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レポート

注.かっこ内は注番号

目次
 1.ドイツ騎士団の起源
 2.騎士団国家の建設
 3.フス戦争とドイツ騎士修道会


1.ドイツ騎士団の起源

 ドイツ騎士団の前身は「エルサレムの聖母マリアドイツ病院兄弟団(Fratres hospitalis S.Mariae Teutomicorum in Ierusalam:ラテン語)」と言う名の病院で、この病院の前身は1127年にとあるドイツ人夫妻が建てたドイツ館と呼ばれた病院だと考えられている。このドイツ館は、1143年に教皇が発した文書によると、ヨハネ騎士団に所属していた(1)。しかし、騎士団の会則「シュタトゥーテン」にも、公式記録の「ナルラティオ」 にもドイツ館については、何も書かれていない(2)。それ故にドイツ館をドイツ騎士団の 起源ではないと主張する研究者も多い(3)。ドイツ騎士団としては、前身がヨハネ騎士団 の一組織であっては、独自の立場を主張する際に都合が悪いとの意識が働いた為に、ドイツ館を前身とする説を故意に削除した可能性が大きい様だ(4)
 公式記録では、1190年の第三次十字軍の最中にアッコンでリューベックとブレーメンの市民の作った野戦病院がシュバーベン公フリードリッヒの保護を受け、正式な病院に昇格し、同年エルサレム王ギー・ド・リュジニャンからも承認を受けた(5)
 リューベックとブレーメンの市民は商人だったらしく、病院をシュバーベン公の二人の臣下、カプラン・コンラート(Kaplan Konrad)とケンメルアー・ブルヒャルト(Kammerer Burchhard)に引き渡すと、すぐに引き上げてしまう(6)
 ドイツ諸侯にはドイツ騎士団をドイツ帝国の出先機関として利用しようとの意図があったようだ。そこで、1198年に諸侯はこの病院を騎士団に昇格させ、翌年にはローマ教皇インノケンティウス3世の承認も得て、正式に騎士修道会として発足させたのである(7)

  1. 「阿部謹也著 ドイツ中世後期の世界 未来社 1974年」35−36頁参照
  2. 原典「ドイツ騎士修道会の会則(Statuten)」と原典「ドイツ騎士修道会発足の歴史(Narracio)」「山田作男著 プロイセン史研究論集 近代文藝社 1994年」150頁。
  3. 阿部著 前書36頁。日本の研究者はどうかというと、阿部氏はドイツ館がドイツ騎士団の起源だと考えている。同40頁。山内氏と西川氏と今来氏は明言していない。「山内進著 北の十字軍 講談社 1997年」153頁。「山田欣吾・成瀬治・木村靖二編 ドイツ史一 山川出版 1997年」274頁。「今来陸郎 プロイセンにおけるドイツ騎士団国家の発端 西洋史学16 1953年」6頁。山田氏は阿部氏と同意見。「山田作男著 プロイセン史研究序説 風間書房 1982年」23頁。橋口氏は山内氏と同様明言を避けているが、ドイツ館を起源とする説に傾いている様である。「橋口倫介著 十字軍騎士団 講談社 1994年」218頁。全体的に見て日本では、ドイツ館を起源とする説が有力な様に見受けられる。「ドイツ修道会の公式HP」によると、ドイツ騎士修道会は1190年に発足したとあり、前身はハンザ都市から来た十字軍士の創設した病院だとされており、公式見解は今だに変わっていない。私としては、何をもって前身とするかが不明瞭であり、根拠が薄弱に思えるし、御当人達がドイツ館を前身とは考えていないようなので、とりあえず「ドイツ館は創設に関わったと推測される」と言うところで考えを止めておく。
  4. 阿部著 前書40から42頁。
  5. 阿部著 前書36頁 と 山田著 プロイセン史研究論集 152から154と171頁。
  6. 阿部著 前書40頁 と 山田著 プロイセン史研究論集 152頁。
  7. 山田著 プロイセン史研究序説 23頁 と 今来著 前書7頁。

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2.騎士団国家の建設

 第四第総長ヘルマン・フォン・ザルツァは修道国家建設を目指した(1)。そこで、最初に飛び込んできたチャンスがハンガリア王アンドラーシュ二世からの招きである。当時、ハンガリーの隣国には非キリスト教のクマン族がおり、ハンガリー王はクマン族を討つ為にドイツ騎士団をボルツァ(現在のハンガリーのトランシルバニア)に呼び寄せた(2)。 ハンガリー王はあくまで、王国の拡大に貢献する者として、ドイツ騎士団を招いたのだが、ドイツ騎士団は国家建設を目論んでいた。それ故に両者の見解の相違は対立に発展し、ドイツ騎士団はローマ教皇に助けを求めた。教皇もドイツ騎士団を支持し、ドイツ騎士団は教皇庁直轄であり如何なる世俗君主にも属さないとの特許状を発したが、1225年にハンガリー王は騎士団を追放してしまう(3)。教皇はハンガリー王に抗議したが何の効果もなく(4)、 後釜にはヨハネ騎士団が入ったが、彼らはドイツ騎士団の様に国家建設を指向する事はなかった(5)
 ハンガリー追放直後に再びチャンスが舞い込む。1226年にポーランドのマソヴィエン公コンラートがドイツ騎士団をプロイセンに招いた。そこで、ヘルマンは前回の失敗を繰り返さぬ為に、招聘を受けた同じ年に今度は世俗君主の最高峰たるドイツ皇帝フリードリヒ二世から領土確保の確約を手に入れ(6)、1234年にはローマ教皇グレゴリウス九世からも一定の条件下での保障を受けた(7)。そこで、同年に二人の団員を、1228年には三人の団員をプロセインへ使節として派遣し、マソヴィエン公からクルマーラントを委譲される。続いてプロイセン司教クリスチアンからも土地の委譲を受ける(8)。根拠地を手にし、準備が整った1230年にプロイセン管区長ヘルマン・バルク率いる十字軍がプロイセンへ進出した(9)
 しかし、ドイツ騎士団が目を付けたバルト沿岸地域のプロイセンとリヴラントには先客がいた。プロイセンには、プロイセン司教クリスチアンの建てたドブリン騎士団、リヴラントには、リヴォニア司教アルベルトの建てた刀剣騎士団がいた(10)。ドブリン騎士団の併合は、クリスチアン司教の抵抗に会い手間取ったが、1233年にクリスチアン司教が現地人に捕らえられるという好機が訪れ、1235年に成功した(11)。刀剣騎士団は1202年の創設以来、順調な成長を遂げ、現在のバルト三国にあたる地域の大半を掌中に収めていたが、1229年にアルベルト司教が死に、1236年にザウレの戦いで大敗し、総長以下多くの団員が戦死した為、騎士団そのものの存続が危うくなり、翌年ドイツ騎士団に併合された(12)。両騎士団の併合によりドイツ騎士団は北方十字軍の主導権を握り、更には強力な根拠地も手に入れ、皇帝と教皇という二つの強力な後ろ盾を得て、この地に修道国家建設を開始した。
 余談となるが、ヘルマンは国家建設の候補地としてハンガリー、プロイセンの二路線だけを考えていたのではない。ドイツ皇帝にして、シシリー及びエルサレム王たるフリードリヒ二世の全面的な支持の基、キプロス島での国家建設を考えていた。しかし、この計画はキプロスにおける皇帝の支配権喪失により破綻した(13)

 ヘルマン・フォン・ザルツァについて:ヘルマンはチューリンゲン方伯の家人の出である(14)。家人のなかでもヘルマンは、ディーンスタマン(Dienstamann)と呼ばれる階層で、これは元を正すとフランク時代のミニステリアーレス(Ministeriale)と呼ばれる非自由人である。ミニステリアーレスが封建制の進展に伴い領主に従属する兵士としての地位を得たのが、ディーンスタマンである(15)。要するに、ドイツ騎士団とは公や伯等の高い位はおろか貴族でもない人が総長になれるような組織であり、不自由身分の家人達にとり騎士団は社会的地位の上昇、更にはヘルマンの様に帝国諸侯に匹敵する出世ができる数すくない機会だった(16)。ヘルマンはこの機械を利用して広大な支配地と帝国諸侯と同列にかぞえられる地位を手に入れた。

  1. 「H・ハインペル著 阿部謹也訳 新版 人間とその現在 未来社 1991年」114頁 と「阿部謹也著 ドイツ中世後期の世界 未来社 1974年」64頁。
  2. ハインペル著 前書120頁 と 阿部著 前書65頁 と「今来陸郎 プロイセンにおけるドイツ騎士団国家の発端 西洋史学16 1953年」1頁 と 原典「ハンガリア王アンドラーシュ二世のボルツァの寄進文書」。
  3. 阿部著 前書65と66頁 と 今来著 前書9頁。
  4. 「山田作男著 プロイセン史研究序説 風間書房 1982年」24頁。
  5. ハインペル著 前書120頁 と 今来著 前書12と13頁。
  6. 原典「リーミニ勅書」 と ハインペル著 前書117から120頁 と 今来著 前書14頁。
  7. 原典「リエティ勅書」 と 阿部著 前書114頁 と 今来著 前書18頁。
  8. 山田著 前書34と35頁。
  9. 阿部著 前書113頁。
  10. 刀剣騎士団については「山内進著 北の十字軍 講談社 1997年」104から147頁。ドブリン騎士団については 山田著 前書31から33頁。
  11. 山田著 前書39から43頁。
  12. 山内著 前書114から147頁。
  13. ハインペル著 前書120から122頁 と 阿部著 前書67から69と82頁。但し、この計画破綻原因については阿部氏とハインペル氏の間で相違が見られる。
  14. ハインペル著 前書105頁 と 阿部著 前書61頁。
  15. 「ミッタイス著 世良晃志郎訳 ドイツ法制史概説 改訂版 創文社 1971年」309頁。
  16. 阿部前書 63と64頁。

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3.フス戦争とドイツ騎士修道会

 1419年にベーメン(ボヘミア)王国、現在のチェコでフス派が蜂起し、1420年に時の皇帝ジギスムントは兵力10万とも言われる十字軍を派遣したが、十字軍はヤン・ジシュカ率いるタボール軍に敗退し、ベーメンからの退却を余儀なくされた。その後、1421年、1426年、1427年、1431年と最初と合わせて5回の十字軍が派遣されたが、ことごとく敗退した。1428年頃からフス派は攻勢に転じ、ドイツ各地へ遠征軍を派遣している。フス派遠征軍は1428年にシレジア、1429年にザクセン、1430年にシレジアとハンガリー、1431年にシレジア、スロバキア、ハンガリー、オーストリア、1432年にラウジッツを襲撃し、1433年にはドイツ騎士団領を横断してバルト海に至っている(1)。1434年にフス派穏健派がカトリック派と和解し、共同してフス派急進派たるタボール軍をリパニの戦いで撃ち破り、フス戦争は終結する(2)


フス派の車陣 プラハ国立美術館所蔵
http://www.xenophongroup.com/ より

 フス戦争ではドイツ騎士修道会にも皇帝から参加要請が来ているが、修道会は当初参加を控えている。1426年六月にプロコフ率いる二万四千のフス派軍が ザクセン公フリードリヒが籠もる Usti を包囲した。ザクセン公の妻カテリーナの人力により、第三次十字軍が発動され、フス派軍を越える兵力が Usti 救援に来援したが、一万五千とも言われる損害を被り大敗した。この第三次十字軍の為に総長(Hochmeister)パウル・フォン・ルスドルフは五〇名の兵をベーメン・シレジア境界の町、 Zittau に派遣したが、派遣軍はこの町に留まりベーメンに侵攻していない。翌1427年の第四回十字軍の為に総長に当ててフランクフルトの帝国議会から参加要請が発せられたが総長は兵を送らず、ドイツ長官(Deutschmeister)エーベルハルト・フォン・ザオイシャイムが一三〇名の兵を率い、プファルツ公オットーの元に参陣した。第四次十字軍は四方向から総計騎兵八万、歩兵八万以上と言われている兵力でベーメンへ侵攻する予定であったが、実際に行われた侵攻は二方向からだけで、主力軍はトリール大司教オットーとブランデンブルク辺境伯フリードリヒが率いて西部から Stribro へ向かい、支隊は西北部 kalan から Zlutice へ向かった。修道会は主力軍と行動を共にしたと考えられる。十字軍主力は Stribro を攻撃したが、プロコプ率いるフス派主力軍が来援し、十万とも言われる損害を被り惨敗した。1431年に第五次十字軍が組織され、修道会には四〇〇名の兵力提供が義務づけられたが、総長はこれを無視した。総長とは別にドイツ長官は五〇名の兵を率いて十字軍参加した。1431年七月にブランデンブルク辺境伯フリードリヒ率いる第五次十字軍は騎兵四万、歩兵九万とも言われるが実際は恐らく三万三千の兵力で、フス派の車陣戦術をまねて四千台の馬車と百門の大砲を用意して侵攻を行ったが、十字軍はフス派軍を見たとたん戦わずに敗走した(3)
 ベーメン遠征を見ると総長とドイツ長官の対応の違いが目に付く。これはドイツ長官の管轄する帝国内の所領が皇帝や領封君主の保護下にあり(4)、ドイツ長官としては彼らの好意を得るために、無理にも彼らの事業に協力する必要があったが、総長の管轄するプロイセンは1410年と1422年にポーランド・リトアニア連合との戦争で敗退したことで経済的にも軍事的にも余裕がなく(5)、皇帝や諸侯からの対フス十字軍要請に応えられなかった為と考えられる。


ベーメンにおける対フス十字軍の進路

 ドイツ騎士修道会はヨーロッパ各地に所領(Balleien)を有しており、各所領はバライと呼ばれ、地域毎にまとめられてラントコムトゥールの管轄下に置かれていた。ベーメン王国は十五世紀に至るまでポーランドとの対抗上、修道会に好意的であり、数多くの所領を修道会に寄進していた。それ故、バライ・ベーメンはドイツで最も豊かなバライであり、その重要性から1388年に総長直属バライとされた。バライ・ベーメンの中心はベーメン北部の Komotau で、一都市、一市場、三十ヵ村を包括する、二十二カ所の所領があり、Pilsen には病院もゆうしていた。しかし、フス戦争に際して総長はバライ・ベーメンを防衛する手だてを講じず、バライ・ベーメンは崩壊した(6)

 1432年にフス派はポーランドの貴族達と対ドイツ同盟を結び、1433年六月にヤン・チャベック・フォン・サーン指揮するフス派軍が北上しドイツ騎士修道会領ノイマルクに侵攻した。フス派軍はノイマルクの Landberg でポーランド軍と合流し、ポメラニアの Konitz へ進んでここを包囲したが、Konitz 攻撃は失敗し、フス・ポーランド連合軍はKonitzを迂回してヴィスラ河へ向かった。一方修道会は、プロイセンに四百名しか修道会士がおらず、1422年のポーランドに対する戦争の時に皇帝が用意した三千名の傭兵隊の代金が払えないせいで軍を編成できずに、ポーランドに和平を乞わざるおえなくなる程に財政が逼迫していた。故に、単独で戦争を遂行することが不可能で現地の諸侯や都市の協力が是が非にも必要だったが、現地の諸侯や都市は非協力的で連合軍に対する軍を編成できずにいた。修道会が手をこまねいて見ている内に連合軍はDanzigに進み、そこからOlivaに進軍してOliva修道院を焼き討ちしてバルト海に達した。ここでブランデンブルク辺境伯の援軍が到来するとの報に接した連合軍は南へ引き返し、Stargard を通って十二月にJesssnitzに達したところで修道会が休戦を求め、仮休戦が締結された(7)


ドイツ騎士修道会領に対するフス派の遠征

 ポメラニアの修道会所領はフス派により甚大な損害を被った。当時、修道会所領では不作や戦争、黒死病などにより農地の荒廃が進んでいた。戦禍を被らなかった地域で、だいたい2割近い農地が放棄され、戦禍を被った地域に至っては5割以上の農地が失われた。フス派の進路に当たった地域はフス派の攻撃が原因と見られる農地放棄が3割近くに登った(8)。フス派の遠征が対象地域の占領より掠奪を目的としていたことから、農地以外の部分に一層大きな被害が発生していたであろう事が推測できる(9)。そして、休戦条件として九千五百グルデンの賠償金を課せられ、戦争被害と相まって修道会の財政を大きく圧迫した。修道会は増税でこの窮状を乗り越えようとしたが、諸都市や諸侯の反対に遭い、税の徴収は失敗し、諸都市や諸侯との間の緊張が高まる結果となり、プロイセン内の諸都市や諸侯による対修道会同盟たるプロイセン同盟結成の原因となった(10)

 ドイツ騎士修道会はフス戦争によりドイツで最も豊かなバライ・ベーメンを為す術もなく失い。ポメラニアを荒廃させられ、既にタンネンベルクの戦いで苦しくなっていた財政が行き詰まり、プロイセン内の諸都市や諸侯と敵対する結果になった。総長とドイツ長官の立場の違いも浮き彫りになり、だいたいこの頃からドイツ長官と彼の管轄バライは総長のコントロールを離れていった。フス戦争はドイツ騎士修道会衰亡の要因の一つと言うより、修道会が抱えていた問題を顕在化させた事件の一つだったと考えられる。

ドイツ・ハンザ:ドイツ騎士修道会はドイツ・ハンザの一員である(11)。そのハンザもドイツ皇帝ジギスムントからフス派十字軍への援助を求められているが、ハンザはいかなる援助も行わなかった(12)。図らずもドイツ騎士修道会総長もハンザの意向に従う結果となっていた。
 ハンザ都市は北ドイツから中央にかけて200もある(13)。それ故に、フス派がベーメンの外へ遠征軍を送り始めるとハンザも影響を被らないわけにはいかなかった。1428年にはシレジアのハンザ都市 Breslau が襲われ、1433年の騎士団領侵攻により Stargard や Danzig 等のハンザ都市が少なからぬ損害を被った。1430年に Lubeck で行われたハンザ総会はフス派遠征軍出現の報に Magdeburg や Braunschweig の代表が急遽帰国してしまい散会となり、 Luneburg もフス遠征軍を迎撃にマイセン伯領へ向かった軍に兵を出した(14)。ザクセンのハンザ都市は対フス派防衛同盟を締結している(15)
 しかし、フス戦争に対し、ハンザが全体で当たることはおろか協調して当たることもなく、各都市が各々の判断で個々に対処しただけのようだ。どの程度の被害が出たかは不明だが、修道会領の被害を見るに攻撃を受けた都市の被害が軽微だとは考えずらい。


フス派タボール軍司令官ヤン・ジシュカ

1609年にドイツで出版された「フス戦争」の挿し絵
「Zacharias Theobald Hussitenkrieg GEORG OLMS VERLAG 1981」より

  1. こは 「Nicholas Hooper & Matthew Bennett Illustrated Atlas Warfare The Middle Ages 768-1487 CAMBRIDGE 1996」 136から139頁の要約。
    フス派について詳しくは「http://www002.upp.so-net.ne.jp/kolvinus/」で聞くと良いだろう。
  2. 「薩摩秀登著 プラハの異端者たち−−中世チェコのフス派にみる宗教改革 現代書館 1998年」154から156頁。
  3. 長の行動は「山田作男著 皇帝ジギスムントの北東政策について 愛知学芸大学研究報告9 1960年」332頁。ドイツ長官の行動は 「Rudolf Ten Haaf Deutschordensstaat und Deutschordensballeien GOTTINGEN 1951」 70と71頁、ドイツ長官名は33頁。十字軍の状況は Nicholas Hooper & Matthew Bennett 前書137から138頁と、「Norman Housley The Later Crusades OXFORD 1992」 255から257頁、「K.M.Setton A History of The Crusades 3 THE UNIVERSITY OF WISCONSIN PRESS 1975」612から617と631から639頁参照。
  4. 「阿部謹也著 ドイツ中世後期の世界 未来社 1974年」105頁。
  5. 410年と1422年の敗戦後の修道会の窮状については「山田作男著 プロイセン史研究序説 風間書房 1982年」230から243頁。
  6. に 阿部謹也著 前書94と96頁を参照し、他に「Hartmut Boockmann Der Deutsche Orden. Zwolf Kapitel aus seiner Geschichte C.H.BECK 1981」 309頁、「Udo Arnold Zur Wirtschaftsentwicklung Des Deutschen Ordens im Mittelalter N.G.ElWERT VERLAG MARBURG 1989」 3頁参照。総長がバライ・ベーメン防衛を意図していなかったことは総長の十字軍に対する消極的態度から推測できる。
  7. に 「Marian Biskup/Gerard Labuda Die Geschichte des Deutschen Ordens in Preusssen. Wirtschaft, Gesellschaft, Staat, Ideologie TASCHENBUCH 2000 」407頁を参照し、他に 阿部謹也著 前書380頁、山田作男著 皇帝ジギスムントの北東政策について 331と332頁参照。修道会士の数は Norman Housley 前書364頁。
  8. 「Michael Burleigh Prussian Society and the German Order CAMBRIDGE 1984」 87頁と184と185頁によるとフス派が通過した地域にあたるSchlochauとTuchel管区で、1414から1438年の間に放棄された農地は5割以上に登る。山田作男著 プロイセン史研究序説 242から244頁によると、この期間に行われた戦争は1422年にポーランド軍がクルマーラント侵入した戦争と、1433年のフス派の侵攻しかなく、クルマーラントの農地も5割位が放棄されている。「阿部謹也著 一五二五年・プロイセンの農民一揆 一橋大学一橋論叢48−3 1962年」359頁と、Michael Burleigh前書185頁をみると、それ以外の地域の農地放棄は2割程度に留まっている。そこから、戦禍による農地放棄は全体の3割くらいと推測できる。
  9. 「西澤龍生編 近世軍事史の震央 彩流社 1992年」76から80頁によると、フス派は国内の物資窮乏を遠征軍による略奪品で埋め合わせようとした。それと、指揮官個人の着服分も相当量に登ったようだ。例えば、修道会領遠征軍指揮官のヤン・チャベックはフス派に入る以前は一文無しであったが、修道会領遠征後には大領主の資産に匹敵する30万ボヘミア・グロッシェンの資産を有していた。
  10. 山田作男著 プロイセン史研究序説 249から253頁。
  11. 「高橋理著 ハンザ同盟 教育社 1980年」32頁。
  12. 「Phillipe Dollinger The German Hansa ROUTLEDGE 1999」113頁。
  13. Phillipe Dollinger 前書 前置の9から10頁。
  14. 「Heinz Stoob Die Hanse VERLAG STYRIA 1995」226頁。
  15. Phillipe Dollinger 前書 120頁。

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