表紙へ ドイツ騎士修道会の表紙へ


ペイプス(チュード)湖の戦いの史料
ペイプス湖の戦いは1242年に現在のエストニア・ロシア国境のペイプシ湖上で行われた戦いである。
「戦艦ポチョムキン」や「雷帝」などで有名な旧ソ連の映画監督エイゼンシュテインが1938年に制作した「アレクサンドル・ネフスキー」で描かれている。
この戦いはドルパット司教の主導で行われ、ドイツ騎士修道会はそれを援助するという形で参加したようだ。


ノヴゴロド第一年代記 1242年
 アレクサンドル公がノヴゴロドの人々、弟のアンドレイ、ニズの人々と共にチュヂの国のネムツィを攻めに向かい、プスコフまでの道をすべて押さえた。彼はプスコフ公を追放し、ネムツィとチュヂを捕らえて彼らに枷を嵌め、ノヴゴロドに送り、公自身はチュヂの国を攻めに向かった。チュヂの国に到着すると、公はすべての兵を補給所に行かせた。トヴェルヂスラフの息子ドマシとケルベトは斥候に出ており、橋のところでネムツィとチュヂが彼らに出会い、そこで戦った。この時、市長官の兄弟で誠実な人であったドマシは殺され、彼と共にあるものは殺され、ある者は生け捕りにされ、ある者は公の軍に逃げ帰った。公は湖に引き返し、ネムツィとチュヂは彼らを追いかけてきた。アレクサンドル公とノヴゴロドの人々はこれを見て、チュド湖のほとりのウズメニの「烏岩」のそばに布陣した。ネムツィとチュヂはこの軍に襲いかかり、楔形の陣形でアレクサンドルの軍を突いた。ネムツィとチュヂにとって激しい斬り合いであった。神と聖ソフィヤ、聖なる殉教者ポリスとグレブ、この二人のためにノヴゴロドの人々は血を流したのであるが、神はこの聖人たちの大いなる祈りによってアレクサンドル公を助けられた。ネムツィはそこで倒れたが、チュヂは逃げた。ノヴゴロドの人々は彼らを追いかけ、スボリチの湖畔まで七ヴェルスタのところの氷上で彼らを討った。多くのチュヂが死んだ。ネムツィは四百人が死に、五十人が捕らえられてノヴゴロドに連れてこられた。人々が戦ったのは四月五日、聖なる殉教者クラウディオスの日、聖母を讃える日、土曜のことであった。
 同じ年ネムツィは使者をよこして、「公のいない間に私たちが剣によって支配したヴォヂ、ルガ、プスコフ、ロトィゴラのすべてを私たちは放棄します。一方、私たちが捕らえたあなたがたの家臣は、交換しましょう。私たちはあなたがたの家臣を解放しますから、あなたがたは私たちの家臣を解放してください」と懇願した。人々はプスコフの人質を解放して和睦した。

注.
 この史料はノヴゴロド側から見たペイプス湖の戦いといえる。
 元となった文は13世紀に書かれた。
 「− ノヴゴロド第一年代記6 ロシア研究18 1991年」26から27頁より。
 チュヂはエストニア人、おそらくドルパット司教領の人達だろう。ネムツィはドイツ人を表す。


アレクサンドル・ネフスキイ伝
アレクサンドルが西の王をやぶって勝利をおさめてから三年目の冬、公は大軍をひきいてネメツの国を攻めた。これは彼らがおごりたかぶって、「スラヴの民をはずかしめよう」などと言わぬようにするためであった。
 すでにプスコフの町は敵の手に落ち、ネメツ人の代官がおかれていた。アレクサンドル公は代官どもを捕え、プスコフの町を敵の手から解き放った。さらに公はネメツ人の土地を攻め取り、家々を焼きはらい、無数の捕虜を捕え、一部の者は切り殺した。他の町のネメツ人たちは集まって言った。
 「出撃してアレクサンドルを打ち負かし、やつを生けどりにしようではないか。」
 敵軍が近づいたとき、味方の見張りはこれに気づいた。アレクサンドル公は準備をととのえ、敵にむかって出撃した。チュード湖は双方の大軍によっておおわれた。公の父ヤロスラーフは公を助けるために、弟のアンドレイに多くの従士をそえて送った。かくてアレクサンドル公のもとには、いにしえのダビデ王のもとにたくましい勇士がそろっていたごとく、多くの勇敢な戦士たちがひかえていた。アレクサンドルの戦士たちは、闘志にもあふれていた。彼らの心は獅子のごとくで、口々にこう言った。
 「おお、われらの名誉ある公よ。いまこそ君のためわれらのこうベを横たえる時がきた。」
 アレクサソドル公はもろ手を天に差しのべて言った。
 「神よ、われをさばきたまえ。高慢なる民との争いにさばきをくだしたまえ。神よ、われを助けたまえ。かつてアマレクに対してモーゼを助け、呪われたスヴャトポールクに対してわが曽祖父ヤロスラーフを助けられたごとく。」
 それは土曜日であった。太腸のさしのぼるころ、両軍が衝突した。はげしい戦聞がおこり、槍のくだける音、切りむすぶ剣のひびきは凍った湖をゆるがさんばかりであった。湖の氷は見えず、一面血でおおわれた。
 ある目撃者から聞いたところでは、このとき神の軍勢が中天にあらわれ、アレクサンドルに加勢するのが見えたという。こうして公は神の御助けをもって敵をやぶり、敵は退却をはじめた。味方は宙を行くごとく追いかけて、敵を切り殺した。相手には逃げこむ場所さえなかった。ここで神は全軍のまえでアレクサンドルの栄光をあらわされた。あたかもエリコにおいてヌンの子ヨシュアの名を高からしめたごとく。
 「アレクサンドルを生けどりにしよう」と言った者どもを、神は公の手に引き渡されたのである。戦において公にかなうものはひとりもなかった。
 アレクサンドル公は栄えある勝利をおさめて凱旋した。公の軍勢のなかには数多くの捕虜がいた。「神の騎士」と名乗る者どもが、馬のわきをはだしでひかれてきたのである。

注.
 この史料は著者が実際に戦いに参加したロシア側の人々から聞いた話を元に書いたもので、この史料が作られたのは13世紀後半である。
 「中村喜和訳 ロシア中世物語集 筑摩書房 1970年」245から247頁より。
 ネメツはドイツ人を指し、「神の騎士」はドイツ騎士修道会士のことを指す。。


リヴォニア・ライム年代記 2204−2280
 ここはロシアでも巨大で強力な都市で、名をスーズダルといい、この時の王はアレクサンドルであった。ロシア人達が敗退により悲嘆していたので彼は戦争に向けて市民を準備し、直ぐに準備を終えた。アレクサンドル王と多くのロシア人は共にスーズダルから出陣した。彼らの周りには無数の弓兵がおり、驚くべき数の胸当てがあった。旗々は華麗で見渡す限りのヘルメットは全て光輝いていた。彼らは武力を持って猛々しく修道会の地へ前進した。兄弟達は素早く彼らに対する体制を整えたが、人数が非常に少なかった。
 アレクサンドル王が修道会の地へ軍を率いてきて荒らして焼き払った地はドルパットとして知られる地だった。司教は留まらなかったが、配下の者に兄弟達の軍の元へ急いで行き、ロシア人に対抗するよう命令を下した。だが、司教配下の者は非常に少なく兄弟達の軍も小さかった。それにも関わらず彼らはロシア攻撃を決定した。後続は多くの弓兵で、彼らは王の配下に対して大胆な突撃を行った。兄弟達の旗は弓兵達の直中ではためき、剣はヘルメットを切り裂いたと言われてる。草原の上で両陣営の多くの者が死んだ。次に兄弟達の軍はドイツ人騎士一人につきおおよそ六十人にも及ぶロシア人の大軍に完全に包囲されてしまった。兄弟達は十分よく戦ったが、それでもなお切り倒されていった。ドルパットから来た幾人かは戦いから脱出し、自らを救うべく逃げなければならなかった。二十人の兄弟達が死に、六人が捕らわれた。戦闘は終わった。

注.
 この史料はドイツ騎士修道会側から見たペイプス湖の戦いといえるが、戦いの場所はドルパット近郊にも見える。
 この年代記は13世紀後半に作られた。
 「Jerry C.Smith/William L.Urban編 The Livonian Rhymed Chronicle INDIANA UNIVERSITY 1977年」31から32頁より。
 スーズダルはノヴゴロドを表し、兄弟達とはドイツ騎士修道会士のことを指す。


ラブレンチー(スーズダル)年代記
 6750年(1242年)、大公ヤロスラフはおのが子アンドレイを大ノヴゴロドへ、ニェムツィと戦おうとするオレクサンドルを助けるために送った。かれらはプスコフの向こうの湖上でかれらニェムツィを破り、多くの虜を捕らえた。そしてアンドレイはおのが父のもとに栄誉のうちに帰還した。

注.
 この年代記は13世紀後半に作られた。
 「栗生沢猛夫著 アレクサンドル・ネフスキーとモンゴルのルーシ支配−−研究史上の問題点−− 北海道大学文学研究科紀要110 2003年」86頁より
 ニェムツィとはドイツ人のことを指す。

表紙へ ドイツ騎士修道会の表紙へ

inserted by FC2 system