主要論文資料

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  1. 池田忠生著 前四世紀初期のギリシャ世界とペルシア(1−3) 愛媛大学教養部紀要15−2,16−2,17−2 1982−84年
     前四世紀のギリシア世界とペルシアの関係を分析した論文で、3部構成となっている。最初の論文ではスパルタが対ペルシア戦に乗り出してから、アゲシラオス王の遠征開始あたりまでを主にペルシアのエーゲ海近海付近を収めていた二人のサトラップの動向を中心に解説している。この二人は敵対関係にあったが、スパルタに対してだけは協力して事にあたったらしい。アテナイやテバイ内の党派の動きも解説されており、それによるとテバイとアテナイでは反スパルタ派が優位を保っていたが、積極的行動派とっていない。彼らが反スパルタの行動をとるきっかけを与えたのがペルシアの働きかけらしい。次の論文ではペロポネソス戦争終結時にペルシアへ亡命したコノンの動向と動機が分析されている。コノンはペルシア艦隊を率いてスパルタ艦隊を破ってエーゲ海の制海権をペルシアにもたらした人物だが、コノンのねらいはアテナイ帝国の再興にあったようだ。スパルタの制海権を破壊するという点ではペルシアと利害が一致しており、スパルタ海軍を破るまではペルシアに重用されていたが、それが成し遂げられるとペルシアで逮捕投獄されてしまう。これはアテナイ帝国の復活を恐れてのことらしい。最後の論文はアゲシラオスの帰還から大王の和平樹立にいたる範囲が論じられている。主にアテナイの動向から分析が進められている。大王の和平はスパルタにしてはギリシアとペルシアでの二正面作戦を終わらせる目的で進められ、アテナイは派閥により目的が異なっていたようだ。幅としてはアテナイ帝国の再興からアテナイの生活権としての最低限の海外領土の確保まであるようだ。アテナイ帝国を再興するにはポリスの自治を保証するという点が問題となりアテナイはなかなか条約を批准しなかったようだが、国際的孤立の危機が条約批准の動機となり、大王の和平が実現したようだ。前四世紀のギリシアとペルシアの関係を追いかけるのに都合通いが、各種事件の時間関係が少々わかり難い気がする。

  2. 岩田拓郎著 「ラケダイモン人のポリス」の結合と解体 東北大学西洋史研究28 1999年
     前4世紀のレウクトラの戦い前後のラコニア情勢を中心に、ペリオイコイとスパルタの関係を論じた論文。ペリオイコイは軍事においてスパルタ王の指揮下にはいる義務を持つポリスで、スパルタとペリオイコイを結ぶのはスパルタ王の軍の指揮権であると定義している。その上で、エパメイノンダスの対スパルタ策として、ペリオイコイとスパルタとの分離策があり、その第一段階としてレウクトラ前夜にペリオイコイ独立の主張が行われ、レウクトラの戦いではペリオイコイとスパルタを結ぶ接着剤たるスパルタ王を直接攻撃する作戦を取った。それ故に斜形陣ではスパルタ王のいるスパルタ軍右翼を集中的に狙った。エパメイノンダスのペリオイコイ独立の主張が宣伝されていた為に、ペリオイコイは独立の希望に戦意が鈍っていた。レウクトラの戦いの後にテーバイ軍がラコニアへ進入した際にペリオイコイはテーバイ軍を歓迎した。しかし、テーバイにペリオイコイを本気で独立させる気はなく、結局スキリティス以外のペリオイコイは独立を果たせなかった。スキリティスも新たに建設されたメッセニアに従属する地位に落とされてしまう。ペリオイコイに着目したボイオティア戦争史と言ったところである。

  3. 小田洋著 ペロポネソス同盟関係の新史料 鹿児島大学鹿大史学30号 1982年
     スパルタから出土した同盟条約文の内容の分析をした論文。同盟相手はアイトリア人でポリスの名前だけはエルクサディエオンと分かっているが、この国が何処にありどのような国であったかは分かっていない。この論文では、エリス地方ではないかと推測している。条約文の訳文もあるが、元が欠落だらけなので分からないことも多い。分かっている部分だけを見る限りでは、同等の立場ではなく、スパルタ優位の条約であるのは間違いない。序文もなかなか面白い、「友好、平和と従軍義務を伴う同盟」とある。ここで言う平和とはスパルタと相手国の間の平和と言うことだけらしい。従軍義務は主に相手国の義務で、スパルタの義務は相手国の防御だけらしい。同盟の解約はスパルタ側からしかできず、軍の指揮権もスパルタにある。今で言うなら、従属国ともいえるかもしれない。

  4. 衣笠茂著 アンタルキダス条約(王の和約)の成立 西洋史学15 1952年
     前386年にペルシアとスパルタの間で結ばれ全ギリシア規模で効力を発した条約だが、イオニア諸都市をペルシアに渡すとした条項に多くの反発が発生した。この論文はこの条約が結ばれるに至った過程が解説され、その影響が検討されている。この条約で強調された諸都市の自治の尊重がこの後もギリシア諸都市を拘束し、都市の合同はおろか同盟すら困難にした。これは国外からの影響を嫌うスパルタや、強大な敵対者の登場を恐れるペルシアにとっては都合のよい条約であった。この条約によりギリシア諸都市個々に孤立し、活力が停滞し、マケドニアにギリシア世界は飲み込まれたと言うところである。この条約の効力を過大に評価しているように見受けられる。

  5. 清永昭次著 スパルタの都市国家 歴史教育13巻4号 1965年
     スパルタの国政や長老会、民会、王、エポロス等の組織、人口構成、ポリス成立初期の歴史、衰退期の歴史と全体的な概説が行われている。人口構成の一つの説が紹介されているが、数値やその構成が明快で実に分かり易い。国政の変化の流れも建国からレウクトラの戦い迄が市民の平等の変化という視点で解説されている。スパルタの概説として極めて分かり易い論文である。

  6. 清永昭次著 ペリオイコイのエトノス 学習院大学文学部研究年報13 1966年
     ペリオイコイがスパルタ人と同じドーリス人か、ドーリス人到来以前の原住民アカイア人かを論じた論文。現在この件に関しては、ドーリス人説、アカイア人説、混在説の3つの説があり、この論文では最初にこれらの学説を紹介し、詳細に検討を加えている。この過程で論者はドーリス人説以外が説得力に乏しい点を指摘し、ドーリス人説についても疑わしい点は再検討している。結論として論者はドーリス人説を支持している。但し、ペリオイコイの全てがドーリス人というわけではなく、アカイア人や外から来た外人も少数ながら含まれているとしている。この検討過程で、ドーリス人のラコニアへの到来の姿が研究者達によりどのように構成されたのかをかいま見る事ができる。

  7. 清永昭次著 スパルタのヘイロータイ 歴史学研究315 1966年
     スパルタのヘイロータイと他の奴隷との違いを論じた論文。奴隷を個人または共同体に所有された無権利、無能力で余剰労働力を搾取される人と定義して、ヘイロータイがこの定義に当てはまるかどうかを検討している。ヘイロータイは奴隷だが、個人所有の側面と、共同体所有の側面を持つ特殊な奴隷だと結論している。検討過程でヘイロータイが如何に扱われていたかが、取り上げられていてヘイロータイ理解の助けになる論文である。

  8. 清永昭次著 パルテニアイのタラス植民 学習院史学7 1970年
     前8世紀末頃に起こったという、スパルタ史上殆ど唯一の海外植民たるタラス植民の背景とその過程を検討した論文。このタラス植民はパルテニアイ(乙女の子供と言う意味)と呼ばれた人々によりなされたのだが、このパルテニアイがどのような人々でなぜ彼らが植民に出なければならなかったのかが分析される。この事件は古代の著述に記録されている。その内容はおおよそ次のようなものである。メッセニア戦争中に結婚によらずして生まれた子供達をパルテニアイと呼び、他のスパルタ人と差別していた。彼らは団結して反乱を起こそうとしたが失敗し、タラスへ追放された。この論文ではこの伝承の否定説や肯定説を検討し、結論としてパルテニアイはスパルタ守備に留まったスパルタ人男性とスパルタ人女性が結婚によらずして作った子供で、反乱原因は市民権を付与されないことによる差別で、植民理由は追放である、と伝承を確認し、更にその内容を詳細にする内容になっている。

  9. 清永昭次著 第1次メッセニア戦争後のスパルタと戦争 学習院大学文学部研究年報20 1973年
     第2次メッセニア戦争、アルカディア戦争の年代の検討が行われた論文である。特に、第2次メッセニア戦争については、前半戦の内陸部の戦いと、最後の沿岸部の主要都市ピュロス、モトーネーの攻略戦の年代についても検討され、第二次メッセニア戦争の中心的な戦いとして捉えられていたヘイラ(ヒーラ)の戦いが実は第2次メッセニア戦争中の出来事ではなく、この戦争以降の出来事であったことが論証されている。続いてテゲアに対する戦いを中心にしたアルカディア戦争の年代の検討が行われる。結論は第2次メッセニア戦争は前660年代前半から650年代後半迄で、アルカディア戦争は前7世紀末から前6世紀半頃とされている。これらの戦争の背景や流れも眺めることができる論文である。

  10. 清永昭次著 第2メッセニア戦争期スパルタの土地問題 学習院大学文学部研究年報24 1977年
     第二次メッセニア戦争前後に発生したであろう平民の貴族に対する土地の要求を分析している。この論文によると第一次メッセニア戦争から2次の初期に至る迄は軍事力を貴族が独占できた為に平民の要求を一蹴できた。第二次メッセニア戦争直前に起こった争乱をテルパンドロスが音楽で鎮めたというのはテルパンドロスが貴族側に立ち平民を説得した事を伝えた逸話であろうとしている。しかし、メッセニアで反乱が起こりメッセニアが失われると第二次メッセニア戦争が勃発し、より多くの兵員が必要になり、更にはその直前にアルゴスと対峙したヒュシアイの戦いの敗退で貴族の権威が傷つき、平民の要求が通り易くなった。その結果、平民の土地分配要求が通り、その後に続くアルカディア戦争などで、更に平民の要求が通り易くなり、貴族の力が衰え、より民主的なリュクルゴス体制完成へと行き着いたと結論が出されている。「戦争は民主主義の母である」と言いたくなる論文である。検討過程で第一次、二次メッセニア戦争の間にスパルタ内部で起きた事件も記述されているので、前七世紀前半のスパルタ史を調べる上でも有用である。それと、第1次メッセニア戦争でスパルタが占領できた地域はメッセニア全土ではなく、内陸部のステニュクラーロス平野だけであるとし、この地域の住民だけが第1次メッセニア戦争後にヘイロータイにされたとする論も展開されている。

  11. 清永昭次著 Chilonの改革 学習院大学文学部研究年報30 1984年
     前六世紀頃のエポロスで、ギリシア七賢人の一人に数えられているキロンの政治活動について論じた論文である。この論文から見えるキロンの成果とは、スパルタの外交方針を征服から同盟へとより穏便な方向へ変更し、反僣主を外交の基本路線に置き積極的に他国へ介入する様にしたこと、エポロスの権限を強化し、エポロスに市民の代表としての地位を与えたことなどが挙げられる。これらは結果としてペロポネソス同盟の初端を開き、リュクルゴス体制への移行、別の言い方をすると貴族制から民主制への移行を始めたといえる。論者はこれらを表して「キロンの改革」と呼んでいる。キロンの伝記としては読めないが、キロン在職頃のスパルタの状況を知る上では有用だ。

  12. 清永昭次著 スパルタとともに 学習院史学37 1999年
     1998年6月に学習院大学で行なわれた講演会の記録である。清永先生のスパルタの旅行記と先生のスパルタ研究の歴史が語られ、日本におけるスパルタ研究の概説も行なわれている。スパルタ研究の日本における現状を知るのによく、旅行記とそれに添付された資料は現在のスパルタの状態を知るのに使える。スパルタの人口は1969年当時で一万、スパルタの最大人口も一万といわれている。そして、都市国家スパルタがあった位置と、現在のスパルタ市の位置や規模は同じだそうである。そうすると、最大人口一万というのはかなり妥当な線だったのかもしれない。スパルタ研究を始める最初の段階で読むと非常に有用なレジュメのように思われる。

  13. 中井義明著 紀元前五五〇年代におけるスパルタの対外政策の転換について 同志社大学文化史学31 1975年
     前550年の第3次テゲア戦争を契機にスパルタの外交方針が変化した背景と原因を検討した論文。スパルタはこの戦争に至る迄、メッセニアに代表されるように自国の領土拡張を目指して戦争を遂行していた。ところが、この戦争では相手国をヘイロータイに落とすことなく、単に同盟を結んでいる。第2次テゲア戦争時には鎖を持っていったと言うからにはヘイロータイへ再編するのを目的としていたことが読みとれる。この論文では結局、この時期からスパルタはペロポネソスにおける主導権会得を戦争の目標にするようになったとし、その戦争及び外交指導の主導権を王が握っていたという点を指摘するに留めている。

  14. 中井義明著 エーリス戦争とスパルタ−−戦争原因とヘゲモニーに関する一考察 同志社大学文化史学34 1978年
     前五世紀のスパルタとエリスの関係が概説されている。論文の目的はスパルタのエリス侵攻の目的と当時の価値観においてこれは非難されるべきものかを分析することのようである。スパルタは前四〇一年にオリンピア祭を司ることで有名なエリスを攻撃した。エリスは敗れたが、スパルタはエリスそのものには手を着けず、周辺国の独立を支援してエリス周辺部を荒らしただけで引き上げている。エリスはペロポネソス同盟に加盟していたが、ペロポネソス戦争中に同盟を脱退し、再三に渡りスパルタに逆らっていた。スパルタはこれに懲罰を与えることを目的として、軍を派遣したのである。当時の価値観から考えて、盟主が同盟国に懲罰を行うことはよく行われていたようで、アテナイもデロス同盟構成国に同様のことを行いながら、懲罰の正当性を主張しているところから、それほど非難されることではないとされている。

  15. 中井義明著 スパルタの不評とスパルタ帝国 同志社大学文化史学38 1982年
     前五から四世紀のペロポネソス戦争終結後のギリシア諸国におけるスパルタ批判の原因や内容を、アテナイの弁論家イソクラテスの著作から分析した論文。ペロポネソス戦争終結後、スパルタはギリシア全体を支配下におこうと動いたように見られた。更には、リュサンドル等に代表される個々のスパルタ人の不正が悪評を高める結果となった。そして、ペルシア王の仲介でギリシア内の闘争に決着をつけようとしたところギリシアの裏切り者とのレッテルを貼られるに至る。これらの批評を最もよく表しているのがイソクラテスの著作というわけである。前四世紀のスパルタ批判の一端を見せてくれる論文である。

  16. 中井義明著 コリントス戦争の原因 立命館大学立命館史学4 1983年
     前4世紀初頭に起こったコリントス戦争の原因を論じた論文。最初に当時流布していたスパルタ原因説、テーバイ原因説、折半説の3つが紹介され、原典からの引用を使いながら各説の分析と比較を行っている。現在の多数説はリューサンドロスによるスパルタの帝国主義に対するコリントス同盟諸国の敵意だとしている点の、リューサンドロスによるとした部分を問題視している。そして次にスパルタに置ける党派にはリューサンドロス派、アギス派、パウサニアス派があり、それらの党派がコリントスやテーバイ等の同盟諸国内の党派と結びついて各国に影響力を行使していたとの論述が行われる。結論として反スパルタ感情の基となる帝国主義を作り出したのはアギス王派の人々で、各国に開戦を決意されたのは、パウサニアス王派の穏健な外交政策でスパルタの力が衰えたと見られたことにあり、リューサンドロスは事態打開の為に強攻策を採ったに過ぎないとされる。コリントス戦争前夜のスパルタの党派の動きやそれに結びついたコリントスやテーバイ、アテナイ等の政争などが原典史料の引用等で紹介されており、当時の政治状況を知る上で非常に有益な論文である。

  17. 中井義明著 パウサニアス事件 立命館大学立命館文学558 1999年
     前5世紀にペルシア戦争でギリシア軍を指揮したパウサニアスがペルシアに内通したとして処刑された事件を論じた論文。まず、この事件が冤罪か否かについてが論じられる。パウサニアスが冤罪とした説は、この事件を伝えたトゥキュディデスの歯切れの悪さや、ヘロトドスでさえ裏切りを疑っていることが根拠となっているようだ。論者はこの事件を各国の党派闘争の結果として現れたと推論している。スパルタの反パウサニアス派と、アテナイの親スパルタ派が手を結び、各々の政敵たるペルシア戦争の功労者、アテナイのテミストクレス、スパルタのパウサニアスの追い落としを計ったというわけである。両派の提携の証拠として、パウサニアス断罪後、スパルタからパウサニアスの共犯者としてテミストクレスを告発する使者がアテナイに派遣された事が挙げられている。そして、スパルタのこの派閥は国外への出兵を嫌い、アテナイの派閥はスパルタとの協調の基で勢力増大を望んでいた。その結果、スパルタの海外出兵を促すパウサニアスは疎まれ、スパルタとの対決姿勢をとるテミストクレスは邪魔になったというわけである。

  18. 新村祐一郎著 スパルタの制度とリュクルゴス伝説 京都大学 史林第44巻4号 1961年
     プルタルコスのリュクルゴス伝に記されているスパルタの国政が何処まで事実であったのか、リュクルゴス伝説の基となったリュクルゴスなる人物が誰であるかを論じた論文。スパルタの諸制度については、政治制度、平等主義、政治・軍事・その他と三つの項目に分けて検討が行われている。もう一つのリュクルゴス伝説の起源の方がこの論文のメインとなっている。リュクルゴス伝説とはスパルタの建国の英雄として伝えられたが、実は別の伝説が変質した物で、元はオリンピア競技を始めたと伝えられているアルカディアの英雄リュクルゴスであるとされている。リュクルゴス伝説が伝説として定着したのは前4世紀頃で、ギリシア全体の愛国心の高まりにつれて前5世紀頃現れ、当時の願望と結びついて発展したという事である。リュクルゴス伝に纏わる話を各原典から構成していて、リュクルゴス伝の発達を見るのに大変都合がよい。但し、新村氏はこの論文でスパルタのリュクルゴス体制への移行を7世紀末から6世紀初頭としているが、後に「新村祐一郎著 第2メッセニア戦争とスパルタ−−Lykurgos体制成立時期と関連して−− 西洋古典学研究21 1973年」で6世紀中頃と変更している。

  19. 新村祐一郎著 スパルタのエポロイ−−その起源と権力獲得の過程 西洋史学57 1963年
     エポロス(エポロイ)の職権の変化を、創設時から第二次メッセニア戦争の時期について、分析した論文。エポロスの起源に関して現在唱えられている三つの説が紹介されている。A.神官説。B.王出征時の王の代理人説。C.スパルタを構成する五部族の族長説。論者はC説を支持し、エポロスは当初、部族の長であり法(大レトラ)の管理者であったが、王出征時に王の代理として職権を行使し、民衆を後ろ盾とすることで、ついには王の職権を継承していくこととなり、王の権限は縮小の一途を辿ったという。起源はC説だが、職権の拡大はB説によったというところである。

  20. 新村祐一郎著 スパルタのGreat Rhetraに関する2・3の問題−−Great Rhetraの内容の考察を中心に 西洋古典学研究12 1964年
     プルタルコスのリュクルゴス伝で引用されている大レトラの意味を研究史と文法的な解釈から導き、訳を作り上げている。少なくても古代ギリシャ語の基本的な知識なくして理解は困難である。大レトラの全文について、十分に推考されているおり、内容的にも信頼性の高い訳が掲載されている。補論として、大レトラの成立時期の検討もある。それによると、成立は前八世紀である。ここでは、レトラの補足条項を補足として捉えているが、論者は別の論文「新村祐一郎著 「大レトラ」の追加条項について 西洋史学80 1968年」で補足条項は補足でなく、本文に最初から含まれていたものと結論付けている。

  21. 新村祐一郎著 スパルタ2王制をめぐる2・3の問題 京都大学 史林48巻2号 1965年
     スパルタの二王制(アギス家とエウリュポン家)の起源と成立過程を論じ、古代の著述家ヘロトドス、パウサニアスが挙げた王名リストの真実味について論じている。基本的にスパルタ王の起源は最初にスパルタを形づくった三つの部族の長らしいが、どれか一部族の長は王になり損ねたらしい。王候補の家は相互に争いを続け、二王制として確立したのは前七百年頃とある。ヘロトドスとパウサニアスの王名リストは不一致の場所が幾つかあり、両リスト共に信憑性が低いそうだ。そして、名前から推察するに、アギス家は軍事的色彩が濃く、エウリュポン家は民衆との協調性を唄っているように見えるとある。

  22. 新村祐一郎著 スパルタのテゲア征服について 大手前女子大学論集1 1967年
     前7世紀のスパルタによるテゲア征服前後のスパルタの状態を論じた論文。最初にテゲア戦頃のギリシア情勢が語られ、これによると国政的には数々の立法者が現れ立法事業が進み、個人戦を中心とした少数貴族の軍隊から多数の兵員を必要とする重装歩兵戦術(ホプライトとかファランクスとか呼ばれている戦術)に移行する時期にテゲア戦が当たるという。次に、第二次メッセニア戦争の年代が論じられ、7世紀中頃と結論が出される。この過程でテゲア戦前のスパルタの国政の変化が語られる。この時期、スパルタにはキロンが現れ、民衆の力が強まった時期だとされる。最後にテゲア戦の時期のスパルタの状態やテゲア戦勝利の原動力となったオレステスの遺骨について、スパルタがこの遺骨を手に入れた事を重視したのは、この遺骨がペロポネソスの覇者の証であったからであると論じられる。オレステスの遺骨によりペロポネソスの名目的な覇権を握り、テゲア征服により実質的な覇権の足がかりを得たスパルタは、海外への門戸を閉ざしより内陸へと関心を移し、リュクルゴス体制を確立させていったのであり、テゲア征服はスパルタに取り極めて重要な意味を持つ事件であったことが結論となっている。前550年のスパルタの突然の変化を説明する一つの論だといえる。前7世紀中頃のスパルタの概史としても使える論文である。

  23. 新村祐一郎著 「大レトラ」の追加条項について 西洋史学80 1968年
     プルタルコスによると大レトラには追加条項があるといわれている。その追加条項とは簡単にいって、民会の決議を長老会が否決できるという感じのものである。この論文では、その追加条項の意味とこれが本当に追加条項なのかを追求している。この論文では追加条項の意味は民会には提出した議案の修正を行なう権限がないと意味付けている。民会は単に長老会から提出された議案の可否を決議するだけというわけである。そして、この条文は最初から大レトラに付随していたと結論している。なぜ、追加条項と呼ばれるようになったのかというと、民会に議案修正の権限がないというのが民会や民会の代表たるエポロスにとり都合が悪くなり、この部分は後に追加された部分だと宣伝する事で民会の修正権を否定した文言の法としての権威を落とし、空文化するのが目的だったのではないかと。そして、後にこの宣伝を聞いたプルタルコスは、この部分が追加条項であると思うようになったのではないかとの推論が述べられている。

  24. 新村祐一郎著 スパルタ史研究の近況 大手前女子大学論集3 1969年
     1960年代のスパルタに関する諸外国の動向を論じた論文で、主にフォレスト氏の著作の評論が行われている。幸いなことにこの著作には翻訳がある。「W.G.フォレスト著 丹籐浩二訳 スパルタ史 渓水社 1990年」がそれである。そして、1960年代に出た論文の論評がそれに続く。主に1966年に刊行された"Ancient Society and Institutions"と言うエーレンベルク氏に捧げられて献呈論集に収録された主にレトラに関する論文の論評が行われている。

  25. 新村祐一郎著 Lykurgos 改革とRhetraをめぐって−−A.J.Toynbeeの近業に関連して−− 大手前女子大学論集5 1971年
     1969年に出版されたトインビー氏の"Some Problems of Greek History"の紹介と新村氏の自説との比較が行われた論文で、主にリュクルゴス改革とレトラの成立時期について両説の比較が行われている。トインビー氏はリュクルゴス改革とレトラの成立を7世紀中頃以降で、両者は殆ど同時に成立し、改革期間は短期間だと主張している。時期の根拠としては、重装歩兵戦術の登場時期がおおよそ7世紀中頃だからだとする。そして、リュクルゴス改革を予備審議を行う会議と主権を有する市民全体による民会の組み合わせによる(スパルタで言うなら長老会(ゲルーシア)と民会(アペラ)、アテナイなら評議会(ブーレー)と民会(エククレシア)の組み合わせと言うところだろうか)、ギリシア的民主制の先駆的な形態をものにした改革だと評価している。新村氏はレトラとリュクルゴス改革の時期は異なり、改革は徐々に行われたとする立場をとるので、トインビー氏の説の批評と自説の確認を行っている。構成はトインビー氏の説の紹介、自説との対比による批評、と言う形で行われている。新村氏の論文は私の知る限り、この資料紹介で全て挙げている。どちらにしても、どちらも入手は困難かもしれない。

  26. 新村祐一郎著 第2メッセニア戦争とスパルタ−−Lykurgos体制成立時期と関連して−− 西洋古典学研究21 1973年
     第二次メッセニア戦争後のスパルタの国政の変化を、軍事的要請からなされたと言う考えを基にして論じている。同時に、貧富の差の拡大も原因として論じている。当時のギリシャで主流になり始めていた重装歩兵戦術は、それまでの少数の貴族による軍隊よりも多くの重装歩兵を必要とする戦術だった。そこで、スパルタではこの戦術の拡充を目指し、自弁で武装可能な人を増やす為に土地改革を行ない、民会の力が増したというわけである。これは、スパルタのみならずギリシャ全体について言えることで、この新たな戦術の登場が民主主義の促進に力を与えた。私見を言うと、これは古代ギリシャに限られた現象とは思えない。戦争が大規模化し、より多くの人と金が必要になると、時の為政者はより多くの人々に援助の要請を行なう。そうすると、要請された側はここぞとばかりに自分の要求を持ち出してくる、為政者も支援ほしさにそれらの要求を受け入れざるおえなくなり、より多くの人の意見を受け入れるようになる。これは13から14世紀のヨーロッパの封建制度の動揺期や前四世紀頃のローマにも見られる現象だ。この論文では、他の日本の研究者と違い第二次メッセニア戦争をスパルタ国政の変化の原因とはみていない。その後に起こったメッセニア反乱とアルカディア地方に対する戦争を国政変化の原因と論じ、リュクルゴス体制成立時期を前6世紀中頃としている。これは、他の多くの日本の研究者とは異なる独特な考え方であるが、海外では一つの説として唱えられている。

  27. 新村祐一郎著 スパルタの政治組織に関する覚書−−研究ノート 大手前女子大学論集7 1973年
     スパルタの政治組織の特徴を検討した論文で、スパルタの政治的特徴の源泉をエポロスに求めている。新村氏はエポロスについては「新村祐一郎著 スパルタのエポロイ−−その起源と権力獲得の過程 西洋史学57 1963年」で論じており、この論文は「新村祐一郎著 エポロイとホモイオイ 大谷大学 大谷学報77巻2号 1998年」へ向けての土台作りとも取れる。この論文ではエポロスの成立からキロンの改革に至る範囲を原典史料でエポロスがどう記述されているかを追いながら簡単な分析を加えている。前記両論文の橋渡し的な感じである。基本的にエポロスは王の補佐として出発し、最終的に王に対する民衆の代表となったと論じている。前記、二つの論文と合わせて読めばエポロスに対する研究状況や歴史の理解の大きな助けとなる。

  28. 新村祐一郎著 リュクルゴス再考 大手前女大論集9 1975年
     「新村祐一郎著 スパルタの制度とリュクルゴス伝説 京都大学 史林第44巻4号 1961年」の再確認といった感じの論文で、リュクルゴスは最初神として祭られていたが、前7世紀数から6世紀にかけての改革を通し、これらの制度がリュクルゴスの意向に添うものとして宣伝され、その後、それが当然のこととして人々の間に受け入れられていき、リュクルゴス伝説が形成されたとしている。リュクルゴスの起源は前記論文同様ドーリス人到来以前の土着の神としている。只、前回の論文ではリュクルゴス伝説の始まりを前5世紀頃としていたが、ここでは前7世紀頃と修正している。

  29. 新村祐一郎著 スパルタの対アルゴス策 京都大学 史林58巻1号 1975年
     前八世紀頃のスパルタの外交政策について論じた論文で、特にアルゴスとの関係について論じている。当時、スパルタと争っていた勢力はアルゴスとメッセニアで、二王家のアギス家はメッセニアへ向い、エウリュポン家はアルゴスへ向った。各々が協力して、というよりは覇権争いの一貫として、対外遠征の成功による勢力と権威の拡大を目的としていた。アルゴスとの戦いにも、メッセニアとの戦にも苦戦し、結局両王家は協力してメッセニアを征服する。その後も、エウリュポン家はアルゴス攻撃を継続するが、紀元前七世紀前半にヒュシアイの戦いでアルゴスに惨敗する。一王家による攻勢であった為に余力を十分に残しての敗戦だったらしい。アルゴス側はスパルタ攻撃に消極的であったようだ。故に、続いて起こったメッセニアの反乱に呼応してアルゴスがスパルタへ侵攻することはなかったし、メッセニアへの援助も積極的に行なわれなかった。前六世紀に入ると二王制も確立し、王家による外交方針の違いも見られなくなる。スパルタの二王家、アルゴス、メッセニアの三角関係とスパルタ王家の初期の内部事情が見える面白い論文だ。

  30. 新村祐一郎著 紀元前六世紀後半期スパルタの対外政策 大谷大学研究年報34 1982年
     スパルタの対外政策の基本は防衛圏を設定し、その防衛圏を構成する同盟関係を樹立することにあった。この論文の基本はこのように読み取れる。スパルタは常にヘイロータイの反乱の恐怖に怯えていたが故に、外からの干渉を酷く嫌っていた。もし、他国がヘイロータイを支援し、ヘイロータイが反乱を起こせばそれでスパルタはおしまいである。そこで、周辺国を従属的な同盟国として取り込み、外からの干渉を受け難くするというわけである。最初は、ペロポネソス半島内に限られ、スパルタの周囲に壁を作るように同盟国を取り込んでいく。次にギリシャ全体に同盟の輪を広げていく。その際、抵抗するものは武力で制圧する。アテナイもこの政策の基、前510年頃にスパルタの攻撃を受け、一時的に親スパルタ政権が樹立された。ギリシャ全土へ同盟の輪を広げた原因は、ペルシャの台頭である。ペルシャがエーゲ海へ進出してきた事にスパルタは脅威を感じ、全ギリシャ的な対ペルシャ同盟を作ろうとした。なぜ、スパルタがペルシャに脅威を感じたかというと、スパルタは小アジアの諸王国と友好関係を結んでおり、エーゲ海にも積極的に進出していた。それらの王国がペルシャに滅ぼされ、エーゲ海での制海権をペルシャに奪われる危険が出てきたからである。ざっと言うとこのような過程であったようだ。ペルシャとの制海権争いの過程で、スパルタは当時エーゲ海で有力な海軍を有していたサモスを攻撃した。この事件からしてもスパルタの海軍力がいかほどの物か分かるということらしい。一般のイメージと違い、スパルタは鎖国どころか積極的に外交や貿易を展開した国家だと言うイメージを醸し出してくれる論文だ。

  31. 新村祐一郎著 スパルタ王クレオメネス1世とその時代 大谷大学大谷学報69巻2号 1989年
     「新村祐一郎著 紀元前六世紀後半期スパルタの対外政策 大谷大学研究年報34 1982年」の続編的な論文。スパルタの対外政策を防衛圏の構成を目指したものとした前回の論文の主旨を踏襲し、前6世紀末から5世紀初頭頃のスパルタの外交政策をクレオメネス1世の行動を追う形で概述している。クレオメネスが古代の著作家や多くの現代の研究者の言うように無能な王ではなく、スパルタの外交政策を合理的に貫いたとして、概述されている。スパルタの外交政策とは、対ペルシア同盟をギリシア全体に広げることであるとしている。只、前回の論文と通して読むとクレオメネス、いやスパルタの行動をきわめて合理的なものとして捉え過ぎているのではと危惧を感じた。哲学、歴史学の分野で古代ギリシア人は極めて合理的で一貫した考えをもちえたとする、主張をよくみかけるのだが、私にはそれが疑問だ。

  32. 新村祐一郎著 エポロイとホモイオイ 大谷大学大谷学報77巻2号 1998年
     エポロス(エポロイ)の権限の拡大を前600年頃のエポロス、キロンによる改革としてどのような背景の基に、どのような権限の拡大が行われたかが論述されている。このころスパルタでは戦勝が続き、そこで軍の指揮官たる国王の力が強まっていったと考えられる。そこで、長老会とエポロスは協力して王の権限を制限しようとする。更に、戦争が続くと言うことは兵士が多数必要になり、それに応じて一般兵士たる市民の勢力が強まり、彼らに選挙されて選ばれる民会の代表たるエポロスの権限も強くなると言うわけである。それ以外の部分は「新村祐一郎著 スパルタのエポロイ−−その起源と権力獲得の過程 西洋史学57 1963年」で論じたことの再確認と言ったところである。

  33. 長谷川岳男著 エピタデウスの法--古典期スパルタの再検討 駒沢史学45 1993年
     前4世紀頃に成立した農地売却の自由化を認めたエピタデウスの法が成立した背景を論じた論文。この法はスパルタの人口減少を促進した、或いは原因として非難された法だったので、まずスパルタの人口減少の原因が検討され、この法との関係が論じられる。スパルタの人口減少はこの法が制定される1世紀前、前5世紀頃の大地震に始まり、ペロポネソス戦争により加速されたとされる。特にペロポネソス戦争の影響は甚大で、戦費調達の術を持たないスパルタは戦費の負担を主に各市民に負わせた為、この負担に耐えかねた多くの市民が没落し、人口減少に拍車をかけた。故にエピタデウスの法は人口減少にさしたる影響を及ぼさなかったとされる。次にエピタデウス法が成立した背景が検討される。当時、スパルタでは国外で傭兵として稼ごうと考えていた市民が多数いた。その際、問題になるのがクローレス(世襲農地、割り当て農地)と、市民は公務以外で国外に出てはならぬとした法である。そうなると、傭兵として稼ぐ為には、クローレスを放棄して市民権を失うしかない。しかし、クローレスは売買と譲渡が禁止されている。更に、外で稼いで戻ってきてもクローレスを持てなければ、市民権は失われたままである。クローレスを自由に売買できれば、外で稼いで帰ってから市民として復帰できる。そこで、そのような市民の要請で成立したのがエピタデウスの法というわけである。次に、クセノポンの記述を論拠にスパルタでは人口減少が深刻に受け止められてない点が指摘されまとめとなっている。このまとめは人口減少の問題を、当時のスパルタ人の視点で考えた面白い論文である。

  34. 古山正人著 前三世紀後半のスパルタ−−土地配分とαναπληρωσιξ 西洋古典学研究27 1979年
     前3世紀から2世紀にかけてのアギスからナビスの時代の市民数と、その構成の変遷を様々な研究者の説を基にして概説した論文。アギス即位時は700人だった市民は改革に改革を重ねた結果、ナビスの時代には1万近くになったらしい。しかし、その代償として、ペリオイコイ制度の消滅とヘイロータイ制度の形骸化を招き、スパルタ本来の制度は失われていったとされている。改革の方法はペリオイコイや外国人や財産を失い市民権を失った市民に土地を与えて市民権を付与する方法が採られた。ナビスの時代にはヘイロータイを解放して土地を与える段階に入っている。この段階で、ヘイロータイの大量解放が起こり、スパルタの最も特徴的な制度たるヘイロータイ制度は形骸化したらしい。スパルタの最後の改革を主に市民数とその構成から概説した論文である。

  35. 古山正人著 従属農民研究の動向とM.H.Jameson氏の近業 歴史学研究485号 1980年
     1979年に行われたスタンフォード大学教授のM.H.Jameson氏のゼミナールの報告書である。スパルタのヘイロータイとそれに似通ったギリシア各地の奴隷、或いは従属農民などと呼ばれる階層についての概説である。ヘイロータイがドーリス人到来以前の原住民であるとした通説を批判し、メッセニア戦争後に現れた制度という説を示している。他の地域、アルゴスやクレタやアテナイ等で確認できるヘイロータイ的な階層の説も紹介されている。

  36. 古山正人著 アギスとクレオメネスの改革--前三世紀後半のスパルタの諸階層と改革の結果 史学雑誌 91編8号 1982年
     前3世紀のアギスとクレオメネスの行った改革を反対派と改革派の闘争の過程と、両派の支持層の分析から明らかにしようとした論文。アギスの改革は旧来の市民層も巻き込む形で合法的に行われた感があり、クレオメネスはクーデターという形で旧市民層を排除した形で行われた。この辺りの過程を様々な研究者の説を検証する形で論じている。そして、最後にクレオメネスがマケドニア王アンティゴノスに敗れた後、マケドニア王がスパルタをどのように扱ったのかが論じられる。マケドニア王は特にスパルタの国政をいじることなく、クレオメネスのクーデターで廃止されたエポロス等の制度を復活させた程度らしい。当然ながら、クレオメネスにより追放された人々も戻ってきたと推測されている。

  37. 古山正人著 ネオダーモーデイス--ヘイロータイの解放と軍役  東北大学西洋史研究13 1984年
     ペロポネソス戦争時、盛んに行なわれたヘイロータイ解放の、解放に至る背景と解放後の処置を各種研究資料を駆使して解説している。ペロポネソス戦争時、スパルタは兵員不足から農業奴隷たるヘイロータイを戦後に解放するとした条件で軍役に付けた。そこで解放されたヘイロータイをネオダーモーデイスと呼ぶ。ペロポネソス戦争後期以降、スパルタは、広大な戦線を維持する為に、従来のスパルタ市民による市民軍ではなく、賃金が必要な傭兵やネオダーモーデイスを盛んに利用するようになった。しかし、前370年にテーベに敗れ、支配領域が縮小すると彼らの維持が困難になり、再び元の市民軍を中核とした軍政に戻っていったようである。この論文ではネオダーモーデイスはスパルタの支配領域拡大に伴って拡大し、縮小に伴い消え去った社会階層であると推測している。

  38. 古山正人著 ヒュポメイオネス考--スパルタ社会の変容の一側面 新潟史学17 1984年
     クセノポンが記した前398年に発生したキナドンの反乱未遂事件に現れたヒュポメイオネスと呼ばれる階層についての分析。キナドンは、ヘイロータイ、ネオダモデイス、ヒュポメイオネス、ペリオイコイが乱に参加するとの希望を抱いていた。この中で、ヒュポメイオネスと言う語は他の史料には現れてこない。この論文ではヒュポメイオネスが如何なる階層であったのかを過去の研究を評価検討することで見定めている。ヒュポメイオネスは経済的理由から市民権を失った元市民で、主にスパルタにのみ雇われる傭兵として生計を立てていたらしい。前3世紀に行われたアギス、クレオメネスの改革では、彼らの市民団への復帰も改革の要項として掲げられていた。彼らの存在はスパルタにおける貧富の差が拡大していた証拠といったところだろう。

  39. 古山正人著 モタケス、トロフィモイ、スパルタティアタイのノトイ--スパルタの小社会集団 歴史学研究597 1989年
     前4世紀頃を記述した史料に現れてくるモタケス、トロフィモイ、スパルタティアタイのノトイ等と呼ばれる階層について、それらを解説した原典資料を基に彼らの発生や実態を分析した論文。この3つの階層のみならず、これらの階層に関連して現れるモトネスも分析されている。モタケスは親の経済的事情から教育を受けられない、或いは途中で中断せざるおえないスパルタ市民の子供を他の裕福な市民の子供の子分としてつける事を条件に教育費を払って貰う制度であり、この制度により教育を受けた市民をモタケスと呼んだらしい。ここからすると、子供の教育は全て国が行うとした、一般のスパルタに対するイメージは間違っていたことになる。教育費はあくまで親が払うらしい。モタケス制度は前6世紀以前のアルカイック期から存在したらしい。トロフィモイはスパルタ教育を受けた外国人で、クセノポンの二人の息子も親が市民ではないが、スパルタで教育を受けているのでトロフィモイと言うことになる。この制度はペロポネソス戦争後にできたらしい。ノトイはどちらかの親がヘイロータイに近い身分で、庶子と言ったところらしい。モトネスは特定のスパルタ市民に仕える為に教育を受けたヘイロータイと言うことである。私のように史料をざっとしか見ない人には分からなかったが、この様に各階層を細かく調べることでスパルタ社会の実相に迫れるところを見せてくれる論文である。

  40. 古山正人著 クレオメネス3世からナビスへ--改革のはざまのスパルタ社会 電気通信大学紀要3巻2号 1990年
     前3世紀のクレオメネスの亡命からナビス登場の前夜までのスパルタ史をポリュビオスを主史料として、各種研究者の研究成果を取り込む形で概説した論文。どうも国内情勢は錯綜し、国外に向かっては昔日の勢力を取り戻そうともがき回ったという印象を受けた。そして、最後は前207年の戦死者4000人とも言われる大敗で大きく勢力をそがれたらしい。この大敗による疲弊で大規模な改革が必要となりナビスの改革の登場となったようである。他の文献では知ることのできないスパルタの衰亡のクライマックスを飾るナビスの時世前夜の概史として面白い論文である。

  41. 古山正人著 スパルタのシュシティア−−シュムポシオン論の視角から 国学院大学紀要37 1999年
     ギリシア各地で見られたシュムポシオンと呼ばれる宴会の形態に関する論を土台としてスパルタ共同食事(シュシティア)を論じた論文。前半ではシュムポシオン論についてO.マレーの説とそれに対する批判で構成されている。シュムポシオンは基本的に男だけで、費用割り勘で行われる宴会を指し、目的は楽しむことである。これに社会集団を構成する為の一要素としての機能があったようだ。後半はスパルタのシュシティアについて、同じくマレーの説を土台として論は進む。マレーも、その批判者も、基本的にはアルクマンの詩を根拠として論を進めている。シュシティアは軍事組織に合わせて編成された公的な共同食事であり、楽しむ為のものではない。マレーはシュムポシオンが元々軍事目的の宴会としての性格があり、シュシティアはシュムポシオンの軍事的性格が拡大したものとして捉えた。それに対し、彼の批判者のホドキンスはシュムポシオンは元々社交集団の宴会であり、その中に様々な形態があり、それらが国家統制によりシュシティアという形態へ変換されていったとしている。どちらの説もシュムポシオンからシュシティアが生まれ出たという点では一致している。違いは元のシュムポシオンの性格が軍事的な物か否かと変化の流れについての見解である。この論文の結論としては、スパルタでは他ポリスと同様な楽しみを目的としたシュムポシオンと公的なシュシティアが共存していたが、軍事的な要請によりシュシティアが拡大していき、スパルタ独自のシステムとして現れたとされる。論を展開する過程で、スパルタのシュシティアの形態や共同食事等の描写があり、スパルタの共同食事を知る上で極めて有益な論文である。

  42. 古山正人著 古典期スパルタの貨幣使用をめぐる諸問題 伝統と創造の人文科学 : 國學院大學大学院文学研究科創設五十周年記念論文集 2002年
     スパルタにおける貴金属の使用について検討した論文。従来説では、スパルタにおいてはリュクルゴスにより金や銀貨が廃され、鉄串が貨幣として使われるようになったとされているが、古代ギリシアにおいては古典期に入ってすら、銀貨はおろか鉄や銅の貨幣すら製造していないポリスが多く、スパルタに貨幣がないとしても、これは特殊なことではないようだ。しかし、スパルタが独自の貨幣を持っていないからといって、スパルタが貨幣を使わなかったと言うことではない。アテナイやアイギナなどの他国の貨幣を利用していたようだ。貨幣のみならず、貨幣価値に準じた地金も一種の貨幣として通用していたようだ。そして、スパルタの経済は基本的に土地に根ざしたものであり、役人は報酬を必要とせず、軍は無給の徴集兵で構成されている為、貨幣を必要としなかった。更に当時のギリシア世界の貨幣はポリス独自のものであり、他ポリスで通用するものではない。鋳造費用を差し引いた形で価値の決まる貨幣は使用範囲が狭く、ポリス間の貿易には不向きな代物だった。故に、広範な商業地域を持たぬ農業立国たるスパルタでは貨幣がそれほど必要とされず、独自の貨幣を鋳造することはなかった。スパルタでは貨幣使用が禁止されていたとする、主にローマ期の著述家達の記述からスパルタには貨幣や貴金属の私有はないと思われていたが、スパルタ人もそれなりの量の貴金属を所有していたようだ。この論文によると、この貨幣使用禁止令はペロポネソス戦争後に顕著になったスパルタへの貴金属の流入に伴うスパルタの政体の弛緩を防ぐ目的で制定されたが、徹底されなかったようだ。明確な答えをだす形はとられず、今後の課題を提示した形の論文で、スパルタにおける貨幣利用の具体例なども豊富に用意されており、スパルタの貨幣使用の実態や経済を調べる土台として使えそうである。

  43. 古山正人著 日本におけるスパルタ史研究−−戦後の研究と現状 国学院大学紀要41 2003年
     戦後の原先生の研究から1990年代の新村、清永両先生の一連の研究に至る日本のスパルタ研究を概観している。1980年代頃から一連の研究を発表しているこの論文の著者たる古山先生の論文は紹介されていない。この論文の「はじめに」の章で欧米ではスパルタの基本的概説書が1960年前後に出版された Michell Sparta,Forrest A History of Sparta 等から、1980年代に出版された Cartlege の一連の著作に代わった旨が記されているが、この論文で扱われているのがまさに日本で前二著作と同じ旧来のラインで行われてきた日本での研究を概観すると言った感じである。スパルタ研究史を三つの期に分けて論じている。最初の期は原先生や村川先生のような古代ギリシア史全般を専門にした研究者が古代ギリシア史研究の一環としてスパルタ史を研究していた時期といえる。第二期は1960年代で新村、清永先生の研究が現れ、スパルタを専門にした研究が現れてくる時期といえる。最後の時期は1970年代以降で新村、清永先生の研究が継続的に進み、新たに中井先生の研究も現れてくる。この論文には書いていないが、著者たる古山先生の研究が現れるのもこの第三期にあたる。戦中戦後を通して発表された原先生の論文から1990年代迄の論文の大半が注釈の中に網羅されており、論文を探すための道しるべとしても有用である。

  44. 古山正人著 スパルタ東海岸のペリオイコイ地域の動向−−ThyreatisとKynouriaを中心に−− 西洋古典学研究51 2003年
     スパルタとアルゴスの境界地帯とも言うべきテュレア地方の帰属について論じた論文である。従来説では当初はアルゴス領であったが、スパルタの係争地帯となり幾度となくこの地域でスパルタ・アルゴス両軍の戦いが繰り返され最終的にスパルタに帰属したとされている。だが、この論文ではテュレア地方はどちらに帰属するわけではなく独立した存在であった点が論じられている。テュレア地方は前6世紀中頃に行われたスパルタ・アルゴス戦争の結果として始めて独立した存在からスパルタに帰属する地域となったが、ヘイロータイの地域としてもペリオイコイとしても位置づけられずスパルタに従属しながらも従来の独立した頃の状態が維持されたようだ。アルゴス近郊のテュレアでさえアルゴスの支配下になかったとするとは従来アルゴスの覇権期として考えられていた時期のギリシアの政治的状況の通説的理解の変更を要求する説に繋がりかねない。そして、スパルタ社会をヘイロータイ地域、ペリオイコイ地域と二分して理解する方法へ新たにペリオイコイよりもより政治的に自立した地域が存在するとした、考えを付加することとなる。しかし、スパルタがアイギナの亡命者のこの地を与えたりしている点などを考えると同盟関係とも異なりスパルタに従属した地位にあることがわかる。ある一地域を通していままで考察されてこなかったスパルタ支配地域の最縁部の状態を考察した論文といえそうだ。

  45. 古山正人著 Herodotos1.82とPausanias2.24.7−−ヒュシアイとテュレアティスの帰属をめぐって−− 国学院大学紀要文学研究科34 2003年
     前669年にスパルタとアルゴスとの間で行われたと言われているヒュシアイの戦い、この頃のアルゴス領の大きさ、伝説的なアルゴスの指導者フェイドンの実在を論じている論文で、これらの従来説を全て否定している。元々、フェイドンやヒュシアイの戦いについては切れ切れの史料から推測した物に過ぎずその歴史像が容易に崩れ去るであろうことは否めない。問題はそれに代わる歴史像だが、この論文ではスパルタ・アルゴス間にあった地域は自立した存在であり、前6世紀中頃のスパルタ・アルゴス戦争の結果としてスパルタに帰属したと見ている。スパルタ・アルゴス戦争に関わり破壊されたと伝わるアシネについてはスパルタ陣営に入った為に破壊されたのではなく、アルゴスに対する海賊行為への報復として破壊されたとしている。新史料や視点による再検討ではなく、従来なおざりにされてきた史料の検討を行った結果と言った感じで、基本的にヒュシアイの戦いを伝えたパウサニアスの記述は他の史料の指示を得られないとして退ける形となっている。近年盛んになってきたスパルタ研究の多くも新たな史料の発見ではなく従来から知られてきた史料の再検討に端を発するものが多い。この論文もその手法に基づいているもののように思える。アルカイック期のスパルタ・アルゴスの関係やペロポネソス半島の諸ポリスの状態の通説的理解の変更を迫る論文である。ヒュシアイの戦いの関連で、この戦いを契機に創設されたと考えられていたギュムノパイディアイについても検討が行われ、この祭りがヒュシアイの戦いとは関連性を持たない点が指摘される。

  46. 古山正人著 スパルタの貨幣使用をめぐるFigueira説の紹介と批判 国学院大学国学院雑誌105−2 2004年
    スパルタでは貴金属貨の流通に対抗する貨幣としてペラノルと呼ばれる劣化した鉄で造られた貨幣が造られたとする説の紹介と批評を行った論文である。この貨幣は円形、300グラムくらいの重さで、劣化した鉄で作られているために鉄本来の価値よりも低い価値しかなく、持ち運びはおろか貯蔵も困難である。この貨幣は主に罰金の支払いに使われていた。罰金を支払うために罰を受ける者はペリオイコイにペラノス制作を依頼する。ペラノルはかかる費用より高い価値を持つことはなく、ベラノルにかかった費用を回収することは叶わない。実質的な意味を持つ貨幣ではなく、対抗貨幣としてのイデオロギー的価値しかない貨幣である。導入されたのは前6世紀頃とされる。しかし、このペラルノ説はペラルノによる罰金の支払いの実例が確認できず、更にはこのような貨幣を導入して罰金を徴収した場合には罰金を課す側にとってもなにもメリットがなく実効性が薄いように見受けられると言うことで、この説は支持できないというのが著者の結論のようだ。

  47. Buckler著 Land and money in the spartan economy --a hypothesis RESEARCH IN ECONOMIC HISTORY 2 1977年
     前5から4世紀のスパルタの経済を論じた論文。スパルタの経済を基本的に貨幣経済に達していない、土地や現物を土台とした原始的かつ単純なものと見ている。スパルタには官僚制はなく、土地を国が管理することは不可能であり、古代の著述家や一部の研究者の言うような国の管理する土地はなく、土地は全て個人所有だった。土地の相続は全ての子に対して分割相続する形がとられた。それ故に、分割相続した土地を一つの家の物として留める為に兄弟で一人の妻を共有し、兄弟の土地を再統合する形で次の子へ相続する手法などがとられたようだ。スパルタ人に平等に与えられているとする土地については、ある時期、おそらくメッセニア戦争後に行われた占領地の分割の際に与えられた土地のことを指し、特別な法的制限をもつ土地とは捉えておらず、分割された土地はそれ以前から存在していた私有地と一緒になっていった。しかし、新たな土地が割り当てられる以前から有していた私有地には格差があり、その差によりスパルタにも貧者と富者の格差が存在していた。しかし、財産の使用に大きな制限が課せられ、土地の売買は禁止されていたために、富者と貧者の差が目に見えにくい状態になっていたようだ。
     ペリオイコイやヘイロータイについての解説もある。ペリオイコイは中央に対する政治的権利を持たず、スパルタの求めに応じて従軍する義務があるだけで、自らのポリスを持ち、自治権を有し、自由に貿易にも従事していた。スパルタ市民は貿易に従事することが禁止されていたために、貿易品を手に入れるためにペリオイコイを使っていた。中にはペリオイコイを代理人にして、貿易に従事するスパルタ市民もいた可能性があるとされている。ヘイロータイは同時代の奴隷に比べれば自由度の高い、公有の奴隷と見ているようだ。土地はスパルタ人のものでそこに住むヘイロータイはその土地を耕してスパルタ人へ収めた農作物の余りを自らのものにできるが、別の土地への移動は制限されていた。問題はヘイロータイが手にした収穫物の量がどの程度であったかということらしい。
     スパルタ経済はペロポネソス戦争により変質をきたした。従来の戦争は殆どがペロポネソス半島内で行われ、短期間で終結していたが、ペロポネソス戦争は範囲も期間も大幅に拡大し、従来のスパルタの経済では対応できないものだった。それ故に、無給従軍の義務を課せられているスパルタ市民の多くが没落する結果となった、ということらしい。更に、ペロポネソス戦争後、貧困化した市民の要請により土地の売買を許すエピダテウスの法が成立し、海外へ支配者として赴任した一部スパルタ人の手元に大量の財が流入し、彼らが土地を安く買い占め、貧困化した市民は市民権を維持するために土地を手放して現金を手に入れようとし、最終的には市民権を維持できずに劣等市民へと没落したり、海外へ傭兵として出て行ったりしていき、スパルタ市民の激減を来したと言うことらしい。
     スパルタの経済についての全体的な、従来説とは異なる説を提示した論文といえる。これは1980年代から現れてきたホドキンソンなどが提示している説に、細部で異なる点は見受けられるが、似ているように思われる。

  48. J.F.Lazenby著 The Archaia Moira:A suggestion CLASSICAL QUARTERLY 45 1995年
     スパルタには売買が禁止されたArchaia Moiraと、それ以外の売買自由な私有地という二種類の土地があり、Archaia Moiraは全市民に対して平等に割り当てられた土地だとする説がある。この論文は前記説を批判し、Archaia Moiraが土地の事を指すのではなく、土地から上がる収穫物のスパルタ人の取り分の事を指すと主張している。論証は主にMoiraやこれに関連する語が実際にはどのように使われ、どのような意味を持つかを検討する形で進められている。結論としてはArchaia Moiraは今は失われているアリストテレスのラケダイモン人の国制で収穫物として説明されていたのが、アリストテレスの考えを引用したヘラクレイデスの勘違いで土地を指す事とされた。従って、スパルタに二種の土地はなく、土地の売買も禁止されていなかった。禁止されていたのは土地から上がる収穫物の売買だと言う事らしい。

  49. Eckart Schutrumpf著 The rhetra of Epitadeus: a Platonist's fiction GREEK-ROMAN AND BYZANTINE STUDIES 28-4 1987年
     アギス伝、特に5章がプラトンの国家8巻を元にした想像の産物で史実ではないと主張した論文。アギス伝5章によると土地の譲渡を禁止したスパルタの法がエピダテウスの提案により廃止された。これは今まで史実として受け入れられてきたが、この論文ではエピタデウスの法が虚構であり、スパルタにおいては古来から土地の売買や譲渡が禁止されていなかった点が指摘されている。エピタデウスを実在とする根拠としてアリストテレス「政治学」も利用されるが、アリストテレスの記述した法とはエピタデウスの法ではなくリュクルゴスの法であり、エピタデウスの法はおろか、前4世紀前後にスパルタの法が変更されたとする事についてアリストテレスやクセノフォン等、前4世紀の著述家達は何も記していない。故に前4世紀頃にあったとされるスパルタの法の変更は無く、エピタデウスの法を含む、アギス伝に現れるスパルタ社会についての記述はプラトンの著作を元に作られたフィクションと結論している。但し、必ずしもプルタルコスが作ったフィクションというわけではなくプルタルコスが依拠したと思われるフィラルコス等が作った可能性も大きいようだ。元となったプラトンの著作はスパルタについて述べているのではなく理想国家とは何かについて述べているに過ぎないので、アギス伝は史実をコアにしたフィクションではなく、フィクションをコアにした完全なフィクションといえるようである。

  50. P.Cartledge著 Hopletes and Heroes: Sparta's Contribution to The Technique of Ancient Warfare THE JOURNAL OF HELLENIC STUDIES 97 1977年(英語)
     スパルタで重装歩兵戦術が導入された時期や過程を分析した論文だが、大半は重装歩兵成立について検討している。最初に胸当てやヘルメット、盾などの防具や、槍や剣などの武器と、戦術や訓練についての解説が行われている。特に、スパルタのプロフェショナリズムが教育の面から主張されている。この辺りは議論を行う上での前提を作っていると言った感じ。続いて重装歩兵戦術がどの様に現れてきたかを検討している。重装歩兵戦術はだいたい前8から7世紀にかけて現れたと見ているようだ。その際、貴族に変わって富裕農民を中心とした重装歩兵層が台頭してきた要因として僣主が重視されているようだ。スパルタにおいて重装歩兵戦術が導入されたのは第二次メッセニア戦争直後だとしている。スパルタにおける重装歩兵戦術導入についての概説と言った感じである。

  51. M.L.West著 Alcman and The Spartan Royalty ZEITSCHRIFT FUR PAPYROLOGIE UND EPIGRAPHIK 91 1992年
     アルクマンの詩の断片について付された注釈からスパルタ王家の系譜を検討した論文。対象はレオキテュキダス王とその子供達である。この注釈には欠損が多く、意味も曖昧な為に幾つかの解釈が成り立つようである。そこで、この論文では二つの仮説を提示してそれを結論としている。最初の仮説はこの注釈はエウリュポン家のレオキテュキダス王と二人の息子、ヒッポクラティダス、エウリュクラテスと数人の娘、エウリュクラテスの息子ポリュドロスと、娘のティマシンブロタを指しているとし、詩が作られたのは6世紀前半としている。第二の仮説はレオキテュキダス王とほぼ同時代のアギス家の王、エウリュクラテス王と息子のポリュドロスと、娘のティマシンブロタを指しているとし、詩の作られた時期を7世紀後半頃としている。アルクマンの生きた時代と同時代のスパルタ王家の系譜を検討した内容である。

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