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第八代総長グンター・フォン・シュワルツベルク小伝
(1249から1252年)



紋章
「Hans-Georg Boehm Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens 1198-1618 FRANKONIA 1990」29頁より

 グンター・フォン・シュワルツベルクはコルスターのミニステリアーレスの家の出である。最初の四代の総長と同じく貴族ではなく、半奴隷と説明されることの多い身分である。グンターがいつ生まれていつ修道会に加入したかは分からないが、1215年には1団員としてアッコンの修道会本部にいたことが分かっている。グンターの経歴は実のところほとんど分かっていない。只、グンターと記録されている修道会の幹部がいたことが分かっており、おそらくこのグンターがグンター・フォン・シュワルツベルクだったのではないかと考えられているだけである。グンターは貴族ではなくミニステリアーレスだった為に出身地が記されずにただグンターと記録されたのだろう。1228と1230年の軍事長官はグンターと記録されている。おそらく1228から1230年の間、軍事長官だったのだろう。当時の軍事長官はアッコンに滞在しており、主に中東での軍事活動を統括していたが、この期間はドイツ皇帝フリードリヒとエジプトのスルタン・アル・カーミルとの間に和平が樹立されており、目立った軍事的活動は行われていなかったのでグンターの役割は小さかったと考えられる。1240から1244年にはイタリアのアプリアのラントコムトゥールをしていた。1246年にはプロイセン長官で次代総長のボッホ・フォン・オステルナの副官をしていた。
 1249年7月15日にハインリッヒ・フォン・ホーヘンローエが死去すると、グンターが突如総長として現れている。どうも、グンターは修道会内の皇帝派の領袖と目されていたようで、この選出は修道会の皇帝派の策謀に拠るところが大きかったようだ。グンターの対抗馬としては教皇派の領袖ウレンバッハのウィルヘルムがいたが皇帝派の力にいま一つ及ばなかったようだ。前代総長ハインリッヒ・フォン・ホーヘンローエが皇帝派であったという点も影響したのかもしれない。グンターが総長としていかなる活動をしたのかという記録はほとんど残っていない。どうも教皇派との権力争いに終始したようだ。1252年5月4日に死去したが、どこで死に、どこに埋葬されたかは分かっていない。グンターが死んだ頃には教皇派のウィルヘルムの勢力はヴェネティアの修道会領だけになっていた。
 権力闘争の果てに総長となり、総長となって対抗勢力を衰退させて修道会の統一を果たしたと言うところだろうか。しかし、この闘争も1250年にドイツ皇帝フリードリヒ二世が死去して大空位時代を迎え、同時に修道会が地中海からバルト海へと活動拠点を移しつつある状況ではあまり意味のあるものではなかったのかもしれない。

注.参考文献

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