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小論

目次 

  1. 養育費の問題について
  2. テュルタイオスの詩に観るスパルタの教育理念
  3. 教育から見たテルモピュライの戦い
  4. モタケスとは何か

養育費の問題について 

 スパルタでは、子供の養育費を誰が負担していたのかを検討する。
 プルタルコス「リュクルゴス伝」16-17によるとスパルタでは子供は7歳になると、親の手を放れて共同生活に入る。そして以後、子供達は親ではなく、スパルタ市民の中から選ばれた教育者(パイドノモス)の指導の元で養育される。この点から、スパルタでは全ての子供が国家管理の元で養育されたと、考えられていた。そして、古代の著作家の多くがスパルタの制度の元となったと考えていたクレタでは、ストラボン10.4.483 によると子供の食費は国が負担した。そうなると、養育費は国家負担であった と考えられる。
 しかし、アリストテレス「政治学」1271b によると、スパルタには徴税システムが存在していないようで、国家は資産を有していなかった。従って、子供の養育費を国家が負担することは困難である。一方、アリストテレス「政治学」1272a によるとクレタでは収穫物は全て国家に収められ、それを市民に再分配する方式が取られていた。ようするに、公有の財産があった。従って、養育費を国家が負担することが可能である。故に、スパルタでは教育は国家指導だが、費用は国家負担ではないようである。
 しかし、スパルタには徴税システムがなかったのかというと疑問もある。アリストテレス「政治学」1270bによると子供を四人持つと税が免除される。ということは、税が存在 している。それと、ヘロトドストゥキュディデスによるとスパルタは艦隊を有していた。「伊東七美男著 前四世紀のアテナイ海軍における公的負債の回収とその歴史的背景 史学雑誌100編8号 1991年」4頁によるとアテナイでは艦艇の建造費は国家が負担する。もし、スパルタも同様に国家負担で艦隊を建造したとなると、国家は資産を有している、それも艦隊を建造できるほどに大規模な資産を有していると想像できる。そうなると、子供を国家負担で養うことも可能だろう。
 そこで、一つの可能性として養育費の国家負担がある。

 次に、プルタルコス「リュクルゴス伝」16によると子供は産まれると、部族の集会場で長老達の検査を受け、合格となると、クレーロスと言われる割り当て地を与えられる。クレーロスの耕作はそこに割り当てられている耕作奴隷たるヘロータイが行うので、子供が直接生産に従事する必要はない。故に、子供はこの土地で自活することが可能である。そうなると、養育費は当人の自己負担と言うことが考えられる。
 しかし、アリストテレス「政治学」1270aとプルタルコス「アギス伝」5によると財産は親から子へ相続される。その際、親の持つクレーロスも子に相続されたと考えられ、子は相続に与った時点でようやく自活できるようになったと考えられる。
 「長谷川岳男著 エピタデウスの法--古典期スパルタの再検討 駒沢史学45 1993年」78から80頁によると、クレーロスとは最低収入を保証する各家(オイコス)に割り当てられた古来からの土地であり、必ず長子に相続される。ようするに、各家には家や個人に属する私有地があり、その他に家固有の他の家や個人への譲渡も分割も禁止されていた古来の土地(クレーロス)が存在した。そうなると、生まれたばかりの子にクレーロスが与えられるはずはない。クレーロスが基本的には家の物であり、一つの家の一人の兵士を養う為に存在するだけであり、子供の養育費に当てるものではないということになる。故に、自活は出来ない。
 「W.G.フォレスト 丹藤浩二訳 スパルタ史 渓水社 1990年」212頁によるとクレーロスは誕生時に国家から与えられ、死亡時に国家へ返却するとし、相続や譲渡の対象となったのはそれ以外の私有地であると推測している。これならば、子供は自分のクレーロスを持つことになり、自活が可能である。しかし、この説には必然的にある疑問が発生する。国家に返却されて国家管理となっている間、これらの土地はいかに管理されていたのだろうか。長谷川氏によるとホドキンソン氏がスパルタにはこの手の管理事務が不在である点をあげて、クレーロスが国家管理にはなかったことと主張している(S.Hodkinson , Land Tenure and Inheritance in Classical Sparta , CQ.36 , 1986)。クレーロスの国家管理がないとしたら、誕生時にクレーロスを付与することは不可能である。そして、この説だと、子供が多ければ多い程にその家にはクレーロスが集中し、スパルタでは子供が多ければ多い程に貧乏になるとしたアリストテレス「政治学」1270bの記述と異なるし、子供が沢山産まれれば必然的に大きな経済的利益が得られるのに、わざわざ子供を沢山産めば税や兵役を免除するとした法律が必要になるとは考えずらい。
 長谷川氏の前出論文の注釈69によると両者の折半説もある。長男は相続で、次男以降は国家から与えられたとする説である。しかし、この説でもクレーロスの国家管理が問題となる。次男以降だけだろうと、死亡すればクレーロスは国家へ返還される。返還されたクレーロスは管理が必要となる。そして、アリストテレスの記述にも合わなくなる。この場合も、子供の数が多ければ多い程に経済的には裕福になるのである。

 クレーロスの国家管理の問題と、子供の数の問題は、そのまま養育費が国家負担である場合にも、当てはめることが出来る。子供の養育費が国家負担なら、養育費の管理の問題が出てくる。ホドキンソン氏の説通りなら、養育費の管理を行なうことは困難である。そして、艦隊に対する支出は養育費ほどには大きな事務処理を必要としない。アテナイを例に取り前出の伊東氏の論文を元にすると、建設費は国費で賄うが、管理維持とその費用負担は国から割り当てられた富裕市民が行なうことになっていた。そうなると、国家が直接関わるのは建設迄で後は任命された富裕市民が携わったことになる。養育費は子供がいる内は常に管理運営を行なう必要がある。更に、艦隊はスパルタ市民ではなく、彼らの従属民たるペリオイコイと呼ばれた階級の人々が行なった可能性も大きい。
 そして、養育費が国家負担の場合も子供の人数が多ければ多い程に国家からの支給は増えるのだから、子供の数が多い方がよいことになる。故に、養育費負担は国家や本人とは考えずらい。

 もう一つの考えは、親が子供の養育費を負担するという考えである。子供は親の手を放れてはいるが、子供と親の関係が完全に絶たれたかというとそのようには見えない。
 プルタルコスのモラリア「スパルタ女性の名言集」には、母が息子の戦死を喜ぶ話が多数あり、息子が家に帰還してくる話が幾つかあり、スパルタ女性が4人の息子を指して、これこそが自分の手柄だと誇る話などがある。ここからすると、少なくても母と子の関係が断絶していたとは考えられない。むしろ、母と子は緊密な関係にあったと考えられる。
 父と子はどうであろうか。クセノポンの「ラケダイモン人の国制」3.2に「子供が父親に告げ口したら」と言う一節がある。ここから、子供は父親とも断絶していたわけではなく、緊密な関係を保っていたと考えられる。
 そして、これらのことから、子供達は共同生活をしてはいたが、時には親元に戻って生活することもあったと考えられる。
 そうなると、ある程度緊密な親子関係が存在した以上、親が子供の養育費を負担した可能性も大きい。
 「古山正人著 モタケス、トロフィモイ、スパルタティアタイのノトイ−−スパルタの小社会集団 歴史学研究597 1989年」15頁によると、貧困のために養育費を支払えない親の子供は市民権を失うが、この際、代わりに養育費を支出する後援者が現れ、この後援者の息子とアゴーゲーを共にすれば、モタケスという劣等市民として市民権を維持できる制度が、アルカイック期からスパルタに存在した。
 例えばこの論文の中では、前4世紀に活躍したスパルタの将軍リュサンデルは父親の貧困が原因で教育(アゴーゲー)を受けるのが困難になり、スパルタの市民権を失いそうになったが、アゲシラオスのモタケスとしてアゴーゲーを終え、市民権を維持できたと推測している。同様に「J.H.M.Jone SPARTA BASIL BLACKWELL 1976」37頁もモタケスとは、富裕者の子息の教育仲間としてついた劣位の市民だとしており、リュサンデルは貧困故にモタケスになったと推測している。アイリアノス「ギリシア奇談集」12.43 によるとモタケスとは「奴隷」だと記されているが、プルタルコス「リュサンデル伝」2 のリュサンデルがスパルタでも名門の家柄の出であると言う記述を考えると、モタケスが何らかの理由で、特に経済的な理由でアゴーゲーを受けられず、後援者の子息の付き人になる条件で後援者に養育費を支払ってもらったスパルタ市民の子息だと考えられる。
 そして、このモタケス制度が古山氏Jone氏の考え通りなら、必然的に養育費は親が負担したと考えられる。

 クレーロス所有の問題も、親は相続であろうと、国家から与えられたのであろうと、基本的にはクレーロスを有していただろう。しかし、もしクレーロスが相続制で祖父が生きていたらどうなるのだろうか。クレーロスは祖父が有し、親は有していない可能性が出てくる。そうなると、親迄もがその更に上の親に養われていることになる。しかし、長谷川氏の説を取るとクレーロスは個人ではなく家についているものである。そうすると、クレーロスにより、その家の者全体が養われることになる。必然的に子供も親に養われているというより、彼が属する家に養われていると言うことになる。一つの家に、一つのクレーロスで、クレーロスの大きさは均一だとしたら、当然子供の多い家は経済的に苦しくなる。これならばアリストテレスの記述とも合致する。故に、子供の養育費は親とか本人とかの特定の個人ではなく、国家とかの公的な組織でもなく、血縁関係により結ばれた集団とそれに割り当てられているクレーロスで構成された家(オイコス)単位で負担していたと考えられる。

テュルタイオスの詩に観るスパルタの教育理念

 「Werner jueger,PAIDEIA1,OXFORD,1945」79頁によるとスパルタの教育理念はテュルタイオスの詩に現れている。そして、プラトン「法律」629b によると前四世紀にもスパ ルタの詩として前七世紀頃の人と目されるテュルタイオスの詩が広くギリシア世界に伝わっていたようである。故に、テュルタイオスの詩がスパルタ社会に多大な影響を与えていたであろうことが想像される。そこで、テュルタイオスの詩に現れてくる教育理念を検討する。

 「Werner jueger,PAIDEIA1,OXFORD,1945」88頁によるとテュルタイオスの詩にはいか なる情況にあろうと自己犠牲と愛国心を要求しているものがあるという。これは断片(ナンバリングは「J.M.Edmonds編 LOEB CLASSCAL LIBRARY No.258:GREEK ELEGY AND IAMBUS 1(ギリシャの悲歌と詩学) HARVARD 1931年」 に従う)101112と、おそらくテュルタイオスの作だろ うといわれている作者不明の詩の一つから読み取れる。これを更に分けると10は戦死の賛美である。どのように死ぬのがよいか、そしてなぜ死ななければならないのかが説かれている。11は死を恐れないことが死を避ける術だと主張しているように読み取れる。は隊列を整えていれば、飛び道具だろうと大石だろうと恐れる必要はないと言う具合である。11でも同様に隊列をしっかり組めば死ぬのは少数ですむと説かれている。101112,と詩人不明の詩は愛国心の賛美である。10は祖国を捨てるとどうなるかを説くことで、愛国心が個人に対して有益である点を説いている。11はスパルタ人の血統が伝説の英雄ヘラクレスに繋がることが述べられ、血統の優秀性を主張することで愛国心を鼓舞する目的が窺える。12では、個人的に優秀な人間より、市民として優秀な人間の方が優れている点が指摘され、国家の英雄として死ねば全市民からの尊敬と哀願という報酬が得られると主張される。詩人不明の詩はスパルタ流とは命を惜しまぬことと国家的な流儀を述べるに留まる。
 これらに現われた考え方は、テュルタイオスが活躍した前7世紀頃に現われた重装歩兵戦術と関わりが深い様に見受けられる。11にこの重装歩兵戦術の様子が描かれている。「V.D.Hanson,The Western Way of War , California , 2000」119頁によると、重装歩兵戦術では兵士と兵士の肩が触れ合うほどに密集して、横隊に整列した状態を維持する必要性がある。その際、兵士達の連携が非常に重要になる。逃亡など以ての外というわけである。11は重装歩兵の隊形を維持するために必要な心構えと、その効用を歌っているように見受けられる。更に、では軍隊では当たり前のこととされている上官に対する服従も説かれている。「V.D.Hanson,The Western Way of War,California , 2000」12 0頁によると、重装歩兵戦術では能力や装備にそれほど差はなく均一であった。テュルタイオスの詩、12では何らかの能力が飛び抜けていることに余り意味がない旨が述べられている。それよりも、重装歩兵として敵と対峙する方が重要であるというわけである。もう一つ、重装歩兵戦術で重要なのは部隊編成である。「V.D.Hanson,The Western Way of War , California , 2000」121頁によると、部隊は部族毎に編成されており、兵士達は平 時より近隣で生活を共にした仲間であり親類であり、政治や、宗教や、催物などを通して互いに見知った者同士なのである。この様子を歌ったのがで、ここでは部隊が部族毎に別れて隊列を組む様子が描かれている。

 「Werner jueger,PAIDEIA1,OXFORD,1945」88頁によるとテュルタイオスは名誉と不名 誉についても規定している。101112にそれが見える。簡単に言えば、逃げ出すことは不名誉なことで、戦友と隊列を組んで戦うこと、その中でも先頭の列で戦うことが最も名誉なこととされる。これも重装歩兵戦術に関わることで、この戦術では実際に敵と面と向かって戦うのは最初の方の列だけで後の列の者はその後詰めで、前の者が倒れたらその間隙に後の者が入ることになっている。「V.D.Hanson , The Western Way of War , California,2000」155頁によると、最前列の兵士は戦闘前から最も身近に敵を認識することになり、最初の衝突で後から強く押されて敵と実際に衝突し、その後も敵に密着した状態で戦うことになる。そして、同書97頁によると恐怖と混乱は最前列から後方へ向かって起こる。ここから最前列で戦う者には相当な精神力が要求されるであろうことが想像できる。それ故に、最も危険な最前列で戦うことが最も名誉なこととされたのだろう。
 「Werner jueger,PAIDEIA1,OXFORD,1945」92頁によると12で挙げ連ねられた様々な 能力は貴族社会における徳であったが、テュルタイオスはこれを完全には否定しないながらもより低い徳として位置付け、より高い徳として新たに市民としての徳を付け加えた。12では国家の英雄として死んだ者に対する報酬として、全市民から子孫代々英雄として敬われることを挙げている。これも裏を返せば、国家の為に死んだ者を敬わねばならないと取れる。ようするに、名誉とは個人としての英雄ではなく、都市国家の英雄に与えられるものと規定されているのである。これも重装歩兵戦術と絡めて考えることが出来る。「岩波講座 世界歴史一 安藤弘著 重装歩兵制の発展と貴族政社会」493から497によると重装歩兵登場以前のホメロス風社会においては、戦闘は個人戦闘に偏りがちであったが、前八世紀頃から現われてきた重装歩兵戦術により前七世紀頃には個人戦闘は姿を消し、集団戦闘が戦闘の中心となる。そうなると、個人戦闘中心の頃は、英雄とは個人であり、名誉とは個人の武勇にあった。しかし、テュルタイオスのいた前七世紀頃には重装歩兵戦術が主になり、個人の武勇の意味は失われ、戦闘部隊の一員としての意識こそが名誉ということになったようだ。

 以上のことから、重装歩兵として先陣に立っても死を恐れない兵士として、他より突出した能力を持つことよりも一人の重装歩兵として戦える能力を持っていること、重装歩兵の陣形とその意味を熟知していること等、優秀な重装歩兵を育てることが重要であるとした教育理念を導くことが出来るだろう。
 もう一つ、都市国家の一員としての意識を持つ必要性が説かれている。個人としてよりも都市国家市民としてものを考えるようにすることが重要であると説かれているように見受けられる。故に、個を捨てて全体に仕えるとした全体主義的な教育理念がここから現われてくる。これも、全体の協調が重要な重装歩兵戦術の特徴に繋げて考えることができる。
 「堀田彰著 ギリシア社会の諸相とその価値観 法律文化社 1978年」134頁によると、スパルタにおいて立派なもの(アガトス)とは優れた重装兵を意味し、優れたもの(アレテー)とは優れた重装兵の能力だという。ようするに、最高の価値観が重装兵に結び付けられている。
 「マルー著 古代教育文化史 岩波書店 1985年」31頁によると古典期のスパルタの教育とは重装歩兵の「調教」に他ならなかった。古典期にも教育用の詩としてテュルタイオスの詩が愛用されたであろうことはプラトン「法律」629の記述から想像できることから、古典期の教育理念をテュルタイオスに見るのは的外れではなかろう。
 まとめると、テュルタイオスの詩から導ける教育理念とは「優秀な重装歩兵の育成」と言うことになる。

教育から見たテルモピュライの戦い

 前480年にレオニダス王率いる王の近衛騎兵隊三百名がテルモピュライで全滅した。レオニダス達はなぜテルモピュライで全滅したのだろうか。レオニダスがなぜこの選択をしたのかが問題なのではない。これは司令官個人の問題である。問題は、なぜ兵士達は全滅するまで命令に従い続けたのか、である。この件につき「藤縄謙三著 歴史の父ヘロトドス 大進社 1989年」331から332頁によると、名誉心や、戦略的意味など、様々な解釈がなされてきたようだ。この書の333頁で藤縄氏は生還した場合の村八分のような辱めを恐れての玉砕だという解釈をしている。藤縄氏はこれをスパルタ特有の慣習のように考えているようだが、ヘロドトス5.87によるとアテナイのアイギナ島攻撃で唯一生き残ったアテナイ兵は帰国後、戦死者の遺族により殺された。テルモピュライでは二人のスパルタ兵が生き残り、二人とも祖国での仕打ちに耐えかねて事実上の自殺をしている。これは単にスパルタ特有の現象と言うより、単に生存者に対する遺族の嫉妬によるものとも考えられる。この嫉妬を恐れてテルモピュライで個々のスパルタ兵が死を選んだとは考えずらい。
 「藤縄謙三著 歴史の父ヘロトドス 大進社 1989年」331にある通り、スパルタに玉砕を強要する風習はない。トゥキュディデス4.38によると前425年にピュロスでスパルタ軍は降伏を選択している。ではなぜテルモピュライでスパルタ軍は全滅したのか。その一つの要因がスパルタの教育慣習にあるように思われる。クセノポンの「ラケダイモン人の国制」二と三章によるとスパルタの青年は年長者や上級者の指示に従うように徹底的な教育を受ける。同十一章によるとスパルタ軍では命令する者と服従する者との切り分けが明確に定められ、命令に服する者は、特に命令無き場合はどのような状況に置いても自分の部署を守るように定められていた。ここにシモニデスが「おきてのままに、果てしわれらの眠りあると」といった際の「おきて」があるように見受けられる。この戦いでの最高司令官はレオニダス王である。彼は踏みとどまることを選択した。そう命令が下されたからには結果がどうなろうとスパルタ人は命令に従う。それはスパルタの法によっても、この法を守るべく幼い頃から教育で叩き込まれた習慣によっても、スパルタ人にとっては自然な強制だった。ピュロスでは現場の司令官が降伏を選択した。この場合も命令に従う他のスパルタ人は司令官の命令に従い降伏した。クセノポン「ギリシア史」6.13−15によるとレウクトラの戦いでスパルタ市民軍は七百名のうち、三百名ものものが戦死しても軍団長達の退却命令があるまで戦っていた。
 ここで重要なのは王とか軍団長とかの司令官が何を選択したのかではない。兵士達が司令官の命令を死んでも果たそうとするその姿勢である。司令官が踏みとどまれと言えば踏みとどまり、降伏しろと言えば降伏し、死ねと言えば死ぬ。この兵士達の姿勢である。アテナイ軍であれば、トゥキュディデス7.72のシキリア遠征時に司令官の出撃命令を無視するような行為が一般兵士の判断で行われることがある。スパルタでは軍団長クラスなど独自の判断を要求される上級指揮官以外が命令を拒否することはない。このスパルタ人の上官に対する従順な姿勢は幼い頃からの教育により培われた習慣と考えられるのである。
 まとめると、スパルタ人にとり上級者の命令に従うことが法であり、スパルタ人はその法を守るために幼い頃から上級者の指示に従うように教育を受けてきた。テルモピュライの全滅やレウクトラでの異常とも思える損害率こそ、スパルタの教育が徹底的に行われていたことの証だと考えられる。

モタケスとは何か

 スパルタの社会階層の中にモタケスと呼ばれる人々がいた。このモタケスがどのような人々であったかについては研究者の間でもいまだに意見の相違がある。モタケスという語が史料の中に現れるのは、Liddell & Scott のギリシア語大辞典によるとピュラルコス、プルタルコス、アイリアノスで、同辞典によるとこの語はモトネスと同意であり、モトネスとはスパルタ人の子供と扶養兄弟として教育を共にするヘロットの子供のことを指すとされている。各々の史料の中でのモタケスの意味を見ると、ピュラルコスはモタケスを自由人だがスパルタ人ではないと解説し、プルタルコスにはモタケスの意味の解説がなく、アイリアノスはモタケスを奴隷と解説している。
 モトネスとモタケスが同意である点はカートリッジ氏(P.Cartledge, Sparta and Lakonia. A Regional History 1300-362 BC Second edition, London, 2002, p269)、マクダウェル氏(D.M.MacDowell, Spartan Law, Edinburgh, 1986, pp48-49)等が認めるところだが、前記辞書と違いモタケスを必ずしも奴隷の子だけを示すとは解釈していない。モタケスは自由人ではあるが、スパルタ市民とは異なる、より劣位の市民全体を指す言葉と捉えているようである。カートリッジ氏によるとモタケスとはスパルタ市民の後援を受けてスパルタで教育を受けた三種の人々を指す。外国人の子(トロフィモイ)、スパルタ市民の父とヘロットかペリオイコイの母を両親に持つ庶子(ノトイ)、何らかの理由で市民権を失ったスパルタ市民を両親に持つ子の三種である。マクダウェル氏はこれにヘロットを両親に持つ子を加えている。スパルタの概説書として最も一般的なフォレスト氏(W.G.フォレスト, 丹藤浩二訳, スパルタ史 紀元前950−192年, 渓水社, 1990, pp213-214)の書によるとモタケスとは奴隷の子も含めてスパルタで教育を受け、特定のスパルタ市民と私的に結びついた人々と解説している。この三者に共通している点はモタケスをスパルタで教育を受けたスパルタ市民以外の人々と言う点で、違いは両親ともヘロットの完全なヘロットを入れるか入れないかの違いのように見受けられる。モタケスを市民ではないが奴隷でもない、特定のスパルタ人、或いは家と私的に結びついた自由人として捉えているようである。
 モタケスをより狭い範囲の人々として捉える説もある。モタケスがスパルタ市民の後援を受けてスパルタで教育を受けたスパルタ市民の子以外の者であるとした点は同じだが、古山正人氏はモタケスとモトネスを同意とはせず、モトネスを奴隷の子とし、モタケスを何らかの理由で市民権を失った市民を両親に持つ子としている(古山正人,モタケス、トロフィモイ、スパルティアタイのノトイ−−スパルタの小社会集団−−,歴史学研究597,1989,pp17-18)。ホドキンソン氏(S.Hodkinson, Property and Wealth in Classical Sparta, London, 2000, pp355-35)も同様にモタケスを何らかの理由で市民権を失った市民を両親に持つ子としている。但し、ホドキンソン氏はモトネスとモタケスが同意かどうかには触れていない。ジョーンズ氏(A.H.M.Jones, Sparta, Oxford, 1968,pp37-38)も同意見だが、モタケスとモトネスを同意としている点が古山正人氏と異なる。この説の根拠としてはピュラルコスやアイリアノスでモタケスとして示されたリュサンデルは、プルタルコスによるとヘラクレスに連なる名家の出ながらも貧困が原因でモタケスとなったとされていることと、アイリアノスがモタケスとしたギュリッポスも、プルタルコスによると父がスパルタの重要な官職たるエフォロイであったが横領が発覚して亡命した為に市民権を失った。ギュリッポスの父がスパルタ市民であったことは同時代史料たるトゥキュディデスからも確認できる。古山正人氏は古注古辞典のモトネスの解説が全て奴隷を示している点と、アイリアノス、ピュラルコスのモタケスの解説が生まれはともかくも自由人を示している点の違いからモタケスとモトネスが違う意味であるとしている。
 モトネスの語源たるモトーンは「生意気」とか、「厚顔無恥」とか言う意味の罵言であり、古山正人氏によるとモタケスはモトネスのドーリア方言での言い回しだという説がある。但し、古山正人氏はこの説に同意していない。モタケスという語が初めて現れるのは前3世紀のピュラルコスからで、スパルタに滞在したはずのクセノフォンやヘロトドスなど、前4世紀以前の史料には現れてこない。ここから、モタケスとは完全市民にはなれなかった劣等市民に対する差別用語として、意味としては極めて漠然として使われだし、それが時代と共に意味が明確化してきた語なのではないかとの推測が成り立つように考えられる。故に使う人により意味の幅が変化してしまうのだろう。そこで、広義のモタケスと、狭義のモタケスという二つの意味の捉え方ができると考えられる。私としてはカートリッジ氏などの言うモタケスを広義のモタケス、古山正人氏等が言うモタケスを狭義のモタケスと捉えるのが妥当なのではないかと考える。

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