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第十代総長アンノ・フォン・ザンガースハウゼン小伝
(1256から1273年)



紋章
「Hans-Georg Boehm Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens 1198-1618 FRANKONIA 1990」33頁より

 アンノ・フォン・ザンガースハウゼンは1210から1220年の間にザンガースハウゼンで生まれたと考えられている。アンノの父はゴスヴィンのミニステリアーレスで、チューリンゲン方伯ヘルマンに仕えていたが、1216年にはドイツ騎士修道会に加入して任務に就いていた。恐らく、第三代や四代総長と同様にチューリンゲン方伯の命で修道会に加入したのだろう。アンノも父の後を継いで修道会に加入したのだろう。
 アンノは1254年にリヴォニア長官に就任した。長官に就任して最初にメーメル防御強化を打ち出し、サマイテン地方攻略の橋頭堡にしようとした。これに対してサマイテン人が反発し、メーメルを巡り幾度か戦いが行われた。アンノは積極的に攻勢に出てサマイテン地方の押さえ込みに成功している。クールラント防衛の強化も企画したようだが、こちらはあまり上手くいってない。
 1256年に総長の呼び出しを受けてローマへ行き、総長の後継に指名された。アンノの就任当時、プロイセンの反乱は鎮圧され、リヴォニアは安定し、リトアニアも含めて隣国とは良好な関係にあり、新たな土地の取得も順調に進んでいた。聖地もモンゴルの西進のおかげでイスラーム勢力の活動が低下していたために安定していた。順調な滑り出しを切ったといえる。
 1257年1月に修道会本部があるアッコンに到着した。1258年10月9日にテンプル、ヨハネ騎士修道会総長と会談し、ドイツ騎士修道会の地位を確認している。
 1259年頃から状況が変化した。ショーテンで修道会軍が敗北して情勢が不利になると、リトアニア大公が修道会との同盟を破棄して不穏な動きを示し始めた。そして、1260年に情勢が一変する。7月13日にドイツ騎士修道会軍はリトアニア大公と戦い、ドゥルベで大敗を喫した。この敗戦がきっかけとなり、プロイセン全土で大規模な反乱が発生した。聖地でも9月3日にアイン・ジャールートの戦いでエジプトのマムルーク朝がモンゴル軍を打ち破り、モンゴルと同盟していた十字軍国家に対する攻撃の口火が切られることになる。聖地とバルト海岸両方で同時に危機が訪れたのである。ただし、聖地においては直ぐに危機が認識されることはなかったようである。
 アンノはプロイセンの危機を訴え、1260年11月に聖地での全権を副総長ハルトマン・フォン・ヘルトルンゲンに委ねて、1261年3月にアッコンを離れ、4月にクールラントに到着した。その間にも、修道会はポカルベンや、ドヴィナで大敗を喫している。ローマ教皇ウルバヌス四世も修道会の報告を受け、エルムラント司教アンゼルムを教皇特使に指名して十字軍の招集を指示した。1261年に辺境伯エンゲルベルトとユーリッヒ伯率いる大規模な十字軍がプロイセンへ向かい、スクルニーンでプロイセン軍を撃破しているが、この程度で情勢が逆転することもなく、修道会の不利は明らかだった。アンノは1263年頃までプロイセンに留まり、プロイセン防衛の対策を司令し、建て直しに尽力したが、不利な情勢は変わらず、この年にもレーバオの大敗で軍事長官やプロイセン長官が戦死している。更に1262年にはノヴォゴロド公も修道会に対して戦いを挑み、再三に渡って侵攻を繰り返すようになった。但し、負けてばかりでもなく、デュナミュンデではリトアニア軍に一矢報いることに成功している。バルト海岸地域での危機的な状況の中、聖地の本部から緊急の呼び出しがかかり、アンノは聖地へ向かった。
 聖地の十字軍諸国はヴェネティアとジェノバの戦いが飛び火して不穏な状態に陥り、同時にマムルーク朝の活動も活発になり、危険な状態に陥りつつあった。そこで、修道会本部は総長を召喚して対策を協議することにしたのである。そのせいで、1264年中は聖地で本部のとりまとめに奔走しなければならなくなった。
 1265年にようやくプロイセン十字軍の準備作業に戻ることができ、この年はドイツの諸バライを巡って十字軍の組織に奔走し、1266年初頭にブランデンブルク辺境伯と共にプロイセンに入った。この年の十字軍は成果無く終わったが、1267年にもアンノはドイツの諸バライを巡って十字軍の組織を行い、ベーメン王を十字軍へと勧誘することに成功している。だいたいこの辺りから、十字軍の到来が増加し、プロイセン諸族の活動も低下し、戦況は修道会側が有利な方へと傾き始めた。焦土作戦が功を奏してプロイセン側の動員能力が低下し、逆に修道会側には多くの十字軍が来訪して兵力の逆転が生じたと言うところだろうか。それでも、優位はまだ決定的な段階にはなく、リトアニアやノヴォゴロドによる侵入も相次ぎ、ドルパットではノヴォゴロド軍との戦いで引き分けに持ち込まれ、オーゼル島でリトアニア軍に敗退してリヴォニア長官が戦死している。
 プロイセンでの状況がよくなり始めたところで聖地の状況は一気に悪化した。マムルーク朝のスルタン・バイバルスが本格的に十字軍諸国への攻撃を開始したのである。そのせいで、アンノは聖地に釘付けになる。1271年にはドイツ騎士修道会の本城ともいえるモンフォール城が攻撃を受けた。アンノはモンフォール城防衛のために聖地諸候に働きかけ、ヨハネ騎士修道会に協定に基づき援軍を出すように要請したりしたが、なんら成果を上げることができず、6月にモンフォール城は陥落した。モンフォール城が陥落したことで修道会はアッコン以外の主要な拠点を全て失い、聖地防衛に力を注ぐ理由を失った。これにより、ようやくアンノにドイツへ行く許可がおりた。
 アンノはドイツでマイセン伯ディートリヒ二世を中心にした十字軍を組織してプロイセンへ送り出した。この十字軍の到着に伴いプロイセンでの反乱は完全に鎮圧された。アンノはプロイセン十字軍には同行せず、1273年1月には故郷のザンガースハウゼンにいた。そして、6月8日に死去してここに埋葬された。
 アンノは歴代総長の中では飛び抜けてはいないが、かなり有能な総長として評価されている。聖地とバルト海岸の両方で同時に危機を迎えながら、それなりに対処し、危機を乗り切ったということろだろう。



アンノの時代のドイツ騎士修道会のバルト海地域の所領

注.参考文献

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