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第十三代総長コンラート・フォン・フォイヒトヴァンゲン小伝
(1291から1296年)



紋章
「Hans-Georg Boehm Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens 1198-1618 FRANKONIA 1990」39頁より

 コンラートの出身ははっきりしていないが、ミニステリアーレスの家の出で1230年頃に生まれたと考えられている。コンラートが史料の上ではじめて現れるのは1259年で、バライ・オーストリアのラントコムトゥールの職に就いていた。その直ぐ後に聖地の本部へ赴任し、財務関連の役職に就いていたようだ。1271年にモンフォール城陥落にともない、本部を離れてオーストリアのラントコムトゥールに戻った。
 1279年4月末にリヴォニアとプロイセンの両長官職に就任した。ちょうど、プロイセン長官コンラート・フォン・ティーベルク(エルター)が病死し、リヴォニア長官エルンスト・フォン・ラッツェブルクがアシェリデの戦いで戦死してほぼ同時に両職が空いたためである。それと、セミガリアの反乱制圧とサモギア征服を目指してプロシアとリヴォニアの両地域から共同攻撃を行う計画があったのも兼任の理由のようだ。両役を兼任するのは困難であるとしたところから、プロイセンではコンラート・フォン・ティーベルク(ユンゲレ)が補佐につき、リヴォニアではゲルハルト・フォン・カッツェンエレンボーゲンが補佐についた。特に、プロイセンでの活動は経験豊かなコンラート・フォン・ティーベルクに一任されていた。コンラート・フォン・フォイヒトヴァンゲンは両地域の総括責任者として活動していたようである。但し、修道会は大規模な軍を用意できず、敵方の諸族は遊撃戦で応じてきたところから、両軍共に小さな戦闘集団を組織して互いに相手の無防備な村などを襲う遊撃戦の様相をていした。プロイセン副長官コンラート・フォン・ティーベルクはリトアニアとプロイセンの間のズダウエン攻略に重点を置いて大規模な遊撃戦を展開し、防衛拠点の整備を行っている。
 結局、コンラートは両役の兼任は無理があると総長に上申して、1280年にはプロイセン長官職を辞職してリヴォニア長官職に専念した。プロイセン長官の後任には幹部会の指名したマンゴルト・フォン・シュテルンベルクが任命されてプロイセンへ送られた。
 コンラートの直接指揮ではないが、セミガリアのドブレインに対する二度の攻撃が行われ、この地を占領して大きな戦果を上げている。それに対する報復としてセミガリア軍はリガ市を攻撃して修道会軍をおびき出し、リガの戦いでリヴォニア副長官ゲルハルト・フォン・カッツェンエレンボーゲン率いる軍に打撃を与えた。この戦いでゲルハルトが戦死している。1281年冬にリガ司教やドルパット、リール、リガ市の協力で一万四千名と伝えられる大規模な軍を起こし、コンラート自ら率いてセミガリアへ向けて遠征を行っち。セミガリアの幾つかの砦を攻撃した段階で、セミガリアの主要な族長達が和平を求めて修道会に帰順したので遠征は終了した。この遠征を最後にコンラートはリヴォニア長官職を辞した。後任にはプロイセン長官のマンゴルト・フォン・シュテルンベルクが就任し、両長官職の兼任が続いたが、マンゴルトが1283年に死去してからは両長官の兼任は行われなくなった。
 両長官職を退いたコンラートは1282年1月にフランケンのラントコムトゥールに就任し、1284年にドイツ長官に就任した。ここではドイツ王ルドルフ・フォン・ハプスブルクとの関係を重視し、財政状況の好転に尽力した。小規模な資産は売り払い、例えば、1288年5月1日にヴィンネデンの所領を教会に売り払うなど、更には私財を投じてドイツ長官管理の所領増加に務めたようだ。財政状況を好転させる為にバライ・チューリンゲン−ザクセン問題で総長ブルヒャルド・フォン・シュヴァンデンの大幅な介入を認めざるおえなくなり、1287年5月のフランクフルト・アム・マインでの大集会で総長の意見をのむことになった。この頃、総長は聖地に重点を置いて活動していたが、コンラートはバルト海地域に重点を置いていた。この意見の対立から総長と衝突することがたびたびであり、総長が聖地防衛の兵の準備を要請した際に、コンラートはその要請に積極的には応じなかった。聖地への総長との同行も拒否している。
 1290年に総長が聖ヨハネ修道会に逃亡すると修道会内の聖地派とバルト海派の対立が激しくなり、総長不在の状態が続くことになる。
 1291年にアッコンが陥落すると聖地派は勢いを失い、バトル海派が優位を占めることになり、1291年6月頃にバルト海派の主要会士はニュルンベルク近郊で会合し、コンラートを総長に選び、1291年10月にベネティアの集会で正式に総長に選出した。同時に修道会の新たな本拠地がベネティアに定められることになった。これは聖地派との妥協によるもののようだが、修道会がバルト海へ向かう流れが変わる可能性はこの辺りでほぼなくなったと考えられている。
 コンラートは新たな本拠地をドイツに移してドイツ長官と総長を一つに統合しようと考えていたようだ。ベネティアへの移動も本格的な移動の準備と捉えていた。しかし、本拠地をドイツに置くこくもドイツ長官と総長の兼任も、バルト海地域の会士の反対に遭い、1294年頃までには断念し、1294年中頃にゴットフリード・フォン・ホーヘンローエをドイツ長官に指名した。
 1292年にフランクフルトで大集会を開いて自ら草稿を書いた新たな規則を導入することに成功している。基本的に修道会所領に関する規則だったようだ。ドイツ王はルドルフからアドルフ・フォン・ナッサウに変わったが、引き続き王とは良好な関係を保つべく努力が払われ、王からの外交的な依頼を幾度となくこなしている。
 1295年から96年にプロイセンへの視察に行き、この段階で聖地での活動の放棄がほぼ決まった。プロイセンでは大規模な衝突はなくなっていたが、リトアニアとの国境付近での遊撃戦が続いていた。
 1296年7月2日か5日にプラハへ行く途上、ドロボヴィツで死去し、ここに埋葬された。
 コンラートの時期で重要なことは聖地から引き揚げバルト海地域に全力を注ぐことに決まったことであろう。コンラート自身は軍事的才もそれなりにあり、行政能力が高い有能な総長であったと評価されていたようだ。

注.参考文献

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