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第二代総長オットー (・フォン・ケルペン)小伝
(1200から1209年)



紋章
「Hans-Georg Boehm Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens 1198-1618 FRANKONIA 1990」17頁より

 オットーは同時代史料にはオットーとしか記録されておらず、「ケルペンの」と言う部分が加わったのは14世紀初頭頃の記録からのようである。14世紀の史料によるとライン地方出身の貴族らしいが、実際は貴族ではなかったようだ。
 オットーの時世にドイツ騎士修道会はドイツ諸候との結びつきを強め、ドイツ帝国内に足がかりを築くことになる。特に就任早々の1200年ににチューリンゲン方伯ヘルマンからハルの所領を贈られ、ここからチューリンゲン方伯家との深い繋がりが始まることとなる。同年にチューリンゲン方伯家と関係が深いマグデブルク大司教ルドルフからも土地の寄進を受け、その地に病院を建設している。1202年にはトリエント司教からイタリアとドイツを結ぶアルプスの交通の要衝ブレンナー峠の近郊のボルツァーノの病院を贈与され、1203年にはザルツブルク大司教エーべーハルト二世からフリーザハの病院を寄進された。1204年にウィーン、1206年にプラハにも所領を得た。1207年にはツィーゲンハイン伯フリードリヒからライヒェンバッハの教会を寄進された。1208年にはドイツ皇帝オットー四世からニュルンベルクの所領の寄進を受け、1209年にレーゲンスブルクに所領を得ている。1209年にはアルメニアのタルソスの所領寄進を受けている。
 オットー就任以前にもベーメン王オタカル一世や、ドイツ皇帝ハインリヒ六世、キュプロス王アモーリ二世などから土地の寄進を受けてはいるが、オットー就任以後はより多くの諸候からより大規模な寄進を受けるようになり、従来はベーメン王からの寄進を除き寄進所領の大半が地中海岸の十字軍国家と関わりの深い地域ばかりだったが、このころからドイツ内の所領寄進が増大している。ドイツ諸候からの寄進の増大に伴い、ドイツ諸候との繋がりも強くなったようだ。特にチューリンゲン方伯家との繋がりが強くなった。
 オットーは15世紀に作られた記録よると1206年に死去したことになっているが、1208年9月に作られた修道会の文書に彼の存命が記録されており、死去した月が2月である点から1209年2月に死去したと考えられている。遺体はアッコン市に埋葬された。



オットーの時代のドイツ騎士修道会の所領

注.参考文献

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