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第七代総長ハインリッヒ・フォン・ホーヘンローエ小伝
(1244から1249年)



紋章
「Hans-Georg Boehm Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens 1198-1618 FRANKONIA 1990」27頁より

 ハインリヒ・フォン・ホーヘンローエはフランケンのホーヘンローエ家の出で、1195から1200年辺りに生まれた。1219年に兄弟のアンドレアスとフリードリヒと共にドイツ騎士修道会に加入した。おそらく、次男以降の口減らしを目的とした加入なのだろう。この頃には父ハインリヒは既に亡く、母がハインリヒの遺産の多くを修道会へ多数の寄進を行い、この寄進地をもとにして修道会領メルゲントハイムが立てられ、ハインリヒは初代のメルゲントハイム・コムトゥールに就任した。アンドレアスは第四代総長ヘルマン・フォン・ザルツァの信任を得て、総長直属の副官になった。フリードリヒは1220年頃に死去した。ハインリヒは1225年に総長直属の副官になり、総長と共にフリードリヒ二世の二番目の妻イザベラの共をして聖地に赴き、それ以降は総長直属として留まっている。
 1232年にドイツ長官に就任したが、在任期間がはっきりしていない。何度か他の団員と長官職を代わったのか、違うのか、この辺りがはっきりしていない。原因の一つはこの頃、ドイツ長官職が明確になっていなかったことにある。例えば、1240年の記録ではドイツ長官ではなく総長代理、時によっては総長と呼ばれており、役職名が一定していない上に、他の者がドイツ長官だったという記録もある。おそらく、一時的に補佐が付いたと言うことだろう。ハインリヒがドイツ長官をしている時期、総長ヘルマン・フォン・ザルツァの精力的な活動により修道会のドイツの所領が急増している時期に当たる。1235年にバライ・エルザス・ブルグントが創設され、1236年には主にチューリンゲン方伯家から贈与された所領をまとめたバライ・チューリンゲン、ザクセンが創設されてドイツ長官の下に組み込まれた。1237年にハインリヒはドイツ皇帝フリードリヒ二世からメルゲントハイム支配を承認された。これによりメルゲントハイムはハインリヒを帰して修道会支配に組み込まれる形になったのである。別の言い方をするとハインリヒが修道会から脱退すればメルゲントハイムは修道会支配から脱してしまうと言うことである。1240年に第五代総長コンラート・フォン・チューリンゲンが死去した時に総長を目指したようだが、果たせず、ドイツ長官職に留まることになり、1242年までこの職を続けた。
 1244年7月7日に前総長ゲルハルトが解任されて後任として指名された。ゲルハルトを解任したのは主にローマ教皇を支持するグループで、ハインリヒは皇帝を支持するグループに所属していたので解任劇には関わらなかったが、ハインリヒの経歴が他の団員に比べてずば抜けていた為に、教皇派は不本意ながら彼を総長に指名したようだ。
 ハインリヒの方針はヘルマンやゲルハルトと同じで教皇と皇帝の調停者として振る舞い、修道会を中立に保つことにあった。しかし、教皇側からは皇帝派と疑われたふしもある。ハインリヒが修道会では皇帝派に属していたのも原因だろう。これまでプロイセンでの征服事業において教皇は常に修道会側に立って調停を行っていたが、1245年2月にローマ教皇インノケンティウス四世はプロイセン人と修道会を同等のものとして対等の和平を結ぶように勧告している。修道会が皇帝よりになったことに対する教皇なりの対応と言ったところだろう。逆にドイツ皇帝フリードリヒ二世は同年6月に修道会へ、クールランとリタウエンを修道会領として認める証書を発布している。修道会に対する好意の印と言ったところだろう。
 1242年からプロイセンではスヴァントポルクの反乱が進行中で、戦況は不利であった。ハインリヒは就任して直ぐにプロイセンに行き、現地の支配体制を整えるべく、トルン市に都市法を授与したり、組織の整備に務めた。この過程で教皇派のリヴォニア長官ディートリヒ・フォン・グルニンゲンがハインリヒに逆らい、教皇派と皇帝派の対立が表面化している。プロイセンでの戦況はハインリヒの尽力が功を奏し、1246年の戦役で好転の兆しを見せた。
 プロイセンでの仕事を終えたハインリヒはドイツやフランスを旅した。1246年秋にはウィーンに、1247年にフランケン、リヨンとドイツの修道会所領を巡っている。おそらくドイツの修道会所領の組織作りを目指し、同時に教皇派と皇帝派の調停に務めたのだろう。1247年末には故郷のメルゲントハイムに戻り残りの治世をここで過ごしている。1247年11月19日にローマ教皇インノケンティウス四世は修道会にモンゴルに対する戦いの準備と情報収集をするように指示を出している。ハインリヒがメルゲントハイムに留まったのはこの教皇の指示による準備の意味もあったのかもしれない。そして教皇は修道会にプロイセンでの戦いを早く終わらせるように圧力をかけ、教皇の圧力とハインリヒの下準備が功を奏して1249年2月7日にクリストブルク条約が結ばれてプロイセンでの反乱が一旦落着している。ハインリヒはそれから半年後の1249年7月15日にメルゲントハイムで死去し、この地に葬られた。

注.参考文献

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