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ドブリン騎士修道会の概史

 ドブリン騎士修道会は1225か1228年に、現在のポーランドのブウォツワベク、当時の名称だとドブリンで創設されたと考えられている。当時この地はポーランド諸候の一人、マソヴィエン公コンラートとプロイセン司教クリスティアンが支配しており、北方の隣国は非キリスト教徒たるプロイセン人が支配していた。マソヴィエン公は北の備えを必要とし、プロイセン司教はプロイセンのキリスト教化を目指していた。両者の利害はプロイセン侵攻という点において一致しており、その要請に応えるべく創設されたのがドブリン騎士修道会である。この修道会は創設当初キリストの騎士修道会と言う名であったが、マソヴィエン公が修道会の為に建設した城の名を取り、ドブリン騎士修道会と名乗るようになった。
 1228年7月にマソヴィエン公は三人の息子を修道会に加入させて、ドブリン城周辺の土地を与え、プロツク司教ギュンターもマソヴィエン公に倣って土地を修道会に寄進した。一説によるとマソヴィエン公とプロツク司教が土地を寄進したこの時が修道会の創設にあたるともいわれている。修道会の組織や人員は主にプロシア司教が整えた。プロシア司教は十五人の騎士を用意し、総長にブルノという人物を当て、修道会の制服として赤い剣と星の付いた白マントを採用した。総長のブルノは卑しからぬ身分と記録されているが、出身地や身分が明確に記されていない点などを考えると、高位貴族ではなかったと考えられる。貴族ですらなく、自由身分の農民や商人であった可能性もある。同年10月にローマ教皇グレゴリウス九世により承認を受けた。
 修道会は直ぐに数十人規模に拡大したようだ。修道会はプロイセン侵攻の為にクルムラントに前進基地を設けてプロイセンへ先発隊を派遣するようになる。プロイセン人はドブリン騎士修道会の活動に対して大軍でもってクルムラントへ侵攻する事で応じ、クルムラントのドブリン騎士修道会の前進基地は破壊され、ここに派遣されていた会士も全滅してしまう。修道会はマソヴィエン公に援軍を要請し、マソヴィエン公は自ら軍を率い、修道会軍主力と合流してクルムラントへ侵攻した。マソヴィエン公と修道会の軍はドブリンからクルムラントへ至る途上にあるシュトラスブルクでプロイセン軍と遭遇して戦闘となった。形勢不利と見たマソヴィエン公は修道会を見捨てて退却してしまい、取り残された修道会軍は全滅した。最終的にドブリン城へ帰還できた会士は僅か五人に過ぎなかった。プロイセン軍は勝った余勢を駆ってドブリン城を攻撃したが、陥落させることはできなかった。この戦いによって気勢を削がれた修道会、マソヴィエン公、プロシア司教は共にプロイセン侵攻を断念せざるおえなくなる。
 1230年頃にドイツ騎士修道会がプロイセンへ本格的に侵攻を開始してクルムラントにも達し、マソヴィエン公とプロイセン司教はクルムラントをドイツ騎士修道会へ委譲する事に同意した。1233年にドブリン騎士修道会は手持ちの土地の大半をマインツ大司教に譲渡してしまい、1235年にドイツ騎士修道会への合併に同意し、同年ドイツ騎士修道会はドブリン城をマソヴィエン公に150マルクで売り払い、ドブリン騎士修道会は完全に消滅してしまう。
 マソヴィエン公は1226年にドイツ騎士修道会を招聘し、ほぼ同時期にドブリン騎士修道会を創設している。ドイツ騎士修道会はマソヴィエン公の招聘に直ぐには応じなかったので、マソヴィエン公はドイツ騎士修道会が来訪しなかった時に備えてドブリン騎士修道会を創設し、1230年にドイツ騎士修道会が来訪した事で余り将来性のないドブリン騎士修道会を見捨て、ドイツ騎士修道会に肩入れする事にしたのだろう。

参考資料
「Johannes Voigt著 Geschichte Preussens von den altesten Zeiten bis zum Untergange der Herrschaft des Deutschen Orden 1 KONIGSBERG 1829年」464から465頁
「山田作男著 プロイセン史研究序説 風間書房 1982年」31から38頁
ドブリン騎士修道会の史料

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