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第五代総長コンラート・フォン・チューリンゲン小伝
(1239から1240年)



紋章
「Hans-Georg Boehm Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens 1198-1618 FRANKONIA 1990」19頁より


コンラートの彫像
聖エリザーベト病院のコンラートの棺
「Udo Arnold編 Die Hochmeister des Deutschen Ordens 1190-1994 (Quellen und Studien zur Geschichte des Deutschen Ordens ; Bd. 40) N.G.ELWERT VERLAG MARBUG 1998年」19頁より
     コンラート・フォン・チューリンゲンはチューリンゲン方伯家の三男として1206年に生まれた。父のチューリンゲン方伯ヘルマン一世は1217年に亡くなり、長男のルドヴィヒがチューリンゲン方伯家を継いだ。ルドヴィヒの妻で、ハンガリー王アーンドラシュの娘は聖エリザーベトとして知られる聖人である。
 ルドヴィヒ四世は1227年に病死し、チューリンゲン方伯家は次男のハインリッヒと三男のコンラートが分け合う形になり、寡婦のエリザーベトには彼女が創設した病院だけが残され、チューリンゲン方伯家から事実上追放されたような形になる。コンラートの兄で次男のハインリッヒは後にフリードリヒ二世に対抗する目的で擁立されたドイツ皇帝ハインリッヒ・ラスペであるが、この頃はまだフリードリヒ二世と友好関係にあった。三男のコンラートにはヘッセンの方伯領が与えられた。1231年に聖エリザーベトが死去して彼女の病院は聖ヨハネ騎士修道会に委ねられたが、コンラートの働きかけにより1234年の初夏にはドイツ騎士修道会の所領の一つとなった。
 コンラートは1234年11月にドイツ騎士修道会に加入した。騎士修道会を利用して所領を増やそうとの目論見があったようだ。修道会側としてはフリードリヒ二世の最大の支援者の一人であり、修道会にも多額の寄付をしているチューリンゲン方伯家との結びつきを強めるという意味で、コンラートの加入は歓迎すべき出来事だった。コンラートはマールブルクの聖エリザーベト病院を利用してここに修道会の活動拠点を置き、1236年と1237年に修道会の総会を開催している。この集会で高位貴族などが多数加入したようだ。しかし、コンラートは方伯として所領経営の方に力を入れていたためか、修道会のいかなる官職にも就かなかった。
 1239年3月20日に総長ヘルマンが病死し、コンラートが新たな総長として就任した。チューリンゲン方伯家支配の最高潮と言ったところだろう。それと、それまでの総長はミニステリアーレンなど低位の者だったが、ここで始めて貴族の、それも高位貴族の家の出身者が総長に就任したのである。しかし、これといった活動の記録は残されていない。コンラートの治世の間にプロイセンで幾つかの城を建設しただけで、それすらもコンラートの関与するところではなかっただろう。理由は二つある。一つはコンラートが方伯であり修道会の仕事に専念できなかったであろう点、そしてもう一つに治世が短かったことが上げられる。コンラートは1240年7月24日にローマで死去し、遺体はマールブルクの聖エリザーベト病院に埋葬された。

注.参考文献

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