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ドイツ騎士修道会参考文献集 主要資料

目次
 文献
 論文

注.
ドイツ騎士修道会に関連する記述のみ紹介(紹介というよりは感想文)。
各項目毎に著者名の50音順に表示。
国外の著者については国内の著者の後にアルファベット順に表示。
著者複数の場合は、最後尾に表示し、表題をキーとして配列。
著者名の次に出版年代をキーとして配列。
値段は参照した本に提示されたもで、現在の価格と異なる可能性あり。

文献

  1. 阿部謹也著 ドイツ中世後期の世界 未来社 1974年 ¥5800
     ドイツ騎士団の構造を時代を追って解説している。ドイツ騎士団を知る上で最高の本(ドイツ語版もあり、この本はドイツ語版の妙訳)。但し、研究史を交えながら考察を進める形が取られており、主要な事件の解説も余りなく、専門用語等についても解説が少なく、解り難い点が多々ある。主に初期のドイツ騎士団の支配構造や国家像に重点が置かれている。参考文献は豊富だが、この本自体が1974年と古く現在日本で入手可能な本がかなり限られている。ヨーロッパ各地に散っている修道騎士団の諸領が如何に運営され、如何なる運命を辿ったかのという点を見るに、ヨーロッパが封建態勢のアナーキーな状態から、絶対王政、その後の国民国家へという流れで秩序だった世界へと整備されていく様を見たような気がする。封建制の様にアナーキーな世界には隙間は幾らでもある。しかし、国家として世界が整備されていくと、隙間は国家の名の基に埋められていく。その隙間に存在した修道会諸領の消滅過程はヨーロッパ世界が国家規模で整備されていく過程を表す物の様に感じられる。修道国家の姿がそのままヨーロッパの封建社会の姿と思うのは危険だ。修道国家は、封建社会の中にあっては、より中央集権的で特殊な国家だと考えた方がよい。特に、行政や通信組織が格段に違う。経済力もへたな王権よりも遥かに大きい。

  2. 酒井昌美著 ドイツ中世経済史序論 学文社 1989年 ¥−
     ポーランドのドイツ関連の論文を紹介した本で、152から181頁にドイツ騎士団滅亡原因論についての論文の紹介がある。基本的にプロイセン内部のシュテンデ(身分制議会)を構成する諸都市や世俗諸侯との利害対立が原因と見ているように見受けられる。前文としてポーランドとプロイセンの経済関係の解説もある。当初はトルンが貿易中心地であったが、後にダンチヒに中心が移ったようだ。商業は主にハンザ商人が担っていたようだ。関連論文としては、ポーランドへの東方植民に関する論文がある。

  3. 高村象平著 ドイツ中世都市 一条書店 1959年 ¥480
    高村象平著 中世都市の諸相 筑摩書房 1980年 ¥2800

    102から120頁にドイツ植民に着目したドイツ騎士団史がある。大まかに分けてプロイセン征服以前と征服後に分けて記述が進められている。タンネンベルクの戦いを騎士団の植民事業の最終点の指標として捉えている。前半は植民者を援護するゆとりが無く、植民者自らの力に頼っていたようだ。だから、有力な商人の主導する植民団とか、十字軍として到来した諸侯を植民者として迎え入れていた。従って植民の種類も都市建設や騎士への邦与が主となり、都市や邦土の運営は植民者に委ねられる傾向にあったようだ。征服後は騎士団が領土の直接経営に乗り出し、邦土の交換や分割が盛んになり、開墾事業に力を入れ、請負式による村が多く建設された。他に、貿易事業についての解説もある。プロイセン都市グループはドイツ・ハンザの主流派と対立することが多々あった。プロイセン都市グループはドイツ騎士団の支配下にあったが、ドイツ騎士団とプロイセン都市グループは貿易で競合関係にあり、プロイセン都市グループはドイツ騎士団に反感を募らせていたようだ。59から77頁のバルト海諸都市の建設の章で、バルト海岸の都市建設にリューベックの力を利用するために、第4代総長ヘルマンがフリードリヒ2世を動かしてリューベックに特許状を与えて帝国自由都市とした件の解説もある。この当時はハンザ都市とドイツ騎士団は極めて友好的な関係にあったらしい。  

  4. 山内進著 北の十字軍 講談社 1997年 ¥1700
     プロシアへの十字軍について、ドイツ騎士団到来以前から騎士団の消滅迄を主要な事件を中心に解説しており、プロシアでの騎士団の概史として最良。104から147頁に刀剣騎士団の、150から153にドブリン騎士団の歴史や成立について記述がある。ナルラティオやリミニ、リエティ文書等の原典史料も幾つか紹介されている。ポーランドとの戦いも、戦場のものだけでなくコンスタンツ公会議で行なわれた論争をも網羅している。ここで見る限り、騎士団とリトアニアの戦いは互いに相手の辺境部を荒らすだけの消耗戦だった。それと、チュード湖の戦いは、映画のように派手なものではなかったようだ。ドイツ騎士団が登場する映画「アレクサンドル・ネフスキー」の紹介もある。

  5. 山田作男著 プロイセン史研究序説 風間書房 1982年 ¥8600
     ドイツ騎士団がプロシアへどの様にして到来したかが解り易く、しかも詳細に解説されている。全10章の内、4章迄もがドイツ騎士団のプロシア到来に関するもの。ドブリン騎士団やクリスチアン司教に対して、或いは教皇と皇帝の間でドイツ騎士団がどの様な活動を行ったか、分かり易くまとめており、原典資料も豊富に使われている。

  6. 山田作男著 プロイセン史研究論集 近代文藝社 1994年 ¥5000
     ドイツ騎士団初期の歴史を知る上で重要な原典資料の内、ナルラティオ、ドゥスブルクのプロイセン年代記、オリヴァ年代記の分析があり、その中に各年代記の内容が豊富に盛り込まれている。騎士団の重要な収入源、琥珀貿易についての研究もあり、琥珀貿易の影響が分析されている。身分制社会下のプロイセンの研究もある。ドイツ騎士団も他の封建領主達と同様に身分制議会(シュテンデ)には手を焼いたらしい。

  7. シャルル・イグネ著 宮島直機訳 ドイツ植民と東欧世界の形成 彩流社 1997年 ¥8000
     ドイツ騎士団が招聘されたハンガリーや、プロイセンにはドイツ植民の波が押し寄せていた。ドイツ騎士団もこの波に乗って勢力を拡大したのであった。254から255頁にハンガリーに招聘されたドイツ騎士団の概史があり、282から318頁のリボニア、プロイセンの章にドイツ騎士団領のドイツ植民の様子が描かれている。後半のドイツ植民の社会学の章に開墾、村の形態、農業技術、行政制度、等々、ドイツ植民の実態が解説されている。ドイツ騎士団領にも適用できることであり、ドイツ領内の農村部や都市の状態を知るのに使える。

  8. H・ハインペル著 阿部謹也訳 新版 人間とその現在 未来社 1991年 ¥2500
     第四第総長ヘルマン・フォン・ザルツァの伝記が104から130頁に収録されている。ドイツ騎士団の権威で訳者の阿部先生によると、ザルツァの伝記としては最もよくまとまっている。日本語では唯一のヘルマンの伝記で、極めて好意的にヘルマンを描いている。但し、資料不足から来る弊害からか、推測が多く、それらの推測が著者の好意的偏りにより、主人公を美化する方向へ動いているとの印象を受けた。

  9. Desmond Seward著 The Monks of War PENGUIN 1995年
     騎士修道会全体を扱った概説書で、ドイツ騎士修道会だけでなくテンプル、ヨハネ、スペインの各騎士修道会などが扱われている。ドイツ騎士修道会については95から142頁で集中的に扱われている。ここでは11世紀に騎士修道会が創設され、16世紀にプロシア、リヴォニアが相次いでポーランド王に従属して世俗化するまでが戦史を中心に記述されている。プロイセンやリトアニア人に対する戦い方や城塞の築城、軍旅など、戦術的な話も盛り込まれている。プロイセン人はもっぱら待ち伏せやゲリラ戦で騎士修道会に対抗し、修道会は河川を利用して大型船を基地として周囲を攻撃するとした戦法を使っていた様だ。だいたい14世紀の修道会国家の構造についてもプロイセンとリヴォニアに分けて簡単に解説されている。プロイセンが統一的支配を実現しているのに対し、リヴォニアではリガ大司教の影響で統一的支配を確立できなかったと言うところだ。支配形態は通常の封建国家と同様だが、支配上層たる騎士修道会が極めてよく官僚化されてされている点が大きく異なる。これはシチリア王国の官僚制を模範としたものと分析している。17世紀以降の修道会についても、293頁以降に他の騎士修道と絡める形で記述されている。17世紀には神聖ローマ皇帝の元で対トルコ戦に参加していたが、それ以降は単なる名誉職の様なものになり、19世紀に再び再編が行われ学校や病院を経営する慈善団体となり現在に至っている。全体として記述が平易で読み易く、よくまとまっているが、物語風の記述が主であり、根拠史料を検索するのが困難である。

  10. Hartmut Boockmann著 Der Deutsche Orden. Zwolf Kapitel aus seiner Geschichte C.H.BECK 1981年
     これはドイツ騎士修道会の最も基本的な概説書として知られている本のようだ。11世紀のドイツ騎士修道会の母胎と考えられているエルサレムのドイツ人病院から20世紀に至るドイツ騎士修道会の歴史がエピソードからエピソードへと飛ぶような形で概説されている。しかし、エピソードの概説よりもその時期の修道会の組織やプロイセンの修道会国家の状態の概説の方が中心になっているように見受けられる。よくある、いつ何処で誰が何した風の概史とは異なる。例えば、創設頃の話では修道会の人員構成の話があり、修道会が下級貴族と家令(ミニステリアーレス)で構成され、家令の多くはチューリンゲン方伯出が多いことが解説されていたり、15世紀の危機の時代の修道会の内部構成が解説されていたりする。問題は時代毎に記述を進めてはいるのだが、例として以前や以後の事例が多用されており、時折混乱を来すことがある。記述方も詳細に数値を上げながら記述したり、大ざっぱに流したりと項目により違いが大きい。頁毎に小題が付けられているのはその頁の概要を掴むのに大変便利で、基本的には年代順に記述が進められているのでこの手の本としては大変読み易い。但し、プロイセンの世俗化に至る迄はプロイセンの修道会国家の記述が主でドイツや地中海での話はそう多くはない。初期の修道会とドイツ帝国における修道会に関する章で解説されているくらいである。創設から現代に至る迄の修道会総長のリストや、プロイセンとドイツ帝国内の修道会所領の地図は重宝である。修道会関係のタンネンベルクの戦いや総長の肖像画、北方十字軍などの絵画や、モンフォール城やマリエンベルクのエリザベス教会や総長の彫刻などの遺跡の写真なども白黒だが多数収録されている。修道会の調査をする上で一度は読んでおく必要がある本のようだ。

  11. Mariusz Mierzwinski著 Die Marienburg.Burg des Deutschen Ordens TESSA
     ドイツ騎士修道会本部があったマリエンブルク城の写真集である。現代の写真だけでなく、20世紀初頭の写真や、19世紀の版画なども収録されている。そして、マリエンブルク城が作られてから現代に到る歴史の解説もある。大半の写真は秋頃撮影されたようで茶色ががった緑の林の中に全体的に赤い煉瓦の城が美しい。内部はかなり簡素な作りのように見受けられる。武具などの展示品の写真も多い。どうも16世紀の武具が多いように見受けられる。鎧の多くは華美な者が多く実戦用というより展示用に作られたものなのだろう。城の詳細な見取り図もある。全体から見たものと、主要な建造物たる本館と中館である。塀に囲まれた外城と水堀に囲まれた本城の二重構造と言った所だろう。塀はさほど厚くなく、大砲を意識したものとは思えない。一見すると防衛用の城というより館である。だが、15世紀にはポーランド軍の攻撃を何度も跳ね返した点を考えるとこれでも十分に堅固な城なのだろう。この本によると、ここも第二次世界大戦時には大きな被害を受けたようだ。そして1994年にポーランドの国家財産になり、1997年に世界遺産に登録されている。しかし、この本は資料というより観光案内の類なので参考文献に入れた方が良かったかもしれない。

     
  12. Norman Housley著 The Later Crusades OXFORD 1992年
     322から375頁に1274から1562年迄の北欧で行われた十字軍の記述が前後半に分けて行われている。前半の1274から1382年ではドイツ騎士団による十字軍だけでなく、スェーデンやデンマークによるロシアへの十字軍や、ポーランドによるリトアニアへの十字軍も解説されている。ドイツ騎士団が西欧の諸侯を招いて行った軍旅と呼ばれる十字軍行も簡単に解説されている。後半ではドイツ騎士団が話の中心になる。ポーランドとの戦いで経済的に苦しくなり、プロイセン内の諸侯や都市との対立が激しくなり、ドイツ各地の支部は独立傾向を強め、プロシアへの援助より自らの所領維持に力を注ぐようになり、内部でも団員の出身地方による対立が表面化し、総長の強制退任や内戦が行われたりもした。プロシア内の団員数も1410年には700、37年には400、53年には300人と著しく減少している。北方十字軍の概略と主要な文献を調べるのによい。488から492頁にある参考文献目録と解説も極めて有用だ。

     
  13. K.M.Setton編 A History of The Crusades 2-3 THE UNIVERSITY OF WISCONSIN PRESS 1969,75年
     十字軍に関する論文を集めた論文集で、ドイツ騎士修道会の歴史は主に2と3巻で扱われている。2巻では中東での修道会の記述が幾つか見受けられる。まず、「The Crusades of Frederick1 and Henry4」の章で修道会創設の話があり、「The Fifth Crusades」の「B.The Captire and Loss of Damietta」に第五字十字軍に参加してダミエッタ攻撃に参加した修道会の記述があり、「The Crusader States 1192-1243」と「The Crusader States 1243-1291」に中東十字軍国家での行動が散見される。最も記述が多いのは三巻の「The German Crusades on The Baltic」の章で、1230年のプロイセンへの修道会到来から1561年のリヴォニア長官の世俗化迄が概説されている。「The Crusades Against The Hussites」にポーランドとフス派が同盟する話の絡みで修道会が現れている。全体的には年代記を再構成して、年代毎に事件を記述していく方法が採られているように見受けられた。  

  14. Udo Arnold編 Die Hochmeister des Deutschen Ordens 1190-1994 (Quellen und Studien zur Geschichte des Deutschen Ordens ; Bd. 40) N.G.ELWERT VERLAG MARBUG 1998年
     初代総長のワルポットから第64代総長のアルノルト・ヴィーラント迄のドイツ騎士修道会総長の小伝集である。騎士修道会になる前の病院時代の簡単な概略も記されている。小伝は1から10頁程度で総長が行ったことはもとより、出身やワッペンなどその総長に関わる逸話なども含まれている。著者は21名でおおよそ時代毎に担当を分けている感じで、不足部分については編者のウド・アルノルト氏が担当している。図版や絵画、写真などが多量に使われており、カラー図版や写真も豊富である。総長の小伝毎に参考文献が記され、末巻にもまとめて掲載されているので文献検索も容易である。この本の出版された時の総長までは掲載されており、20世紀以降の総長達は全て写真入りだが、それ以降の2000年8月に就任した現総長ブルーノ・プラッター氏については当然ながら掲載されていない。

論文

  1. 阿部謹也著 一五二五年・プロイセンの農民一揆 一橋大学一橋論叢48−3 1962年
     一五二五年に起きたプロイセンの農民一揆の背景とその経過を解説した論文。前半では、一四世紀の強力な支配、経済体制が一五世紀には度重なる戦争やペストなどで崩壊していく過程が簡単にまとめられている。後半は騎士団の支配体制の弛緩により勃興した中間領主達に対して蜂起した農民がランデスヘルたる総長の支援を期待してた点が解説されている。比較的短い論文なので、騎士団支配の崩壊過程を掴むのによい。

  2. 阿部謹也著 ハンドフェステについての一考察 一橋大学一橋論叢48−4 1962年
      14世紀にドイツ騎士団領内の農村に付与された法律、ハンドフェステについて考察した論文。この論文では2つの村のハンドフェステを例に取り考察を行っている。原文も掲載されているので、原典史料の一つとしてみるのも良さそうだ。問題はドイツ語のカタカナ表記が多く、結構分かりづらい。原典史料とその解説と言った感じが強いように見える。

  3. 阿部謹也著 ドイツ騎士修道会国家の成立と衰退−中世後期東ドイツ社会史研究− 一橋大学一橋論叢50−4 1963年
     ドイツ騎士団の成立と崩壊の二つの時期の総長の外交を論じた論文。成立期は東ドイツへの教会と皇帝の拡張政策を巧みに利用してプロイセンでの自由行動の確約を取り付け、国家建設では修道会特有の合理性を発揮して一見すると近代的な官僚組織を持つ国家を建設するに至った。支配が順調な間は強力な財政的基盤を元に安定した運営が可能であったが、一五世紀にはポーランドなどからの外圧や、外圧に乗じて勃興してきた領主層の内圧で動揺した。騎士団は当初、皇帝に援助を求めるとした伝統的な外交政策で危機を乗り越えようとしたが、この頃帝国自体が実態を失いつつあり、援助は受けられなかった。最後の総長アルブレヒトの時代、従来の外交方針を転換し、ロシア、デンマークなどの北欧諸国に働きかけて北方諸国との同盟を目指したが、これも失敗した。最後はルターに接近し、新教に改宗して世俗化する事でフランケンやブランデンブルクなどの新教諸国の援助を期待した。総長が新教へ傾いたことにより旧教の総本山たるハプスブルク家と対立していたポーランドがプイセンに接近を図り始め、講和が成立したのを期にドイツ騎士団は世俗化し、ポーランドの封臣になり、プロイセン公領へと姿を変えた。 騎士団の外交政策の流れを掴むのに都合がよい。

  4. 阿部謹也著 グーツヘルシャフトの形成とルター派の浸透(1,2) 一橋大学一橋論叢 52巻1,2号 1964年
      16世紀のプロイセンの農民反乱の遠因をグーツヘルシャフトの成立に求めた論文。農民反乱で農民はグーツヘルたる地方領主の賦役に苦しみ、グーツヘルに対して蜂起し、救いを最後の騎士団長で当時はプロイセン公、プロイセンのランデスヘルだるアルプレヒトに求めた。14世紀迄、プロイセンの騎士団支配は安定しており、グーツヘルシャフトの入り込む余地は小さかったようである。15世紀に入り、ポーランドとの戦争が激化たことで騎士団の財政が悪化し、騎士団の持っていた様々な貿易特権や土地が抵当に入り、或いは傭兵への支払いに使われた。地方領主として土地を受け取った者には傭兵としてドイツ騎士団に雇われた者が数多く存在した。更に度重なる敗戦で幾多の地方、特に都市を数多く失い、地方領主に対抗できる財政的基盤たる都市を失ったことで地方領主の力が強まったのもグーツヘルシャフトが進展する原因になった。騎士団の地方官吏たるコムトゥールも騎士団の力の弱まりにより地方領主化した。この論文には騎士団による一括支配が戦争で崩壊し、地方領主による分割支配がプロイセンを覆っていった様子が描き出されている。その際、幾つかの村落が例に取られている。たいていの場合、一つの村落を一人の領主が支配するのではなく、複数の領主や小農民が支配する形が取られている。領主は多数の村落の一部だけを支配している。アルプレヒトはこの状況を改革し、中央支配を実現しようとしていたようだが、改革の多くは失敗に終わっている。対ポーランド戦の結果として広がっていったグーツヘルシャフトの進展を概観できる。

  5. 阿部謹也著 ドイツ騎士修道会士研究の現段階(1) 小樽商科大学商学討研19−1 1968年
     戦後から1960年代に至るドイツ騎士団研究の流れを紹介した論文。史料集が飛躍的に増大し、従来ドイツ史の中の一つとして位置づけられていた騎士団史がヨーロッパ全土の騎士団領や騎士団の外交をも広範に研究範囲に含むことでヨーロッパ全体を包括する研究として視野が拡大している。もう一つの視点がプロイセン地方史としての視点で、こちらでは農村のあり方や城の構造、教会の状態などより精密な調査が進んでいる。騎士団の資料が豊富に紹介されているので、資料を探すのに都合がよい。

  6. 阿部謹也著 Rittergutの構造について 小樽商科大学人文研究 43号 1971年
     1321年にサッセン地方の1440フーフエの所領にドイツ騎士団から与えられた特許状を例に、ドイツ騎士団の封建所領の変化を論じた論文。原文やドイツ中世の封建所領の形態に纏わる専門用語が多く、極めて分かりづらい。それでも、この所領が多くの特権を得ていたことは、20年の免税特権や通常軍役の約1/8の軍役義務等を見れば明瞭に分かる。この様な条件で特許状が付与された原因は当時の騎士団の状態に帰される。騎士団は当時、プロイセンの地に来て間がなく、行政組織の整備は未完で、隣国のポーランドやマソヴィエン公領との国境は不安定であった。そこで、この様な特権で諸侯や騎士を呼び寄せ、国境地帯の安定を図ったというわけである。その後15世紀に入り、騎士団組織が整ってくると、この所領の分割が始まった。より厳しい条件で他の諸侯にこの土地を分割して与え直す作業が行われたのである。この論文ではこの様な変化の他に、原住プロイセン人がどのような扱いを受けていたか、彼らの絶滅説の否定等が行われている。ドイツ騎士団直轄領ではなく、騎士団と封建契約を交わしたプロイセンの封建所領の変化と実状を伝えてくれる論文である。

  7. 阿部謹也著 Taberna et Forum について−−Lischkeとは何か−− 社会経済史 37巻1号 1972年
     ドイツ騎士団の支配領域たるプロイセンには騎士団到来以前から、現地人により営まれてきた Krug というシステムがある。交易所のことらしい。イメージとしては宿場と言った感じである。この Krug が集まったものを Lischke といい、イメージとしては宿場町と言ったところだろうか。更に大きくなると、様々な制度が整備され、施設が整い、都市と言うことになるらしい。ドイツ騎士団はこの Krug をプロイセン人支配の道具として活用した。プロイセン人村落では、自主生産できないものや外からの情報を主に Krug で仕入れていた。そこで、この Krug を管理できればプロイセン人支配がより容易になる。そこで、Krug の従業員をドイツ人に限定し、支配人には司法権の一部まで与え、地域住民の監視を義務づけたりしている。更に、 Krug は放っておくと都市に発展する恐れがある。都市になると何が困るかというと、中世の都市は経済的に豊かで、自立傾向が強く、封建領主にとってはやっかいな存在である。ドイツ騎士団もリガ市等に幾度か煮え湯を飲まされた経験がある。そこで、将来都市へ発展する恐れがある Krug を管理する必要があった。プロイセン人は ドイツ人村落や都市に入ることが禁じられていた。Krug だけは例外である。プロイセン人も従来からの慣習から Krug を好んだらしい。これも村落や都市がプロイセン人と組んで騎士団に逆らう恐れからのようである。krug の集合体である Lischke のそばにはたいてい騎士団の城がある。逆に騎士団は城のそばに Lischke を再建したり建設したりしたのである。この方が管理がより容易と言うことらしい。Krug を利用した支配、という騎士団支配の末端の一端を解説した論文とも言える。但し、ドイツ語の専門用語が多用されていて極めて難解な論文である。

  8. 阿部謹也著 民間史学による地域・民族・世界の歴史認識−−ドイツ史研究の一つの反省−− 歴史評論270号 1972年
     ドイツ騎士団の研究史における郷土歴史家等の素人歴史家の業績を大学教授等の専門家と対置させる形で論じた論文で、郷土歴史家が史料編纂や新たな歴史観の創設にいかに大きな役割を果たしたかが論じられている。目的は、歴史の専門化に対する警鐘の様に読める。ドイツ騎士団の研究を行った郷土歴史家のロタール・ヴェーバーの解説が主になっている。彼は農場経営者で、農場経営者の経験を大いに活用する形で、史料を詳細に分析し、ドイツ騎士団についての新たな知見を提出している。従来の専門家の歴史がドイツ騎士団公式記録とも言うべきドスブルクの年代記を元に政治史、或いは戦争史とも言うようなものであったのに対し、ヴェーバーは詳細な史料批判から始めて、社会史的な手法でドイツ騎士団領の実状を描き出している。現在はヴェーバーの説が主流を占めているようだ。ドイツ騎士団の研究史として使える。それと、ヴェーバーの本は一読の必要がありそうだ。

  9. 今来陸郎著 プロイセンにおけるドイツ騎士団国家の発端 西洋史学16 1953年
     1211年のハンガリー王の招聘から1234年のリェティ勅書の発布迄のドイツ騎士団の国家建設への模索を追い掛ける形で、ドイツ騎士団の活動を概観している。概史としてたいへん判り易い。特にハンガリーでの出来事をここまで詳しく述べた邦文書はこれくらいだろう。しかし、幾つか疑問点もある。ハンガリー王の1222年の特許状と1230年のマソヴィエン公コンラートの条約状を阿部氏は偽物とみているが、今来氏は本物として論を進めている。両者の説を比較する限りでは、阿部氏の説「阿部謹也著 ドイツ中世後期の世界 未来社 1974年」66と113頁の方が正しい様に思える。

  10. 今来陸郎著 転換期の騎士団国家 九州大学史淵80 1959年
     1400年前後の騎士団国家の状態を論じた論文で、東方植民の低下、リトアニアの改宗による目的の喪失とそれに伴う西方からの十字軍来援の低下、プロイセンにおける商業の独占によるドイツ・ハンザとの商業上の対立、ポーランドからの圧力の増大等、タンネンベルクの戦いに至る時期の騎士団国家の状態が解説されている。対ポーランド対策のためにドイツ皇帝に近づき援助を期待したが、皇帝の援助は殆どなかったらしい。タンネンベルク前夜の騎士団の状態の全体像を概観した感じの論文である。

  11. 今来陸郎著 騎士団国家の起源(再論) 九州大学史淵86 1961年
     「今来陸郎著 プロイセンにおけるドイツ騎士団国家の発端 西洋史学16 1953年」を補足した論文で、騎士団の起源を1118年にエルサレムで創設された病院にまで遡り、そこからプロイセンへの招聘までを論じている。エルサレムの病院を起源とする説には異論もあるが、著者はドイツ騎士団の名称に「エルサレム」と言う語が着いている点に着目した説に従い論を展開しており、病院起源説を支持している。ハンガリー招聘については招聘した国王はドイツ騎士団に友好的であったが、次代国王になる彼の息子を中心とする勢力がドイツ騎士団に非友好的であり、その辺りからハンガリー側の急激な政策変更が起こったと分析している。 

  12. 今来陸郎著 ドイツ騎士団国家の終末 九州大学史淵93 1964年
     タンネンベルクから騎士団国家の世俗化迄を概観した論文で、タンネンベルクの戦い以降、財政難に端を発して激化した都市や地方領主を中心としたシュテンデ会議との対立、対立に端を発したプロイセン同盟の締結と騎士団とプロイセン同盟との教皇、皇帝、ポーランドを巻き込んだ外交戦、ポーランドの後ろ盾で蜂起したプロイセン同盟と騎士団の間で戦われた13年戦争、そして騎士団の敗北が論じられる。そして次ぎに最後の総長アルブレヒトと彼の前任総長フリードリヒの行動が解説されている。フリードリヒはポーランドの要求を消極的な態度でかわし、アルブレヒトは逆に対ポーランド同盟の拡大とポーランドへの強攻策を打ち出し、それが失敗すると転じてルター派を受け入れて世俗化しポーランドの宗主下に入る道を選択している。タンネンベルクから世俗化迄の概説みたいな論文である。

  13. 今来陸郎著 ドイツ騎士団国家解体についての若干の問題 九州大学史淵100 1968年
     「今来陸郎著 ドイツ騎士団国家の終末 九州大学史淵93 1964年」を補足した論文で、主に最後の総長アルブレヒトと彼の外交面での腹心シェンベルクに焦点を当てて論じている。シェンベルクは両方諸国を渡り歩いた外交事務の専門家で、アルブレヒトからその手腕を買われて招聘されたらしいが、彼自身は騎士団に入団してはいない。新教への改宗には反対で、その辺りからアルブレヒトとの意見の違いが現れ、1524年には騎士団を離れてフランス国王に仕官し、1525年にフランス国王のイタリア遠征中に陣没している。全体としてアルブレヒトの新教への接近過程を追いかけたような論文である。

  14. 佐々木博光著 ドイツ騎士修道会とプロイセン人 京都大学史林 72巻6号 1989年
     騎士団支配領でのプロイセン人の扱いを論じた論文。従来の通説では、騎士団支配領のプロイセン人は強圧的かつ一方的な支配に服していたという。しかし、プロイセン人に交付された数少ない特許状、プロイセン人と思われる騎士団会士の数や経歴、プロイセン人に課せられた賦役の量などを合わせて分析すると、必ずしも強圧的かつ一方的な支配像は浮かんでこない。そして、従来の説は騎士団領内にドイツ人植民者と比較する形で行われ、ドイツ人植民者より権利が劣ると言うところから、プロイセン人は抑圧されていると、結論を導く傾向があった。これも、プロイセン人の慣習がどうであったかという点から検証すれば、騎士団がプロイセン人の慣習を利用する形で彼らを支配したので彼らの境遇はあまり変わらなかったとかんがえられる。結論として、ドイツ騎士団はプロイセン人を強圧的に支配したのではなく、むしろ彼らの慣習などを上手く利用して狡猾に支配したとされている。賦役の量などを数値化して表で示すなど、数値データも多用している。ドイツ騎士団のプロイセン人支配の概略を掴むのに使える。これを見るにプロイセン人の反乱もプロイセン人全体が一丸となって行ったとは思えなくなる。多くは、特に有力者は騎士団と結びつくことでそれなりの利益を引き出していたのではないかと思える。

  15. 高村象平著 独逸騎士団について 三田学会雑誌34−6 1940年
     ドイツ騎士団の歴史を貿易に着目して解説した論文。最初の部分は皇帝と教皇の対立を利用してプロイセンに騎士団国家をいかに建設したかが解説されている。当初はドイツ騎士団はハンザと利害が一致して協力していたようだが、ズント海峡の通過が可能になりハンザ以外のオランダやイギリス商人がプロイセンに来訪するようになるとプロイセン諸都市やドイツ騎士団とリューベック等のハンザの有力都市と利害が衝突し、最後はプロイセン諸都市もドイツ騎士団の貿易独占を快く思わなくなり、対立するようになった。貿易の独占は騎士団を豊かにしたが、騎士団衰亡の原因でもあったようだ。比較的分かり易い騎士団の概史である。

  16. 高村象平著 フリッツ・レンケン著「独逸騎士団のフランドル貿易」紹介 社会経済史学9−6 1965年
     フリッツ・レンケンの論文を紹介した文で、フランドル貿易の概要が記されている。当該論文は1938年に書かれたもので入手は困難な状況だ。具体的な数値史料を示しながらフランドル貿易が解説した文ととることもできる。ちょっとしたドイツ騎士団の貿易史料と言ったところだ。

  17. 柏倉知秀著 リーフラント十字軍における十字軍特権(1171/72−1240年) 北欧研究15 1998年
     北方十字軍に教皇から与えられた十字軍の大勅書から中東十字軍に対する北方十字軍の位置づけを検討した論文。中東十字軍においては十字軍参加者には無条件で罪の許しと、財産の保護が与えられた。しかし、北方十字軍に与えられた大勅書では一定の条件が付加されている。多くは財産や身体的な理由で中東まで行けない者のみとか、北方諸国の者のみに十字軍の特権が与えられるなど、中東十字軍を優先する為の制限である。それが徐々に中東十字軍に与えられた条件に近づき1240年にグレゴリウス9世の発した北方十字軍に対する大勅書では中東十字軍に与えられた特権と同等のものにまで変化している。この段階で、北方十字軍は中東十字軍と同等のものと教皇庁から認識されたと考えることができる。中東十字軍に対する北方十字軍の位置を知るのによい。

  18. 望月清司著 グーツヘルシャフト成立前期の騎士団国家の市場構造 専修大学論集13 1957年
     ドイツ騎士団領での自由農民の経済活動を論じた論文。ドイツから植民してきた農民には賦役も地代も少なく、多量の余剰生産物が生まれていたらしい。この農民による市場が巨大になるにつれプロイセン各地に市場から発達した小都市が生まれていった。騎士団としても農民による交易が盛んになれば貿易にかかる間接税収入が増大して都合が良かったようだ。そのおかげでプロイセンは西ヨーロッパの穀倉庫として繁栄した。しかし、15世紀初め頃に黒死病とポーランドとの戦争で農地は破壊され離農者が続出し、騎士団の収益が激減して騎士団支配が弛緩した。その結果、地方領主が台頭し、彼らは農業労働者確保のために自由農民の農奴化を推進した。結果として、自由農民層の多くは農奴へ転落し、グーツヘルシャフトと呼ばれる領主支配が強化されて騎士団支配も崩壊した。流れはこんなところで、農民の市場活動を具体的に数値で示しながらの解説があり、分かり易い。騎士団支配時の農民の平均年間収穫量が1000リットルで、地代は全部合わせても7から9%で多く見積もっても90リットル、その他、種もみや自家消費量を差し引くと625リットルが余剰生産物として残り、 これらが輸出にまわされたと考えられている。全体での総量は不明だが、ダンチッヒ市から出航したイギリス船だけで毎年六万トンが輸出されていた。穀物生産地としてのプロイセンの規模を知るのにも使えそうである。  

  19. 山田作男著 ドイツ騎士団末期の考察 西洋史学19 1953年
     15世紀の騎士団国家の衰退原因をタンネンベルクの敗退を軸にして論じている。その中でも、プロイセンの身分制議会、シュテンデとの対立が最も大きな原因のように論じられているように感じた。シュテンデとの対立原因の主なものは財政問題、といったところらしい。15世紀末頃の騎士団国家の情況を身分制議会との関連からまとめた論文、といったところ。

  20. 山田作男著 皇帝ジギスムントの北東政策について 愛知学芸大学研究報告9 1960年
     1410年のタンネンベルクの戦いから1437年のジギスムント帝の死迄、ポーランドとドイツ騎士団の争いに皇帝が如何に関与したかが論じられている。全般的に皇帝は親ドイツ騎士団の立場をとり、ポーランドに敵対したり、両者の間を調整したりと態度を幾度か変化させている。対トルコ政策の関係から、ハンガリー王でもあった皇帝はドイツ騎士団をハンガリーへ誘致しようともした。フス派対策でもドイツ騎士団の出馬を求めている。どちら対しても騎士団側は消極的な態度で臨んだらしい。結局、ハンガリー誘致は行なわれなかったし、フス派十字軍にもたいして兵を送ってない。この論文は皇帝の視点でポーランド、ドイツ騎士団間を論じた概史という感じである。

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