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ドイツ騎士修道会発足の歴史(Narracio)
(1240年頃に書かれた騎士団発足の公式記録)

 アッコンが十字軍によって包囲され、神の援助により異教徒の手から解放されたとき、ブレーメンとリューベックの若千の男たちが神の隣人愛の事業の実践に熱中し、コッゲと呼ぶ船の帆を使って軍隊内に幸運な動機の下に、ニコラウス門の背後で軍隊が宿営していた山と川の間に1つの病院を建てた。ここに彼らは多く病人を集め、純粋な愛をこめて十分な人間性の親切さを示した。彼らはこの病院で大きな誠実な献身さで世話をしたが、ついでローマ皇帝フリードリヒの息子シュヴァーベン公フリードリヒの到着に至る……
 やがてブレーメンとリューベックの市民は帰国するに当たり、シュヴァーベン公と軍隊と他の貴族たちの提案により、この病院を公の Capellanus(カプラン)コンラートと cameraus(ケルメアー)ブルヒャルトとに、十分あった eleemosyna(施し物)と付属物と共に委託した。当時軍隊にあってはこれ以外に他の病院は成立していなかった。上記の両名は世俗の栄華を放棄し、喜んで活動の道を辿り、自然に主の甘い軛に服し謙虚に誓いを立て、ヨハネ騎士団の規約をとり入れ、病院を聖母マリアの栄光のためにはじめた。彼らは最もすぐれた呼び名として hospitale sancte Marie Theutonicorum in Jerusalem(エルサレムの聖母マリアドイツ病院兄弟団)を選んだ。これは聖地を取り戻したのちにキリスト信仰のためエルサレム市に首城と首長をおこうと期待したからである。しかし当時は財産も土地も持っていなかった。しかし上述のフリードリヒ公は神を考慮してこの小さな病院の促進を熱心に配慮し、書面をもたせて使者を公の兄弟であるドイツ王ハインリヒ−−のちの皇帝−−のもとへ送り、教皇ケレスティヌスによって上述の病院の確認、即ちローマ教会の特権状によって確認されるように働きかけを懇請した。若千の男たちは神を畏敬し世俗の衣服を脱ぎ、この病院の神聖な事業を職務として引き受けた。
 アッコン市が占領されたのち、上述の館のメンバーは城内の聖ニコライ門の前に ortus を購入し、そこに教会と病院と必要な家屋を建てた。フリードリヒ公は希望どおりこの教会に埋葬された。
 時が過ぎ、皇帝ハインリヒ6世はシチリアを支配下においた。そしてドイツから聖地の支援のため諸侯や貴族の大軍がやってきた。そこでしばらくの時が流れ、皇帝の死亡の報告が届けられ、諸侯たちは故国に戻ろうと決心した。しかしそこに居た多くの諸侯と貴族たちは、この病院にテンプル騎士団の規約を与えることが有益で名誉であると考え、居合わせたドイツの聖職者、諸侯およびへルたちはテンプルの館に集まり、聖地の聖職者とバロンたちを招き、そこで彼らは一致して決議した。即ち上記の病院が病人と貧者の救護のためにはヨハネ騎士団の規約を、そして従来どおり、テンプル騎士団の規約をその聖職者と騎士とその他の団員のために持つべしと。この事実は1190年3月5日のことである。この協議に参加した聖職者、諸侯およびへルたちの名前は、エルサレムの総大司教、エルサレムの王アンリー、3名の大司教(ナザレ、ティルスおよびカエサレア)、2名の司教(ベトレヘムとアッコン)、ヨハネおよびテンプルの総長と両騎士団の多くの団員たち、聖地のバロンたち(5名)とエルサレム王国の多数のものたち。ドイツからはマインツ大司教コンラート、パッサウ司教ヴォルフガー−−のちのアクイレア総大司教−−、ハルペルシュタット司教ガルドルフ、ツァイツ司教、ライン宮中伯・ブラウンシュヴァイヒ公ハインリヒ、オーストリア公フリードリヒ、ブラバン公ハインリヒ−−全軍の総指揮官−−、ザクセン宮中伯・テューリンゲン地方伯ヘルマン、ランズベルク辺境伯コンラート、マイセン辺境伯ディトリヒ、ブランデンプルク辺境伯アルプレヒト、帝国マルシャルのハインリヒ・フオン・カレンティンおよび多くの伯とヘルたち。
 そののち協議が終わり、テンプルの規約が渡されたとき、彼らはヘルマン・ワルポットを magister に選んだ。彼にテンプルの総長は規約の写しを渡し、これがこののち騎士団館において守られることになった。かくて団員は戦士となった。更に高貴な騎士ハインリッヒ・フォン・キルヘイムは主のため彼の館において日々の生活を戦うべく世俗を棄てた。テンプルの総長は直ちに彼に白いマントをゆだね、すべての団員が上述の館の戦士として今後は自いマントを、テンプルの規約と慣習の通りに着ることができる証とした。そして聖職者とドイツの諸侯とすべての出席者は、総長Hとパッサウ司教たが、ヴォルフガーとに請願書をもたせ、教皇インノケンティウス(3世)のもとへ派遣して懇願した。即ち病人と貧者のために病院(ヨハネ)の規約を、またテンプルの規約を聖職者と戦士と他の団員とに確認を賜るようにと。教皇はこの文書と請願を検討し正当であると認めた。よって教皇は請願を慈悲深く受け入れ、上記の両騎士団の規約を domus hospitalis sancte Marie Theutonicorum Jerosohmitani(エルサレムの聖母マリアドイツ病院兄弟団)に教皇の全権によって承認し、総長に職権を委ねた。

注.
山田作男著 プロイセン史研究論集 近代文藝社 1994年 151から158より。一部修正。

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