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全体的な概説

1.概史的なもの
 ドイツ騎士修道会(チュートン騎士団)は、公式には十二世紀終わり頃に聖地でドイツ商人が作った病院が起源だとされますが、一説によるとドイツ商人の病院創設から五十年ほど前にとあるドイツ人夫妻が作り、聖ヨハネ騎士修道会に帰属した病院が起源とも言われています。病院を創設したドイツ商人が聖地を去った後、ローマ教皇の許可が出て病院から騎士修道会へ改編されました。
 十三世紀初め頃に総長ヘルマン・フォン・ザルツァは神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の信頼を勝ち取り、皇帝の支援で修道会国家建設に乗り出し、幾度かの失敗の後にプロイセンで成功を収めます。その後、修道会はプロイセンと地中海の二地域で活動を続け、十三世紀末に最後の十字軍国家が滅亡し、ほぼ同時期にプロイセン征服が完了したので、地中海での活動に終止符を打ち、プロイセン経営に集中します。プロイセン経営は西方からの植民者の大規模な波に押される形で順調に進み、多数のドイツ人村や都市が作られ、プロイセンのドイツ化が進みます。隣国の異教国リトアニアに対する十字軍を大義名分としていたので西方より多数の十字軍士が来訪し、強力な軍事力と支援が修道会によせられました。修道会はプロイセンの貿易を完全に統制下に置き、北海とバルト海貿易を支配していた都市連合ドイツ・ハンザに加盟して莫大な富を蓄積します。十四世紀は修道会の黄金時代でした。
 十四世紀末頃に状況が変化します。ドイツ騎士修道会国家を支えていた西方からの植民者の波が途絶え住民の補充がきかなくなり、リトアニアがポーランドと合同してキリスト教に改宗してしまい十字軍という大義名分を失います。一方、ポーランドとリトアニアは修道会を共通の敵と考えていました。ポーランドは外海に面した港がなく、貿易を行うには陸路を使うか、修道会領の港を利用するしかなく、港からの利益を独占する修道会が邪魔でした。リトアニアは何かにつけ干渉や攻撃を繰り返す修道会を敵視していました。修道会は外部だけでなく内部にも敵を抱えます。修道会領内の商人や領主、農民達が修道会の貿易の独占や高い税金に不満を訴えるようになり、ポーランドに接近を計ります。十五世紀初め頃、この危機的状況を打開すべく修道会はリトアニアとポーランドに対して決戦を挑みましたが、タンネンベルクの戦いで大敗を喫します。この敗退が契機となり、修道会領内の商人や領主、農民達が大同団結してプロイセン同盟という反修道会組織を立ち上げ、ポーランド・リトアニア連合と協力して修道会に戦いを挑みます。戦いは連合が有利の内に進み、十五世紀中頃に修道会は連合に降伏します。
 降伏しても修道会は存続を続け、十六世紀初め頃に再起をかけてポーランドに戦いを挑みましたが、再び敗退し、総長アルプレヒト・フォン・ブランデンブルクはポーランド王の家臣となり、修道会領プロイセンをプロイセン公国に改編し、自らプロイセン公に就任します。このプロイセン公国はプロイセン王国の元となった国です。
 本部が公国になったことで修道会の残りの部分は独自の道を歩むことになります。現在のエストニア、ラトヴィアにあたる地域を統治するリヴォニア長官が総長を引き継ぎますが、十六世紀半ば頃にモスクワ大公国に大敗し、ポーランドに保護を求めてポーランド王の家臣となり、公国に再編されます。
 リヴォニア長官の後を継いで総長に就任したのはドイツ長官でした。ドイツ長官の管轄は現在のドイツにあたる地域に散らばる建物や土地などですが、これらは一つ一つが小さく、その殆どは近隣の王侯貴族達に奪われてしまい、その後はオーストリア帝国の保護の元で細々と生きながらえ現在にいたります。
 現在、修道会は医療活動を中心にしたカトリック系の慈善団体として存続しています。

2.戦い方について
 ドイツ騎士修道会(チュートン騎士団)が主に戦ったバルト海沿岸地帯は森深く沼の多い地域です。おのずから戦い方も正面からの衝突と言った形ではなく、複雑な地形を利用したゲリラ戦の様相を呈しました。その一つの例がドイツ騎士修道会到来以前にこの地域で活動していた刀剣騎士修道会がドイツ騎士修道会に吸収されるきっかけとなったザウレの戦いです。刀剣騎士修道会は異教国たるリトアニア大公国に再三に渡り侵攻していました。ある時、リトアニア大公は刀剣騎士修道会を沼の多いザウレの地に誘い込みます。重装備の修道会士達は沼地でうまく動きが取れず、軽装のリトアニア兵にたやすく撃ち破られ、総長以下多数の会士が戦死しました。
 ドイツ騎士修道会がプロイセンへ侵攻した際にも現地のプロイセン人はゲリラ戦で対抗しました。修道会士は鉄の鎧と武器、それに馬、集団戦のノウハウに極めてよく整備された組織を持っていましたが、十字軍が来訪しない限り兵力が十分ではありません。プロイセン人の方は簡単な木や革の防具と、修道会に比べれば貧弱な装備しかなく、部族社会の戦士に頼った形の軍で組織として整備されていませんでしたが、兵力だけは十分にありました。修道会は援軍が来援するまで城に籠もって動かず、援軍が来援したり、敵が手薄な時に城から出て、プロイセン人村落を攻撃して住民を虐殺しました。プロイセン側も修道会の兵力が手薄なところにあるドイツ人村を破壊し、住民を虐殺しました。互いに相手の軍を攻撃するのではなく、無防備な村や町を攻撃して住民を虐殺するとした戦法が取られたのです。修道会はドイツからプロイセンへ植民者や十字軍が次から次に来訪してきたので徐々に力を増していきましたが、プロイセン側はどこからも補充はなく、根拠地たる村や畑を失い、修道会側になびいてドイツ化するプロイセン人も現れ、徐々に力を失っていきます。最終的にプロイセン人は修道会に制圧され、事実上消滅します。殺されるか、ドイツ人植民者の中に入り込んで埋没したのです。アメリカの西部開拓期の騎兵隊とネイティブアメリカンの関係と同じ感じです。但し、ネイティブアメリカンは少なくなったとはいえ現在に至るもある程度独自の文化を保ちましたが、プロイセン人の方は全く残らなかった点が異なっています。
 プロイセン制圧後、修道会は隣国の非キリスト教国リトアニア大公国へ侵攻しますが、リトアニアはプロイセンに比べれば装備も組織も格段に整備されていますし、兵力も修道会より上です。といいましても、装備も組織も修道会よりは劣っていたようです。修道会の目的は十字軍の継続です。十字軍を継続する為には異教の敵が必要です。従って、リトアニアを征服する必要はなく、単に戦い続ければいいだけです。そこで、修道会は年に二回、リトアニア国境襲撃を行うようになります。この襲撃は西欧諸国にもよく宣伝されていたらしく、西方の有力な王侯貴族が参加しています。襲撃は大型の船を仕立てて、川沿いにリトアニアへ侵攻して無防備な村や町を襲う、という形で行われます。悪い言い方をすると西方から来た王侯貴族達に人間狩りを楽しんでもらうわけです。リトアニア側が部隊を出してきたら、船に逃げ込み、船を砦のように使います。当時のリトアニア人の装備ではよく防備された修道会の砦やこの手の船を落とすことはできなかったようです。まれに積極的な客人が訪れ、大規模な侵攻が行われることもあります。例えば、後にイギリス王になるランカスター伯ヘンリーはフランスとイギリスの騎士を率いてリトアニア奥深くに侵攻し、リトアニア大公の主力軍を撃ち破っています。
 修道会はまれに平原で敵と相見えることがありました。このような時に修道会軍は猪の陣と呼ばれる隊形で敵を攻撃します。この陣形は全員が騎乗し、楔形の隊形で敵へ真っ直ぐ突撃する陣形です。全員が真っ白いマントを纏い、馬までが真っ白いマントをたなびかせ、重々しい鉄の鎧で身を固め、大きなやりを真っ直ぐに向けて一糸乱れず楔形の隊形で突撃してくるのですから、相手に与える威圧感はかなり大きいであろう事が想像できます。相手はたいてい修道会士より軽装な上に集団戦が苦手で、修道会軍のような組織だった軍とまともに戦った経験のない者が多く、猪の陣の放つ威圧感に圧倒されてしまったようです。しかし、この陣もある程度集団戦に慣れた相手だと上手くいきません。チュード湖の戦い(氷上の戦い)ではこの陣形でロシアのノヴゴロド軍と戦い、大敗を喫しています。

3.組織について
 ドイツ騎士修道会(チュートン騎士団)の正式名称はラテン語の(Fratres hospitalis S.Mariae Teutomicorum in Ierusalam)です。これを日本語に訳すと「エルサレムの聖母マリア・ドイツ病院兄弟団」となります。チュートンというのはこの名の(Teutomicorum)の部分を略して英語読みしたものです。この語の意味は「ドイツ」です。
 名前からわかる通り、ドイツ騎士修道会はもともと聖地に作られた一つの病院に過ぎませんでした。但し、現代の病院とはだいぶ異なり、けがや病気を治す医療を行うのではなく、けが人や病人の自然治癒を助ける看護を行うだけの療養所と言った感じです。その名残で組織も病院時代の役職に、必要に応じて付け加えられた役職で構成されています。修道会の最高意志決定機関は幹部会です。幹部会は修道会の上位官職者と個人的に政治力を持つ会士で構成されています。個人的に政治力を持つ会士とは、例えば王や大貴族の身内とか目立った活躍をした会士、多くの幹部にコネを持つ会士などです。修道会の代表は総長です。総長の任期は終身で、幹部会の選挙により選ばれます。総長はどこに行くにもなにをするにも幹部会に報告を行う義務があり、場合によっては幹部会により解任されることもあります。総長に次ぐ官職が病院時代からの名残の官職で、副総長軍事長官衛生長官資材長官財務長官の五大官職と呼ばれる職です。副総長総長不在時の代理を行い、軍事長官は病院の警護が任務だったようですが修道会が大きくなるにつれ軍事作戦の計画を担当するようになります。衛生長官は病院時代には病室管理を行った役職のようですが名前だけの単なる幹部の一人となり、資材長官も病院時代には資材調達などの仕事をしていましたがこれも単なる幹部の称号の一つになります。財務長官はその名の通り、修道会の財務を担当しました。
 五大官職者とは別系統の幹部として、一定地域の管理統率を行う、ドイツ長官リヴォニア長官プロシア長官の三長官があります。この三長官は五大官職よりも独自の活動が許されていたようです。ドイツ長官は現在のドイツにあたる地域に散らばる所有物件や不動産などの管理と、ドイツでの修道会の活動を管轄していました。例えば、15世紀中頃のフス戦争では神聖ローマ皇帝の要請に応じて参戦しています。修道会の人員の多くはドイツ長官管轄地で集められることが多く、ドイツ長官は修道会士の募集も担当していました。リヴォニア長官は現在のエトスニア、ラトヴィアにあたる地域の修道会領を管轄しています。こちらも、独自の判断で活動を行っています。こちらの例だと、ドルパット司教とノヴゴロドの戦いにリヴォニア長官の決定でドルパット司教側に立って参戦し、「氷上の戦い」で敗退しています。プロシア長官は14世紀に本部がヴェネツィアからプロシアのマリエンブルクへ移動した際に総長が兼任することとなり廃止されました。
 ドイツ長官リヴォニア長官プロシア長官は必要に応じて副長官を置きます。三長官の下に付くのがコムトゥールです。コムトゥールは三長官が管轄する地域を更に細分した小地域を受け持ちます。ドイツ長官の管轄地域は他の長官に比べて広範囲に渡って小さな土地や建物が散らばり、管理が困難なので数人のコムトゥールを統括するラントコムトゥールが置かれています。
 現代の会社に当てはめると、幹部会は役員会議で、総長は社長、五大官職者は本社役員、ドイツ長官リヴォニア長官プロシア長官は地域毎に置かれる総支店長、ラントコムトゥールコムトゥールが支店長といったところでしょうか。そして、修道会に大きな影響力を持つ、神聖ローマ皇帝やチューリンゲン方伯、ベーメン王、ローマ教皇は大株主と言ったところです。

4.構成人員について
 ドイツ騎士修道会(チュートン騎士団)を構成する人々は当然ながら修道士ですが、出身にはかなり偏りがありました。13から14世紀の修道会士の大半はミニステリアーレスと呼ばれる、奴隷と自由人の間のような出身の人々でした。中世を舞台とした映画や小説などに登場する城の警備をしている兵士や、貴族のお供をしている従者とか、食事の給仕や掃除などをしている召使いのような感じの人々です。初代総長から第四代総長も、このミニステリアーレスです。修道会に入るこということは世俗の生活を捨てると言うことです。財産を持つことはできず、結婚もできず、生活は規律に従って制限され、集団生活の中で個人のプライバシーなど守られることもありません。このように厳しい生活を好んでする貴族など殆どいません。しかし、一部の大貴族は修道会に影響力を行使する為に、或いは宗教的情熱に従い、自らの財産とも言えるミニステリアーレスを修道会へ入れたのです。特に、チューリンゲン方伯は多数のミニステリアーレスと配下の家臣を修道会へ送り込んでいます。第三代と四代総長はチューリンゲン方伯のミニステリアーレスでしたし、第五代総長はチューリンゲン方伯の末弟です。チューリンゲン方伯の影響は一六世紀初め頃に修道会がプロイセン公国になるまで続き、プロイセン公国になった時の修道会士の三割近くがチューリンゲン方伯領出身の下級貴族やミニステリアーレスだったと言われています。主人側の都合だけでなくミニステリアーレス達にとっても修道会は魅力的な場所でした。貴族の元ではいつまで経ってもミニステリアーレスのままです。まれに騎士になれる者もいますが、そう多くはいません。修道会に入れば努力と実力次第で、幾らでも出世できる可能性があります。総長に迄上り詰めれば身分としては大貴族と同じ扱いになります。
 修道会士の殆どがドイツ出身者でしたが、敵対勢力でもあるはずのプロイセン人やポーランド人の修道会士も少なからずいたようです。一説によると、最も地元民に近い立場の役所や教会で働く修道会士の殆どは現地人たるプロイセン人だったとすら言われています。但し、彼らが幹部にまで出世することは少なかったようです。この現地人修道会士には地元の有力者の子息や農民、商人などの出身者がいたようです。
 十五世紀に入ると修道会士の構成に変化が起こります。十字軍熱が冷め、西方からプロイセンを訪れる者が少なくなり、修道会士のなり手が激減し、修道会は危機に陥ります。西方の西欧諸国でも戦争や黒死病がうち続き中小貴族の没落が相次ぎ、貴族達は経済的危機に陥いり、次男以降の生活をどうしたらいいか苦慮していました。修道会はこの中小貴族達の危機を利用して修道会の再起を図ろうとします。新たに、加入できるのは貴族出身者のみとする規則を作り、西方諸国に対して貴族の子弟を募集します。西欧の多くの中小貴族達が修道会の募集を聞きつけ、渡りに船と、口減らしを目的として修道会へ子息を送り込むようになります。この結果、修道会士に貴族出身者が激増します。しかし、ここで新たな問題が発生します。ミニステリアーレス達は自分たちの身分が低い事を意識し、修道会での立身出世を望み、より上へ進もうと努力する傾向が強いのですが、貴族の子弟には上へ向かおうとする意欲が欠けていました。貴族の子弟は貴族間の門閥意識やコネで出世し、修道会の質の低下を引き起こしてしまったのです。以前は多くの会士がラテン語の読み書きができましたが、この頃から一般会士はおろか幹部にも読み書きができない者が増加し、15世紀中頃には完全に読み書きができない人物が総長に就任しています。

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