表紙へ ドイツ騎士修道会の表紙へ


エルサレムの聖ラザロ騎士修道会

 聖ラザロ騎士修道会の前身にあたる、聖ラザロ病院は四世紀に聖バシリウスがカエサリアで創設した病院が起源だと言われている。この病院はイスラーム教徒がエルサレムを占領する迄の三世紀に渡ってエルサレム郊外で巡礼者の介護とハンセン病患者の治療にあたり、病院の運営はハンセン病患者の修道士が行っていた。治療と言っても当時はたいしたことはできず、病人に十分な食事と看護を与えるに留まっていた。イスラーム勢力がエルサレムを占領した後もハンセン病の病院として存続を許されている。1099年にエルサレムが第一次十字軍により占領されると、十字軍の支援を受けてハンセン病専用ではなく通常の病院として改編された。しかし、この時組織された病院はアウグスティヌス修道会の会則に従っており、東方の病院では一般的なバシリウス修道会の会則を採用していないところから、十字軍到来以前の病院と到来後の病院が完全に別物であるという説もある。現在の聖ラザロ騎士修道会は聖バシリウスが創設したとする説を採用している。それから、一説によると改編された際に総長に就任したのが、当時聖ヨハネ病院の総長だったジェラールだとも言われている。おそらくこれは単なる伝説の類だろうが、そのような言い伝えができるほどにヨハネとラザロ修道会は密接な関係にあったといえる。1128年にテンプル騎士修道会が創設されると聖ラザロ騎士修道会はテンプル騎士修道会との関係を深め、ハンセン病にかかったテンプル騎士修道会士が聖ラザロへ移籍する事も多々あったようだ。ハンセン病の病院と言う事もあり、女性会士も多い。多くはハンセン病を患った女性達だった。そして、中世でのハンセン病の病院の例に漏れず、聖ラザロ騎士修道会もハンセン病患者の隔離施設としての機能も有していた。聖ラザロ騎士修道会を現す緑十字は12世紀頃に他の修道会から区別するために採用されたが、これがどのような理由で採用されたのかははっきりしていない。1314年に緑十字を正式な記章とする事が会則で定められた。1608年にマウント・カルメル修道会と合併した際に現在の聖ラザロ騎士修道会の八つの角のある緑十字に記章が改められた。
 聖ラザロ騎士修道会も聖ヨハネ騎士修道会と同様にいつ軍事化したのか、はっきりしていない。おそらく、聖ヨハネ騎士修道会と同様に12世紀中頃付近で、テンプル騎士修道会創設後で聖ヨハネ騎士修道会がほぼ軍事化を終えた後辺りだったのではないかと考えられる。しかし、聖ラザロ騎士修道会はアウグスティヌス修道会の会則を採用しており、ローマ教皇からも騎士修道会として認可されておらず、騎士修道会としての体制を整えていたわけではなかった。
 聖地での活動は主に医療活動であったが、それほど目立つものではないにしろ軍事活動も行っている。1187年のハッティンの戦いに数人の会士が参加し、1244年のガザの戦いにも参加したが、どちらの戦いも敗戦で参加した会士は全員戦死した。1250年には単独でヤッハァ近郊でイスラーム勢力軍と衝突し、僅か4名残して全滅している。1291年のアッコン攻防戦では25名の会士が参加し、全員戦死した。他の修道会に比べても聖ラザロ騎士修道会の生存率は低い。1256年にジェノヴァとヴェネティアが戦いを始めてテンプルとヨハネ騎士修道会が対立した際にはテンプル騎士修道会を支持してヴェネティア側に立って戦っている。
 アッコン陥落後は軍事活動から手を引き、欧州各地の支部を通してハンセン病の病院としての活動を行っている。
 欧州での活動は1135年にイギリスのレスター州のバートンで病院を得たことで始まり、12世紀内にはイギリス各地に病院を取得している。13世紀にはスコットランドやアイルランドにも現地の諸候の協力により病院を取得している。
 フランスでは第二次十字軍で聖地に到来したフランス王ルイ七世が1149年にオルレアン市の近郊に所領を与えている。続くルイ八世もパリに所領を与えた。
 13世紀中頃までには主にフランスやイギリスに所領を得て、他にもスペイン、ドイツ、ハンガリー、スイスなどヨーロッパ各地で所領を取得した。ローマ教皇も数度にわたり聖ラザロ騎士修道会の所領の確認と保護の宣言を行っている。
 14世紀頃にイギリス支部とフランス支部は実質的には分裂し、それぞれ異なる道を歩む事になる。
 イギリス支部はハンセン病の病院として存続している。1250年に至るまではイギリス内の所領がどこに帰属するかが不明瞭であったが、1250年に当時のバートン病院長フィリップがイギリス領内の所領について主権を主張してからはイギリスの所領はバートン病院長管轄となった。1450年にはローマ教皇から独立した修道会として認められ、正式にフランス本部から独立した。しかし、16世紀に入る頃にはすっかり衰退し、1535年の時点で会士は9人だけで、本部のバートン病院には患者が一人、他の病院には全部で14人しか患者がおらず、年収も265ポンドに過ぎなかった。この窮状の中、1537年に新たに総長に就任したトーマスが1544年に修道会を買い取り、修道会は消滅した。
 フランス支部は病院経営を主軸としながら聖地喪失後しばらくの間は地中海に艦隊をもって聖地奪還を目指していたが、すぐに軍事活動を放棄して病院経営に集中した。1572年にサボイの聖マウルス修道会を吸収し、1608年にマウント・カルメル修道会と合併した。だいたい18世紀に入る頃には事実上フランス王室の所有物となっており、1772年にローマ教皇がラザロ修道会の認可を取り下げて修道会はローマ教皇から正式に離れてフランス王室に従属する形で世俗化して消滅した。
 1956年にフランスで再び修道会が再建され、ヨハネ二十三世から修道会として認可された。そして、現在に至るもカトリック系の病院団体として活動を続けている。


参考資料
「Gerard A.Lee著 Leper Hospitals in Medieval Ireland FOUR COURTS PRESS 1996年」65から72頁
「Desmond Seward著 The Monks of War PENGUIN 1995年」41から273頁
「W.G.Hoskins編 The Victoria History of The County of Leicester OXFORD 1954年」36から39頁
http://www.newadvent.org/cathen/09096b.htm カトリック百科事典「聖ラザロ騎士修道会」
http://www.st-lazarus.net/ 聖ラザロ騎士修道会公式ホームページ

表紙へ ドイツ騎士修道会の表紙へ

inserted by FC2 system