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第十四代総長ゴットフリード・フォン・ホーヘンローエ小伝
(1297から1303年)



紋章
「Hans-Georg Boehm Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens 1198-1618 FRANKONIA 1990」41頁より

 ゴッドフリードは1265年にフランケンのホーヘンローエ家に生まれた。第七代総長ハインリッヒ・フォン・ホーヘンローエと同じ系統の家である。14才でおそらくメックレンブルクの修道会支部で入会した。入会に際して多額の寄付が行われ、そのおかげでゴッドフリードは最初から早い出世が約束されていた。1290年にはフランケンのラントコムトゥールに就任し、1294年には総長の指名でドイツ長官になる。長官に就任する以前にドイツで有力なコネと勢力を作り上げたようだ。
 1297年5月3日にヴェネツィアの総会で総長に選出された。同時に規約が改正され、海を越えるのには幹部会の承認がいるとした部分が、アルプスを越えるには幹部会の承認がいると改められた。これはおそらく地中海派の最後の抵抗といったところだろう。可能な限り総長をヴェネティア本部に留め置き、聖地十字軍の継続を目論んでのことだろう。そのせいでゴットフリードは1297年の間はヴェネツィア本部に何もせずに留まらなければならなかった。
 しかし、リガ市がリヴォニアの修道会支配を嫌ってリトアニア大公と同盟したことで事態が急変する。翌年の1298年にはリトアニア大公はリガ市近郊の侵攻し、周辺の修道会施設を破壊して数千ともいわれるキリスト教徒を捕縛し、60名の修道会士を処刑した。これに対してリヴォニア長官ブルノが攻撃を仕掛けたが、6月1日にリガ市近郊のトリーデナーで敗退して22名の会士と共に戦死した。
 ゴッドフリードはリガ市との戦いの報を受けるとすぐに本部を離れてドイツで軍を募り、5月には援軍をつれてプロイセンに到着した。リトアニア大公との戦いはケーニヒスベルクのコムトゥールのベルトルド・ブリュハーベンの指揮で続けられた。戦いのさなかの6月15日にゴッドフリードは中立を保っていたクルムラント司教と協定を結び、リガ市を孤立に追い込む。リガ市は唯一の同盟者リトアニア大公と共に戦い続けたが、ノイエルメーヘルンの戦いで敗退して修道会に制圧された。この後、リガ市とリガ司教は現地での武装闘争を諦め、教皇庁に修道会の不法を訴え、法廷闘争へと戦いの場を移している。こちらの戦いは両者自身の主張を繰り返しただけで結論の出ないままうやむやになっている。
 8月16日に、今回の戦いの結果を踏まえてゴッドフリードはリトアニア大公との戦いについて不拡大方針を指示する。この決定はバルト海地域の会士に不評であったが、当面は守られていたようだ。戦いはリトアニア、修道会共に百名から多いときには千名前後の襲撃隊を相手の支配地域へ送り込んで砦を破壊し、村を襲い、守備隊や住民を皆殺しにして見せしめにする形がとられるようになる。襲撃された側は追撃隊を出して待ち伏せなどにより、敵の襲撃隊に反撃を加えている。リトアニア大公は襲撃目標を修道会に絞ることなく、ポーランドにも度々襲撃隊を送っている。修道会の記録によると6000名もの兵がポーランド襲撃に参加したこともあった。当時のポーランド諸侯は修道会と協力してリトアニア大公に対抗している。しかし、ゴッドフリードの戦火不拡大方針の下、十字軍の招致は積極的に行われなかったため、修道会は慢性的な兵力不足の状態にあり、リトアニア大公の攻撃に対して防戦一方に追い込まれていた。
 1299年6月26日にゴッドフリードの方針に不満を持つバルト海地域の会士がプロイセンのエルビングに集まり、総長に対する不満の声を上げた。当時ゴッドフリードはヴェネティア本部にいて報告を受けたが、不満の声を無視した。実はヴェネティアでも不満の声が上がっていた。こちらではまだ聖地奪還の希望を抱く会士がおり、さらにはヴェネティアや地中海地域の所領で安穏な生活になれて困難な戦いのまつバルト海地域へ行きたがらない会士も数多くおり、バルト海地域への肩入れを快く思わない勢力が存在していた。ゴッドフリードはバルト海派と地中海派の中間にたち苦しい立場に陥っていたようだ。
 1299年の後半にはプロイセンを視察したが、すぐにウィーンへ行き、ドイツのバライの経営とリガ司教との法廷闘争に臨んでいる。
 1302年にバルト海地域の会士の不満の声に答えてリヴォニアのメーメルで行われた総会に出席し、ここで辞職を迫られて総長の職を辞した。しかし、ゴッドフリードには本気で総長の職を辞する気がなく、それに気がついたバルト海地域の会士たちは1303年に再びエルビングで総会を開き、ヴェネティア本部の五大長官やプロイセン、リヴォニア、ドイツの三長官も集めてゴッドフリードに総長辞任の宣言を行わせ、新総長としてジークフリート・フォン・フォイヒトヴァンゲンを選出した。
 それでもドイツに戻るとゴッドフリードは総長を自称してベーメン王やドイツ王などに修道会支援を働きかけるなどの外交やドイツのバライ経営など総長としてドイツでの活動を続け、1309年11月19日にマールブルクで死去した。

注.参考文献

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