英雄達はリタウエン行きを思い描いていた。「諸君は諸君のやり方とは異なる戦いをすることになろう。」とフォークウィン総長は言った。「その上で諸君に約束する」。しかし、彼らがそれを全て聞いて貴族と庶民の両方はこう答えた。「そうだ、我々はここに来たんだ!」。そこで、フォークウィン総長は戦争を許可した。彼は言った。「我々も神の名の下にここにいる。我々を守り賜え!我々は喜んで諸君と共に、諸君に続き、戦いを激しく、痛切に求める。我々に与えられた時間は少なく、私は直ぐに諸君を戦い満ちるところへ導くだろう」。彼は次にロシアへ援助を求める使者を送った。エストニア人は熱心で多数現れ、レット人やリブ人は故郷に留まることを望まなかった。十字軍はこれにより勇気づいた。彼らは巨大で堂々とした軍を引き出し、草原を通り、幾つもの河を越えてリタウエンへ襲撃に行き、彼らが最後に来たこの地に着くまで大いなる苦難を被った。ここで多くの素晴らしい部隊がこの土地を行きつ戻りつ、自由に奪い、焼き払い、破壊した。彼らは次にザウレへ引き返すべく、沼を通り抜けて荒野を渡った。
 そしてまた、これは大いなる不運であったと、この戦役では考えられた。彼らは河に来たところで敵を見つけた。リガの勇者達少数が直ぐに戦闘へと突進した。総長は最良の人々に近づいて言った「戦うのは今だ!諸君の名誉心を燃え上がらせよ!ここで我らが奴らを一度攻撃すれば、我らは楽に国へ帰れる」。しかし、尊敬すべき英雄達はこう言った。「我々はここでの戦いを望んでいない。馬を失ったら、徒歩で戦わなければならん」。総長はこう返した。「なに、諸君は馬と一緒に頭も失いたいのか」。そしてそれはその通り起こった。更に多くの異教徒が現れた。次の日にキリスト教徒は早い段階で立ち去ろうとしたが、異教徒に対して望まない戦いをしなければならなかった。沼の中で彼らは防御の弱点をさらけ出し、女のように斬り殺された。私はいともたやすく殺された多くの英雄達の死を悼む。ここでかなりの人数が卑怯にも故郷へ向けて逃げ出したが、直ぐにセミガリア人により虐殺された。総長と兄弟達は英雄的な防御を展開し、ついには馬を殺され徒歩で戦い、撃ち破られるまでに多くの者が倒れた。善良なるフォークウィン総長は兄弟達と共に眠りについた。48人が踏み留まり繰り返し攻撃を被った。最後、そして大きな困難と共に、リタウエン人が長槍によって彼らを倒した。神よ彼らの魂に平安を。彼らは、他の多くの十字軍士と共に栄光に包まれた生命へと昇華した。神よ願わくば彼らの有益なる死に、彼ら全てへの慈悲を、願わくば彼らの魂をあらゆる苦しみからお救いあれ。

注.
 この年代記は13世紀後半に作られた。
 「Jerry C.Smith/William L.Urban編 The Livonian Rhymed Chronicle INDIANA UNIVERSITY 1977年」27から28頁より。
 兄弟達とは刀剣騎士修道会士を指す。


ドスブルクのプロシア年代記 3.C28
 この時期、リヴラントのキリストの騎士の修道会の第二代総長フォークウィンは、既に6年前からドイツ人館の総長ブラザー・ヘルマン・ザルツァの近く、儀式張った使節を通してドイツ修道会へ合併する件で苦労していた。この案件でブラザー・ヘルマンはブラザー・ヨハン・フォン・マグデブルクと共に教皇庁へブラザー・フォークウィンとの交渉の為に旅をした。そうこうする内にリヴラントからブラザー・赤のゲルハルトが、フォークウィン総長が彼の兄弟達と多くの十字軍士と神の子らと共に戦いで倒れたとの知らせを持ってきた。

注.
 この年代記は14世紀に作られた。
 「Petri de Dusburg著 Klaus Scholz/Dieter Wojtecki訳 Chronicon Terrae Prussiae Darmstadt 1984年」129から131頁より。

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