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1431年12月14日に、ドイツ騎士修道会総長パウル・フォン・ルスドルフに宛て、モーゼルのキリアンがフライブルクから出した手紙
(1431年の第五次対フス十字軍についての知らせ)

 悦びをもって大いなる閣下を守る為に正統なる奉仕と賞賛を神へ捧げます。至高にして荘厳にして慎み深き殿にご挨拶します。閣下が私に命ずるように、私が貴方から離れているこの時、私は閣下の為にこのニュースを書きますが、私は何が本当か情報源が何かはまだ知りません。ですが、聖ローレンスの前の続く水曜日に私の友人ロビスのニグキルの騎兵隊がここに来て私に諸候がタホフ近郊で八日間宿営したと伝えてきました。彼らは町を攻撃しようとしましたがババリアのハンス公がこの町は父の遺産だと言い、町を灰塵に帰す事を望まず町に火をつけませんでした。公は町の人々の憎悪を買いたくなかったのです。諸候は団結し、四週間攻撃しようとはしませんでした。諸候はロビスのニグキルがクラブルュディに向かって行軍していた同日の水曜日に、タボール派を発見して攻撃する為に出発しました。諸候は戦いの為の全ての準備を整えさせられ部隊を統率しました。それは枢機卿ツェザリーニが我が主人ザクセン公と合流し我が主人、公のローマ部隊を賞賛するほどのものでした。諸候は一昼夜、馬車要塞の中に留まりました。馬車で五重の円陣を作り、各々の輪に百台の馬車を使い、諸候も多くの空の馬車を持ち、彼らの多くは離れた所に布陣しました。帝国諸都市はブランデンブルクの我が主人と合流し、ババリアの諸候は集合し、各集団は他の集団から約一マイル離れていました。王は(イタリアなどの)ラテンの地へ去る事を望みましたがハンガリーの偉大な伯が来て、王が諸候と共に留まる事を望まない場合の影響と、王がハンガリー入りで再び悩む必要がないこの状況で活躍される事を王に対してはっきりと主張しました。そして王はニュルンベルクへ去りました。タボール派も軍中の諸候へ、王が彼らが公正な交渉を行えるであろう事を期待する場所に来て説き伏せる事ができるかどうかと、メッセージを送ってきました。しかし、王は諸候に、ヘブかロケットへ行く事を望み父に伺いを立てる事を望まないと書き送りました。そして、諸候は出発し彼らの道を行きました。我が印の下に薬味の利いた祝福の我らの高貴な夫人の夕暮れの上にフライブルクで与えます。

 追伸
 それから、ここの諸候は:枢機卿、ケルン司教、ヴュルツブルク司教、ブランデンブルク辺境伯と彼の息子、ザクセン公、ババリアのハンス公、ババリアのハインリヒ公、ババリアのオットー公、それからヴュルテンベルクの一人と聖俗の他の諸候の部隊。諸候が諸候は巨大な軍を有すると言った時点で、ブランデンブルクの我が主人は軍でも最高位の司令官でした。プラブノの一人(プラブノのハインリヒ)は枢機卿の部隊長です。
 同じ方法でオーストリア公が諸候へ書き送っています。公はニュルンベルクで同意した全てのやり方を保つ事を望んでいます。公は大軍をこの地へ出発させ、この場所へと移動しました。異端者は公に向かって進み、戦いを望み、1マイル以内に近づきました。しかし、公は馬車の中に待避し、異端者達は一度は逃げ去りました。異端者達は公が馬車から離れようとしないので公に対して四日か五日対陣しました。タボール派は出発して元来た道を戻り、離れていきました。タボール派とオルファニ派は戦いを強く望んでいましたが諸都市は異端者達への援助を行う気がなく自らの都市を離れる事も望まずどの諸候とも面倒事を起こしませんでした。
 それから、高貴にして親愛なる我が主、私は閣下の為にお知らせしたいと思います。我々の主たる公と、この地、この町に住まう無力な人々が聖ローレンスの後の土曜と日曜にベーメンの地へ行軍し、大軍と共に行軍を継続してリュヅィムブュルクに近づきここで多量の大砲を集めました。
 それから、私は閣下の為にお知らせします。ポーレンチェクのハンスが大軍と共にローボウへ移動しました。ルシタニアの諸都市と共に、6都市と共に。
 それから、高貴にして親愛なる我が主、閣下が人々の為にこの地へ出されたものは私の所に届きましたが、今私は人々を集められません。彼らはこのような金を運ぶ事を望みません。枢機卿は私に一頭の馬の為に2グルデンを与え、私は私が人々に教えを与えるその日までそれを続けるように望んでいます。

注.
 「Thomas Fudge編 The Crusade against Heretics in Bohemia ASHGATE 2002年」330から332頁の英語より翻訳。

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