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第十二代総長ブルヒャルド・フォン・シュヴァンデン小伝
(1283から1290年)



紋章
「Hans-Georg Boehm Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens 1198-1618 FRANKONIA 1990」37頁より

 ブルヒャルド・フォン・シュヴァンデンは1245年に生まれた。ブルヒャルドの父、ルドルフ・フォン・シュヴァンデンは自由貴族の家の出であったが、ブルヒャルドは貴族の地位にはなかった。ブルヒャルドは父の後押しで1268年頃にベルンの市民権を得ている。同年にルドルフはドイツ騎士修道会にベルン近郊のケーニッツの資産を寄進して息子のブルヒャルドを修道会に加入させた。この寄進のおかげでブルヒャルドは1275年にはケーニッツのコムトゥールに就任し、1277年にはバライ・チューリンゲン−ザクセンのラントコムトゥールに昇進した。ここでの活動で、行政官としての能力を高く評価されたようである。そして、1281年にはマールブルクのコムトゥールに就任し、聖エリザーベト教会の建設に着手している。この教会は1283年末頃に完成しているが、ブルヒャルドは完成を待たずして聖地の本部から呼び出しを受けて聖地へ旅立っている。
 1283年8月19日にブルヒャルドはアッコンの本部で総長に就任した。まず、ブルヒャルドはバライ・チューリンゲン−ザクセンの分割問題に取り組んだが、上手くいかなかった。この問題を取り上げたのはラントコムトゥール時代に両バライを一人で管理することの困難を味わったからなのだろう。1286年にドイツに渡った。この旅は幹部会の許可無く海を渡ってはならないとする規則を破って強行されたもので、ブルヒャルドは聖地の修道会幹部達の支持を取り付けることに失敗したようである。そこで、ドイツの会士達の支持を取り付けるべく1287年5月にフランクフルト・アム・マインで大集会を開き、当初の目標であったバライ・チューリンゲン−ザクセンの分割に成功した。どうも、ドイツの修道会士と聖地の修道会士の間に亀裂が生じていおり、ブルヒャルドの支持基盤はドイツの修道会士にあったようだ。ちょうどこの案件と前後して3月にリトアニアの支援を受けたセミガリア人の修道会領侵攻が起こり、ウークスキュルの戦いでリヴォニア長官ヴィレンキン・フォン・シューアボルトが戦死した。そこで、ブルヒャルとはフランケンとシュバーベンで軍を募ってプロシア行き、1288年2月にはエルビングで次のリヴォニア長官としてクノ・フォン・ヘルツォーゲンシュテインを選出して軍を整えた。しかし、ブルヒャルドは自ら北方十字軍を指揮することはなく、干渉も殆どしなかったようだ。各長官は独自の裁量で活動し、だいたいこの辺りからプロシアでは後に「軍旅」、俗に人間狩りとか言われるリトアニアへの襲撃遠征が始まっている。この軍旅の準備としてプロシア長官の主導でリトアニア境付近に多くの砦が建設され、船や少数の襲撃部隊による攻撃法が整備されていく。
 1288年4月6日には新任のリヴォニア長官に後を任せて再びドイツに戻り、バライ・ザクセンのメルゼブルクでドイツのバライ再編にとりかかっていた。10月11月にマインツでドイツの修道会士を集めて総会を開き、新規則を可決させた。プロシアとリヴォニアの修道会士達はこの新規則に反対の立場を取り、聖地、ドイツ、バルト海岸の修道会士の間の亀裂が表面化してしまう。
 明けて1289年初頭にルドルフ・フォン・ハプスブルクの要請でローマへ行き、皇帝戴冠を実現すべく運動した。この運動を通して、多くの高位諸侯と友好関係を築くことが目的だったが、過去の総長達に比べればささやかな成功を収めたに過ぎなかったようだ。
 1289年の中頃には再びドイツのバライへ戻り、十字軍の勧誘を行っている。しかし、僅かな支援しか得られず、兵もさほど集められなかったようだ。次代の総長で、当時はドイツ長官のコンラート・フォン・フォイヒトヴァンゲンは十字軍に反対だったらしく、総長との同行を拒否している。1290年中頃にブルヒャルドはイタリアで聖地へ向かう船に乗り、3日後にアッコンに到着して直ぐにドイツ騎士修道会を脱会して聖ヨハネ騎士修道会に入会している。なぜ、ブルヒャルドがドイツ騎士修道会を捨てて聖ヨハネ騎士修道会へ走ったのかはよく分かっていない。ドイツ騎士修道会と聖ヨハネ騎士修道会の合併を画策して失敗した為だともいわれている。
 1291年5月18日にアッコンが陥落したが、この時、ブルヒャルドは聖地にはいなかった。1298年にスイスの聖ヨハネ騎士修道会領の管理人に就任し、1308年までその役に留まり、1310年に同地で死去した。

注.参考文献

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