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ドイツ騎士修道会背景資料 ドイツ・ハンザ

目次
 主要文献
 主要論文
 参考文献
 参考論文
 史料集
 未読文献
 未読論文

注.
ドイツ・ハンザ同盟に関連する記述のみ紹介(紹介というよりは感想文)。
各項目毎に著者名の50音順に表示。
国外の著者については国内の著者の後にアルファベット順に表示。
著者複数の場合は、最後尾に表示し、表題をキーとして配列。
著者名の次に出版年代をキーとして配列。
値段は参照した本に提示されたもで、現在の価格と異なる可能性あり。

主要文献

  1. 阿部謹也著 ドイツ中世後期の世界 未来社 1974年 ¥5800
     各所にドイツ騎士団とリューベックとの関係の記述が散在し、227から237頁に14,15世紀のハンザ内のダンチッヒを中心としたプロシア都市グループの動向が記述されている。ハンザ史というと、リューベックを中核としたヴェント都市グループの事が中心になりがちだが、プロシア都市グループの動向を中心に見てみるとまた変わったハンザ史が見えてきて面白い。例えば、イギリス、オランダ商人のバルト海進出はヴェント都市グループにとってはやっかいな問題であったが、プロシア都市グループにとっては歓迎すべき事だった等など。この部分は視点を変えたハンザ史といったところである。  

  2. 酒井昌美著 ドイツ中世経済史序論 学文社 1989年 ¥−
     118から133頁にハンザの四都市(ウィスマール、ロストック、シュトラールズント、グライスワルト)についての論文の紹介がある。134から149頁にポンメルンの穀物輸出を中心にバルト海貿易を論じた論文の紹介がある。  

  3. 斯波照雄著 中世ハンザの研究 勁草書房 1997年 ¥3400
     14、15世紀にハンザの主要都市で発生した騒乱の経過と、原因を分析している。原因の分析過程で中世都市と周辺諸侯との関係や、ハンザ都市の支配者層の外交と内政、手工業者と商人層等の階層の状態や相互の関係等が解説されていて、最盛期のハンザ都市の内情が見えてくる気がする。分析に際しては、各種のデータが表やグラフとして示され、直接、或いは間接に参照した文献もリストになっており、使いでがあり、信頼性も高い様に思われる。ある特定の期間の一群の事件のみを扱った研究ではあるが、副題の「ドイツ中世都市の社会経済構造と商業」の商業を除く部分を展望できる良書だ。商業については、かなり省かれている様に感じた。副題には、商業の部分を社会階層と変えて銘打った方が良かったのではと思える。  

  4. 高橋理著 ハンザ同盟 教育社 1980年 ¥1000
    ハンザの通史としては最良の書。ハンザの中心的都市リューベックの歴史を中心にハンザに纏わる事件を追い掛けたり、各所のハンザ商館の状態の解説、実際の数字による貿易の解説等、通史以外の部分もそれなりに充実。但し、都市法に纏わる部分は簡単に触れているだけ。

  5. 高村象平著 ドイツ・ハンザの研究 日本評論新社 1959年 ¥470
    高村象平著 ハンザの経済史的研究 筑摩書房 1980年 ¥2600

    ドイツ・ハンザの商業、特に他国との経済的な闘争に焦点をあてて解説している。全体は4部に別れていて、最初がドイツ・ハンザの本質、簡単に言うと都市同盟ではなく、一種の経済団体だった、別の言い方をすると現在の商工会議所みたいなものと言う感じだろう。次がイギリスと北欧諸国との関係で、イギリス商人とは対立し、デンマーク商人などは圧倒していたと言うところ。第3が主にオランダ商人にハンザが市場を奪われていく様子が描かれている。この部分の最後はデンマーク政府と商人の攻勢に合い、デンマーク市場も失っていく様が記述されている。この中に、高村象平著 オランダ商業資本のバルト海進出に就いて 三田学会雑誌 31巻12号 1914年も収録されている。最後は新世界発見に始まる新たな交易関係にハンザがいかに関わったかが論じられ、ハンザが既得権維持のためにいかにドイツ皇帝を利用しようとしたかが論じられている。ハンザは新世界貿易にも間接的ながら積極的に参加しようとしていたようだ。そして、ドイツ皇帝を利用するという政策はほぼ完全に失敗したようだ。結局、国家という強大な軍事力と市場を持つ組織をバックアップに持つことが出来なかったことがハンザ衰退の一因のように見うけれられた。ハンザの対外政策を概観できる。  

     
  6. 高村象平著 ドイツ中世都市 一条書店 1959年 ¥480
    高村象平著 中世都市の諸相 筑摩書房 1980年 ¥2800

     リューベックを例に取り、ドイツ都市の状態を解説した本で、全体は5編に別れている。ドイツ・ハンザに関係あるのは、最初の3編と4編目の最初の章だけ。最初にリューベックの建設とその後のリューベックの支配領主の変遷、バルト海諸都市の建設が解説され、続いてドイツ植民の解説がある。第2編にリューベックの都市領域の拡大の解説と都民の土地所有の実態についての検討がある。市域拡大の原因をリューベック市民の土地投機と市の市域拡大政策に見ているようだ。第3編で穀物や塩の取引の解説があり、船舶の共同所有の解説が続き、最後にダンチヒの造船業の解説がある。15世紀末、ダンチヒ市はフランスの大型船を目の当たりにし、それまでの130トンクラスのコッゲ船から倍以上の大きさを持つフランスのクラヴェール船の建造に乗り出している。第4編の最初の章にリューベックの手工業者の解説がある。総じて、市会に力を抑えられていたようだ。  

  7. 山田作男著 プロイセン史研究序説 風間書房 1982年 ¥8600
     ハンザの中心的都市リューベックで形成され、ハンザ諸都市へ広がっていったリューベック法を都市法としているプロイセン内の各都市の法制史が135から157頁にある。215から223頁にはドイツ騎士団の琥珀貿易の概説がある。一応ドイツ騎士団もハンザの一員である。

  8. フリッツ・レーリヒ著 魚住昌良/小倉欣一訳 中世ヨーロッパ都市と市民文化 創文社 1978年 ¥1800
     ハンザを中心に、ヨーロッパ中世都市の繋がりや、市民の生活等の社会を論じている。ハンザについては、ハンザ登場の背景や、13から14世紀における封建領主との関係、16世紀にオランダ商人のハンザに対する優位の背景とハンザの衰亡、ハンザ市政の研究、ハンザ商人の生活など実に様々な研究が掲載されている。編集方法は、項目毎にハンザを中心にその件を論じるという形なので、他地域との違いもある程度分かる。

  9. Philippe Dollinger著 D.S.Ault/S.H.Steinberg訳 The German Hansa ROUTLEDGE 1999年
     ドイツ・ハンザの概説書として最良のものとして知られている。全体は大まかに分けて3部に分けられており、最初の章は12から14世紀のハンザの創成期と成長期に当たり、次の章は14と15世紀のハンザの黄金期にあたる。最後の章は15から17世紀のハンザの衰退期を記している。付録として手紙などの比較的短い史料を集めた史料集が付いている。記述は通常の歴史概説書と異なり、事件史や政治史の概史ではなく、個々のハンザ都市を例に取りながらその時代のハンザ諸都市の状態や交流、人口などが解説されている。ハンザ諸都市の状態だけでなく、当時の北方貿易の全体像などの解説もある。ハンザ都市のリストと所在地を示す地図が掲載されており、このリストが現在でもハンザ都市特定の基本的な史料として使われている。個々の節の記述については下記の主要論文の中の影山氏の論文の中にそのまとめがある。現在、日本ハンザ史学会において邦訳が行われている。

主要論文

  1. 板垣晴朗著 イングランド商人のプロイセン進出とハンザ都市リューベック ヨーロッパ研究2 1998年
     イギリスとハンザの関係を概説的に論じた論文で、大まかに分けてドイツ商人のイギリス進出からハンザによるドイツ商人のイギリス貿易のコントロールに至る部分と、イギリス商人のプロイセン進出から定着までの部分の二つに分かれている。当初はケルン商人がイギリスへ進出し、数々の特権を手にしたが、後に他のドイツ諸都市の商人達が進出し、ケルン商人と合同してイギリスで本国から自立した独自のハンザを作り上げた。イギリス商人の地位が上昇することでイギリスのハンザ商人の地位が脅かされ、イギリスのハンザは本国の保護を求めなければならなくなり、独自性は失われた。イギリス商人の活動は更に飛躍し、彼らはプロイセンへ進出し、ここでハンザを脅かすほどの地位を得る。この背景にはダンツィヒ市を中心としたハンザのプロイセン都市グループと、リューベックを中心としたヴェント都市グループの利害の対立がある。プロイセン都市グループは生産者的な立場にあり、イギリスと直接貿易することを望んでいた。ヴェント都市グループはプロイセンとイギリスの中間に立って中継貿易で利益を出していた。イギリス商人がプロイセンの諸都市へ来訪することでプロイセンはイギリスとの直接貿易が可能となり、ヴェント都市グループはイギリス商人に利益を奪われることとなる。イギリス商人のプロイセン来訪によりハンザ内の対立が顕在化し、ヴェント都市グループの貿易の減少が始まったとされる。ハンザとイギリスの関係を概観するのによい。

  2. 稲本格著 中世リューベックの都市制度Stadtverfassung−−W.Ebel,Lubisches Recht I,1971に依拠しつつ−− 阪大法学 第105号 1978年
     「W.Ebel著 Lubisches Recht I 1971年」の要約といえる論文で、リューベック市政の構造を解説している。基本的に市参事会と裁判所の構成についての解説が主であるが、市民集会や封建領主が都市市政に介入するための役人ともいえるフォークトについての解説もある。リューベックは帝国自由都市であるために周辺諸侯の影響は小さく、都市運営は市参事会が取り仕切っているといっても過言ではない。市参事会員は会員による推薦で就任し、任期は無期限である。市の主要な役職、例えば市長とかは市参事会員が毎年持ち回りで担当し、彼らの補佐のような形で終身の小役人もいた。これらの終身の役人が後に行政の専門家として「官僚化」していったようである。リューベックは裁判権も掌中にしており、都市君主によるフォークト裁判の影響が極めて小さかったようだ。流血裁判、流血を伴う事件や流血を伴う罰を扱うのは現代日本の高等裁判所に当たる、下級裁判所で、元はフォークト裁判であり、都市君主の支配下にあったようだが、市参事会に権限が移る過程で下級裁判として成立したようだ。下級裁判の上には現代日本の最高裁のような参事会裁判がある。下級裁判での判決に不服がある場合に参事会裁判へ上告が可能だったようだ。そして、もっとも下級な裁判として参事会員が自らの職責に関わることを裁く小裁判があった。ここでは罰金刑に値すると考えられた軽罪を審理していた。そして、最後の一つが特別裁判で前記の裁判が全て市壁内の事件を扱うのに対し、この裁判は市壁外の事件を取り扱い、様々な種類があった。例えば市壁外のリューベック領では軍務官が統括する軍務裁判があり、この裁判は軍務官の小裁判ではあったが、下級裁判と同等の刑を科す権限を有していた。市民集会は市民の全体集会ではあるのだが、発言できたのは有力者ばかりで市民の意見を十分に汲み取れるものではなかったようだ。最初のフォークトは最初の都市君主たるハインリヒ獅子公のミニステリアールで、後に帝国自由都市になってから、権限が縮小されていったようだ。そして、市参事会員、あるいはその下の役人がフォークトを役職名として使うようになり、本来とは違う意味でその名が使われるようになっている。他に帝国フォークトという役職が作られている。これはリューベックを保護する義務を負う代わりにリューベックから税を受け取る諸侯を指している。税の額は750マルクで変化せず、帝国フォークトは市政に介入することが禁止されていた。リューベックの市政の概要を知る上で有用である。 

  3. 稲本格著 中世都市リューベックの領域政策研究序説 法制史研究 第32号 1982年
     14世紀のリューベックの領域取得政策について論じた論文で、基本的にリューベックの領域政策を、リューベックの事情として通商路の安全確保とし、土地を売却する領主の事情として経済的困窮を上げている。その二つを前提として、ホルシュタイン伯からのゼゲベルク獲得と、ザクセン・ラウエンベルク公からのメルン獲得、ベルゲンドルフ獲得の三例が検討されている。この三地域はリューベックからハンブルクに至る北海とバルト海を繋ぐ重要な通商路に当たっている。ホルシュタイン伯は領地の売却を一時的なこととして捉えており、リューベックもそれを心得てかゼゲベルクでは組織的な占有は行われなかった。逆にメルン、ベルゲンドルフはザクセン・ラウレンベルク公の経済的困窮や方針から買い戻しの心配が無く、組織的な警備組織が作り上げられている。更に、市民個人による獲得も盛んに行われたようだ。リューベックの領域政策の研究史と具体的事例を眺めることが出来る。

  4. 稲本格著 十二・三世紀のリューベック市における市民自治の展開−−B・アム・エンデ説の検討−− 近畿大学近大法学第31巻第1−3号 1983年
     リューベックの建設からだいたい十三世紀末までのリューベックと周辺諸侯、特にホルシュタイン伯との関係と都市参事会の発展をレーリヒ説の批判とエンデ説の解説を通して分析している。レーリヒによればリューベックはハインリヒ獅子公の要請により遍歴商人団が建設したことになっているが、エンデはハインリヒ獅子公以前のホルシュタイン伯支配期、既に都市共同体が存在し、ハインリヒ獅子公の特権状により市参事会の母胎たる市民委員会が設置されたとしている。ハインリヒ獅子公以後、リューベックは主にホルシュタイン伯の影響下にあったが、市は伯支配からの離脱を目指し、他の近隣諸侯に税負担を条件に軍事的な保護を求めていったようである。リューベックが固有の軍事力を備えるに従い、諸侯に保護を求める政策は放棄され、貿易ルート周辺の土地取得と砦建設による領域政策が進められるようになる。十二から十三世紀のリューベックの外交史概説としても読める論文である。

  5. 小野寺利行著 中世ノヴゴロドにおける「外人裁判」の変遷とハンザ商館の衰退 駿台史学101 1997年
     ハンザのノヴゴロド商館とノヴゴロド人との間に起きた係争を解決する為に、ノヴゴロドとハンザ間の条約により設置された裁判所の、主に15世紀の状態を論じている。この裁判所の規定は13世紀の条約に現れる。問題はこの条約文からは裁判を司る者がノヴゴロド人だけなのか、ハンザの代表も参加するものなのか特定するのが困難なことにあるようだ。この論文では両者の代表が裁判を司ると解釈している。15世紀に入ると、裁判を司るのはノヴゴロド人だけとなりハンザ側にとって不利な裁判が展開されていたようである。その原因としてハンザ商館代表不在の場合が多いことと、当時勃興してきたノヴゴロド商人や貴族のハンザに対する反発、非ハンザ商人の進出によるハンザ商業の衰退などがあるようだ。特にハンザ商館代表の職務は激務であり、ハンザ商人の間ではこの職を避ける傾向があったようだ。その後、商館代表の使用人が代表の代行を勤めるようになった。商館代表不在の長期化は商館代表の権威を落とす結果となったようだ。この裁判所の状態を見るに15世紀に入ってからのノヴゴロドにおけるハンザ勢力の衰退は明かのように見える。

  6. 小野寺利行著 12世紀末−13世紀後半ノヴゴロドの対ハンザ通商条約 比較都市史研究19−1 2000年
     ノヴゴロドとハンザの間に結ばれたヤロスラフ文書と、アレクサンドル文章と呼ばれる条約の成立年代を検討した論文で、その成立年代をヤロスラフは1191/92年、アレクサンドルは1159/60年と結論している。この両文書の現存する原本は一つの羊皮紙に書かれていたのだが、この原本は1268/69年に行われたノヴゴロドとハンザとの間の和平条約の際に史料として使われたもののようだ。13世紀中頃はドイツ騎士修道会の拡張期に辺り、ドイツ騎士修道会とノヴゴロド公は何度となく衝突を繰り返していた。1268年にドイツ騎士修道会はリューベックを通して和平交渉を行い、同時にハンザに対して対ノヴゴロド貿易の封鎖を要請している。ハンザはこの要請に基づき貿易を封鎖し、和平交渉を行っていたようだ。この最中に作られたのがここで取り上げた原本のようだ。1270年にハンザとノヴゴロドの交渉はまとまり、両者の基本条約として成立し、この条約は15世紀にノヴゴロドがモスクワ大公国に吸収されるまで維持されていったようだ。ドイツ騎士修道会−ハンザ−ノヴゴロド公国の三者関係の一端をも見せてくれる論文である。

  7. 小野寺利行著 中世ハンザ交易におけるノヴゴロドの内陸輸送 比較都市史研究23−1 2004年
     バルト海岸からノヴゴロドに到る輸送状況について1268/69年の条約文をもとに検討した論文。13世紀にはバルト海の貿易はハンザ商人が独占しており、ノヴゴロド商人ははじき出されていた。しかし、バルト海からノヴゴロドに到るルートでは、ハンザ商人はノヴゴロドの喫水の浅い船とノヴゴロド人労働者を使って商品の輸送を行っていた。輸送ルートは大まかに分けて陸路と水路の二つあり、陸路は複数ある。水路はフィンランド湾からネヴァ河、ラドガ湖、ヴォルホフ河を経由してノヴゴロドに到るルートである。この論文ではこの水路について検討を行っている。ハンザ商人はネヴァ河でノヴゴロドの船に商品を載せ換えるが、この船はノヴゴロド人の船でならず、もし事故などで輸送に失敗したり商品が失われても賠償を請求することは出来なかった。ノヴゴロド船のチャーター料は商品を積んでいる片道分だけでなく、商品を取りに行く行程も含めて往復分払うことになっていた。トラブルが発生した際には損害はハンザ側が引き受けなければならないと言う所だ。ハンザ側が不利な条件で取り決めがなされている。比較対象としてスモレンクスの例が出ているが、こちらではハンザ側が損害賠償を請求することが可能だった。ノヴゴロドより有利な条件で商業を営んでいる。

  8. 影山久人著 中世末葉ニュルンベルク・リュベック間交易事情の一班 京都外語大学コスミカ7 1977年
     15から16世紀のニュルンベルク商人のリューベック貿易への関わりを数家のニュルンベルク商家を例に取りながら分析した論文で、リューベックの他都市の商人の閉め出す政策に対し、ニュルンベルク商家はリューベック商人と提携したり親族の一部をリューベックに移住させて支店経営を行うが、リューベックの締め付けが更に厳しくなると、今度は家の大半がリューベックに移住した。本店をリューベックに移し、ニュルンベルクに支店を残す形にしてニュルンベルク、リューベック間貿易を営んだのである。ニュルンベルク、リューベック貿易は南北通商路の一つとして機能し、南方から紙や織物が送られ、ニュルンベルクの地場製品たる、武器や工芸品等も輸出された。リューベックのみならず、リューベックを通したハンザの南ドイツ交易の一端が垣間見える。

  9. 影山久人著 ハンザ都市リューベック市における都市会計記録の一斑 京都外語大学コスミカ12 1982年
     「リューベック市文書集成」から拾い出したリューベックの財政関係記録の分類を行った論文で、19の文書を4種のグループに分けている。序文でリューベック首脳部、市5役の簡単な解説がある。グループ分けは基本的に年代順に行われている。例外は最初のグループでこれは断片集みたいなもので、15編がここにグループ分けされている。ここを見るに記録は14世紀迄、ラテン語で書かれ、15世紀からドイツ語で書かれるようになったようだ。

  10. 影山久人著 ハンザ都市リューベックの財政収入(1407/08年)に関する若干の覚え書き1−3 京都外語大学コスミカ13−15 1983−85年
     「影山久人著 ハンザ都市リューベック市における都市会計記録の一斑 京都外語大学コスミカ12 1982年」で分類した史料を主に収入面から検討している。最初の論文では初期のリューベックの収入の検討で、その過程でリューベック建設から十四世紀中頃に行われたメーレン市やオルデスレー市支配迄の概史がある。次の論文で、鋳貨、裁判、水車経営、葡萄酒販売等の本来両者や国王に属するレガリア収入について論じている。リューベックのレガリア収入権を会得する過程がフリードリヒ二世による帝国自由都市特許状からレガリア収入権の完全会得まで概観される。そして、レガリア収入額の一端も解説されている。最後の論文でリューベックの市場の構造とそこからあがる収益が検討されている。 

  11. 影山久人著 中世都市リューベックの財政収入−−1407/08年会計記録における若干の項目をめぐって 比較都市史研究4−2 1985年
     1407から1408年のリューベックの会計報告から都市所有市場施設の徴税や市場施設がどのように利用され、どのような役人が管理したのかを簡単に検討した論文。都市が所有市場からどのような、そしてどのように徴税を行っていたのかを調べるのに使えそうだ。主に都市財政担当役人たるケメライに焦点を合わせているように見受けられる。財政を管理するのはケメライだが、実際に徴収に携わるのは商工警察たるウェッテだったようだ。

  12. 影山久人著 リューベック都市財政の一斑−−とくに1407/08年歳入諸項目をめぐって 比較都市史研究4−1 1985年
     1984年に行われた比較都市史研究会での発表の要約で、リューベックの都市財政について報告。全体は四つの項目に分かれており、最初は都市領主収入の権利の取得について述べられている。鋳貨権と裁判権、水車利用料徴収に関税は領主の権利とされていたが、リューベックはこれらの権利を順次買い取っていき自らのものとした。次が都市所有売場の利用料収入について、第三が葡萄酒取引による収入、第四が直接税についてが述べられている。極めて短く簡単な要約なので、都市収入の一端を知るのには都合がよい。

  13. 影山久人著 ハンザ成立事情の一班−−D.Ellmersの所論に依拠しつつ 京都外語大学コスミカ16 1986年
     現在、ハンザ成立は1159から1161年の間にウィスビーからリューベックの間で成立したとするのが通説らしい。この論文ではシュレスウィヒの海の勢力とウェストファーレンの陸の勢力がリューベック再建で結びつくことになったのが初期ハンザが示した飛躍的な発展の要因であり、これこそがハンザ成立であるとしている。その端的な例が、コッゲ船上で握手する船乗りと陸の商人が握手している図を描いたリューベックの市印である。

  14. 影山久人著 ハンザ都市リューベックのにおけるホップの生産、流通に関するノート 京都外語大学コスミカ17 1987年
     リューベックの市域で行われていたホップ栽培とホップ貿易について論じている。リューベックのビールは質が低いことで知られており、リューベックで生産されたビールは安ビールとして都市内で消費されていた。その都市内で消費するビールを生産するのにも事欠くほどホップの生産量は小さく、ホップの大半は輸入に頼っていたようだ。しかし僅かながらだが、輸出されたこともあるようだ。ホップに関わる税を見る限りではホップの価格は年と共に高騰していったようだ。ホップが高騰したと言うことはリューベックの安ビールですら高騰するほどにドイツのビール消費量は大きかったのかもしれない。

  15. 影山久人著 ハンザ都市リューベックの周辺農耕地について 京都外語大学コスミカ18 1988年
     初期のリューベックの財政収入の一つ、都市所有の農耕地からの収入をケメライ帳簿の記録から読み取ろうとした論文で、前半は記録の状態が解説され、後半で農地からどのように収入を得ていたかの検討で基本的に農地売却か賃貸により収入を得ていたようだ。この論文では帳簿に記載されている19件の貸し出しが検討されている。1件以外は全てリューベック市民に対する貸し出しである。本格的検討前の前設定のような論文なので概略に留まっている。

  16. 影山久人著 ハンザ都市リューベックの”境域村落”について 京都外語大学コスミカ19 1989年
     14世紀のリューベックの都市財政帳簿を元にリューベックに帰属する村落を徴税形態から類型化を試みた論文で、まず買い取りにより徴税を免れることが出来る村と、買い取りが禁止された村に分け、買い取りが出来る村を更に既に買い取られた村と、まだ買い取られていない村に分類している。しかし、買い取り不能な村と、買い取り可能だがまだ買い取られていない村の差はかなり微妙なようだ。買い取りの例が幾つかあるが、村全体を一括して買うのではなく、一部が一個人に買い取られるのが主な様だ。

  17. 影山久人著 盛時ドイツ・ハンザ都市についての覚え書き 京都外語大学研究論集41 1993年
     ハンザ都市の構成を論じている。ハンザ都市は大きく分けて2つに分けられる。一つはハンザ総会に参加し、財政的貢献をなしたりと積極的にハンザに関わった都市、もう一つはハンザ特権の享受のみにあずかった消極的な都市である。前者は大凡70あり、後者は130くらいある。そして、地域的には盟主リューベックを中心としたウェンド諸都市、ザクセン諸都市、ウェストファーレン諸都市、ライン及びネーデルラント諸都市、ドイツ騎士修道会領及びスウェーデン諸都市の5つに分けられる。ハンザ都市の概観を掴むのによい。

  18. 影山久人著 ドイツ・ハンザ都市の人口と社会構造についての覚え書き 京都外語大学研究論集43 1994年
     ハンザ都市の人口構成を論じている。エルベ以西では全人口がドイツ人だが、エルベ以東は外来のドイツ系が主だが、現地人たるスラブ系や外来のスウェーデン人もかなりの割合に及んだようだ。中にはドイツ人より現地人の方が多い都市もあったようだ。都市支配層は商人が主であり、支配者層の入れ替わりは安定していたところから激しいところまで様々なようだ。

  19. 影山久人著 盛時ドイツ・ハンザ商人について 京都外語大学研究論集45 1995年
     ハンザ商人の財産規模や商業形態、経営形態を論じている。ハンザ商人は西方の商人達に比べ、資産は小さかった。ハンザ商人で最も大きな資産を持つブスマンでさえ資産は四万マルクに過ぎず、これは中世最大の商人フッガー家の資産の十分の一に過ぎず、これより遙かに小さいながら大商人たるフランクフルトのシュタールブルクの二分の一に過ぎない。初期のハンザの経営形態は遍歴商人であり数人の従者と共に商品を売り歩いたようだ。それが都市に定住して代理人を使って商売を営むようになった。これには商人達の読み書き能力の向上が大きな力になったようだ。ハンザ商人の経営形態には簡単に言って出資者と経営者が別の場合と、同じ場合があった。多くの場合、数人が出資し、出資者の一人か二人が経営者となり、利益と損失は出資額に応じて享受し、負担した。

  20. 影山久人著 盛時ドイツ・ハンザの船舶について 京都外語大学研究論集49 1997年
     ハンザ商人が使用した船舶について論じている。最初はコッグと呼ばれる四角帆一枚の平底船で、時代と共に大型化していったようだ。14世紀にはホルクと呼ばれる新たな方の船が使われるようになった。他に、リューベックやダンツィッヒ周辺で行われた水路の掘削について論じている。

  21. 影山久人著 ドイツ・ハンザの信用取引に関するノート 京都外語大学研究論叢50 1998年
     ドイツ・ハンザ商人の信用取引や銀行に対する態度を論じている。ハンザ商人は基本的に信用取引を嫌う傾向があり、銀行も創設の動きは何度かあったが全て失敗している。ハンザ商人が信用取引を嫌った原因は表向き信用取引の悪用の横行だが、実際の所は信用取引により外来商業勢力が入り込んでくることを恐れていたためのようだ。

  22. 影山久人著 最期ハンザ(ウェンド)都市の人口構造の一班 京都外語大学コスミカ28 1998年
     ロストック市のショース徴税帳簿を基に15世紀の財産による人口構成を分析した論文で、全住民を納税額に応じて9段階にわけ、それを最下層、下層、中層、上層、最上層の5段階にわけて表にしている。但し、特別課税があった年には、他の年度に比べて中層が増大している。最上層についても市の公職に着いているものは免税されたので実際よりも数値が小さくなっている。この表を見る限り、中層、下層が最も多く、両方でだいたい70%以上を占めている。中層はだいたい手工業者で、下層は日雇いや、住居をもたないものだったようだ。商人は上層以上に属していたようだ。

  23. 柏倉知秀著 中世リーフラント・ロシア間の内陸交易−−一三世紀末・一四世紀初頭のハンザ都市リーガを中心に−− 立正大学立正史学86 1999年
     リガ市の債務台帳を元にリーフラントとロシアの内陸貿易について考察した論文だが、本論を構築する前の事前調査的な感じである。債務台帳に記載されている内陸都市や市場に対する債務記録を列挙する形で貿易が行われた場所と産物、産物の産地などの解説が行われている。ここでの結論はどうやら内陸を通してもリガからロシアへ至る遠隔貿易が行われていたようだというところである。データ量が少ないためにこの貿易の規模を推し量ることはできそうにない。

  24. 柏倉知秀著 中世北ヨーロッパ商業圏におけるベー塩取引と海運−−運送契約書の分析−− 北欧史研究19 2002年
     ベー産の塩をバルト海岸都市へ輸送する契約を取り結んだ運送契約書を元にバルト海岸都市のベー塩取引を検討した論文で、ここでは1461年と1488年に作られた二通の契約書が検討の対象となっている。どちらも、バルト海岸都市の商人がオランダの船主にベー塩の輸送を依頼する内容となっている。しかし、この手の契約書は契約完遂後に破棄されるのが常であり、残存するのは契約を完遂できずに訴訟沙汰になった場合だけで、この二通の場合もこれらの契約が実行されていたはずの時期の寄港地の関税台帳にこの契約者の一方たる船主の船は記録されていない。おそらく、契約完遂に失敗したのだろう。運送費は販売価格の50%に当たり、当時いかに運送に費用がかかるのかを改めて認識させられる内容である。ハンザ商人とオランダ商人は対抗関係にあったと言われるが、リヴォニア諸都市はハンザ都市とはいえオランダとは友好関係にあったことが知られているし、この論文に出てきたオランダ都市カンペンはハンザ都市でもあり、他のオランダ都市よりもハンザ系都市からのこの手の依頼も多かったであろうことが想像できる。この論文でもカンペンがハンザのベー塩取引の重要拠点であった点が指摘されている。

  25. 柏倉知秀著 中世ハンザ都市の商業規模−−14世紀後半のボンド税決算書を中心に−− 比較都市史研究23−1 2004年
     14世紀のポンド税決算書をもとに、14世紀のハンザ都市の商業規模と、その順位を検討した論文。これまでの通説では、リューベックを100とすると、プロイセン諸都市(ダンツィヒ、トルン、エルビング、ケーニヒスベルク、ブラウンスベルク、クルムの合計)152、ハンブルク72、シュトラールズント51、ヴィスマル26、ロストク16となっている。単独ではリューベックが突出しているのである。この論文では従来説よりも年代の範囲を広げて算出を行い、リューベックを100とすると、プロイセン諸都市が118、シュトラールズントが84と算出している。プロイセン諸都市は全体のダンツィヒが67.9%をしめている。リューベックを100とすると80になり、三番目に商業規模が大きいことになる。但し、ポンド決算書は記録される都市や年毎の税率などが変化など、欠点も多い。ここで出てきた数値は目安と言う所だろう。結論としてはハンザ都市の中でリューベックが第一位を占め、第二位にはプロイセンの中心商業都市たるダンツィヒというところのようだ。そして、プロイセンでは商業活動がダンツィヒに集中しているが、リヴォニアではリガとレーヴァルに商業が分散している。14世紀後半にはデンマーク戦争でハンザがスコーネ地方の主要な都市や城を占領してからはスコーネ地方が重要な商業地域として組み込まれている。

  26. 片平宣秀著 15世紀ドイツ・ハンザの造船技術と海運の構造変化−−クラヴェール船の導入とその背景−− クリオ12 1998年
     一五世紀後半頃からハンザ商船の主力となったクラヴェール船が導入される原因になった商業的な背景について検討した論文で、その原因をハンザ商業の中心的商品が穀物や塩などの嵩のはるものが増えた点とズント海峡の利用に求めている。ハンザの扱う商品は毛皮や琥珀などのような高価で嵩の張らない商品が減少し、穀物や塩などの安価で嵩の張る商品が増大の一途を辿っていた。それに伴い船舶の巨大化が要求され、商船は巨大化を続けたのだが、一四から一五世紀にかけて従来ハンザで主力商船として利用されてきたコッゲ船は構造上これ以上巨大化ができない所まで来ていた。原因は船体が鎧張りにより作られている点と一本マストであった点である。そこで新たに現れたのが主に地中海方面で利用されていたクラヴェール船である。クラヴェール船は平張り故に船体の強度が高く、帆は四角が二本の三角帆一本の合計三本で従来のコッゲ船より帆が増えた分馬力があり、三角帆の採用により操船も容易であった。それ故に一五世紀後半以降はハンザの主力商船となっていった。しかし、クラヴェール船は一四世紀にはハンザ諸都市の間で知られていたのだが、実際に普及したのは一五世紀後半に入ってからである。なぜなら、それ以前にはコッゲ船で十分に役目を果たすことができたからである。一五世紀後半に入り嵩の張る商品の増大で積載量が限界に達し、海の難所たるズント海峡を利用する機会が増大し操船上の問題が増大したことでコッゲに代わる新たな船が要求されて始めてクラヴェール船の登場となったわけである。

  27. 酒井昌美著 ダンツヒの海上貿易−−一六世紀の北欧・中欧における商品流通の移動−− 帝京大学帝京史学5 1990年
     1970年に発表されたロストックのシルトハウアーの論文を紹介した論文で、十六世紀のダンチヒの出入港台帳を元にダンチヒの貿易について検討している。ダンチヒはハンザの一員だが、リューベックなどのヴァント都市よりオランダなどの西方新興商人勢力との貿易の方が大きい。十四世紀以前は主流を占めたヴァント地方向けの輸出額が六パーセント足らずに落ち込んでいる。この傾向は出入りした船の数に拠るよりも貿易額において顕著だという。貿易は輸出額が輸入額の二倍に登り、貿易黒字を謳歌していたようだ。この論文にはダンチヒの貿易額について原史料からデータを抽出して作られた多数の表も添付されているので、具体的な数値も出そうと思えば出せるように思われる。

  28. 酒井昌美著 対リューベック戦争とリューベック財政 帝京大学帝京史学6 1991年
     1961年に発表されたフリッツェの論文を紹介した論文で、十五世紀に行われたハンザ・デンマーク戦争についてリューベックの戦費調達と支出から検討している。この期間の市の収入と支出を比較すると、戦争中であるにも関わらず、両者は均衡しているか収入が支出を上回っている。この戦争によりズント海峡の使用が困難になり、代わりのルートとしてリューベックを通る陸路が選択されることとなり、リューベックは戦争により利益を得た。これのことによる収入の増大が戦費を容易に調達し得た一つの要因になっていたようだ。そして他の財源として、傭兵税と言われる財産に応じた臨時課税と、消費税が徴収されている。特に、市民全階層に課税が可能な消費税が盛んに利用され、この収入が戦費の二十五パーセント近くを占めるに至ったようだ。財政に関するものだけでなく、戦争の背景や経緯の概説もあり、この戦争の概史としても読める。

  29. 斯波照雄著 15世紀におけるハンザの動向 中央大学商業論叢40−1・2 1998年
     15世紀のハンザの動向について解説している。従来の研究者は15世紀をハンザ衰退の始まりと捉えていたようである。政治的な事件を見る限りではデンマーク戦争の勝利やイギリスに対する闘争の勝利などハンザの力を誇示するような事件は多いが、この時期のハンザの政策は従来から持っていた特権の保持や貿易路の確保など極めて保守的な傾向が強く、さらなる拡大を目指したものではない。この段階で限界に達していたと言える。この論文ではこの辺りの研究史と政治的事件のあらましが解説されている。ハンブルクとリューベックの不動産取引、ともいえるレント取引の増減からハンブルクが増加傾向にあり、リューベックが減少傾向にある点が指摘され、都市毎に繁栄の格差が広がったとことが指摘され、個々の都市では異なる結果が生じたが、ハンザ全体としてみれば都市ごとの利害関係が変化し、ハンザの結びつきが更にゆるむ結果となり、ハンザとしてみるなら分解へ向かう衰退局面に入ったと見ている。

  30. 斯波照雄著 中世末期から近世初期におけるリューベックの商業と都市経済事情 中央大学商業論纂45−3・4 2004年
    15世紀末から16世紀初頭にかけてのリューベックの経済状況を論じた論文。オランダやイギリスの急上昇に較べればたいしたことはないが、リューベックも貿易高は増加しており、船舶量も増加し、貿易からいえばリューベックは発展を続けているし、人口も増加しているが、市政の中核となる高額納税者層や中間層が減少し、低額納税者が増大していたために、税収は減少を続け、市民の所有財産の低下や貿易の利益率の低下が著しく、対抗勢力たるオランダと船舶量を比較しただけでもバルト海貿易の優位を失っていたことが見て取れる。但し、16世紀に入って急激に衰退したと言うことはないようだ。衰退はゆっくりとしたものだったが、ハンザとしての連帯は失われ、リューベックは孤立していったと言う所だろう。前半ではハンザ全体での政治動向の概説があり、後半でリューベックの経済的状況が解説されている。

  31. 高村象平著 オランダ商業資本のバルト海進出に就いて 三田学会雑誌 31巻12号 1914年
     ハンザ衰退の理由の一つとして、オランダ商人のバルト海進出がある。この論文はオランダ都市の発展を追い掛ける形で、オランダのバルト海進出とその商業的地位の上昇、それに伴うハンザ都市の地位低下を論じている。リューベックの衰退につれて、バルト沿岸諸都市は、オランダ側に流れていったようだ。この論文は、論文というよりハンザ衰退に焦点を合わせたハンザ概史といった感じもある。古い割りには読み易い方だが、それでも読み難い...

  32. 高橋理著 ハンザ貿易と絶対王政期イギリスの通商政策 弘前大学文経論叢5−5 1970年
     1474年にイギリスとハンザの間で結ばれたユトレヒト条約以降のハンザとイギリスの関係を概観している。論文の前半はユトレヒト条約にいたるまでの一四から一五世紀のハンザ・イギリス関係の概史がある。だいたいこの辺りからイギリスとハンザの利害の衝突が始まり、イギリス側がハンザ商人がイギリスで享受している特権をハンザ諸都市内でイギリス商人にも認めるようにと主張した双方に平等な形にせよとした「相互主義」が現れた時期とも言える。ユトレヒト条約によりハンザはイギリスにおける特権を守ることに成功したが、イギリスは表面的にはユトレヒト条約を守りながら実質的には特権を有名無実化していき最終的にハンザをイギリスから閉め出すのに成功した。ハンザ特権に対するイギリスの攻勢は華々しいものではなく、余り目立たないハンザ特権に対する侵害行為を繰り返してハンザ特権そのものを有名無実化する手が取られているように見える。一六世紀にはハンザ自体も分裂傾向を示しており、イギリスに対してハンザ全体として抗議することができず個々の都市で対応する形になり結果的にハンザ特権を守ることができなかった。結局、イギリスが一つのまとまった国として国家政策を推進するとした形でハンザに対し、ハンザは中世的な特権を守るとした中世都市としての政策を遂行し、敗退した。ハンザは中世的都市の集合体である以上、中世的特権を守るとした政策以外に取るべき術もなかっただろう。ハンザ衰退期のイギリス・ハンザ関係を概観するのにも良い。

  33. 高橋理著 合同ハンザ成立以前におけるドイツ商人のイングランド貿易−−「商人ハンザ」の一研究として−− 弘前大学文化紀要8号 1974年
     中世初期にイギリスに到来した商人の分析を通してイギリスにおけるハンザ形成の前史を構築している。最初にイギリスに到来したドイツ商人はライン方面のティールとかケルン商人でその中で、当初は自らの船を持たず低地地方や北部フランス商人の船に乗って到来していたが、後に自らの船で到来するようになる。そして、外国商人の中でケルン商人がイギリスに定住したり、地方に進出することで優位に立ち独自の特権を得るに至る。但し、ケルン商人は商取引量の大きさにより優位に立ったのではなく、定住と地方への進出というイギリス全域に浸透する形でイギリスにはなくてはならぬ商人としての地位を築くことで特権を手にした。ハンザ成立以前でハンザ形成に重要な役割を果たすことになるケルン商人優位の確立を解説した感じの論文である。

  34. 高橋理著 初期ハンザ時代におけるヴィスビの生成 弘前大学文化紀要12号1 1978年
     ヴィスビが都市として成立した状況や年代の検討を行っている。ヴィスビはドイツ商人によって建設されたとするのが、通説であり暗黙の了解だったようだ。しかし、建設年代には12と13世紀の二つの説があり、著者は前者を支持している。ヴィスビがドイツ人が作ったものとする説には意外に根拠が薄く、この論文によるとゴットランド人の都市にドイツ人が進出し、ゴットランド人を商業から排除していき都市を自らのものとしていったようだ。13世紀初頭頃からドイツ人定住者と非定住者の違いが意識されるようになっている。13世紀以降、ヴィスビが対外条約を結ぶ際の条約文にはヴィスビのドイツ人のことしか現れず、対外的には完全にドイツ人の都市として意識されていた事が伺える。ヴィスビのゴットランド人とドイツ人は守護聖人が異なり、各々が異なる教会を持ち、異なる人種であるとの意識を持っていたようだ。初期のヴィスビのゴットランド人とドイツ人の関係を概観した論文と言った感じである。

  35. 高橋理著 13世紀ヴィスビ・ドイツ商人による北方通商法の確立 史学雑誌88編11号 1979年
     ハンザ都市の一つでゴトラント島の都市ヴィスビがバルト海周辺地域でで慣習となっていた「決闘裁判」や「漂着物取得権」破棄の権利をいかに取得していったかを他地域の都市や地域と比較しながら論考している。「決闘裁判」とは、当事者の決闘で事の善悪を定めようという、騎士物語等ではよく出てくる裁判方で、武力行使を嫌う商人には合わない。「漂着物取得権」とは、拾った物は拾い主の物とする法なのだが、そうなると沿岸諸侯は、自領に商品が流れ付く事を期待して自領の傍で商船を攻撃しかねない。そこで、落とし物は落し主の物であると規定すべく、「漂着物取得権」を破棄する必要があった。その為に、ヴィスビでは教皇や諸侯に様々な働き掛けを行ないこの権利を取得したのである。

  36. 高橋理著 成立期の中世ハンザ都市ロストク(Rostock)−−urbsからcivitasへの進展 山梨大学教育学部研究報告第一分冊人文社会科学系43 1992年
     ロストクが初めて史料に現れた1160年から都市特許状の再確認が行われた1250年までのロストクの状況を概観した論文である。当初ロストクはキリスト教との砦として史料に現れてくるがどうも守備隊が配置されただけの砦と言うよりは一種の定住地だったようだ。メクレンブルク公の植民者誘致政策でドイツ人はもとよりデーン人や、周辺地域のスラブ人も招かれた。この時の植民では原住民たるスラブ人を排除する形ではなく共存する形で植民は進んだようだ。この段階ではロストクはメクレンブルク公の強い影響下にあり、都市としては自立していない。13世紀中葉にリューベック・ヴィスマルと同盟したことにより対外的な影響力を強め都市参事会を整えたことで都市として自立した。ロストク市成立の時間的流れを都市の公文書を元に追いかけた概史といった感じである。  

  37. 高橋理著 中世ハンザ都市ロストクの初期ラート 山梨大学教育学部研究報告第一分冊人文社会科学系44 1993年
     13世紀おけるロストックのラート成員の職業構成を各種都市文書に現れるラート成員の名前から分析している。従来説では創成期の都市の実権は商人が握っていると考えられていたが、ロストクでは違ったようだ。ラート成員の一部に職業名が記載されており、その職業の大半が手工業者であり、その中でも皮革業のある一族が有力者としてラートに多くの人を送り込んでいる。逆に明らかに商人と思われる成員は殆どいない。ロストクの初期のラートの状況が分かり易い。ロストクは商業都市と言うより、産業都市といった感じに見える。ラート成員の人名リストなどの史料もそれなりに掲載している。  

  38. 高橋理著 ハンザ都市リューベックの帝国直属と13世紀の教皇庁−−もう一つの「直属」 山梨大学教育学部研究報告第一分冊人文社会科学系48 1997年
     13世紀にリューベックが帝国都市となった辺りからのリューベックと教皇庁の関係をリューベック市の収集していた教皇庁、皇帝関係の文書から論じた論文で、その史料をリューベック宛に直接送られた文書と、リューベック市へ直接送られた文章ではないが、リューベック市が何らかの方法で入手した文章と、区分けしてリューベックが教皇庁の動きにどの程度注目しているかを分析している。この論文を見る限りではリューベック市は皇帝の動向より教皇庁の動向に注目していたようだ。そして、教皇庁の側もリューベックに数々の保護を与えたりしてリューベック市に特別な関心を抱いていたようである。逆に皇帝はリューベックに格別なにかの保護を与えるということはおろか、それほど関心も払っていなかったようだ。同様にリューベックも皇帝より教皇庁の方に関心を払っていたようである。私などは北方十字軍の関係上、皇帝、ドイツ騎士修道会、リューベックの三角関係が密に行われていると考えていたが、この論文を見る限りではむしろ三角の一角をなすのは皇帝ではなく教皇のように見えてくる。

  39. 谷澤毅著 近世初頭のバルト海貿易−−リューベックとダンツィヒ 早稲田大学経済学研究35 1992年
     15から16世紀のリューベックダンツィヒの貿易状況をポンド台帳土地と投錨税台帳から分析している。両税は、ポンド税は貿易路警備費用調達が目的で、投錨税は港湾施設整備費用調達が目的の目的税で、前者はハンザ諸港を使用する船と商品に、後者は船に課税するものであり、その際、船の荷や目的地、船籍などが記録され、現在ではハンザの貿易状況を調査するのに盛んに使われている。この論文ではダンツィヒとリューベックについて別々に章を設けて主に船籍と目的地から両港がどこと貿易をしていたのかを分析している。15世紀からはダンツィヒに入港するオランダ籍の船が増大し、リューベックからダンツィヒへ或いは逆へ向かう船が減少し、リューベックは近隣のハンザ諸都市との貿易が中心となり、ダンツィヒはオランダとの貿易が中心におかれるようになっていったようだ。特に、ダンツィヒはドイツ騎士修道会からポーランド王国へ上級支配諸候が代わった為に、以前より大きな市場をより障害の少ない状態で利用できるようになり、そこへ西の巨大市場への直接アクセスが可能なオランダ商人が到来した為に貿易高そのものも大幅に増大している。リューベックはオランダ商人のバルト海進出によりバルト海での販路を奪われたとはいえ近隣諸港との取引を強化することで逆に貿易高が増大している。この論文では、この点についてさらなる検討が必要だとしている。15から16世紀にかけて、オランダ商人の進出によりダンツィヒとリューベックの貿易関係が疎遠になったのは確かなようだ。

  40. 谷澤毅著 近世リューベックのスウェーデン貿易 北欧史研究10 1993年
     16から17世紀のリューベックとスウェーデン間の貿易の変化について論じている。バルト海におけるリューベックの独占が崩れた後の16世紀に至ってもストックホルムからのスウェーデン貿易はリューベックとダンチッヒの独壇場だったが、17世紀に入る頃からストックホルムはリューベックを経由せずに直接西欧と貿易を行うようになり、ハンザ都市との貿易が縮小していった。リューベックは17世紀に入ると、ストックホルムではなくそれ以外の南部スウェーデン都市との貿易を拡大させている。「谷澤毅著 近世バルト海南西海域における商業関係−−ドイツの対デンマーク商業を中心に−− 北欧史研究15 1998年」と合わせて読むと面白いことが見えてくる。16世紀以降リューベックはバルト海と北海を結ぶ主要貿易港としての地位は失ったが、デンマーク、スウェーデンなどの地方都市との貿易を拡大し、バルト沿岸地域の中央市場としての地位を得たと言えるように見える。スウェーデンの産物は鉱物が多くその中でも銅の輸出が最も多かったようだ。リューベックからスウェーデンへ輸出された商品は日用雑貨や食料が主であった。

  41. 谷澤毅著 ハンザ盛期におけるバルト海・北海間の内陸交易路−−リューベック・オルデスロ−ハンブルク 社会経済史学63−4 1997年
     リューベックとハンブルクを結ぶルートとその間で行われた取引の内容を論じている。リューベックとハンブルクの間は大きく分けて2つの陸路かトラーフ川を使ってオルデスロー迄行き、そこから陸路を取るかシュテクニッツ運河からエルベ河へ抜ける水路の三通りのルートがある。最も一般的なのはオルデスロー迄水路を使い、のこりは陸路で行くことらしい。この論文では主に14世紀のリューベック・オルデスロー間の流通状況が検討されている。オルデスローからリューベックへ送られる商品の主力は毛織物で、他の商品から抜きん出て多い。しかし、リューベックからオルデスローへ送られる商品には抜きに出て多い物はなく、多くはバターや鰊などの食料や密蝋や樽などの雑貨である。表や図も多用されているので貿易ルートや流通状況を掴み易い。

  42. 谷澤毅著 近世バルト海南西海域における商業関係−−ドイツの対デンマーク商業を中心に−− 北欧史研究15 1998年
     16から17世紀のリューベックの商業範囲についてリューベックに出入りした船の規模や行き先などを記録した関税台帳から検討した論じている。15世紀までリューベックを出入りする船はまさにバルト海岸全体に及んでいたが、16世紀以降はデンマーク沿岸部からの船ばかりとなっている。船の規模も小さいものが主となり、多くは数人で操る短距離の沿岸航行を目的とした小型船ばかりである。扱う商品も農産品や魚介類などデンマークの地方産品や日用雑貨が主となり、デンマークの地方民が地元の産品を売り、日用雑貨品を購入すると言った形が主になっているようだ。16世紀以降リューベックはバルト海商業の中心からデンマークの中央市場と言った位置に変化したように見える。具体的な数値データも多数あり、ハンザ衰退後のリューベック商業の姿を描いた論文だと言える。

  43. 谷澤毅著 15世紀末リューベックのバルト海商業−−デンマークとの取引関係を中心に 長崎県立大学論集32−4 1999年
     15世紀のリューベックとデンマークとの貿易を1492から1496年にバルト海の治安維持を目的に徴収されたポンド税台帳の記録を元に分析している。リューベックの対デンマーク貿易はリューベックのバルト海貿易高の12%を占め、第一位のリブラントの45%、プロイセン20%に比べるとそう大きなものではなかった。対デンマーク貿易ではリューベックがリューネブルク産の塩をデンマークに輸出し、デンマークから塩漬け鰊を輸入し、その塩漬け鰊をヨーロッパ各地へ輸出していたようだ。リューベックの鰊の輸入量はデンマークからの全輸入総額の60から90%を占めている。同様にデンマークへの輸出総額の50%近くが塩である。そして、この時期デンマークに対して常に貿易赤字の状態にあったようだが、デンマークから輸入した鰊を他へ転売することでそれを越える利益を上げていたようだ。

  44. 谷澤毅著 ハンザ転換期におけるバルト海情勢と商業−−ハンザ・オランダ・デンマーク−− 長崎県立大学論集38−4 2005年
     14世紀から15世紀のハンザとオランダ、ハンザとデンマークの関係について主に政治史の観点からまとめた論文。第一次デンマーク戦争が勃発した14世紀中頃にはハンザとオランダの間には深刻な対立はなく、ハンザにとってはデンマークこそが脅威であった。むしろ、この頃はオランダはハンザと共同歩調を取っているようですらある。ただし、ハンザの一体性のなさという意味での弱点はこの頃からすでに現れている。15世紀に入る辺りになり、オランダの中にハンザに対立的になってきた都市が現れてくる。この辺りで親ハンザ的なオランダ都市をゾイデルゼー都市と呼び、反ハンザ的な都市と区別して見るような見方が現れてきたようだ。15世紀頃には対立が明確になり、禁輸などのハンザ側の対オランダ政策が見られるようになる。デンマークはハンザに対抗する意味でオランダに接近するようになった。そして、15世紀前半に行われた第二次デンマーク戦争時にオランダが表立ってではないにしろ、デンマークを支援し、オランダとハンザの対立がはっきりしたものとなる。そして1430年にはオランダとハンザの直接対決が起こっている。この流れの中で、ハンザの中で比較的一体性を保っていたヴェント都市グループでさえ、歩調の乱れが現れるようになっている。ヴェント都市グループだけでなく、他の都市グループにも歩調の乱れや対立が見られるようになっている。例えば、ドイツ騎士修道会とポーランドが争った13年戦争の時、プロイセン都市グループはポーランドを支持したが、リヴラント都市グループは修道会支持にまわり、ヴェント都市グループは中立を保っている。ハンザとオランダ、デンマークの関係を概観した概史のような感じで、主にハンザとオランダの関係が解説され、そこにデンマークがどのように関与し、ハンザ内では都市グループがどう反応したかといった感じで描かれている。

  45. 千脇修著 イングランドに於けるドイツ・ハンザの形成 早稲田大学西洋史論叢12 1990年
     イギリスでハンザ団体がどのように形成されていったかを論じている。12世紀中頃、最初にケルン商人達がイギリス国王より特許を得た。13世紀中頃にハンブルクとリューベック商人達が特許を得て、同世紀末頃にはケルン商人達と合流してハンザとして一つのまとまりとなってイギリス王に対したようだ。年代毎に原史料の邦訳とその解説を中心に、そこから読みとれるイギリスにおけるハンザの変化の流れを示している。イギリスにおいてハンザは何らかの団体としてまとまってイギリスへ到来したのではなく、個々に到来したドイツ商人達によって自然発生的に形成されていった物に見える。ハンザ形成史の一端と言ったところだろう。

  46. 千脇修著 イングランドにおけるハンザ特権の確立過程−−いわゆる「商人憲章」(1303年)をめぐって−− 北欧史研究10 1993年
     1303年に外国人商人に対して国内商人と同様の特権を認める旨宣言した「商人憲章」がどのような過程でドイツ・ハンザ商人だけに認められる特権となったかを簡単に検討した論文。当初この憲章は外国商人全体に対して新たな関税をかける代わりに付与された特権を宣言したものだが、ハンザ商人達はこの宣言以前に既にこの憲章で定められた特権をハンザ特権として得ていたので憲章による利益はなくむしろ新関税により打撃を受ける立場にあったので憲章に反対の立場を取ったようだ。1347年に新たな関税が定められるとハンザは新関税を拒否する法的な根拠としてこの「憲章」を持ち出し、1354年には「憲章」をハンザ固有の特権に仕立ててしまい、イギリスにおけるハンザ特権を確立した。この後、ハンザはイギリス王から特権を取得していく立場から、イギリス王から得た特権を守る立場に立つ。

  47. 松浦道一著 アングロ=ハンザ包合関係の一考察−−とくにユトレヒト条約について−− 広島大学史学研究97 1966年
     イギリスとドイツ・ハンザの関係を概説的に綴った論文で、主に15世紀後半の状況を解説している。最初は個々にドイツ商人がイギリスを訪れ特権を得ていき、14世紀にドイツ商人達はドイツ・ハンザとして合同した。同世紀にイギリス商人達もようやくステープル制度を返して合同し始め、ハンザとイギリス王が対立する事態も起こるようになる。バラ戦争期中、基本的にハンザとイギリスは戦争状態にあったが、同時に進行していた内戦で不利な側がハンザと結んで巻き返しを計る事が度々起こっている。ハンザ側もこの状況を上手く利用してイギリス王家に対する影響力を強め、イギリス・ハンザの講和条約たるユトレヒト条約でハンザ側に一方的に有利な条件を押しつけるのに成功している。その結果、イギリス商人の活動範囲はイギリス、オランダ間に制限される事となり、ハンザは従来の特権と貿易路を守る事を主眼においた保守的な政策に陥る事となり、後にイギリス商人の西へ向けての躍進とハンザの衰退を準備する事となったという流れのようだ。

  48. 斯波照雄/谷澤毅/柏倉知秀/小野寺利行/根本聡著 日本におけるハンザ史研究の動向と現状 比較都市史研究23−1 2004年
     近年の日本におけるハンザ研究を商業史、都市史、東欧史、北欧史の4つのジャンルを各方面の専門家が紹介している。どのジャンルでも基本的にスタートラインは増田四郎先生と、高村象平先生ということになる。商業史の研究が最も盛んなようで、高橋理先生により研究が深化し、そこから広がっていったという感じである。都市史は主にリューベックとケルンの法制史を中心に展開した感がある。それに、市民抗争が加わった形だ。東欧史ではプロイセンにおける研究に始まり、現在ではリヴォニアやロシアでのハンザの活動の研究へと広がっている。北欧史では、ヴァイキングの商業からハンザへと受け継がれたバルト海貿易の研究といった感じで、ヴァイキングの商業が研究の主軸のように見える。

  49. 山舘順著 ハンザ史学の生成−−ラッペンベルクとシュレーツアー−− 理想670 2003年
     ハンザ史学創成期を築いたラッペンベルクとシュレーツアーの研究史をなぞることで二人のナショナリズムの傾向を浮き彫りにしようとした論文。ラッペンベルクは18世紀末頃に医者の家に生まれ、少年期をナポレオン戦争の渦中の中で過ごしている。ベルリン大学で学び、1820年代頃からハンザ史研究に入っている。ハンザを本土ドイツではなく、在外商館で生まれた商人団対であったとする説を基礎づけている。彼の研究は当時のナショナリズムの潮流に乗った形で進んでいるようにも見える。ハンザを通してドイツ人の枠組みを見たと言うところだろうか。シュレーツアーは19世紀初め頃に富商の家に生まれた。1850年代にプロイセン外務省に入省し、同時に歴史学についての研究も発表している。主にドイツ騎士修道会などバルト海岸地域について研究し、ドイツの東方への拡大という視点で歴史を捉えているように見受けられる。ハンザ史がナショナリズムの波に乗って現れてきたといった感じだろう。

参考文献

  1. 秋山裕美著 拷問全書 原書房 1997年 ¥3200
     16から18世紀にかけて行われた裁判に纏わる拷問について紹介した本で、全体は背景、罪、主に自白目的の拷問、刑罰としての拷問の4つの内容の章に分けられている。邦書の引用を例に取りながら個々の罪や拷問法について紹介している。中世や古代からの流れを汲む拷問もあるようだが、16世紀に裁判の形式が整えられ、拷問もそれに合わせて形式化されたように見受けられる。特に、裁判や処罰の形式化が進んだ都市において拷問も形式化したように見受けられる。中世都市裁判の形式化を垣間見たような気がしてくる。形式の定まらない感情の時代より、形式にこだわる理性の時代の方が拷問もより巧緻を極め陰湿になるようだ。

  2. 阿部謹也著 中世の星の下で 筑摩書房 1986年 ¥700
     中世の民衆についての様々な文や論文で構成されたエッセー集である。中世だけでなく、14から20世紀に至る様々な事例が網羅されている。中世関係では中世の人々の心性、例えば価値観、石に対する価値観があり、職業による価値観、犬に関する価値観などの変遷が解説されている。他にも、人と人の結びつきとして兄弟団や共同体における鐘の役割等が解説されている。中世当時のことだけでなく、それを研究する歴史学会の歴史についての文もある。西ドイツに数多くある、研究者の学会とは異なる、市民主導の地域史研究などである。何かを検討した論文と言うより、これから何を研究するのかの指標を示そうとした本のように見受けられる。多くは中世都市を対象としており、ドイツ中世都市民の生活や価値観を知るのに有用と思われる。

  3. 魚住昌良著 ドイツの古都と古城 山川出版 1991年 ¥2300
     157から161頁にハンザの盟主リューベックの歴史がある。ちょっとした都市の物語といったところ。リューベックの見取り図や市庁舎の写真もある。

  4. 海野文雄著 ドイツ中世金融史研究 日本経済評論社 1994年 ¥6400
     14から15世紀のドイツの帝国都市モスバッハにおける市の質入れと年賦金を利用した借入について論じた本。ここではモスパッハが研究対象となっているが、他の都市についての例も引き合いに出しながら、ここで起こった領主や皇帝による都市の質入れや土地や都市の収入の一部を他者に売り払う年賦金の制度を利用した借入がドイツでは一般的に行われていた点が指摘されている。恐らく、ハンザ都市でも同じ様なことが起こっていたのだろう。領主の都市を利用した資金調達法を検討した本と言える。具体的な研究史の解説と、史料の引用を一つ一つ検討する方法が採られているので、借入に纏わる史料の訳が豊富にある。同時に、借入に纏わる裁判についても検討しており、誹謗が裁判の一手段として使われた点が解説されている。その中に誹謗文書の訳も引用されている。都市を質入れした場合、借金の返済を質入れした領主ではなく、質入れされた都市が行うことも有るという点は意外でもある。

  5. 伊藤政之助著 戦争史 西洋中世編 戦争史刊行会 1938年 ¥10
     1191から1193頁にハンザの極めて簡単な概説があり、地図や表もそれなりに用意されているので実に分かり易い。でも、余り役に立たない。

  6. 小島敦夫著 海賊列伝 誠文堂新光社 1985年 ¥2000
     199から218頁にバルト海で暴れ回った海賊シュトルテベッケルの伝記がある。ハンザは1362年のデンマーク戦争中には彼を雇い、それ以外の間は彼を捕らえようと躍起になっていたようだ。海賊とハンザの関係を垣間見せてくれる。史料的にはそれほど見るべきところはないが、面白い読み物ではある。

  7. 五十嵐喬著 イギリス商業史 お茶の水書房 1964年 ¥1000
     34から63頁に11から16世紀に渡る北欧貿易の解説がある。贅沢品は殆どなく、食料とか衣料などの日常品貿易が主であり、11から13世紀が上昇期で、14から16世紀にかけてが下降期と言ったところ。229から247頁に14から15世紀のハンザとイギリスの間で戦われた貿易戦争の分析もある。14世紀末から15世紀中頃にかけてハンザの利害対立、ヴェント都市グループとプロシア都市グループの対立に助けられる形でハンザから大きな譲歩を引き出しているが、それ以降、ハンザが巻き返しに転じ、イギリス商人の北欧貿易は低迷するといったところである。   

  8. 鯖田豊之著 ヨーロッパ封建都市 講談社 1994年 ¥780
     155から159頁にリューベックの建設とハンザ同盟成立の経緯、ハンザの衰亡についての簡単な記述がある。この書は「マックス・ウェーバー著 世良晃志郎訳 都市の類型学 創文社 1964年」の定義に基づき中世の都市の分析をした書なので、ヴェーバーの書と合わせて読む方がよいようだ。

  9. 武田龍夫著 物語北欧の歴史 1993年 720¥
     15から45頁にハンザが活動していた時期の北欧三国の概史がある。王族の政治活動が主で、ハンザとの関係は殆ど出てこない。ハンザが活動していた時期の三国の王朝はカルマル同盟により一体化していた感じである。

  10. 野崎直治著 ヨーロッパ中世史 有斐閣 1992年 ¥1600
     163から176頁にハンザ史の概説があり、172頁にはハンザ都市が盛んに利用したコッゲ船の絵が掲載されている。この当時の絵は物の大きさの対比が妙で面白い。といっても、それほど重要な情報があるわけでもない。簡単な概史といったところ。

  11. 久光重平著 西洋貨幣史 中巻 国書刊行会 1994年  ¥−
     562、659、662、820頁にハンザ都市の発行していた貨幣の写真とハンザの貨幣政策の解説がある。貨幣の発行は都市毎に行うが、相互に貨幣協定を結び貨幣価値を統一していたようだ。

  12. 増田四郎著 独逸中世史の研究 勁草書房 1951年 ¥220
     188から240頁にハンザの成立過程や構造、研究上の問題点等が、極めて分かりづらく書かれている。原因は言葉遣いが古い上に、文の飾りが多過ぎる。その点を割り引いて見れば、ハンザの歴史をコンパクトにまとめた、それなりに読みがいのある本である。でもやっばり、古すぎる...

  13. 増田四郎著 西欧市民意識の形成 増補版 春秋社 1969年 ¥1300
     都市を中心に中世世界を論じた本。主にマックス・ウェーバーの都市研究を土台に論を進めているようだ。都市の成立から発展、社会、制度等が論じられている。その中で北欧系都市と南欧系都市という区別がなされ、前者でハンザが例に取られたり、論じられたりしている。南欧系都市はイタリア諸都市が中心になっている。ハンザはイタリア諸都市と比べられたりもしている。ハンザ研究ではなく、中世都市を知る為の本と言ったところ。

  14. 増田四郎著 都市 筑摩書房 1994年 ¥900
     元版は1968年に出た本。90から133頁に中世都市の二つの形態について論じた章があり、その中で117から133に経済的な面での比較があり、ハンザは主にそこで論じられている。ハンザ諸都市はイタリア諸都市と相反する一つの形態として論じられる。イタリア諸都市の商業とハンザ諸都市の商業系体の違いは価格についての統一体系があったかいなかにあるらしい。そして、そのような体系ができあがった背景として、イタリア諸都市が扱う商品は生産過程はおろか何処で取れるのかも判然としない嗜好品ばかりで、定価らしい定価もつけられなかったが、ハンザの扱う商品は食料や毛織物等の低価格の生活必需品が主であり、商品は産地から直接手に入れるので、必要経費の算出が容易で、物が物だけに価格を低く抑える必要から価格体系が整えられたと論じられる。実際にはハンザ側はハンザだけでなくオランダなどの低地地方やイギリス、フランスの諸都市まで含む商業圏として論じられているようである。

  15. 宮川淑著 西洋経済史 法学書院 1981年 ¥1200
     39から41頁にハンザの概説があるが、単純化が甚だしい。

  16. 牟田和男著 魔女裁判 吉川弘文館 2000年 ¥1700
     だいたい15から17世紀にドイツで行われた魔女裁判を裁判制度や法学思想の観点から具体的な例を挙げながら解説している。裁判を実施する側として魔女裁判は扱い辛くやっかいな存在であったようだ。魔女裁判が頻発した時期は裁判制度も大きく変化してきた時期で、この裁判制度の過渡期であったことも魔女裁判が増大した原因のようだ。裁判制度だけでなく、魔女としての告発原因についての社会学的な解説もある。エピローグ的に魔女裁判の慣習が現代に至るも残っている事が例示されている。魔女裁判と言うより、この時期の裁判制度の一端を知るための本のように思える。

  17. エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 ヨーロッパの中世都市 岩波書店 1987年 ¥5300
     ヨーロッパ中世の都市をその起源から時間的、或いは地域的連続で論じる本で、その連続の中にハンザ都市も解説される。他地域とハンザ都市郡との関連が見えてくる様な気がする。都市間の関係だけでなく、地域毎の都市と領主との関係や、都市自治体の検討もある。検討範囲はロシアからイベリア半島に及び、比較史としても読める。ハンザの用語についても、広義のハンザ(同盟とか団体とか言う意味)と、狭義のハンザ(ここで扱っているリューベックを中心としたドイツ・ハンザ)の違いも、171から174頁と214頁である程度解説される。ここの記述を基に地図を作ってみると中世都市の関係や類型化が可能になるのではと思う。逆に言うと、その様な関係や類型の概念を中世都市に当てはめて、論じた本である。

  18. エーリカ・ウイツ著 高津春久訳 中世都市の女たち 講談社 1993年 ¥4000
     中世都市における女性の地位や職業、背景等について論じた本。主に項目毎に様々な例を挙げながら話を進めている。その例の中にハンザ都市に纏わるものも数多くある。リューベックを例にとると、59頁に女性商人の遺言状に出てくる契約の話があり、77頁の遺言状では財産の話が出て、104頁には雑談をしながら糸つむぎをする女性の絵があり、108頁にはフェルト職人として126頁では、縫針職人として女性を認める規則があり、199から200頁には結婚法についての記述がある。全体としても、ドイツの都市の情況が中心になっているので、ハンザ都市の背景資料の一つとして読むことができる。

  19. シャルル・イグネ著 宮島直機訳 ドイツ植民と東欧世界の形成 彩流社 1997年 ¥8000
     ドイツ植民を地域毎、事項毎に解説した本で、ハンザ都市が建設された地域の解説も数多くあり、ハンザ都市建設に関わった諸侯やその前史が解説されている。ドイツ植民にはハンザも関わることが多々あり、ハンザ都市の多くもその流れに従って建設されていった。ドイツ植民を調べるのに非常によい。  

  20. ジョン・ゴス編 小林章夫監訳 ブラウンとホーヘンベルフのヨーロッパ都市地図 同朋舎 1992年 ¥9800
     現在でも多くの古地図コレクターの間で人気のある16世紀に作られた世界の都市図集からの選集で、ハンザ都市も幾つか掲載されている。掲載されている都市はブレーメン、ドルトレヒト、フランクフルト、ダンチヒ、ハンブルク、ケーニヒスベルク、リガ、ケルン、ロストク、ストックホルム、ヴィスビーの11都市で、商館のあるロンドン、ベルゲン、ブルージュの3つがある。図は正面から見た景観図と上空から見た鳥瞰図の二種あり、それぞれの地図には都市の紋章が掲載されている。全て鮮明なカラー図版なので極めて美しい。

  21. A.J.トインビー 「歴史の研究」刊行会訳 歴史の研究第三巻 経済往来社 1969年 ¥−
     265から266頁のモスクワ大公国に向かう西欧文明の章で、北欧諸国へ向かう西欧文明の先鋒として描かれている。これでは、ドイツ・ハンザが戦闘集団みたいだ。  

  22. ニコル・ゴンティエ著 藤田朋久/藤田なち子訳 中世都市と暴力 白水社 1999年 ¥2600
     13から16世紀の中世都市における様々な暴力を解説した本で、個人的なものから集団によるもの、公権力によるものと暴力を類型化して解説が進められている。主に日常的な暴力が扱われており、暴力には反乱や強姦も含まれている。治安維持の手法についても警察力や調停機関を使う手法や、祭りなどを使い暴力を別の方向へ発散させて制御する手法などが紹介されている。扱われている地域はほぼ西ヨーロッパ全土に及んでいるが、地域毎による差異は余り意識されていないように見受けられる。  

  23. ハンス・K・シュルツェ著 千葉徳夫/浅野啓子/五十嵐修/小倉欣一/佐久間弘展訳 MINERVAライブラリー22 西洋中世事典 ミネルヴァ書房 1997年 ¥3800
     235から301頁に至る都市の項目は中世都市、特にドイツの都市についての社会構造や制度等を項目別に解説している。ハンザの設立と発展についてもドイツ・ハンザ以外のハンザも交えて解説されている。ドイツ・ハンザ構成都市も例として幾つか挙げられているので、ドイツ・ハンザを直接調べるのにも使える。

  24. ビョールラン・ランドストローム著 石原裕次郎監修 世界の帆船 ノーベル書房 1976年 ¥2900
     61から85頁にハンザのコグ船についての記述がある。コグ船がバイキング船から発達してきた事が様々な原史料のスケッチにより解説されている。ダンチヒの市印から再現したコグ船の絵もある。15世紀からコグに代わってハンザの主力船になったホルク船の絵も一点紹介されている。

  25. フィリップ・ゴス著 朝比奈一郎訳 海賊の世界史 リブロポート 1994年 ¥2700
     121から125頁に14世紀後半にバルト海で活躍した「糧の兄弟」の記述がある。「糧の兄弟」はハンザ同盟が35隻と3000名もの兵員を動員しても倒せないほどの海賊集団だったが、最後はハンザの有力都市ハンブルクの討伐艦隊により首領を討ち取られて滅んだという。彼らが稼いだ金もこの時にハンブルク艦隊に奪われてしまった。

  26. フェルディナント・ザイプト著 永野藤夫/井本昭二/今田理枝訳 図解 中世の光と影 下 原書房 1996年 ¥3800
     487から490頁にハンザの概説がある。この本での見物は1500年に作られピレネー山脈からロシアに至る範囲を収めた古地図の写真と、何を基にしたかも年代も解らないヨーロッパの道路網の地図である。この地図を見るとバルト海貿易の西の出発点としてのリューベックの地位が視覚的に理解できる。もっと地図が大きくて、出典が明らかなら、なお良かった。

  27. ヘリエ・サイゼリン・ヤコブセン著 高橋直樹訳 デンマークの歴史 ビネバル出版 1995年 ¥4200
     53から91頁にいたる15から16世紀の記述の中にハンザとデンマークの関わりが散見される。物語風の記述で、デンマークが主で、ハンザはデンマークと敵対していたせいか通商独占の為には手段を選ばぬ敵役みたいに登場する。これじゃ悪徳商人集団じゃ。歴史書というより物語だ。

  28. ミッタイス著 世良晃志訳 ドイツ法制史概説 創文社 1954年 ¥800
     298から311頁、特に309から311頁にハンザの構造や支配形態があるが、専門用語が多く分かりずらい。後にある索引で各用語を確認しながら読む必要がある。この本はいかにも古いが、最近の論文でも参考文献として使われているので、ドイツ法制史を調べる上ではそれなりに重要な書らしい。

  29. ミッシェル・モラ/フィリップ・ヴォルフ著 瀬原義生訳 MINERVAライブラリー16 ヨーロッパ中世末期の民衆運動 ミネルヴァ書房 1996年 ¥4800
     227から229頁に14世紀にハンザで発生した民衆暴動が概説されている。149から229頁を読むと、14世紀後半に頻発した他地域の民衆暴動とハンザの暴動の違いを確認できる。他の暴動に比べ、流血ざたは少なく、多くは交渉により解決している。そのおかげで、記述量も少ない。

  30. 川口博編 伝統と近代 彩流社 1988年 ¥3500
     42から72頁に16世紀のスェーデンとハンザの関係を概説した章があり、その背景としてスェーデンに渡ったドイツ系住民やスェーデンの鉄鉱石産業についての解説もある。基本的には16世紀に、グスターヴ1世が即位し、スェーデンがハンザから離れていく過程をデンマーク、ハンザ、スェーデンのやりとりを中心に概説している。ここを見る限り、ハンザは東欧3国にそれなりに影響力を行使していたようである。

  31. 関西中世史研究会編 西洋中世の秩序と多元性 法律文化社 1994年 ¥10000
     93から111頁に15世紀から16世紀にスェーデンで身分制議会が成立していく様子を概説した章がある。スェーデンは選挙王政で議会の力が強かったようだ。議会はフランス方の三部会形式だが、フランスと違い聖職者ではなく農民が一つの身分を形成している。ハンザはスェーデンで内乱が起こると介入、或いは内乱当事者から介入を要請される事が多々あったようだ。

  32. 聖心女子大学キリスト教文化研究所編 東欧・ロシア文明の回廊 春秋社 1994年 ¥3090
     85から87頁にノヴゴロドとハンザの関係の概史が、史料の引用を中心に記されている。これを見る限り、概ね良好な関係を保ったらしい。  

  33. 旅名人編集部編 ハンザの興亡 日経BP社 1997年 ¥1200
     近所の歴史関係の本とは無縁と思われる古本屋にハンザの文字を目にした時、奇妙な安堵感とも言うような感じを覚え購入したのがこの本である。ハンザの簡単な概説と豊富な写真に彩られた旅行案内書で、ハンザ都市とハンザに関わった12の都市の案内が掲載されている。各都市のハンザ関連の見所とエピソード、歴史があり、各都市へ行く為の飛行機のルートや値段、時間割も紹介されている。値段と時間割については変わっている可能性もあるので、これは一つの目安と見た方がいいのだろう。ハンザの概説書としてもそれなりに読める。  

  34. 森本芳樹編 西欧中世における都市=農村関係の研究 九州大学出版会 1988年 ¥5800
     フランドルの毛織物についてフランドル都市ポーペリンゲとイープルを検討した章の421と422頁にポーペリンゲとドイツ・ハンザの毛織物を通した関係がある。ポーペリンゲ制の毛織物は高級品の模造低価格品としてハンザでもてはやされたらしい。一方イープルについては433頁にある。13世紀末のイープルの毛織物取引はドイツ・ハンザに独占されており、1280年にこれを不服としたイープル市民が反乱を起こし、その後はイープルの中産階級が台頭していったらしい。フランドルのある都市の状況からハンザとフランドルの関係の一端がかいま見える記述である。

  35. 松田知雄編 西洋経済史 青林社 1983年 ¥3700
     68から73頁の中世の遠隔地貿易の章で中世の遠隔地貿易全体を概観している。その中で、ハンザがどのような地位を占めていたかがよく分かる。但し、短い文の中にやたらと地名が出てきて混乱するので、地図があればよりよく分かるのだが、地図がないせいでどうも全体像を把握するのが困難な気がする。

  36. バラクロウ編 宮島直機訳 新しいヨーロッパ像の試み 中世における東欧と西洋 刀水書房 1979年 ¥−
     167から173頁にハンザが勢力を奮っていたバルト海へ至るルートがハンザ都市、ハンブルクからリューベックを通る陸路から、デンマークのズント海峡回りに変わり、ここをオランダ商人が盛んに使うようになりハンザの力が衰えた点が指摘される。173から183頁で交易品からハンザの衰亡が解説される。西欧から東欧への輸出品が毛織物と塩以外重要な品が無く、逆に東欧から西欧へは穀物や木材など西欧にはなくてはならぬ物が多く、西欧からの輸出品の主たる毛織物の生産国たるオランダやイギリスが進出したことで中間貿易者たるハンザが衰えてきたと読みとれる。  

  37. ハンス・フリードリヒ・ローゼンフェルト/ヘルムート・ローゼンフェルト著 鎌田多美子訳 中世後期のドイツ文化 三修社 1999年 ¥9500
     13から15世紀の中世ドイツ社会と文化を全般的に解説している。全体的に都市に関わる話が多く、全体は政治・社会、生活様式、宗教の大きく3つの項目に分けられている。その大項目が十数個の小項目に分けられている。各項目は項目に関わるエピソードを連ねる形で解説が行われている。生活様式の説明の中に印刷技術やその他科学技術に関する項目がこの大項目の中の1/3を占め、スポーツや学校、テーブルゲームなどの解説もあり、単なる生活様式の記述に留まっていない。宗教では宗教思想ではなく、宗教関係者の生活や宗教的団体についての記述が主となっている。分かり易いエピソードが主なので大変読み易い。  

参考論文

  1. 石戸谷重郎著 中世ロシア都市論 歴史学研究471 1979年
     ノヴゴロドのイヴァン商人団についての検討が主になっている。イヴァン商人団を西欧の商人ギルドと同じ者と捉える見方があるが、この論文ではイヴァン商人団を教会と密接に結びつき、独自の政治的活動をなしえなかった、西欧の古ギルドの段階に留まっていたと見ている。12世紀に作られたノヴォゴロド公フセウォロドの二つの史料を利用してイヴァン商人団の特権と義務についても検討が行われている。ハンザとの関わりについてはドイツ人とヴォゴロド人との間で行われる裁判にイヴァン商人団が関わると言う事が示されている。ここで言うドイツ人とは主にハンザ商人であろう事は想像に難くない。ハンザ商人が活動していた時期のノヴォゴロド商人達はまだ未成熟な状態にあったように読みとれる。  

  2. 伊藤栄著 アルプス越えの中世商業路−−サン・ゴタール峠、ブレンネル峠、ベルナール峠−− 歴史教育17−1 1965年
     中世の商業とアルプス越えの通路について解説している。遍歴商人による非定住型の商業から都市などに定住し始める定住型の商業へ移行し、その過程で地中海商業圏とバルト海商業圏が形成され、両商業圏を繋ぐアルプス越えの峠が重要となってきた。代表的な通路はブレンネル峠でここは最も標高が低く道も整備されていた。次がセプティマー峠でここは湖や河川を利用し易いという特徴がある。第三の通路がサン・ゴタール峠でここは一三世紀に鉄の吊り橋が作られて使えるようになり、ミラノとバーゼルを繋ぐ最短ルートとして重宝されたようだ。第四の通路がベルナール峠でミラノからスイスへ抜ける主要ルートだったが、サン・ゴタール峠が開設されると殆ど使われなくなったようだ。  

  3. 岩倉依子著 16世紀リューベックにおける学校と教会 比較都市研究13−2 1994年
     16世紀のリューベックの学校制度、主に学校を管理しているのが何かを検討している。12から13世紀、リューベックには司教座が運営するラテン語学校が存在していた。16世紀の宗教改革の影響によりリューベックの学校へ市参事会の影響が及ぼされるようになったが、教会の影響力は相変わらず大きいものだった。16世紀にはいるとラテン語学校とは別にドイツ語学校が増加してきた。これらドイツ語学校は当初、ルター派の分裂も相まって教会の影響下になく市参事会の管轄下にあったが、ルター派の統一に伴いドイツ語学校も教会の管轄下に入っていったようだ。リューベックの学校は教会の管理を離れ世俗たる市参事会の管轄下へ入っていったという説もあるが、この論文を見る限りでは逆に教会の影響力が強くなったというように見える。  

  4. 江川由布子著 ヨーロッパ中世都市史研究の一動向−−トリーア大学中世都市史プロジェクトから−− 比較都市研究18−2 1999年
     1987年にドイツのトリーア大学に創設された都市研究プロジェクトの紹介文である。ライン−ムーズ河地域の中世都市についての研究プロジェクトであり、1999年の段階で100本近くの論文がこのプロジェクトから生み出されているようだ。プロジェクトが主に関心を寄せている要素は都市における教会や聖職者機関のようだ。

  5. 沖良平著 ヨーロッパ中世都市の成立 広島大学史学研究146 1979年
     中世都市の成立を都市民の自由から解説した論文で、都市の自由の起源を古代ギリシア・ローマの都市民の自由という考えと、キリスト教によって現れた血縁的な絆に変わる宗教的な絆の成立に求めているように見える。都市は王権と結びつく事で諸侯から自由を勝ち取っていったとされる。中世都市成立の全般的かつ、一般的な説明と言った感じである。  

  6. 奥西孝至著 中世末期低地地方における穀物取引 史林 第68巻3号 1985年
     アントワープの穀物価格から低地地方における穀物貿易について検討した論文で、穀物価格をグラフ化し、地域や穀物の種類による相関関係を検討している。アントワープは低地地方の穀物集積地として機能しており、北フランスの穀物価格はアントワープにおいて決定され、オート麦取引においてはホラントやゼーラントとの結びつきが強い感があるようだ。この論文は穀物取引についての検討を行う為のデータ整理といった感じである。  

  7. 奥西孝至著 一五世紀フランデルンにおける穀物価格−−シント・ピーテルス修道院会計規模を中心に−− 西洋史学152 1988年
     史料紹介と史料の分析に主眼をおいた論文に見受けられる。穀物取引を調べる為の史料で最も豊富にあるのが穀物価格に関するもののようだ。その穀物価格の刊行史料は分析上の性格から編集方法が特殊なようである。この論文ではシント・ピーテルス修道院の会計簿の性質やそこから読みとれる穀物価格の変遷に重点を置いて史料の分析を行っている。その内容は正直に言って理解困難である。これは専門性の高い基礎史料研究の一つと見た方がよいように思う。  

  8. 小倉欣一著 ドイツ中世都市の特徴づけ−−比較封建社会論のために−− 早稲田大学史観96号 1977年
     中世都市研究史の概略を解説している。基本的に都市市民の共同体を相互扶助を誓い合った誓約団体と捉え、この共同体をどのように捉え理解するかという点に概説の重点が置かれているように見える。全体として都市市民の構成が前半にあり、後半が都市法の概説になっている。この論文単体では理解が困難だが、研究史を追跡する為には有用である。  

  9. 稲元格著 一二・三世紀のホルシュタイン伯領における権力構造とその変遷−−中世都市法と農村法との比較研究にむけて−− 大阪大学阪大法学133−134 1985年
     リューベックがあるホルシュタイン伯領の概史を解説している。伯家は12世紀に創設され13世紀にレーン制に基づくランデルヘルシャフトを確立したようだ。ランデルヘルシャフト確立以前は領内に伯に反発し、デンマークに好意を持つ有力者が多数おり、彼等の支援で1201年シュレスヴィヒ公のホルシュタイン征服が容易になったようだ。1202から1225年の間はデンマーク王となったシュレスヴィヒ公の支配下にあった。1225年にデンマークとドイツ諸侯との戦争によりホルシュタインはホルシュタイン伯の手に戻ってきている。獅子公がホルシュタイン伯の封主で一二世紀は公の好意により順調な発展をしたようだが、公が皇帝と対立するとホルシュタイン伯は皇帝を支持している。これも公に好意を寄せていた現地の有力者との対立の一因だったようだ。リューベックの後背地たるホルシュタイン伯領の概史というこで、ハンザの背景解説の一つと言った感じである。  

  10. 小野寺利行著 13世紀ノヴゴロド対ハンザ関係の一局面 比較都市史研究17−2 1998年
    ハンザとノヴゴロドの関係についての1頁ていどのレジュメ。13世紀のノヴゴロトのハンザ対策は三点に集約できる。第一にハンザに雇われるノヴゴロド人の待遇改善、第二にハンザからの税収の確保、第三にノヴゴロド人以外との取引制限の三点である。第一と二点についてはノヴゴロドの政治的な立場がハンザに対して優位に立てたが故に上手くいっていたようである。特にノヴゴロド商人の活動がノヴゴロド周辺に限定されていたためにハンザ圏におけるノヴゴロド商人の権利を守る必要がなかったという点も大きいようだ。第三点は通過貿易を規制できなかったが故に上手くいかなかったようである。

  11. 影山久人著 ハンザ経済史に関する覚え書き 京都外語大学コスミカ20 1990年
     近年「新ハンザ同盟」なる同盟がかつてのハンザの中心とし、リューベック、ハンブルク、ブレーメン、ロストックの間で結ばれた。この事件をスタートラインとして、ハンザがどの様な集団であったかを解説している。ハンザが出入り自由の極めて緩やかな連合体であったが、それが17世紀に同盟としてはっきりした形を取った段階で終わりを迎え、形式的には1669年の最後のハンザ総会で終わりとなった。論文と言うより、ハンザについての盛衰についての概説をまとめた文である。  

  12. 柏倉知秀著 中世後期ハンザの商業ネットワーク−−14・15世紀のリューベックを中心に−− 比較都市史研究23−1 2004年
     学会発表用の2頁のレジュメ。ハンザを一つの商業ネットワークと捉えてその変化をリューベックを中心に概観している。ハンザのネットワークは北海と、バルト海を繋ぐ形で登場し、リューベックの建設でドイツ商人のバルト海での活動が活発になったことでライン河から、ロシアに到る範囲に伸び、13から14世紀には北海全域に及び、15世紀末までにはフランス西岸地域へとネットワークは拡大している。後は、14世紀の主要貿易品、或る商人の帳簿から見える貿易の具体例が解説されている。大まかなハンザ・ネットワーク概説と言った所だろう。


  13. 金井年著 中世都市の計画性−−都市工学の視点から−− 比較都市史研究23−1 2004年
     学会発表用の2頁のレジュメ。中世の建設都市は何らかの都市プランに乗っ取り、計画的に建設されたとする説を紹介したレジュメ。建築学の立場からフライベルクの都市プランを調査した結果、フライベルクには建設当初に都市プランがあり、その都市プラン形の中世都市においても確認されたと言うことのようだ。しかし、歴史学の立場からはフライベルクの都市建設文書などの検討から一貫した都市計画はなかったとされている上に、都市プランの系譜もハッキリしていないようだ。都市プランがあったとする説は、残念ながら歴史学の実証という意味では説得力を欠くが、都市史の新たな見方として期待できると言う所のようだ。


  14. 今来陸郎著 ハンザ同盟と中世ヨーロッパ商業 日独文化4−1・2 1943年
     戦争中のハンザ感をよく伝える文だと言えるかもしれない。ハンザの概史と解説といった感じでハンザを自然発生的な経済団体だが、ドイツ人の団体としての血統団体としても位置づけているように見受けられる。13世紀の最初の都市同盟から16世紀に至るハンザの歴史が、戦争などの政治史と商業拠点の広がりなどの商業史の視点を元にして網羅している。古いが簡単なハンザの概史としては十分利用可能である。  

  15. 斯波照雄著 中世末期ハンザ都市における「領域政策」−−ブラウンシュバイクの場合−− 比較都市史研究17−2 1998年
    ブラウンシュバイク市の14から15世紀の領域政策についての1頁ていどのレジュメ。14世紀中頃までのブラウンシュバイク市の周辺地域に対する買収は主に周辺領主からの金銭的要求に応える形の買収に過ぎず、これが市の財政を大きく圧迫した。15世紀にはいると買収方針が変わり、市の治安維持や通商路の安全確保を目的とした計画的買収が主流となり、市の財政は以前より好転する。周辺地域買収のための支出が減少し、安全確保を優先したおかげで以前より商業活動の安全が図られた分、増収に繋がったと言う所だろう。

  16. 瀬原義生著 ヨーロッパ中世都市の起源と支配権力 歴史学研究471 1979年
     ヨーロッパ都市の起源を概説した論文で、地域別に都市の起源と10世紀頃迄の都市の発達を論じている。ローマ支配地域ではローマ帝国崩壊後もローマ都市が存続を続けた。イタリアやフランス南部ではローマの都市制度がそのまま残り、都市が衰退することなく中世まで存続したが、フランス北部やライン河周辺等のローマ帝国辺境では一度は多くが破壊されたりしたが新たな支配者達の行政拠点として存続し、その後、都市として再生を果たす。ハンザ都市に関係があるのは第三章以降のライン河以東、バルト海岸、ポーランドの諸都市である。この辺りの都市は東方植民の波に乗って新たに建設された都市が多いが、その土台となったのは古ゲルマンの防御施設であったり、商業拠点であった。なにもないところに都市が造られたのではない。全般的に言えることだが、領主は領主権力の行政拠点として、軍事拠点として都市を利用している。簡単にまとめられたヨーロッパ都市起源の概説書と行った感じである。  

  17. 瀬原義生著 ドイツ中世都市の東斬過程(上下) 京都橘女子大研究紀要23,24 1996,97年
     古代のローマ帝国領外に現れた中世のドイツ都市について概観した論文で、33都市について個別に都市の概史を解説している。この中で、これらの都市が聖俗領封建君主達により建設された都市である点や、都市参事会の登場が13世紀に集中している点や、ライン地方と東方の間をつなぐような所に中継都市とも言うべき都市が成立している点などが指摘されている。全体の印象はちょっとした都市辞典といった感じの論文である。  

  18. 高橋理著 ハインリヒ獅子公とゴートラント貿易−−十二世紀バルト海における商人ハンザの発生−− 弘前大学文化紀要11 1977年
     12世紀に作成され、リューベックに与えられた「ハインリヒ獅子公の特権状」のバルト海貿易に対する意義を検討した論文。この特権状の原本は現存していないが、13世紀にリューベックで作られた写本がある。まず、この写本が完全なものかどうかが検討され、この写本が原本をほぼ完全に伝えたものだと結論している。次に、特権状の意義を検討している。この特権状はゴットラント島で商業を営むドイツ商人を保護する目的で発行されており、当時としては目新しい相互主義、ゴットランド島民もドイツ商人も相互に利益を得られるように配慮した考え方が盛り込まれており、更に一領邦君主でしかなかったハインリヒ公が自国の領民だけでなくドイツ帝国臣民全体を保護する旨が規定され、ドイツ商人の保護と秩序維持、ゴトランド島民との折衝のために専門の司法長官も配置している。ハインリヒ公のバルト貿易に対する力の入れようが伺われる。リューベックの商人も活動を始めたばかりの頃で力もなく、ハインリヒ公の保護がぜひとも必要だったようだ。そして、ハインリヒ公としてはリューベックへの投資と保護は先行投資としての意味があったようだ。  

  19. 高橋理著 中世初期における北・東ヨーロッパの宣教事情 広前大学文化紀要30 1989年
    10世紀から11世紀に於ける北東ヨーロッパの宣教状況をハンブルク大司教を中心に検討した論文。ハンザ成立の背景調査の一環として、教会がバルト沿岸地域にどのように浸透していったかを調査するという趣旨で、一応ハンザ関連論文として位置づけがなされている。検討対象となっているのはハンブルク大司教アンスカリウス、アーダルベルトゥス、宣教司教ブルーンの三名である。ハンブルク大司教座は北東部改宗の拠点として設置されたが、司教座を支える領土を持たぬので特例処置としてフランス北部に所領を与えられている。同時に北部における教皇の代理としての地位も与えられ、他の大司教座より一段高い地位を与えられていたようだ。後に、ブレーメン司教座と合体してより強力かつ特殊な司教座になった。初期の改宗手段は西方諸国との利害関係による利益を餌にした政治的手段による改宗、何らかの手段により奇跡を演出しての改宗、異教の聖地を破壊することで異教に対するキリスト教の優位を見せつける手段、これは当時のバルト地域民の信仰心を利用した手段で、キリスト教徒が聖地を破壊しても天罰を受けないことを見せつけることで、キリスト教の神が異教の神に勝利したと思わせる手段である。アーダルベルトゥスの時代になるとハンブルク大司教座の性格が改宗の前線基地としてより、一つの司教座の中心地へと変化している様がみえる。ブルーンの時代には改宗の根拠地はハンブルク大司教座からマグデブルク大司教座へと移っている様が見られる。同時に、以前は異教徒の改宗が主要な関心事であったのだが、背教者や異端などが異教徒とは区別されて異なる対応をすべきとの考え方が見られるようになったようだ。北東部のバルト沿岸地帯に対する改宗事業の概説とも見える論文である。

  20. 高橋理著 十三世紀ハンザ都市リューベックと教皇庁との関係 立正大学立正史学86 1999年
     「高橋理著 ハンザ都市リューベックの帝国直属と13世紀の教皇庁−−もう一つの「直属」 山梨大学教育学部研究報告第一分冊人文社会科学系48 1997年」を元にした公開講演記録とそのレジュメである。元の論文が12頁に対してこの講演記録は16頁もあり、単純な要約という代物ではない。論文では研究に関わる部分のみだったが、こちらの要約ではドイツ帝国のリューベックにまつわる背景が獅子公の時代から解説され、他にリューベックの市政など関わりのある項目についての解説も含まれている。前記論文を読む前に読むと状況の把握に都合がよい。

  21. 田中俊之著 西欧中世都市研究の動向に関する一考察 金沢大学北陸史学48 1999年
    19世紀末から20世紀全般の中世都市研究を概観した論文。大まかに分けて三つの段階に分けて解説している。最初の段階はマックス・ヴェーバーに始まり、プラーニッツに終わる都市を商人により造られた農村や領主から自立した市民的かつ自由な共同体としての理解である。第二段階は第一段階の批判が展開された時期といえる。特に都市のミニステリアーレンに着目した説が広く主張されたようだが、これは第一段階の都市支配の主体を商人からミニステリアーレンに変えただけである。そして現在は第三段階となる。この章の解説が最も多い。従来は都市研究は大都市を対象としたものだったが、一定の地域における中心的な定住地を都市と定義し直して人口数千名程度の中小都市にまで対象を拡大し、従来は無視されてきた領主の都市に対する影響力を確認し、都市と農村を対立概念と見るのではなく両者を一体としてその関係を解明する方向に進んでいる。第一、二段階では都市を孤立した現象として捉えるような感じであったものを領主や農村などの周辺地域との関係も含めて捉える方向に行ったと言うところだろう。

  22. 玉木俊明著 イギリスのバルト海貿易−−一六〇〇−一六六〇年−− 同志社大学文化史学47 1991年
    17世紀のイギリスとポーランドの貿易量や貿易品を検討した論文。この時期のバルト海貿易の主流はオランダ商人であったが、イギリス商人もそれなりに進出を果たし、ハンザ商人は主役の座を滑り落ちていた。当時のポーランド貿易の主力港はダンツィヒなのだが、イギリスのバルト海貿易を独占していたイーストランド貿易会社の商館はエルビングにあった。これはポーランドにとってイギリスが主要な貿易相手でなかったことによる。それでも17世紀中頃までにはイギリスにとっても主要な貿易港はエルビングからダンツッヒに移っている。イギリスの主力貿易品は高級毛織物で、輸入品はタールや麻などの船舶用の原材料であった。輸入状況はイギリスの黒字貿易であり、ポーランドにとってはオランダに対する穀物輸出で上げた利益の余剰でイギリスの高級毛織物を買うという形であった。17世紀後半に戦争などでポーランドの経済状況が悪化するとイギリスからの輸入は激減する。ポーランドにしてみればイギリスからの輸入品は余剰利益で購入する贅沢品に過ぎず、経済的な余裕が無くなれば必然的に購入量が減るというものだった。イギリス側にとっても市場として魅力が無くなれば別の市場に移るだけと言うていどの所だったようだ。イギリスのバルト海貿易の実質的な中身を表やグラフなどを使って具体的な数値で見せてくれる。

  23. 玉木俊明著 バルト海貿易(1560−1660年)−−ポーランド・ケーニヒスベルク・スウェーデン 社会経済史57−5 1992年
     16から17世紀のバルト海貿易についてズント海峡での関税帳簿を基に論じた論文。やはり、ズント海峡だけに着目してみると圧倒的にオランダ船が多いようだ。この帳簿から言えることは16世紀後半から17世紀前半はポーランドの穀物輸出が主力だった穀物の時代で、17世紀後半以降はスェーデンの鉱物資源や森林資源を中心とした原料の時代と言うことになるらしい。穀物の時代にはポーランドからの輸出が中心だった為にダンツィヒが貿易港として最も栄えていたようだが、1600年頃から西ヨーロッパの食糧事情が改善され、穀物よりもスェーデンの産出する原料の輸出が中心になっていくようだ。16世紀というとハンザはすっかり衰退しており、バルト海貿易の中心はオランダ人が占めるようになっていたので、バルト海貿易を調べるにはズント海峡を通過する商船の実態調査が有効と言うところだろう。一つ象徴的な事例はニシンである。ニシンは元々ハンザの主力商品でバルト海から全ヨーロッパへ輸出されていた。ところが、16世紀に入るとニシンの漁場が北に移り、ニシンは北海漁場のニシンを独占していたオランダの主力商品の一つとなり、逆にバルト海へ向けてオランダからニシンが輸入されるようになる。ニシンがバルト海を離れ、ハンザの手から離れ、オランダの手に移るのと時を同じくして、バルト海の貿易もハンザからオランダの手に移っていったと言った感じである。ハンザ衰退後のバルト海貿易を論じた論文と見ることができそうだ。

  24. 玉木俊明著 近世バルト海貿易におけるイギリス=ポーランド関係 北欧史研究11 1994年
     16から17世紀のイギリスとポーランド間の貿易についズント海峡の関税帳簿を元に論じた論文。イギリスは当初ポーランドの貿易にはダンツィヒを利用していたが、ダンチッヒ市とポーランド王との関係が悪化した為に、イギリス側はイーストランド会社の商館をエルビングに建設して主要な貿易先をエルビングに変更している。しかし、17世紀にはエルビングの港としての不具合から貿易港は再びダンチッヒに移った。イギリスはバルト海に毛織物を輸出して船の必需品たる麻布や鉄、ピッチ、タール等を輸入していた。17世紀に入るとイギリスはこれらの品をスウェーデンやプロシア公国などから輸入するようになりポーランド貿易は減少した。結果としてイギリスのバルト海貿易はポーランドのみを対象とする形から、ポーランドを含むスウェーデンやプロシア公国などとの複数国との貿易へと変化した。この論文を見る限りではイギリスとバルト海との貿易にハンザが果たす役割は殆どないように見える。この検討では土台となる関税台帳の性質故にイギリス船のみを対象とし、おそらくイギリス商人がチャーターしたであろうオランダ船については検討の対象には入っていないので、イギリス、ポーランド間の貿易量はこの論文で描かれた以上の者であろうことが予想できる。輸出品の量や品目などをまとめた表が多数あり、具体的な数値を導くのにも良い。

  25. 仁木宏著 ドイツ中世港湾都市の空間構造−−日本中世都市との比較の可能性をさぐる−− 大阪市立大学都市文化研究4 2004年
    ヨーロッパと日本の都市の比較研究の最初の段階としてその可能性を探るべくドイツの港湾都市の特徴を日本の都市の特徴の簡単な比較を試みた論文。従来説では両都市の比較はあまり意味のあることとは考えられてこなかったようだ。しかし、日本とヨーロッパの都市プランや施設、道などは比較的容易に比較が可能であり、この辺りを突破口として日本とヨーロッパの都市の比較研究が行えるのではないとか提言している。ドイツの港湾都市を対象とするためにハイタブ、シュレスヴィッヒ、リューベック、ハンブルク、シュターデ、ロストック、シュトラールズント市の13世紀ぐらいまでの簡単な概説がある。準備段階の論文のようなので都市紹介として読めるといったていどである。

  26. 根本聡著 ストックホルムの成立と水上交通−−中世期メーラレン湖地方の商業関係−− 歴史学研究756 2001年
     スウェーデンのストックホルム市成立に関わる経済的背景を解説した感じの論文である。ストックホルムの後背に位置するメーラレン湖がスウェーデンの経済活動の中心であり、ストックホルムはバルト海への出口に当たり、同時にここはこの辺りの軍の集結地としても使われていた。このように経済的、政治的条件が良好な地であったこともあり、1250年にスウェーデン国王がこの地に都市を建設した。ドイツ・ハンザの関係としてはストックホルムはハンザ貿易の窓口になり、同時にハンザの内陸への進出を阻止する境界線ともなっていたようだ。このメーラレン湖沿岸は穀倉地帯でもあり、人口が少ないことと相まって穀物が主力輸出品の一つだったようだ。ドイツ人の到来に伴い、高度な鉱山技術がスウェーデンに入り、メーラレン湖周辺の鉱山が開発され、鉱物の輸出も盛んになっている。鉱物と穀物と引き替えに各種日用品を輸入している。ドイツ・ハンザはバルト海岸からストックホルムに至る貿易を独占し、ストックホルムからメーラレン湖岸へはスウェーデンの商人が担当したようだ。

  27. 藤井博文著 ドイツ中世前期における鉱工業と地域−−鉱山考古学研究の成果を手掛かりに−− 立命館大学立命館文学558 1999年
     考古学の成果を元にハルツ地方のデューナとシュバルツバルト地方のズルツブルクの状態を解説している。デューナは3世紀から人が住み、600年頃から鉄、銀、銅などの採掘が始まったようだ。1000年前後に大きな破壊を被り、王領地に組み込まれて11世紀に石造りの強力な防御施設が作られた。ここはハルツ地方にとって主要な銀貨の材料の供給地の一つだったようだが、1300年頃に廃村となった。ズルツブルクは2世紀頃にはローマ支配の元で露天掘りにより採掘が行われていた。そこに修道院が作られ、修道院がバーゼル司教の管轄下に入ったことで鉱山の管理も、バーゼル司教の手に落ち、司教の主要な収入源の一つとなったようだ。鉱山というと農業などは営まれていないとの印象を持ってしまうが、デューナでは麦の栽培が盛んに行われていた。中世の鉱山の考古学の一端を見せてくれる論文だ。

  28. 牧野正憲著 1397年のカルマル連合会議に関する一考察−−戴冠文書と連合文書を中心に−− 北欧史研究4 1985年
     1397年に作られたカルマル連合創設に纏わる二つの文書の成立の背景を検討した論文で、デンマーク王の死去に伴い王位継承に影響力を行使し、その後カルマル連合の実質的な主権者になったデンマーク王の娘マルグレーテの行動に焦点を当てて検討を行っている。マルグレーテの意図はデンマーク、ノルウェー、スウェーデンを一人の王が統治する統一王国とすることだったが、諸候が集まり作り上げた草案は彼女の意志に反するものだった。その文章がこの論文で検討項目に上がった文章だった。この連合文書はマルグレーテの反対にあって廃案となったとされている。マルグレーテが権力を掌中にする過程でドイツの諸候メックレンブルク家との衝突があり、事実上メックレンブルク家が敗れた際に結ばれた条約を見るとこの地域におけるドイツ・ハンザの影響力の大きさを垣間見ることができる。ハンザはこの和平の保証人のような役割を担っている。連合文章が作られた連合会議が開かれた直接の原因もカルマル市民の商船がハンザ商船に私掠船と間違われて拿捕され、乗員が処刑された事件に端を発している。この時、マルグレーテがこの事件を討議する為にリューベックとドイツ騎士修道会の代表の派遣を要請して開いたのがカルマル連合会議だった。この会議ではリューベックもドイツ騎士修道会も代表を派遣しなかった。

  29. 増田四郎著 中世における独逸民族の東方発展 日独文化4−1・2 1943年
     戦争中の東方植民の位置づけを感じさせる文である。東方植民を、教会や諸候による権力者の事業ではなく、より広範なドイツ人の自然発生的な民族的事業として捉え、東方植民が行われた地域について北欧から東欧の全域について概説が行われている。東方植民を10から12世紀初頭の準備期、ドイツ帝国東方諸候主導による12から13世紀中葉に至る高潮期、そしてハンザやドイツ騎士修道会等東方に重心を持つ特殊団体主導がする13から14世紀中葉に至る第3期と、三つの段階に分けて解説が行われている。ドイツ植民により東方にはドイツの進んだ農業や法制度、鉱山開発技術などが持ち込まれたと、東方へのドイツ化を賛美する論調が強い。  

  30. ゲルハルト・ディルヒャー著 小倉欣一訳 暴力・平和・法−−ドイツ中世都市の内と外に見る 比較都市史研究18−1 1999年
     これは1998年に早稲田大学で行われたシンポジウムで行われた報告の要約である。暴力に対する法について都市の外と内の違いについて論じているように見受けられる。外においては貴族的法たるフェーデが合法とされ、フェーデに基づいたいた暴力が吹き荒れていた。様々な平和法が施行されたがフェーデは常に合法とされたようである。しかし、都市の中では事情が違っていた。フェーデであろうと暴力は違法とされ、市民全体の誓約に基づく暴力を抑制する法が効力を発していた。暴力を個人の手から市当局の手へ移していたと言える。都市を暴力の支配する中世世界の中に点在する平和の島と言うような感じで認識しているようだ。

  31. マンフレート・グローテン著 小倉欣一訳 ドイツ都市史研究の新動向 比較都市史研究19−2 2000年
     これは2000年に早稲田大学で行われたシンポジウムで行われた報告の要約である。中世に限らず中世から現代に至る範囲の主要な研究の紹介が行われている。最近の傾向は遺言状や裁判記録などの史料の徹底的な調査検討を行う形になり、問題設定も多岐に渡るようになってきたようだ。面白いところでは13世紀のケルンの利益集団について研究した論文が紹介されている。様々な文書の証人リストなどを基に共同行動をとる人々のリストを造り、それら諸集団の行動と関係を追跡した論文のようだ。

  32. Roald Marcken Longships,Knarrs, and Cogs MARINER'S MIRROR 74-4 1988年
     10から12世紀に北ヨーロッパで活躍したロングシップ、カナール、コッゲの三種類の船の一般的な構造を発掘船を元に検討した論文。この三種の中でコッゲを見分けるのが最も用意である。舟底が丸いのはホルクと定義している。竜骨がない平底船がコッゲということになっている。ロングシップとカナールの違いは船の大きさの比のようである。長さ9、幅2、深さ1の比率がロングシップで、カナールは長さ8、幅2、深さ1の比率である。それと、ロングシップは帆を持つ漕船で、カナールは帆船である。北方船の一つの分類法といったところだろう。

史料集

  1. 下中弘編 西洋史料集成 平凡社 1956年 ¥29000
     276頁に第一回ハンザ同盟協定と、イギリス王エドワード二世の発したハンザ特許状がある。もう少しずれたところでは、フライブルク、リューベック市建設に関する史料や、リューベックへ発せられたフリードリヒ一世の特許状などがある。他にも、271から280頁あたりに関係史料が散在している。  

  2. ヨーロッパ中世史研究会編 西洋中世史料集 東京大学出版会 2000年 ¥3200
     中世盛期以降の項目にハンザに纏わる史料が散見される。181から183にはハンザがハンザとはなにかを語った史料があり、284から286頁にライン同盟締結の告知文書があり、341から342頁にリューベック市民の遺言状がある。342から343頁にハンザの毛織物貿易に打撃を与えたイギリスの毛織物貿易量についてのグラフがある。ちょうど、ハンザ衰退期に輸出品の羊毛から毛織物への転換が図られていることが分かる。  

  3. Rolf Sprandel編 Quellen zur Hanse-Geschichte(ハンザの歴史の史料) Darmstadt 1982年
     ドイツ・ハンザの史料選で、年代記、遺言、帳簿、条約、特許状等々様々な史料が収められている。各資料は大きく都市に纏わるもの、ハンザ全体に纏わるもの、商業に纏わるものと分類されており、そこから更に幾つかの小項目へと分類されている。多くは史料の抜粋だが、条約や遺言状などの短い史料は全体が掲載されている。史料は項目毎の年代順に並んでおり、目次も頁順のものと、年代順のものと二つ用意されており、史料の検索がやり易い。  

未読文献

  1. 阿部謹也著 ティル・オイレンシュピーゲル−−文献学から社会史へ−− 歴史と叙述−−社会史への道−− 人文書院 1985年
  2. 五十嵐喬著 欧州商業史要説 1941年
  3. 河野健二著 西洋商業史 1952年
  4. 杉浦昭典著 大帆船時代 中央公論社 1979年
  5. 関谷清著 ドイツ・ハンザ史序説 比叡書房 1973年
  6. 谷和雄著 中世都市とギルド 刀水書房 1994年
  7. 棟居洋著 ICU比較文化叢書1 ドイツ都市宗教改革の比較史的考察 国際基督教大学比較文化研究会 1992年
  8. 野崎直治著 ドイツ中世社会史の研究 早稲田大学出版部 1995年
  9. 矢守一彦著 都市プランの研究 大明堂 1970年
  10. 橡川一朗著 ドイツの都市と農村 吉川弘文館 1989年
  11. アンリ・ピレンヌ著 佐々木克己訳 中世都市−社会経済史的試論− 創文社 1970年
  12. アンリ・ピレンヌ著 増田四郎/小松芳喬/高橋幸八郎/高橋象平/松田知雄/五島茂訳 中世ヨーロッパ経済史 一條書店 1956年
  13. ヴィルヘルム・アーベル著 寺尾誠訳 農業恐慌と景気循環 未来社 1972年
  14. ギュンター・フランツ著 高橋清四郎訳 ドイツ穀物取引史 中央大学出版局 1982年
  15. ハンス・プラーニッツ著 林毅訳 中世ドイツの自治都市 創文社 1983年
  16. ハンス・プラーニッツ著 鯖田豊之訳 中世都市成立論 未来社 1995年
  17. フリッツ・レーリヒ著 瀬原義生訳 社会科学ゼミナール 中世の世界経済 未来社 1969年
  18. マックス・ウェーバー著 世良晃志郎訳 都市の類型学 創文社 1964年
  19. 谷和雄編 西洋都市の発展 山川出版 1965年
  20. 藤岡謙二郎編 歴史都市 学生社 1985年
  21. 渡辺國廣編 経済史讃’92 慶應通信 1992年
  22. − 西洋経済史講座1 岩波書店 1960年
  23. 稲元格著 ドイツ中世都市「私」法の実証的研究 敬文堂 1996年
  24. ハワード・サールマン著 中世都市
  25. Herbert Helbig/Lorenz Weinrich編 Urkunden und Erzahlende Quellen zur deutschen Ostsiedlung im Mittelalter 1(中世のドイツ東方植民の文書と伝承史料1) Darmstadt 1975年
  26. Herbert Helbig/Lorenz Weinrich編 Urkunden und Erzahlende Quellen zur deutschen Ostsiedlung im Mittelalter 2(中世のドイツ東方植民の文書と伝承史料2) Darmstadt 1970年

未読論文

  1. 赤坂俊一著 中世末期におけるブラウンシュヴァイクの民衆蜂起 上下 関学西洋史論集第8,9号 1978,1980年
  2. 赤坂俊一著 中世末期都市内民衆騒乱に関する一考察 関東西洋史論集 第11号 1982年
  3. 阿部謹也著 中世ハンブルクのビール鋳造業と職人 一橋論叢 第38巻第3号 1957年
  4. 稲本格著 中世都市リューベックにおけるレンテ売買について 阪大法学 第109号 1978年
  5. 稲本格著 中世リューベックの都市法典における不動産に関する条文について−−13・4世紀のキール法典を素材として−− 近畿大学法学 第37巻第1号
  6. 稲本格著 中世リューベックの法典類における不動産関係条文とその特徴(1)(2)(完) 近畿大学法学 第39巻第3,4号,第40号第1,3,4号 1991,1992年
  7. 稲本格著 中世リューベックの周辺地域の法習慣について 阪大法学 第164,165合併号 1992年
  8. 稲元格著 リューベック史参事会判決におけるEigentum,Besitz,Were 近畿大学法学44−1 1996年
  9. 魚住昌良著 ヨーロッパ中世都市史の研究状況 史潮新6号
  10. 奥西孝至著 1437−39年のネーデルランドにおける穀物価格高騰 国民経済雑誌(神戸大学)第162巻1号 1988年
  11. 奥西孝至著 15世紀低地地方における穀物流通と価格変動 国民経済雑誌(神戸大学)第167巻1号 1993年
  12. 神寶秀夫著 ドイツ都市国家の領域政策(一)、(二) Urban History Newsletter通巻60、61号
  13. 今来陸郎著 獨逸中世都市の歴史地理学的考察 歴史学研究7−11 1976年
  14. 斯波照雄著 中世後期ハンザ都市における経済構造の変質について−−ロストクの商人・手工業者の動向を中心に−− 三田史学会雑誌 第71巻6号 1978年
  15. 斯波照雄著 15世紀ハンザ都市における閉鎖的な支配者層の形成について 北陸史学 第29号 1980年
  16. 斯波照雄著 中世末ハンプルクの「領域政策」と商業 中央大学商業論叢41−6 2000年
  17. 瀬原義生著 シュトラスブルクにおけるツンフト闘争 上 立命舘大学 225号 1964年
  18. 田中俊之著 西欧中世都市研究の動向に関する一考察 北陸史学48 1999年
  19. 田北廣道著 1960年以降の西ドイツ学会における中世盛期・後期の都市・農村関係に関する研究 上中下 商学論集(福岡大学)第31巻第1号,第32巻第1,3号 1986,7年
  20. 玉木俊明編訳 史料紹介「ズント海峡関税台帳」前編−−1560-1657年 文化学年報41
  21. 野崎直治著 ドイツ中世における民衆蜂起の系譜 思想 第819号 1992年
  22. 服部良久著 ドイツ中世都市研究の現状と課題 歴史評論326号
  23. 服部良久著 中世リューベックにおける市民闘争 史林59巻3号 1976年
  24. 比嘉清松著 中世末北ヨーロッパにおける毛皮取引 松山商科大学論集 十九巻二号 1968年
  25. 藤岡ひろ子著 ハンザ貿易都市リューベックの都市機能配置 兵庫地理35 1990年
  26. 藤代幸一著 ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら 法制大学出版局 1979年
  27. 増田四郎著 独逸ハンザ都市リューベックの成立について 東京商科大学研究年報 経済学研究 第4号
  28. ヴィルヘルム・エーベル著 稲元格訳 翻訳「バルト海地域におけるリューベック法」 近畿大学法学48−1 1996年

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