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1433年9月に、フス派軍がドイツ騎士修道会領へ侵攻した記録
(15世紀にプロイセンで作られた年代記の一部)

 主の1433年の休戦条約が施行された時(6月24日)、名のある王国とドイツ騎士修道会は、聖ゲオルグの祝日(4月23日)にトルンにやってきた仲介者や教皇使節、バーゼル公会議と教皇の全権使節を通して交渉を行い、合意に至らなかった。特にポーランドのシュヴィトリガイラ公が大公国を受けたり、大公になる事を望まなかったせいである。しかし、修道会は彼が大公になる事を望み、それ故に同盟条約と彼らの間の盟約に基づいて彼を助けて援助し、こうして二者の間に戦いを起こした(注:リトアニア大公位を巡る戦い)。次に、神の支援で総長と修道会、ドイツや、マイセン、ルシタニア、シレジェンや他の場所から来た傭兵が援助に来た。しかし、彼らの到来は全く役に立たず、無益だった。最初に彼らは金だけ受け取って戦わず、部隊として、或いは騎士として、彼らに支払われた給料に見合う働きを見せなかった。彼らはポモジェ地方の城を強引に奪った。この悪党や強盗に占領された場所の名はマンデュフェルと言う名で、彼らはこの場所から強制的に追放された。
 支援の為に、ポーランド人は自身の為にフス派の中で最も酷い悪党から集められた最も粗暴な輩を連れてきた。奴らフス派と異端者達はおおよそ五千名と見られ、馬車と他の軍需物資を持って歩いてやって来た。奴らは傭兵が前もって跡づけていた足跡に沿って新たな行軍に入り、十三の町と村を灰にした。アレンスワルドの人々とウェデレンの諸候は進路上にある自らの砦や町を破壊から救う為にポーランド王の名において異端者達と和平を結び、修道会から離反した。
 キリストの十字の敵と異端者はポーランド人と共にプロシアの地へ入り、邪悪な力でホイニッツを攻城し、突撃し、七月から八月にかけて四週間以上に渡って情け容赦なく何度も攻撃した。しかし、ホイニッツは神の祝福により守られているので、奴らの邪悪な兵器は僅かな損害しか与えられず、賢明な助言と強い決意で留まっていたので、奴らの野蛮な飛び道具はむだに降り注ぐだけだった。結局、ここは神の右手により守られ、不実なる人々の努力は無駄になり、奴らは混乱して立ち去った。修道会の軍事長官ヨードクス・シュトルプベルガー卿は他の指揮官やプラブノのハインリヒ卿、ドニンのオットー卿、ビーベルシュテインのフリードリヒ卿や、諸候と他の騎士や傭兵、国内の騎士や市民と共にシュワルツェンワルテ村の近くでキリスト教徒に対する恐ろしい迫害者と対峙して宿営を行った。彼らは軍と共にここに留まり、彼らはいかなる戦いも全くせずにこの地を守ろうとした。しかし、悲しいかな!不確かな助言を受けてか、あてにならない魂に惑わされたのか、彼らは芝がたなびくように分散してここから退却し、侵略してきた敵にこの地域を明け渡してしまい、略奪でこの地を破壊されてしまう。
 邪悪な人々、フス派は混乱した退却を見て、横暴なやり方でポモジェ地方を素早く焼き払い、非常に有名な都市ディルザーとゲズニッツ城を灰にした。奴ら不実な人々はダンツッヒ近郊のバルト海岸に達するまでこの事業を止めなかった。ここでフス軍の司令官たる大悪党ヤン・チャベックはこれ見よがしに海に入り、傲慢な頭を大きく揺り動かして見せて言った「見よ!私は兄弟達に言う。私は諸君に大地の端にたどり着いて海の水が邪魔でこれより先には前進できないと、公言する」。同じ場所で奴は数個のガラス器に海水を満たして、修道会の中でベーメンが好きになると言い、奴らの犯罪の大祝賀会を普通より華やかに取り巻き達と共に行ったのだろう。聖書と同じく、奴らは悪魔の行いを楽しみ、最悪な行いを大いに楽しんだ。



ドイツ騎士修道会領に対するフス派の遠征

注.
 「Thomas Fudge編 The Crusade against Heretics in Bohemia ASHGATE 2002年」359から360頁の英語より翻訳。

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