補助論文資料

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  1. 伊藤貞夫著 1980年代の古代ギリシア家族研究 東京大学史学雑誌100−4 1991年
     1980年代に発表された欧米のギリシアの家族に関わる論文の紹介と評価をまとめており、主にアテナイに関わる論文を扱っている。この頃現れた論文は概ね六グループに分けられる。その内、五グループはアテナイに関わるものである。一グループはホドキンソンに代表される新説を掲げたグループの評価である。論者はホドキンソンの上げる私有財産の分割相続とし、プルタルコスの史料としての価値を疑うホドキンソンの説を史料解釈の面に難があるとして否定しているが、現在ホドキンソンはカートリッジと共にスパルタ史の主流を占めつつあるようなので新説が定説の地位を占める可能性を指摘している。ホドキンソンの新説に対して従来説によりスパルタの国制をまとめたマクダウェルの本「Spartan Law」も紹介されている。この論文でも行われている通り、従来説と新説を比較するにはこのマクダウェルの著作とホドキンソンの論文を比較してみるとよいのかもしれない。近年、ホドキンソンは従来の主張に則り、自説をまとめ上げた本、「Stephen Hodkinson著 Property and Wealth in Classical Sparta DUCKWORTH 2000年」を出している。

  2. 井上勝也著 ポリスと教育−−スパルタの場合 同志社大学文化学年報19号 1971年
     建国からボイオティア戦争での敗退に至るスパルタの概史とリュクルゴス伝に基づいたスパルタの教育の解説が行われている。前7世紀頃にスパルタが文化的に隆盛した点を指摘しつつもスパルタは軍事中心に編成されたものとして話を進めている。概史としてはそれなりにまとまっている。

  3. 大牟田章著 「アーギス蜂起」の背景−−アレクサンドロス東征下のギリシア世界 富山大学文理学部 文学科紀要1号 1973年
     前4世紀のアレクサンドロス東征中にペロポネソス半島で発生したスパルタ王アギス対マケドニアの留守部隊の戦いを、それ以前のギリシア情勢とペルシア艦隊の動向から分析した論文。エーゲ海でのペルシア艦隊の動向からアギスはマケドニアに対する戦争を考えたのではないかと推測している。その後、アギスはペルシアの地中海方面艦隊と連携して蜂起を準備した。イッソスの戦いでダレイオスが敗退し、それに参加していた傭兵隊の一部が宙に浮いてしまうと、アギスとペルシア艦隊は傭兵隊を雇い入れてマケドニアに対して戦争を仕掛けた。この際に、両陣営にとってアテナイの動静がいかに重要であったかと、アテナイの情勢が反マケドニアの急先鋒と目されていた弁論家のデモステネスを中心に概説されている。デモステネスはこのとき見事に変節を遂げ、親マケドニアへと転んでいる。アレクサンドロスの東征の華々しさに隠れて、余り見えてこなかった当時のギリシア情勢が分かり易く概説されている。

  4. 岡田泰介著 古代ギリシア国家の兵站システムと地域市場への影響 西洋史学204 2001年
     古代ギリシアの軍の補給について論じた論文。古代ギリシアでは馬車が余り発達しておらず、山がちで車両の使用が困難な地形と相まって軍が自前の補給物資を携えて行動するのは極めて困難だったようだ。それ故にギリシアの軍は3か4日分の食料を携える程度だったという。海軍も多数の人員を必要とし、物資の積載量の少ない三段櫂船を主力としていた為に多くの物資を携えることができず、1日行程毎に補給の為の寄港が必要だったようだ。総じて長期間の作戦が困難な状態にあった。略奪による現地調達という手段もあるが、これが可能なのは収穫期に限られ、略奪にかかる手間や危険に加えギリシア人の主食たる小麦を食べられる状態にする為には多くの手間をかける必要があり、効率の良い補給手段ではなかったようだ。更に、ギリシアの貧しい農地ではそう何度も略奪に耐えられるものではなかった。結局の所、補給は近隣ポリスで開かれる市場や軍に同行した商人達に依存しており、商人達は補給の必要に迫られた軍に対し、かなり割のよい商売を営んでいたようだ。古代ギリシアの軍は商人や現地の市場に依存した現地調達を基本としていたようだ。

  5. 岡田泰介著 古典期ギリシアにおける貴金属の流通と戦争 歴史学研究761 2002年
     古代ギリシアにおける貴金属の流通に対する戦争の影響を論じた論文。ギリシアの貴金属は貨幣として流通している分より奉納品や私蔵という形で流通に流れず死蔵されている分の方が遙かに多量であったようだ。通常、この死蔵分が市場に放出されることはない。市場に出回っている銀の量が400トンと言われている中、アテナイの神殿に死蔵されている分だけで約200トンもあり、死蔵分がいかに多いかが想像できる。しかし、戦争となるとその莫大な費用を補う為にこの死蔵分が使われることがある。そして、個人宅や神殿などが略奪などの被害を被ることでも死蔵分が市場に放出されることとなる。この戦時の放出分が死蔵されている貴金属が大規模に放出される殆ど唯一の機会だったようだ。この論文では貴金属流通について一般と戦争に伴うものとの二つに分けて検討を行っている。古代ギリシア社会が戦争に合わせて組織された戦士社会であるといわれる所以の一つを見たように思えた。 

  6. 小河浩著 重装歩兵の傭兵について 広島大学史学研究211 1996年
     前4世紀のオリエントでのギリシア傭兵の利用状況を分析した論文。傭兵と言うと国を追われた食い詰め者の元兵士が食うために行う職業と考えがちだが、どうもギリシアの重装兵傭兵は事情が違うようだ。雇い主たるオリエントの君主達は最高度の重装兵を求めていたので、その供給源をポリスそのものに求め、ポリスも同盟という形で傭兵を供給していたようだ。故に傭兵の主体は武装の自弁可能な市民だった。スパルタなどは指揮官級の傭兵を供給する地として知られていたが、実際に供給した傭兵の数は少なかったようだ。むしろ、アルカディアやアカイア地方が伝統的に傭兵を大量に供給していた。傭兵の動向から見た前4世紀のギリシア史とも取れるような論文で、スパルタが供給した傭兵の性質も垣間見える。

  7. 小河浩著 アケメネス朝ペルシアと前四世紀東地中海世界におけるギリシア人傭兵の活動 広島大学史学研究242 2003年
    前4世紀頃のペルシアにおけるギリシア傭兵の活動を概観した論文である。従来、前4世紀にはギリシア諸ポリスで経済的に落ちぶれた市民が大量に発生し、傭兵のなり手があふれている状態で、ペルシア帝国は凋落期にあたり、内乱が頻発したことで傭兵を必要とし、ギリシア傭兵を大量に雇い入れたと言われていた。この論文ではペルシアのギリシア傭兵の活動を追跡することで必ずしもこの通説通りではないことを指摘している。ペルシアは前4世紀に到るもギリシア世界に十分な影響力を及ぼしており、ギリシア傭兵を大量に雇用できる経済力も有していた。凋落期とは捉えられないと言うことである。ギリシア本土においての傭兵雇用も大規模なものはペルシアの経済的支援の元で行われることが多い。経済的な意味ではギリシアはペルシアの影響力下にあったと見ることが出来そうだ。ペルシアのギリシア傭兵の具体的な活動なども多く例として上がっており、傭兵の活動を追いかけるのにも良い。

  8. 小田洋著 アギス戦争の年代 鹿児島大学法文学部紀要人文科論集46号 1997年
     前4世紀中頃、アレクサンドロスが東征へ出発した後に、ペロポネソス半島の諸国家を率いてマケドニアに対したスパルタ王アギスの起こした戦争がいつ始まり、いつ終わったかを論じた論文。基本的にボスワースという研究者の提唱した論に沿って論を補強し、結論として331年夏に始まり、330年まで続いたという説を支持している。アギス戦争前後のマケドニア側の動きがまとめて在り、スパルタと言うよりもマケドニアに興味のある人向けかもしれない。マケドニア軍の兵員補充についての情報が色々ある。

  9. 清水昭次著 ポリスの世界 学習院大学史学28 1990年
     1989年に行われた学習院大学史学大会で行われた講演録で、主にスパルタが論じており、スパルタが特殊な国家ではなく、更には民主的な国家である点が論じられる。但し、ここで言う民主的とはあくまでポリス世界における民主制である。研究論文と言うよりは、スパルタに対する印象を連ねた文と言った感じ。

  10. 周藤芳幸著 「ドーリア人の侵入」と考古学 西洋古典学研究45 1997年
     ヘラクレイダイの帰還を考古学的に見たらどうなのかを紹介した論文。考古学ではこの事件はなかったかの如く無視されている。なぜなら、ミケーネ時代の遺物と比較してヘラクレイダイの帰還が起きた頃に、新たな考古学的遺物を残した人々の痕跡が見あたらないからである。それでも、2つの点からヘラクレイダイの帰還があったのではないかとの推論を立てることは可能なようである。一つは、「ドーリア土器」と呼ばれる土器でミケーネ末期に外来文化を持つ人々がギリシアに到来し、その後現地の人々と同化していった。もう一つは、ヘラクレイダイの帰還とはこれらの人々による蜂起であるとの仮定である。簡単に言って、この様なプロセスでなら、考古学的にもヘラクレイダイの帰還を説明できるようである。とにかく、考古学的には前2000年期頃のミケーネ崩壊に際して、外部から人々の波が押し寄せた痕跡はないという。そして、この説もヘラクレイダイの帰還があったとした場合、この様な説明が出来ると言った程度で、考古学的にこの説を支持できるとした積極的なものではなく、この説なら考古学的に否定されないと言った消極的なものである。

  11. 関口荘次著 古代ギリシャの教育と体育--第2部スパルタとアテネの教育と体育 拓殖大学論集149 1984年
     主に古代ギリシアの体育教育を紹介した論文で、スパルタの教育も紹介されている。教育の背景となる国政や習慣なども紹介しながら主にプルタルコスのリュクルゴス伝に基づいて書かれた資料を使って教育の紹介がなされている。だが、使われている論がどれも古く、スパルタの教育を国家統制型教育としての模範例のように捉えている節がある。

  12. 丹藤浩二著 ツキュディデス研究の現状について 西洋史学報復刊1号 1973年
     トゥキュディデスの著作についての研究の現状を報告した論文で、主に O.Luschnat著 Thukydides Der Historiker STUTTGART 1971 の紹介が行われている。従来トゥキュディデスの研究というと彼の著作が一時期に一括して書かれたものか、数度にわたって別々に書かれたものかが焦点になっていたようだが、結論を見ないまま袋孤児に陥った。そこで、その総まとめとして前記の様な著作があられてきたようだ。前記著作はトゥキュディデスについて「生涯」、「作品成立」、「思想」の三本柱に立って論考を進め、従来の研究の評価を行った書のようだ。この論文はトゥキュディデスの著作を読む際の参考と言った感じに捉える事ができそうだ。

  13. 中井義明著 ギリシア人とリュディア人 同志社大学社会科学68 2002年
    リュディアとギリシアの関係を論じた論文であるが、基本的に両者の関係の概説といった感じである。ギリシア人は小アジアをたいていバルバロイと意識するものだが、リュディアは別格扱いだったようだ。しかし、ギリシア人として意識していた訳でもない。リュディアにしてみれば有力な同盟国として或いは傭兵の供給地としてギリシア諸ポリスと友好関係を築くように心がけていたようだ。但し、ギリシア本土のポリスに対するのと、イオニアのポリスに対するのでは対応が異なっていた。イオニアに対しては幾度となく戦争を仕掛け圧力を掛けている。それでもイオニアの諸ポリスがリュディアに対して強い敵意を持つことはなかったようだ。リュディアとギリシアの関係はイオニアでの戦いはあったとはいえ概ね友好的であったと言えるようだ。ギリシア、リュディアの関係史の概説として読むこともできる。

  14. 中井義明著 ペルシア戦争は何時終わったのか 同志社大学社会科学73 2004年
    ペルシア戦争が何時終わったのかを当時のギリシア人の立場から検討している。現在、通史では前449年のカッリアスの和平により終結されたとされている。しかし、この和平は前4世紀のアテナイの政治家達により宣伝されたものであり、現存する和平の碑文も前4世紀半ばに作られたものである。そして、トゥキュディデスを始め前5世紀のギリシアの歴史家はカッリアスの和平について言及していない。ここからすぐにカッリアスの和平がなかったと断定することは出来ないが、この和平がペルシア戦争の終結させたという意識はギリシア人にはなかったようだ。ギリシア人にとってはペルシア戦争はプラタイア、ミュカレーの戦いでペルシア戦争は終わった。これ以降のペルシアに対する戦いは報復戦争である。ここからペルシア戦争の終結に関する議論からギリシア人にとっての戦争の終結についての考察にまで進んでいる。ギリシア人にとって和平の締結により、戦争が終結したとはならない。彼らにとっては両陣営の領土から軍が撤退し、占領地と捕虜を返却した段階でようやく戦争が終結したことになり、その際に和平が結ばれたかどうかは問題ではないようだ。従ってペルシア戦争はギリシアの領域からペルシア軍が撤退した時点で終わっていたのである。

  15. 新村祐一郎著 シュノイキスモスの意味について 歴史教育13巻4号 1965年
     「シュノイキスモス」、「集まり住むこと」と言う意味のこの言葉は、「ポリスを形成するために集まり住む」と言う意味にも使われた。この論文では様々なポリスの集住開始の状況を解説している。その前件としてギリシアへの民族移動やミュケナイ時代の集住についても解説されている。スパルタの集住の解説には最も多くの紙面が費やされている。ポリスの成立に纏わる一つの考え方を解説した論文である。

  16. 新村祐一郎著 ドリス人の侵入をめぐる二、三の問題 大谷大学研究年報45 1994年
     スパルタは一般に北部からペロポネソス半島へ雪崩れ込んできたドーリス人により作られた国家だといわれており、スパルタ人もドーリス人の末裔をもって任じていた。前一三から一二世紀頃に行われたドーリス人のギリシャ、エーゲ海方面への南下に纏わる問題を幾つか分析している。各々の項目について章分けがなされているので、ある程度は内容を把握できるが、他の章との関連も色々とあるので混乱を来してしまう。ここではドーリス人はいつギリシャ・エーゲ海方面に到来し、何をしでかしたのかが分析されている。通説では、前一三世紀頃に北からドーリス人の大移動が始まり、それが原因でミュケナイ文明は崩壊したと言われているが、この論文では否定される。トロイア戦争との関係も論じられるが、後の検討項目として残される。スパルタ王家は自らをヘラクレスの子孫だと自称している。そこで、「ヘラクレイダイ(ヘラクレスの息子達)の帰還」の物語から実際にスパルタを建国したドーリス人の到来した状況を推測し、ドーリス人のペロポネソス半島到来は平和理に行われたのだろうと言う仮説を導き出している。そこで、ミュケナイ文明をも破壊する勢いで行われた民族移動の主体はドーリス人ではなく、ドーリス人以前に到来したイリュリア系によるものとの説を採る。スパルタ前史としての意味がある論文である。

  17. 長谷川岳男著 アカイア連邦の政治組織 西洋古典学研究42 1994年
     前3から2世紀にかけてスパルタと対立したアカイア同盟の議会を表す二つの言葉の意味を検討した論文。この検討を通してアカイア連邦の意志決定がいかになされたかも垣間見える。通常のポリスと同様に先議機関としての評議会があり、最終意志決定機関として民会があるとした形はポリスのようである。この連邦はギリシア世界の中では比較的よくまとまったポリス集団だったようだが、どうも中心的なポリスが幾つかあり、基本的にそこの市民が議会を指導したようである。例を見る限りではシュキオンが議場として選ばれることが多いように見える。これはシュキオンも有力ポリスの一つと言うところなのだろう。アカイア連邦の決議例が多数あり、アカイア連邦の活動なども概観できる。

  18. 長谷川岳男著 マケドニアとローマ 歴史評論543 1995年
     大まかに分けてローマの帝国主義に関する研究史、ヘレニズム期のマケドニア王権についてとギリシアへの関心が検討され、マケドニア戦争時のマケドニア周辺の外交状況が解説されている。マケドニアが王絶対ではなく、有力者との協力関係に立った王権であり、ギリシアに対しては消極的な態度で臨み、ローマとの全面対決は臨んでいなかったようだ。マケドニア戦争当時のマケドニア、ローマ、ギリシアの関係を概観できる。

  19. 長谷川岳男著 古代ギリシア軍事史研究の新動向 軍事史学129 1997年
     欧米での重装歩兵研究の現状をまとめた論文で、主にイギリスの士官学校の教授キーガンの研究に触発されて書かれたハンソンの著作から始まる新たな種類の重装歩兵研究を紹介している。ハンソンは各兵士の見た戦闘の光景、兵士の精神状態など、戦闘の一般的な風景を史料や実際に武器などを使った実験などから解明している。ハンソンやそれに続く研究者の著作や、日本のギリシア軍事史に纏わる論文の一覧があり、重装歩兵を調べる為の史料集として極めて有用な論文。

  20. 長谷川岳男著 ローマ人のギリシア認識 歴史学研究703 1997年
     ローマ人が、ギリシアを、ギリシア人をどのように認識していたかを研究発表会で報告したまとめである。ローマ人はギリシア人を他の民族より自らに似た者と認識していたが、同じ者とは認識しておらず、ギリシア人の文化を愛好すると同時に軽蔑していた。当初はそれほど強くギリシアを意識することはなく、ギリシアの使える部分を摂取すると言ったていどで、ローマがギリシアを直接支配下に入れた辺りからギリシアを強く意識するようになり、ローマ人の美徳と対比させる形でギリシア人の悪徳が強調され、ローマ人は自らのアイデンティティの形成に利用したようである。ローマ人が記したギリシア人に関する記述にはこのギリシア人に対するイメージが強く反映されている。故にローマ人によるギリシア人の記録を読む際にローマ人のギリシア感を知っておく必要がある。それを知る道しるべの一つとして使えそうである。

  21. 桑原洋著 へロットは奴隷か農奴か 歴史学研究317 1966年
     ヘイロータイの研究と言うより、ヘイロータイに関係にありそうな事例や説を紹介した感じの論文。ヘイロータイを調べる際に類似事例を検索するのに使えるかもしれない。

  22. 比佐篤著 前2世紀前半のローマによる対ギリシア外交の再考察 関西大学史泉87 1998年
     スパルタで言うとアギス王の時代のローマのギリシア担当政務官を論じた論文。ローマがギリシアを重視しておらず、高級政務官がギリシア行きを望むのは、ギリシアで勝利して凱旋式を行える見込みがある場合くらいであったことが論じられている。ローマの高級政務官が属州行きを望む動機が何であったかを論証したような論文である。スパルタに限らず、この時期ギリシアが地中海世界にとり、如何に重要でなくなったかの一端を知ることが出来る論文である。

  23. 古山正人著 古代ギリシアにおける権力と不正−−ディケー、テュランノスそしてドーラを手掛かりに−− 東北大学西洋史研究新号24号 1995年
     1994年に東北大学で行われた「支配における正義と不正」で古山氏が行った報告のレジュメで、広くギリシア世界で権力にまつわる不正と呼ばれるものの解説が行われている。スパルタについては買官と収賄についての解説がある。特に、前4世紀末から3世紀初頭に海外へ指揮官として赴任したスパルタ人の収賄についての分析が行われている。海外赴任者の多くは指導的家柄の出の者が多く、海外で更なる富の蓄積を重ねたようだ。アゲシラオスなどはこの海外での富の分配を巧みに使い、パトロネジ関係の強化拡大を図ったらしい。海外へ赴任したスパルタ人のリストや主要な参考文献の紹介などもあり、使い出がある。スパルタ以外では、前期僭主制がどのように見られていたのかなどの解説がある。

  24. 古山夕城著 重装武具のシンボリズム−−ギリシアにおける戦争と国家−− 明治大学駿台史学121 2004年
    重装歩兵戦術で使われる武具のシンボル的な意味などについての幾つかの説を紹介した論文である。まず、「儀礼としての戦争」が検討される。儀礼としての戦闘は暴力の拡大の抑制、重装歩兵であることを通しての社会的序列の正当化、重装歩兵としてのポリスを越えた階級意識の共有などがもたらされる。古代ギリシアにおいて戦いは非日常的なことであり、唯一血のケガレが許される場であった。その非日常空間を日常と切り離すために戦闘前に「殺獣儀礼」などの儀式を行う必要があった。「戦士の美徳」の検討では重装歩兵としての美徳たる「自制心、節度、分別」があげられる。この戦士の美徳は密集戦術たる重装歩兵戦術と密接に結びつけられた徳目だといえる。同時に、戦闘時の死を美しいものとして賞賛する傾向が強くなる。次の「キジの壺の重装戦士」では重装歩兵戦術を描いた図柄として最も有名なキジの壺をめぐる二つの説が検討される。1つは最も注目されることの多い、重装歩兵の描かれた部分を検討した説でここで描かれている重装歩兵はまだ完成とはほど遠く、ホメロス的な戦闘が色濃く残っているという。もう一つの説はキジの壺に描かれている4ツのフリーズ全体を通してこの壺の描こうとしたことを解明しようとする説である。4ツのフリーズは各々が少年、青年、成人を描き、全体として人の成長を描こうとしたものとする説である。次の「武器携行の市民性」では当初武具は権力の象徴であったが、武具の普及により権力の象徴としての意味を失ったという点、楯が父祖代々受け継がれるポリスを象徴する武具であり、槍は個人に帰属する武具である点が指摘されている。「武装自弁の非原則」で古代ギリシアでは武器自弁が原則と思われていたが、実際には武装をポリスが負担することがあった点がアテナイの事例をとって解説されている。

  25. David Asheri著 Laws of Inheritance, Distributions of Land and Political Constitutions in Ancient Greece HISTORIA12-1 1963年
     ギリシアの財産制度についての類型化を行った論文。検討項目は5項目ある。最初の二つはポリス誕生初期に行われたと考えられている土地の平等分配により家族に割り当てられた先祖伝来の土地という様な割り当て地、この土地はたいてい売買や譲渡分割などが禁止されている。最初の二つの項目でこの土地の売買と分割についての検討が行われている。第三は遺言について、第四は結婚時の持参金について、第五は女相続人についてである。結論として二つの形態に分ける事ができるとしている。アリストテレスの定義に従い、民主制、貴族制、衆愚制、寡頭制に分け、最初の二つと次の二つを一つづつのグループとしている。最初の民主制、貴族制のグループは割り当て地の売買、譲渡、分割禁止で、相続は一人の相続人へ全て相続する単身相続、持参金として土地をつける事は禁止或いは制限されており、財産を相続する息子がいない場合にのみ遺言による相続が認められ、女相続人は息子が成人するまで財産を管理する代理人の地位に留まる。第二の衆愚制と寡頭制のグループでは、割り当て地の処分自由、分割相続自由、遺言による相続相手の指定自由、持参金として土地をつける事も自由、女相続人に対しては法的な規制の無効が宣言されるケースが多発するようである。著者も無理がある類型化と認めているが、ギリシアの財産制度について大まかなところを掴むにはよい。

  26. Christophe J.Tuplin著 The Leuktra Campaign: Some Outstanding Problems KLIO69 1987年
     レウクトラの戦いについての幾つかの問題についての所説を検討した論文。検討項目は多数あり、最初は戦闘が行われた場所で、これは実際のレウクトラノ地形に即してスパルタ軍の位置やテーバイ軍の位置が検討されている。日時は当時の暦を検討する形で行われ、結論はおおよそ紀元前371年の7月となっている。次ぎに戦闘の流れ、その中でも特にスパルタ軍の最初の行動からテーバイ軍に対応した行動までを、主にプルタルコスの文章の文言の分析を中心に幾つかの説が検討されている。結論としてはスパルタ軍は右翼への迂回行動を行おうとしていたと言うことらしい。続いて、レウクトラの戦いを記念して作られたと考えられている石文の検討が、これのことを記述していると思われる古代の著述家の著作と合わせて検討されている。残念ながら、この部分は簡単に目を通しただけなので詳しいことはよく分からない。レウクトラの戦いにまつわる問題点と説を概観できる。

  27. Ian Whitehead著 Xerxes' Fleet in Magnesia:The Anchorage at Sepias MARINER'S MIRROR74-3 1988年
     前480年の第二次ペルシア戦争といわれる戦いで、ペルシア艦隊はギリシアへの侵攻途上でマグネシア地方に停泊したと言われている。ヘロトドスの記述によるとペルシア艦隊は停泊した海岸が狭いので陸から海へと8列に艦を並べて停泊している。現代の学者の一部は、例えばギリシアの戦争の研究で有名なプリチャートによるとヘロトドスの言う場所の海岸は狭くペルシア艦隊が停泊できたとは考えられないとしているが、この論文の著者によると艦を8列に並べて停泊する方法は現代でも行われており、ヘロトドスの言う地点の海岸線でも十分に停泊できるとしている。図を使って停泊の方法を説明しており、大変分かり易い。当時の海軍の停泊方法の一つを解説した論文である。

  28. N.G.L.Hammond著 Plataea's relations with Thebes,Sparta and Athene The Journal of Hellenic Studies No.112 1992年
     ポイオティアとアッティカの国境にあるポリス・プラタエアの前6から5世紀の外交関係を論じた論文。この時期は全般的にアテナイと深い関係にあったようだ。ペルシア戦争でテーベはペルシア側についたがプラタエアはアテナイにつき、ペロポネソス戦争では僅かな数の守備隊を残して住民の大半はアテナイへ避難している。マラトンの戦いではアテナイの解放奴隷が参加しているようだが、彼等は解放後アテナイではなくプラタエアの市民権が与えられたようだ。この辺りについて、マラトンの戦いの墓地の発掘結果が根拠とされているようだ。プラタエアの外交関係を概観できる。

  29. S.D.Lambert著 A Thucydidean Scholium on the Lelantine war JOURNAL OF HELLENIC STUDIES102 1982年
     前八世紀後半に行われたレランティオン戦争に関する原典史料を収集検討した論文で、目新しい物としてトゥキュディデスに対する古代の注釈を紹介している。そして、各史料の解釈を提示して、最後にこれらの史料からこれらの史料からは戦いの流れも、場所も、参加者も、誰が勝ったかすら不明であり、これらの事件が余り重要な記録として現れていない点などが指摘される。基本的に、レランティオン関連史料集みたいな論文である。

  30. Victor Hanson著 Epameinondas,The Battle of Leuktra(371B.C),and The"Revolution" in Greek Battle Tactics Classical Antiquity Vol.7/No.2 1988年
    レウクトラの戦いでエパミノンダスが考え出したと言われている戦術が軍事革命と呼ばれるに値するかどうかを論じた論文。現代の軍事史家の多くは片翼を強化して敵陣の一転突破を図る斜形陣をエパミノンダスの発明として、この斜形陣の登場を軍事革命として考える傾向がある。他に、騎兵と歩兵の共同、予備部隊の利用など、ギリシアの戦術を飛躍的に改革したとする説もある。この論文はそうした軍事革命説を具体的に過去の戦闘例や史料批判を通して批評している。その結果、レウクトラの戦いで使われた戦術は従来からギリシアの戦闘で使われてきた戦術を踏襲したものであり、軍事革命とは言い難く、斜形陣などに見られるギリシアの戦術は時間をかけてゆっくりと進歩していった物、という結論になっている。更に、エパミノンダスがレウクトラノ戦いをエパミノンダス一人で全体を指揮したとする考えにも同時代の様々な史料にエパミノンダスの名が現れない点を根拠に疑問を呈している。レウクトラノ戦いに纏わる史料が詳細に紹介され分析されているのみならず、レウクトラ以前で同様の戦術が使われた戦いも分析されており、前5から4世紀のギリシアの戦術の発展の流れを見るのにもよい。

  31. W.G.Forrest著 Colonisation and The Rise of Delphi HISTORIA6-2 1957年
     前八世紀後半に行われたレランティオン戦争と第一次メッセニア戦争がデルフォイと関係が深いポリスの同盟とその敵対勢力間の全ギリシア規模の戦争であったことと、この当時活発になっていた植民とデルフォイとの関係を論じた論文。スパルタはデルフォイ同盟の一構成国としてみられている。この同盟によりスパルタはメッセニア戦争でコリントスやサモスの協力を得られたようだ。同盟はカルキス、スパルタ、コリントスを中心としたデルフォイ同盟と、エレトリア、アルゴスを中心とした反対勢力に分かたれる。そして、植民を行うにしてもデルフォイ同盟側はデルフォイにお伺いをたてその意向に従っていたが、敵対勢力はデルフォイにお伺いをたてることもなかったようだ。デルフォイは情報センターとしての役割を担っていたようだ。前八世紀の諸ポリスの政治的、外向的動向を把握するのにもよい。但し、年代を特定できない史料を前八世紀後半と同定して論を進める傾向が強く、なかには他の研究者により前七世紀の出来事と考えられている史料もあり、一概にこの論に従ってよいものかどうか、判断に迷うところではある。

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