表紙へ ドイツ騎士修道会の表紙へ


第六代総長ゲルハルト・フォン・マールベルク小伝
(1240から1244年)



紋章
「Hans-Georg Boehm Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens 1198-1618 FRANKONIA 1990」25頁より

 ゲルハルト・フォン・マールブルクはアーレ伯テオーデリヒとマールブルクのアグネスの息子の一人で、ドイツ騎士修道会に加盟した時には既に結婚しており、テオーデリヒとオットーの二人の息子もいた。修道会の記録にゲルハルトが始めて現れるのは1239年で、1240年には軍事長官に就任し、前総長コンラートの代理も務め、1240年7月24日に総長に就任した。おそらくゲルハルトはコンラートと違い修道会内で順当に出世してその最終段階として総長に就任したものと思われる。
 ゲルハルトの方針は第四代総長ヘルマン・フォン・ザルツァと同じで教皇と皇帝の仲介者として修道会を中立の立場において修道会の発展を促すというものだったようだ。時の皇帝フリードリヒ二世と教皇のイノセント四世が争っているこの状況はヘルマンの頃と似たようなものだったが、修道会内の状況はヘルマンの頃から大きく変化していた。修道会も皇帝派と教皇派に分かれて内紛を起こしていたのである。主流派は教皇派である。それと北方十字軍を始めたことでプロイセン派と中東派という対立も始まっていた。この中で各派の調停を計り、さらに皇帝と教皇の仲介者として活動するのは極めて困難であったろう。ゲルハルトの修道会での立場は極めて危うい状態にあった。
 これに追い打ちをかけるようにリヴォニアでペイプス湖の戦いが起こり、修道会はアレクサンドル公ネフスキーに大敗を喫してリヴォニア支配が動揺を来たし、プロイセンでは1242年にスヴァントポルクの反乱が勃発してプロイセン支配が危機に瀕してしまう。修道会には大きな影響を与えはしなかったと見られている1241年のリーグニッツの敗戦も修道会の内部紛争に何らかの影響を及ぼしたかもしれない。プロイセンやリヴォニアでの戦いは悪化の一途を辿り、教皇と皇帝の争いも終息の兆しを見せない。ゲルハルトに対する不信感が修道会内に高まり、1244年7月7日に幹部会はゲルハルト解任を決定して後任としてハインリッヒ・フォン・ホーヘンローエが就任する。
 しかし、ゲルハルトは幹部会の決定を受け入れずローマ教皇イノセント四世に調停を依頼した。1245年1月16日にイノセント四世はゲルハルトと彼の支持者達に修道会の幹部会の指示に従うことと、テンプル騎士修道会への移籍を斡旋する旨通告した。教皇の支持を失ったと判断したゲルハルトは幹部会の指示に従い総長の職を辞したが、テンプル騎士修道会への移籍は断った。
 総長を辞したゲルハルトはシュヴェーリンカイネの修道会領の管理人に左遷された。その後のゲルハルトの足跡は分かっていない。死去したのは1247年11月29日だが、どこで死にどこに埋葬されたのかは全く分かっていない。1248年6月10日にゲルハルトの二人の息子が修道会に父の処遇について抗議したとの記録が残っている。第二のヘルマン・フォン・ザルツァになろうとして叶わなかったと言うところだろう。

注.参考文献

表紙へ ドイツ騎士修道会の表紙へ
inserted by FC2 system