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ドイツ騎士修道会資料集 背景資料 その他

目次
 ドイツ皇帝フリードリヒ一世とハインリヒ獅子公
 ドイツ皇帝フリードリヒ二世
 ドイツ皇帝ジギスムント
 フス戦争

注.
関連記述のみ紹介(紹介というよりは感想文)。
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ドイツ皇帝フリードリヒ一世とハインリヒ獅子公

  1. 井川泉著 フリードリヒ・バルバロッサの帝国領国政策に関する一考察−−シュヴァーベンと国王滞在地ウルムについて−− 広島大学西洋史学報復刊10 1984年
     フリードリヒ一世は滞在地としてウルムを利用することが多く、この論文ではフリードリヒがウルムで主にどのような業務を行っていたのかを年代記や国王証書などから検討している。ウルムはフリードリヒの本拠地たるシュバーベンの中心都市であり、フリードリヒはここで皇帝としての業務ではなくシュバーベンの支配基盤の拡大を主に行っていた。ここからフリードリヒがドイツ帝権の強化ではなく、むしろシュタウフェン家領の強化に主眼をおいていて国制に携わっていたと見ることができる。そして御領地目録にはシュバーベンの項目がない。これもシュバーベン以外の家領の把握を目的としている。これらの所有地も帝権の財産と言うより家領として捉らえられていたのだろう。1152から1183年に至るウルムでのフリードリヒの行動を追いかけた年表やフリードリヒが滞在した場所のリストなどが添付されている。

  2. 井川泉著 グラーフシャフト・キアヴェンナの帰属問題−−フリードリヒ・バルバロッサの帝国領国政策に関連して−− 広島大学史学研究164 1984年
     イタリアの入り口たるアルプスの峠の一つを抑えるキアヴェンナをフリードリヒ1世がいかに領有して抑えたかを検討した論文といえる。キアヴェンナはスイス地方を通ってミラノ北部を直撃できる位置にあり、フリードリヒのイタリア政策の上では重要な場所といえる。キアヴェンナは帝国直属の伯領だったが、帝国直属の伯領は状況によっては別の諸候へ受封される危険があった。そこで、フリードリヒはキアヴェンナ伯領をシュバーベン公領に帰属させ、自分の家の中に取り込み、より確実に自らの手元に確保したのだった。フリードリヒの帝国領国政策の一つ、重要地点を自らの公家に直結させることで確保するとした方法を紹介した論文と言った感じである。同時に、フリードリヒにとっていかにイタリア政策が重要な案件であったかを見せてくれる。

  3. 井川泉著 一一五八年の所領交換について−−フリードリヒ・バルバロッサの帝国領国政策に関連して−− 広島大学史学研究167 1985年
     1158年にフリードリヒがハインリヒ獅子公に譲歩する形で行われたシュタウフェン・ヴェルフェン・帝国領の領地交換についてこれがフリードリヒの一方的譲歩ではなくフリードリヒの帝国領域政策に基づいた所領取得にも結びついた政策だったことを論証している。この所領交換により獅子公は北ドイツに確固たる勢力基盤を築くことができたが、同時に周囲に多くの敵を抱えることになった。この辺りは所領交換の際にフリードリヒが意図して行った政策のようだ。獅子公に譲歩すると同時に牽制すると言った形の政策である。同時にこの所領交換でシュタウフェンは南部に抱える有力家門ツェーリンガー家の領土を分断する位置に家領を得たことにより、南部の敵対勢力を牽制しやすい地位を手にした。従って、1158年の領地交換を単純にフリードリヒの獅子公に対する譲歩とは見て取れないようである。

  4. 今来陸郎著 ハインリッヒ獅子公の生涯と都市 社会経済史学7−11 1941年
     獅子公の生涯と都市政策の概要をまとめた論文で、獅子公が都市保護による商業の育成に力を入れてきたことが強調されているように見受けられる。獅子公をフリードリヒ1世との対比させ、獅子公を現実主義者、フリードリヒ1世を理想主義者として捉えている。この評価の根拠となっているのが、政策の重点を置いた地域の違いで、フリードリヒ1世がイタリアに重点を置き、獅子公が北方に目を向けたという点である。そして、獅子公が行った商業に重点を置いた新都市建設政策の先見性が強調されている。論文と言うよりハインリヒ獅子公の簡単な伝記と言う感じでもある。

  5. 荒井正光著 フリードリヒ一世・バルバロッサにみる帝国理念とその現実 同志社大学文化史学54 1998年
     フリードリヒ一世の帝国理念の実現を目指す活動を論じた論文で、ロンカリア立法の分析からフリードリヒの目指す帝国のモデルが叙任権闘争以前の帝国である点が指摘され、ロンカリア立法後の教皇やイタリア諸都市との闘争を通じてどう現実に妥協させていったかが、ヴェネツィア和議やコンスタンツ和議の状況や和議の内容から分析されている。結局のところ、当初の帝国モデルへの復帰は失敗したが、教皇権の伸長や諸都市の実力の上昇などに合わせて形式的な支配権だけは維持したと言うところだろう。フリードリヒ一世がイタリアで何を目指して何を得たかを調べる際に利用できる。

  6. 北嶋繁雄著 「ヴュルツブルクの宣誓」(一一六五年)について 愛媛大学文学論集48 1972年
     1165年にフリードリヒ一世が親皇帝派の教皇の正当性を主張する為に行った帝国会議について論じた論文で、ヴュルツブルクの宣誓はフリードリヒ一世が全聖職者と家臣に要求したとする異例な宣誓として伝えられている。前半ではなぜこのような宣誓を行わなければならなかったのか、その背景となる概史がある。フリードリヒ一世は教皇アレクサンダー三世と衝突し、ヴィクトルを教皇に据えて対抗した。しかし、ヴィクトルの即位は非合法と見なされるやり方であった上に支持もさほど集めらないうちに死去してしまい、次の教皇としてパスカリ三世を即位させる。敵対教皇のアレクサンダー三世に対してフリードリヒはパスカリ三世を擁立して行かざるおえず、異例な宣誓にやむなきに至ったとみずから宣言しなければならない状態に陥ったようだ。この異例な宣誓とは皇帝が教皇に対して宣誓を行うと言うことのようだ。これは二人の教皇が並び立つ状態を皇帝主導で強引に解決しようとした結果といえる。この宣誓以前にもフリードリヒはフランス王を欺瞞にかけて自ら押す教皇を正当な教皇と認めさせようと画策したが、その計画は失敗に終わっている。最終的にフリードリヒはアレクサンダー三世を正当と認めてパスカリ三世を見放さざるおえなくなる。フリードリヒが行った対教皇政策の強硬策の一つを検討した論文といえる。

  7. 北嶋繁雄著 フリードリヒ一世・バルバロッサ治世初期の誠実留保とレガーリエン政策−−ロンカリア立法(一一五八年)をめぐって−− 愛媛大学文学論集50 1973年
     フリードリヒ一世の封建法とレガーリエン概念に基づいたイタリア支配政策をロンカリア立法とイタリアの諸候や都市に交付した証書から論じた論文で、ここから封建法に基づく皇帝の直属封臣を通しての支配と、国王大権に基づき諸侯や都市民はもとより農奴や農民に至る全イタリア人に国王への誠実、実質的には従属を求める方針が採られているようだ。国王大権に基づく誠実を求めると言う事は国王を中心とした中央集権を目指していると言えるが、封建法に基づき封臣として国王に誠実を求めるのは、直属封臣に国王へ直接繋がらない更に下の封臣を持つ事を認めるような事で中央集権と言うよりは直属封臣による地方分権の傾向を強める恐れがあり、国王大権の強化と直属封臣の強化はある意味矛盾した政策といえる。この論文ではロンカリア立法の検討、都市に対する証書と伯に対する証書の検討と三部に分けて検討が行われている。ロンカリア立法では国王大権が主張され、反抗的な都市、例えばミラノなどに対しては国王大権の遵守等が求められているがミラノの従属都市だったロディに対したように封建的な直属封臣として組み込む場合などがあり、イタリアの有力諸候に対しては封建法に基づく直属封臣として自陣営に取り込む政策を採っていたようだ。国王大権の主張は原則であり理想だったように見える。この原則理想にできうる限り即するように封建法を利用したと言うところなのだろう。

  8. 北嶋繁雄著 ハインリヒ獅子公の失脚(一一八〇年)をめぐって1−3 愛媛大学文学論集121−123 2000−2001年
     ハインリヒ獅子公の失脚の最新の研究をハインリヒ獅子公失脚事件の概説の形でまとめた論文で、最初に獅子公のヴェルフェン家と対する皇帝フリードリヒ一世のシュタウフェン家の一一世紀から一二世紀に至る概史がある。次にハインリヒ獅子公の当時の意識が検討され、ここを見る限りでは公から王への昇格を強く意識していたようだ。1176年に獅子公はキアヴェンナで皇帝と会見しているが、ここで皇帝との対立が対立が明確になり、皇帝は獅子公失脚を目指し始めたようだ。最後に、獅子公失脚の概史と獅子公訴追文書たるゲルハウゼン文書の訳と解説がある。獅子公訴追は二段階に分けて進められ、最初に平和の破壊者として追放が言い渡され、第二段階として領地没収と、没収地を他の諸侯に与える旨を決定している。獅子公は失脚後、皇帝の許しを得てザクセンの領土所有だけは認められたようだ。ゲルトハウゼン文書は獅子公の領土没収と没収領土を他の領主に与えることを宣言した文書だが、文体が複雑なことと幾つかの欠損により多くの議論を呼んでいたようだ。獅子公失脚の概史を中心とした全体像の解説と言った感じである。

  9. 桑野聡著 ハインリヒ獅子公のシュヴェリン建設−−12世紀の領域支配における都市の役割に関する一考察−− 比較都市史研究会13−1 1994年
     ハインリヒ獅子公の都市政策の一端を獅子公の建設した都市の一つシュヴェリンの扱いから解き明かそうとした論文である。従来、獅子公の都市政策はリーベック建設に代表されるように北ドイツ経済圏の拡充を目的とした経済的なものと見られる傾向が強かった。獅子公の建設した諸都市がハンザの前身となった点もこの見方が強くなる原因だったように思われる。しかし、この論文によるとシュヴェリンは経済都市としての意味合いが弱く、むしろ新たに会得した地域の政治的な安定を目指した支配、統治拠点としての意味合いが強いようだ。獅子公はこの地域の先住民たるスラブ人の支配システムをそのまま利用し、支配拠点として都市を築き、その都市の支配者として自らのミニステリアーレスを送り込んでいる。この都市支配者がそのままこの地域の支配者としての役割を負わされている。その後、シュヴェリンは伯領に昇格され、東方支配の一拠点として確立された。「比較都市史研究12−2 1993年」に同名の概要が掲載されている。

  10. 桑野聡著 ヨーロッパ中世貴族史研究の一動向−−ハインリヒ獅子公没後800年記念に寄せて−− 東海大学東海史学30 1995年
     ハインリヒ獅子公没後八〇〇年を記念して開かれた展示会と展示会の記念論文集を紹介した文で、単なる皇帝の敵対者としてのハインリヒ像とは異なる側面を見ようとする傾向が色々と出てきているようだ。新たな動向として「ハインリヒ獅子公の福音書」や獅子像などの絵や彫刻などを利用した図像学や美術史からのアプローチや、獅子公の宮廷機能、城塞や都市を使った領域支配等の研究が上げられている。記念論集を足がかりとした90年代の研究動向のまとめと言った感じ。

  11. 佐藤真典著 国王証書と中世イタリアの司教 広島大学史学研究144 1979年
     オットー一世からフリードリヒ一世に至る歴代皇帝達が発給した証書の発給先からイタリアの重要性、強いてはイタリアの司教の重要性を検討した論文。国王証書の統計的なデータの一端を示した感じである。フリードリヒ一世についてだけ見ると以前の皇帝達に比べて国王証書の発給数が飛び抜けて多く、イタリアに対する証書の割合も比較的多い方に属し、イタリアへの来訪数は最も多い。しかし、イタリアの司教に対する証書の割合は減少している。これは従来司教が有していた諸権利が都市に奪われていった時期に当たる為に、司教の重要性が低下した事が原因となっているようだ。

  12. 高橋理著 ハンザ史学とザクセン太公ハインリヒ獅子公−−基本史料の再検討と刊行に至るまで−− 立正大学人文科学研究所年報38 2000年
     ドイツでハンザ史学会が成立してから現在に至るハンザ史学におけるハインリヒ獅子公の研究状況をまとめた論文で、大戦中から戦後にかけて研究活動を行い、最初のハインリヒ獅子公の史料集を刊行したカール・ヨルダンの研究を中心にして主にヨルダン以前の研究とヨルダンの研究を比較する形で解説を行っている。研究の流れとしては最初にハインリヒ獅子公はリューベックやミュンヘンの建設者にしてドイツにおいて最初の自治都市を創立した人物として評価され、次にハインリヒ獅子公の都市建設ではハインリヒ獅子公が主導し、建設企業者たる獅子公に招かれた西方の商人達が実際に都市建設を行ったとする建設企業者団体説が現れた。この建設企業者団体説は慶応大学の高村先生などによって日本にも紹介され、広く受け入れられてきた。最初の説はヨルダンの厳密な史料検討により否定され、次の建設企業者団体説はヨルダンと同時代の研究者ベルマンにより、根拠とされたフライブルクの事例が建設企業者団体説に当てはまらないことが証明されることで否定されたとする。ヨルダンの獅子公に関する研究として獅子公の司教区設置や文書作成機関についての研究の紹介もある。その中で、帝国諸候は皇帝の臣下として帝国に関わったのではなく、皇帝同様に自主的な権限を持って帝国に関わり、その代表が獅子公だとする説がある。その一つの事例として獅子公の司教区設置が取り上げられている。ある意味、ヨルダンの研究の概説と言った感じである。

  13. 豊本理恵著 バルバロッサ治世下のシュタウファーとヴェルフェン−−ローテンブルク公とヴェルフ6世の事例−− 青山学院大学文学部紀要46 2004年
     フリードリヒ一世と、シュタウフェン、ヴェルフェン家の関係を各家構成員とフリードリヒの関係から検討した論文。従来の説ではフリードリヒ一世はシュタウフェン家の代表であり、ハインリヒ獅子公がヴェルフェン家の代表で、二人の関係はそのまま両家の関係としてみられていた。両家が一枚岩のように代表する人物に従っていたと見られていたのである。しかし、実際には各人の判断で家とは関係なく動いているものが多く、フリードリヒ一世にしてもシュタウフェン家の者を全面的に信用できる状況になく、逆にヴェルフェン家の中に信頼に当たる人物を見いだしたりしている。フリードリヒにとってシュタウフェン家の者かヴェルフェン家の者かという違いは重要な意味を持っていなかったと見ている。例えば、テュービンガー・フェーデではヴェルフェン家有利の裁定を下しているし、シュタウフェン家のシュヴァーベン大公やローテンブルク伯などはフリードリヒに反発する行動を取ることが多かったといわれている。フリードリヒの治世をシュタウフェン対ヴェルフェンとする単純な見方に再考を迫る論文と言うところだろう。

  14. 西川洋一著 一二世紀ドイツ帝国国制に関する一試論(1−4)−−フリードリヒ一世・バルバロッサの政策を中心として−− 国家学会雑誌94−5,6,95−1,2,9,10,11,12 1981−2年
     フリードリヒ一世の治世のドイツ帝国の国制を論じた論文で、この手の論文としては極めて分量が多い。従来説たる、レーン制を中心にした国制論、官僚制の発芽をこの時期に見る官僚制国家論などの論に代わる新たな説の構築を目指してその準備として作られた論文のようだ。検討範囲は帝国領国政策、聖俗両方の帝国諸候、帝国諸身分の関係、官僚制の発芽としてみられているミニステリアーレス、ラントフリーデ等多岐に及んでいる。王権と聖俗両諸侯との関係に重点を置いて検討しているように見受けられる。結論として、フリードリヒ一世の構築したドイツ帝国とは閉鎖的かつ固定的な帝国諸身分のピラミッドとも言えるような国制を持つ身分制国家と言うことのようだ。皇帝を中心とした一つの国制というのではなく諸侯、伯、騎士層という諸身分が帝国と、様々な義務や特権を返して繋がった統合体と言った感じだろう。研究史や個別事例についての記述も豊富であり、フリードリヒ一世の国制を調べる上で基本的な点を抑えるのにもよい。特に、当時の帝国を支えた中核とも言える聖界諸侯の検討が豊富である。この論文を見る限りでは叙任権闘争を終わらせたとも言われている「ヴォルムスの協約」は帝権の聖界に対する影響力増大の足がかりとなったようだ。

  15. 西川洋一著 フリードリヒ・バルバロッサの証書における王権と法(一一五二−一一六七) 国家学会雑誌98−1,2 1985年
     フリードリヒ一世の発給した各種証書からフリードリヒ一世時代の王権と法の関係を検討した論文。明確な答えを導き出せてはいないが、この明確に答えを導き出せない多様さが一つの特徴としている。王の証書を基本的に永続的な法的地位を与える特許状と、日常業務的な命令を伝える命令状の二種の形式に分けて分類し、その証書を更に四種に分けて検討している。最初は特権授与で特権は都市特許状に包括的に与えられたものではなく個別の特許を個々に与えていた。これがこれら個別特許をまとめるような形で後の都市特許状のような形へ発展したようだ。次が裁判判決で、その次は法定立で、両方の章で言えることはイタリアは当然ながらドイツでもローマ法の影響が看取されるようだ。最後は契約で王と王の臣下の間での取り決めが文書化されることで王権が制限を受け始めたと言うところらしい。それから国王証書の書式は基本的なところは継承されるが書記により変化に富むようだ。フリードリヒ一世の書記はローマ法に関する知識を持ち、フリードリヒ一世の証書にはローマ法の概念が持ち込まれている。フリードリヒ一世が発した証書の特徴を見いだす個別検討と、その変化を追いかけた言った感じである。フリードリヒ一世の治世には王権を確定する方向に向かう性格を持つ命令や慣習法、特許などの文書化が推進された、と言うところ。

  16. 山田欣吾著 一二・三世紀中東ドイツにおけるブルクグラーフ制について 一橋大学一橋論叢49−3 1963年
     11世紀中頃に現れてきたブルクグラーフと言われる役職について検討している。この役職が史料中に初めて現れるのは11世紀中頃の事だが、頻繁に現れるようになるのは12世紀のシュタウフェン朝に入っての事とある。成立年代は11世紀中頃だが、一般的に広がったのは12世紀中頃の事らしい。ブルクグラーフの多くは国王の役人として設置されたもので、伯領の中の王領地たる一部の城の代官のようなものとして設置されたようだ。それが、叙任権闘争の混乱の中で現地諸候の支配下に組み込まれたり、権限を失ったりしてしまう。シュタウフェン朝に入り、帝権の強化を目指してブルクグラーフを再び王の役人として組織し、ブルクグラーフの配置範囲を広げる政策が採られ、そのせいで史料に現れるマルクグラーフの数が増大した。シュタウフェン朝からヴォルフェン、そして再びシュタウフェンへと帝権が移り変わりする混乱した時期にブルクグラーフの多くは再び諸候の手に落ち、フリードリヒ二世が即位する頃にはブルクグラーフの持っていた権限の多くは現地の諸候に取り上げブルクグラーフを実質的に無意味なものとしたようである。シュタウフェン朝を通して国王の役人がどのような形で展開し、最後は権限を失っていったかの一端を見たような気がする。

  17. 山田欣吾著 十−十二世紀ドイツにおける太公領の展開−−領封国家成立師への予備的考察−− 一橋大学一橋論叢59−3 1968年
     十世紀から十二世紀に至る大公の権限の変化を概観した感じの論文である。当初大公は部族の長であったが、カロリンガ朝フランク王国時代に廃止され、大公は王の任命する一種の役職となり、部族の長と言うよりは一つの部族を統括する王の代官となったようだ。ザクセン朝に入り、ドイツ王国はフランケン、ザクセン、バイエルン、シュバーベンの四部族による連邦体制に入り、大公の意味も幾分変化はたようだが、ザクセン朝の諸王は各部族の大公選出に巧みに介入し、大公に王の代官としての役割を維持させるのに成功した。ザクセン朝後半からザリアー朝にかけて地方の有力豪族の力が増し、官職としての意味合いの強い大公の力が弱まり、地方の有力豪族へ名誉職としての大公職を授けるような政策が行われた。大公が名誉職でも王の代官でもなく、ある意味王から独立した存在として認知される土台を与えられたのが、フリードリヒ一世によるオーストリア太公領の設置だったようだ。この太公領設置は政策と言うよりは対立家に対する休戦協約のようなもので、何か新しい政策を始めるというわけではなかったようだ。太公領の設置に対して他の諸候から何らの敵対的な反応も現れていないところから、フリードリヒ一世の太公領設置は事実上独立した存在になっていた太公領を追認しただけのものであり、フリードリヒ一世の治世頃までには太公領は国家構成体として独立した存在として既にあったものだったようだ。フリードリヒ一世のオーストリア太公領設置の背景を解説した感じの論文である。

  18. 山本伸二著 フリードリヒ一世・バルバロッサの国王選出(一一五二年) 西洋史学163 1991年
     一一五二年にフランクフルトで行われた皇帝選挙でフリードリヒ一世が「満場一致」で選ばれた背景を分析した論文。オットーの「フリードリヒの事績」によるとフリードリヒ一世の選出は諸候の満場一致で決まった。しかし、ジルベールの「エノー年代記」によると諸候の意見は一致せずフリードリヒ一世の策略により満場一致を装った選出が演出されたという。この論文ではフランクフルトの会議の前にフリードリヒによる事前工作が功を奏した結果としてフランクフルト会議での満場一致が獲得されたと見ているようだ。特に、ヴェルフェン家に対して工作が行われ、獅子公の支持を取り付け、コンラート三世の息子フリードリヒを押す反対派の押さえこみに成功したようである。フリードリヒ一世国王即位に纏わる史料の紹介と解釈、そこから読みとれる諸候の動きに関する一つの説と行ったところである。

  19. カール・ヨルダン著 瀬原義生訳 ザクセン大公ハインリヒ獅子公 ミネルヴァ書房 2004年 ¥5000
     ドイツにおけるハインリヒ獅子公の代表的概説書である。ハインリヒ獅子公の生涯を主にフリードリヒ一世との関係から解説しているが、それが他に比べて多いと言うだけで北方十字軍やリューベックに代表される都市政策、文芸への関わり、後の時代での取り扱いなどについてもそれなりに記載されている。獅子公とフリードリヒ一世の関係については中央集権と地方主義とか、イタリアに固執したフリードリヒに対してドイツに目を向けていた獅子公というような二項対立的な見方が多いが、この本では両者共に自家の勢力拡張を目指して最終的に対立したというような流れが読みとれるように見える。フリードリヒ一世は諸候との協調の元で帝国を運営し、その結果として部族大公制から封建制への移行を促進したと捉えている。この流れはこの頃までには決定的であり、フリードリヒの処置は時代に載った政策といえるだろう。ハインリヒ獅子公はフリードリヒの良き協力者として勢力を拡大し、フリードリヒと決別した事で一揆に勢力を失い、フリードリヒの死に伴い勢力の回復が計られる事になった、と言う感じである。

  20. ゲルト・アルトホフ著 柳井尚子訳 中世人と権力−−「国家なき時代」のルールと駆引−− 八坂書房 2004年 ¥2940
     一般向けに書かれた中世の概説書シリーズの一つである。主にドイツを扱っている。1巻目のこの書では中世の支配層、王や諸候同士の交渉や外交に関するルールや駆引きについて、史料の引用を例に取りながら解説が行われている。従来、中世というと感情的で、暴力的なイメージが強く、王や諸候も問題が発生すると感情むき出しになり、すぐに暴力に訴えると考えられがちである。この書の狙いは、このイメージの払拭にあるようである。王や諸候は問題が発生してもすぐに暴力に訴えるようなことはしない。彼らなりのルールに従い、妥協の道を探り、戦いを避けるようとする傾向が強い。この彼らなりの外交的な意思表示が相手の足下にひれ伏してみたり、罵詈雑言を浴びせてみたり、主君の脚を持ち上げてひっくり返したりなど、一見感情的で発作的な行動が彼らなりの意思表示のルールだったというところだ。そして、このルールが崩壊していく一因が、都市民の台頭にあると見ているようだ。彼らは諸候のルールとは異なるルールを持ち、諸候のルールとぶつかり合うことになったと言うところだろう。検討範囲はだいたい10から13世紀くらいで、最後に中世的なルールが近代的な形へ向かって変化していく例として15世紀のブルゴーニュ公国の支配形態が紹介されている。今回は主要な史料はフリードリヒ一世時のものが多く、獅子公失権の流れを理解する上でも極めて有用と考え、フリードリヒ一世の参考文献とした。

  21. 関西中世史研究会編 西洋中世の秩序と多元性 法律文化社 1994年 ¥10000
    136から154頁にザクセンのヴェルフェン家の家門意識について論じた論文が掲載されている。ヴェルフェン家は南独と、ザクセンに分かれており、両家の家門意識は分離していたようである。両家とも祖先としてドイツ皇帝ロタール3世を持つという意識では同じであり、血縁・親族意識としては同一なのだが、家門は別というところだろう。南独のヴェルフェン家とは異なるザクセンの家門意識が現れてくるのはハインリヒ倨傲公の時期に当たるようだ。ただ、ハインリヒ倨傲公の段階では家門意識が形成されてきていたが、家門の中心となる中核を持たなかったために、家門意識が固定されるにはいたらなかった。ハインリヒ獅子公の時期にブラウンシュバイク城の建設で、中核を持ったことにより家門意識の基礎が作られ、家門意識が確立された。ヴェルフェン家から分かれ出たブラウンシュバイク家の創出である。このような流れのようだ。主要な検討史料はハインリヒ獅子公の副音書である。この書に示された「奉献図」と「戴冠図」、「奉献詩」の検討からハインリヒ獅子公の家門意識を読み解いている。

  22. 広島史学研究会編 史学研究五十周年記念論叢世界編  1980年 ¥7000
     285から312頁に「佐藤真典著 フリードリッヒ・バルバロッサのイタリア支配−−regalia概念について−−」が掲載されている。フリードリヒ一世とイタリア諸都市の関係を中心に、フリードリヒ一世のイタリア支配を検討している。研究史が最初にまめとめれている。一九世紀以来、国家的な歴史観の影響でフリードリヒのイタリア政策が見られる傾向があり、歴史家の念頭にはフリードリヒのイタリア政策がドイツ統一を妨げたとの見方がある。後は、この見方に基づきなぜフリードリヒはイタリアへ向かったのかとの原因論が戦わされたと言った感じである。次にイタリアを巡るフリードリヒ、ビザンツ、教皇、シチリアのノルマン人の関係の概史がある。全体を前皇帝の政策を継承した時期、教皇がノルマン人と提携してフリードリヒと敵対してからレニャーノでフリードリヒが敗北するまで、最後は新政策に基づき外交的に敵対者を分断しイタリア支配を確立していく時期と三期に分けて解説が行われている。最後の章でイタリアにおけるフリードリヒの国王大権の概念が解説されている。国王大権は叙任権闘争の際に示された一種のスローガンだった。それをフリードリヒが拡大して解釈し、それを国王大権の回復というスローガンの元に押し進めたようだ。イタリアにおける国王大権の適用は財政的な理由も多分にあった。国王大権を中心にフリードリヒのイタリア政策を概説した論文と言った感じである。

  23. − 岩波講座世界歴史10中世4 岩波書店 1970年 ¥1000
     293から310頁にフリードリヒ一世時世のドイツ帝国の制度についての解説がある。フリードリヒ一世はシュバーベン、ブルグント、ロンバルディアを中核としたより集権的な帝国の再編成を企画していたようだ。その為に、帝国の主要地点にミニステリアーレンにより防備された要塞を築き、都市を建設し、新たな地への入植を促進したようだ。しかし、ハインリヒ獅子公との対決の過程で有力諸侯を味方に付けるために有力諸侯へ大幅な譲歩をせざるおえなくなり、結果的に有力諸侯の権力を強化することになったようだ。フリードリヒ一世の帝国再編について大まかな概要を掴むのに良さそうだ。

ドイツ皇帝フリードリヒ二世

  1. 寺崎章二著 王座の上の最初の近代人−−神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世 東海大学紀要文学部32 1979年
     フリードリヒ二世に対する後世のイメージを追跡した論文風のエッセイ。ディルタイ、ウェルズ、ブルクハルト、トインビーの描くフリードリヒ二世像を中心に検討が行われている。最初の近代人、アンチキリスト、当時の常識に当てはまらない人物とのイメージが強いようだ。この文の著者はフリードリヒの特異性は、イスラーム、キリスト、ギリシア文化の融合したキリスト教世界の辺境たるシチリアで幼年時代を過ごしたのが原因していると見ているようだ。フリードリヒ二世の後世の評価を追いかけるのに都合がよい。

  2. H.G.ウェルズ著 長谷部文雄/阿部知二訳 世界史概観 下 岩波書店 1966年 ¥530
     1から6頁にフリードリヒ2世と教皇との関係を中心にした記述があり、フリードリヒ2世を「あきれた十字軍騎士」と呼んだり、「近代人の最初の者」と呼んだりと、評価が定まっていないようである。  

  3. ジュゼッペ・クアトリーリオ著 真野義人/箕浦万里子訳 シチリアの千年 新評論 1997年 ¥4800
     ドイツ騎士団の記述はないが、ドイツ騎士団が飛躍するきっかけを与えたドイツ皇帝フリードリヒ二世について、教皇との闘争の観点から見た簡単な伝記が、35から58頁に収録されている。

  4. 「フリードリヒ二世著 鷹狩りの術 1260年」 ファクシミリ版 グラーツ刊 1969年 ¥790000
     1999年3月に日本橋の丸善で行われた中世写本の展示即売会で出てきた代物。様々な動物の絵がカラーで記されており、当時としては実証方的手法を使ったかなり科学的な書物だったらしいが、こんなに高くては手の出し様もないし、飾り文字ばかりで殆ど読めない。この版は原本のスタイルそのままに、皮張りで木の裏打ちをした本格派、更に専門家の解説書も付いているというすぐれ物。

  5. ヨーロッパ中世史研究会編 西洋中世史料集 東京大学出版会 2000年 ¥3200
     145から146頁にフリードリヒ二世の法があり、146から148頁には特許状もある。

ドイツ皇帝ジギスムント

  1. 阿部謹也著 Reformatio Sigismundi研究への一視角 社会経済史学 34巻4号 1968年
     15世紀に発布された「ドイツ皇帝ジギスムントの改革」と言う文書について検討した論文。ジギスムントの改革の書は本当の意味での原文は現存しておらず、そこからの写本が数種類現存しているだけである。その中で最も早く発見され、現在では最も原本と内容が異なると言われている写本について論じている。基本的には、ジギスムントの改革が社会をより近代的な方向へ改革するような内容であったとする説を批判的に検討する形で論じられている。そして、結論としてはこの写本は都市を優遇し、都市の重要性を強調するように原文を改訂した、別の言い方をすると都市中産階級を代弁する形で加筆が行われているという事らしい。

  2. 瀬原義生著 皇帝ジギスムントの對ヴェネツィア商業封鎖について−−中世後期遠距離商業の構造分析−− 西洋史学19号 1953年
     1411年から始まったジギスムントとヴェネツィアの抗争の過程で発布された4度の商業封鎖令の出された背景を検討した論文。西南ドイツ諸都市とヴェネツィアは概ね友好的な関係にあり、西南ドイツ諸都市は封鎖令に反発していたようだ。最も封鎖令を支持したのはミラノやジェノヴァ等のイタリア諸都市のようだ。特に、ジェノヴァはドイツ商人に対して様々な優遇措置を出し、盛んにジギスムントに働きかけを行っていた。しかし、皇帝の禁令もさして効果はなく、元々支持派の商人達の支持すら失ったようだ。第三回封鎖令に至っては、この禁令を隠れ蓑に強盗紛いなの商品強奪を繰り返していた封建諸侯の要請に基づいて発布されたらしく、商人達は皇帝の監視兵と戦うことも厭わなかったようだ。イタリア諸都市とドイツ諸都市との交易の様子も解説されており、15世紀のイタリア・ドイツ交易と皇帝の関わりが垣間見える論文である。

  3. パムレーニ・エルヴィン編 田代文雄/鹿島正裕訳 ハンガリー史 恒文社 1980年 ¥4900
     109から129頁にドイツ皇帝にてハンガリー国王たるジギスムント時世のハンガリーの記述がある。ジギスムントの出身のルクセンブルク家はドイツ騎士団に好意を寄せていたのでポーランドには好ましいことではなかったようだ。ジギスムントの妻はポーランドの皇位継承権を有していたが放棄しなければならなかった。もし、放棄しなければ、ジギスムントはポーランド国王にもなったのだろうか。外交と内政、そしてジギスムントが都市を重視した政策をとっていたところから、経済的な話も多い。特に都市に纏わる話が主である。

フス戦争

  1. 石川達夫著 黄金のプラハ 平凡社 2000年 ¥2800
     246から258頁に1915年にプラハに作られたフス像と1932年に作られたジシュカ像の話を中心に20世紀のフス派にたいするチェコ人の反応の解説がある。フス派運動をチェコの民族運動に結びつけるイメージが強いように見受けられる。

  2. 伊藤政之助著 世界戦争史 西洋近古編 戦争史刊行会 1939年 ¥10(現在古本市場では1万円位)
     56から60頁にドイツ騎士団も参加したフス戦争の概説、というより簡単な物語といった感じがある。ここの記述は分かり易いが、余り価値があるような気はしない。

  3. 薩摩秀登著 中世チェコにおける「ドイツ人」観 歴史学研究703 1997年
     フス戦争の舞台となったベーメンにおけるベーメン住民のドイツ人に対する他者認識を論じた報告。東方植民以前、ベーメン人はドイツ人を外来者として意識している。東方植民の波がベーメンを洗うと、以前とは異なる意識が当初外来者と見られていたドイツ人の間にも現れてきたようだ。ベーメンに移住したドイツ人やベーメン人は新たに来たドイツ人を外来者として意識するようになり、古くから住んでいたドイツ人を外来者として意識されくなってきたようだ。フス戦争の際に反ドイツ人意識が高揚し、フス派の結集にこの民族意識の高揚が一役買ったようだ。しかし、フス戦争が進展してくるとベーメン人とドイツ人の境界が不鮮明となったが、反ドイツ人意識はフス戦争終結後も残り、15世紀あたりに反ドイツ人意識を克服しようとの動きが現れ、16世紀頃にはオスマン・トルコの脅威の増大に伴い、民族意識より宗教に基づいた同族意識が強くなり、反ドイツ人意識はその中に埋没していったと言うところのようだ。

  4. 薩摩秀登著 プラハの異端者たち−−中世チェコのフス派にみる宗教改革 現代書館 1998年
     フス派の起こる背景となる前史からフス派がほぼ消滅する17世紀くらい迄を概説した本。カトリック教会とのやり取りや、各階層、主に諸侯の動きに着目して話が進んでいるように見受けられる。フス戦争そのものも当時の年代記の挿し絵を加えながら解説している。当時の大砲やフス派の特徴的な武器と言われる戦車、馬車を使った移動要塞みたいな物も描かれている。フス派が穏健派とタボール派のみならず孤立派とか、アダム派などの動きも捉えられている。穏健派と教会の妥協が成り、タボール派が敗退した後、ボヘミア王国の宗教はフス派とカトリックが共存する状態が続いたらしいが、フス派の司教不足からカトリックが伸張し、宗教改革で一気にカトリックが新教に変わり、ハプスブルク家の支配が始まってからは新教、フス派は徹底的に弾圧されて実質的にフス派は消滅したらしい。

  5. 堀米庸三著 西洋中世世界の崩壊 岩波書店 1958年
     185から195頁にコンスタンツ会議からバーゼル会議に至るフス戦争関連の記述がある。 リチャード二世がドイツ皇帝カール四世の娘をめとった事により、ボヘミアとイギリスの交流が盛んになりイギリスのウィクリフの思想がボヘミアに伝わり、ヤン・フスがその影響を受け、その思想がチェコの民族主義者に受け入れられた。コンスタンツ公会議はフスを処刑することで事態の収拾を図れたと思ったらしいが、それはチェコの民族主義を刺激し、フス戦争勃発に至った。再三に渡るフス十字軍の失敗からバーゼル公会議が開かれ、フス派の穏健派、主に領主や大商人などの上層の人々と和解して、下層民を中心とした過激派を撃ち破り、フス戦争を終結させた。だいたいこのような流れが解説されている。この流れの中で法王が公会議から閉め出され、法王権が低下したとある。教会の動きを中心とした流れを掴むのによい。

  6. 井上浩一/栗生沢猛夫著 世界の歴史11 ビザンツとスラブ 中央公論社 1998年 ¥2524
     377から384頁にヤン・フスの半生、フス戦争の概史、フス戦争後のボヘミア、という構成でのフス戦争の記述がある。ボヘミアでの出来事を主にしている。簡単な概史である。  

  7. 甚野尚志著 中世の異端者たち 山川出版社 1996年 ¥750
      76から83頁にヤン・フスの教会批判からタボル派の敗北までの概史がある。二種聖餐とタボル派の解説が主になっている。  

  8. 西澤龍生編 近世軍事史の震央 彩流社 1992年 ¥4800
     54から91頁にフス派のタボール軍の構成を中心にした概史がある。タボール派は当初鍬や鍬などの手近な農具を武器に集まってきた貧民の集団だったようだが、戦利品で強力な武装を整え、専業化していったらしい。経済的背景は戦利品にあり、そのせいで戦果を広げざるおえず、支持者から孤立し、最後は分解していったようだ。その後、彼らは地元貴族の私兵として、或いは傭兵としてヨーロッパに散っていった。フス派の軍事組織に焦点を絞ったフス概史。  

  9. 野崎直治編 ヨーロッパの反乱と革命 山川出版社 1992年 ¥3800
     106から120頁に、フス戦争を、ターボル派を中心としてフス派内部の各派の政治的な活動から概説している。ドイツ騎士団についての記述は殆どない。だが、ドイツ騎士団の敵手、フス派の内部情勢は解り易い。

  10. アンリ・ボグダン著 高井道夫訳 東欧の歴史 中央公論社 1993年 ¥4800
     65から72頁にフス戦争に関わった国々の対応がボヘミアを中心にしてと、ハンガリーを中心にしてとの二つの部分に分けて概説されている。主にフス派の人々ではなく、それに対した各国の要人の動きが解説され、フス戦争の流れがそれに絡まる形で記述されている。

  11. グルトマン著 今野國雄訳 中世異端史 創文社 1974年 ¥1200
      109から115頁にフスの宗教活動の概史とフス派の思想と活動の概史がある。フスはウィクリフの影響を受けていたが、継承するものではなかったようだ。フス派は十字軍の攻撃に対しては団結していたが、幾つもの派閥に別れて盛んに争っていたようだ。

  12. バート・S・ホール著 市場泰男訳 火器の誕生とヨーロッパの戦争 平凡社 1999年 ¥4500
     170から180頁にフス派の戦車戦術と火砲についての解説がある。この戦術は野戦を攻城戦に置き換える事で火砲の有効利用を実現した戦法だった。この戦法は実戦には余り使われなくなったようだが、その後もドイツ皇帝等が野営地設営などに利用していたようだ。フス派は主に中小の大砲を盛んに利用していたが、小銃は余り使わなかったようだ。小銃より弩の方が多い。フス派はドイツで火器が増大する誘因と考えられている。 フス派が使用したであろう火器や火薬についての詳細な解説もある。

  13. ミッシェル・モラ/フィリップ・ヴォルフ著 瀬原義生訳 MINERVAライブラリー16 ヨーロッパ中世末期の民衆運動 ミネルヴァ書房 1996年 ¥4800
    273頁から295頁で、タボール派を中心にフス派の内部事情を解説している。

  14. ヨーロッパ中世史研究会編 西洋中世史料集 東京大学出版会 2000年 ¥3200
     294から296頁にフス派が自らの主張をまとめた「プラハ4か条」があり、296頁にプラハの年代記に記されていたタボール派の生活についての抜粋がある。

  15. パムレーニ・エルヴィン編 田代文雄/鹿島正裕訳 ハンガリー史1 恒文社 1980年 ¥4900
     120から122頁にフス戦争の記述がある。ジギスムントの経済政策の失敗で苦境に立った農民がフス派の運動に共鳴したと言うところ。

  16. バラクロウ編 宮島直機訳 新しいヨーロッパ像の試み 中世における東欧と西洋 刀水書房 1979年
     131から138頁にフス派の概史がある。ヤン・フスが大学教師として講義を始めてからフスが火刑に処され、フス派が蜂起し、バーゼル公会議で和平が樹立され、フス派の改革派が穏健派に敗れるまでが扱われている。その後のヨーロッパ各地への影響についての記述もある。

  17. Josef Macek著 The Hussite Movement in Bohemia AMS PRESS 1958年
     前半がフスが現れる1400年頃から1434年のリパニの戦いに至る時期のフス派の概説で、誰が何をした的な物語風の記述である。後半はフスやジェシカの手紙やバーゼル会議で大プロコプが行った演説、フス派の歌、15から16世紀に作られたフス関係の絵や彫刻など、美術品の白黒写真等々の史料で構成されている。フス派の全体像を把握する為の小冊子と言ったところ。

  18. Thomas Fudge編 The Crusade against Heretics in Bohemia ASHGATE 2002年
     フス戦争の史料集で、209編の年代記の抜粋や手紙、詩、公文書等が収められている。史料は7つの章に分けられて整理されている。コンスタンツ公会議から開戦、1420年の第1次十字軍、1421年の第二次十字軍、1421から2年の第3次十字軍、1427年の第4次十字軍、1431年の第5次十字軍、バーゼル公会議から反乱終結までの7章である。各史料の冒頭には史料の背景と当時の状況が簡単に解説されている。各史料の表題は編者が内容に即してつけたもので史料本来の題ではないようだ。史料の多くは原文からの翻訳のようでチェコ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、中世英語、ポーランド語、ヘブライ語の7つの原語の史料を収集したとある。序文では本書に収録されている史料をフス戦争の概略に合わせて解説している。何かの事件を解説し、その資料は史料番号幾つにある、といった感じである。

未読文献

  1. 桑野聡著 12世紀貴族の家系意識の形成について−−ヴェルフ家の北ドイツ国家建設を例に−− 東海史学26 1991年
  2. 石川武著 ドイツ国制史における1180年−−確立期における「ドイツ封建王政」に関する覚書−− 国家学会雑誌70−10/11−12 1956−1957年
  3. 早川良弥著 中世世紀ドイツ貴族の家門意識−−ヴェルフェン家の事例−− 前川和也編 家族・世帯・家門 ミネルヴァ書房 1993年 内
  4. 桑野聡著 "Historia Welforum"の成立に関する諸問題−−ヴェルフェンとヴァインガルテン修道院−− 東海史学28 1993年
  5. 桑野聡著 ザクセンにおけるヴェルフェンの家系意識の形成−−家系記述と政治状況の関連性に関する一考察−− 西洋史学179 1995年
  6. 西川洋一著 初期シュタウファー王権における家門意識の形成過程 国家学会編 国家と市民1巻 1989年 内
  7. K.クレシェル著 和田卓郎訳 中世中期のドイツのレーン法と国制 大阪市立大学法学雑誌44−1 1997年

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