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第十一代総長ハルトマン・フォン・ヘルドルンゲン小伝
(1273から1283年)



紋章
「Hans-Georg Boehm Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens 1198-1618 FRANKONIA 1990」35頁より

 ハルトマンはザンガースハウゼンの貴族の家の出である。ハルトマンの父、ハルトマンは1202から1225年の間、チューリンゲン方伯の封臣だった。ハルトマンは1210年に生まれ、1234年に後に第五代総長になるコンラート・フォン・チューリンゲンやチューリンゲン方伯家に関わりのある者達と共にドイツ騎士修道会に加入した。ここで、ハルトマンはチューリンゲン方伯家に関わりのある者達を集めて強力な派閥を作り上げている。
 1236から1237年には刀剣騎士修道会の合併に関する交渉に参加し、翌年にはザクセンのラントコムトゥールに就任した。1240年にハインリッヒ・フォン・ホーヘンローエの後を受けてドイツ長官に就任したが、一年で再び職を引き渡している。恐らく、一時的に代理を務めたと言うところだろう。1255年にはプロイセン長官ボッホ・フォン・オステルナの副官を務めていたが、いつまで務めていたかは分かっていない。1261から1263年と1266年に副総長を務め、聖地での修道会の活動を統括していた。この時期、聖地はアイン・ジャールートの戦いでエジプトのマムルーク朝が勝利して大きな危機が迫ってきていたため、総長アンノ・フォン・ザンガースハウゼンが直に指揮を執ることが多くハルトマンは総長不在時に一時的に指揮を執るといった程度だった。
 1273年7月8日に前代総長のアンノ・フォン・ザンガースハウゼンの死去に伴い総長に就任した。総長になってからは聖地に留まり、プロイセン、リヴォニア、ドイツの各地域は各々の長官に任せきりだったようだ。
 ハルトマン就任直後にプロイセンで最期の反乱が勃発したが、修道会にとりさほど脅威とは映らず、むしろ支配強化のチャンスと捉えられたようだ。総長自ら十字軍を斡旋するまでもなく、プロイセン長官の権限の範囲内でどうにかなるレベルだった。リヴォニアではリトアニアとの戦争が本格化し始め、幾分脅威が増していたが、アンノ・フォン・ザンガースハウゼンの時期と異なり、ロシアやプロイセンとの連携があるわけでなく、ことらもリヴォニア長官の権限内でどうにかなるレベルだったようだ。それでも、アシュリデで大敗を喫してリヴォニア長官が戦死する事態などが発生している。聖地ではマムルーク朝と十字軍国家の間で結ばれた停戦期間中で大きな問題は起こらなかった。
 ハルトマンは1282年にメルゲントハイム行き、1283年8月19日に死去し、ここに埋葬された。恐らく病気療養に戻ってそのまま死去したということなのだろう。ハルトマンの死去した辺りでプロイセンの反乱は終わり、プロイセン征服が完了する。ほぼ同時期に、リトアニアに対する遠征が開始され、リトアニアとの全面戦争に突入した。
 修道会内で強力なチューリンゲン派の庇護の元で出世し、総長へ登りつめたといった感じで、表だった活動は余りしていないようである。恐らく、事務方タイプの総長だったのだろう。

注.参考文献

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