レウクトラの戦い−前四世紀の重装歩兵戦術

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目次
 a.始めに
 b.レウクトラの戦い
 c.レウクトラの戦い以前
 d.デリオンの戦い
 e.コリントス戦争
   1.メネアの戦い 前394年
   2.コロネイアの戦い 前394年
   3.レカイオンの戦い 前392年
   4.まとめ
 f.前四世紀の重装歩兵戦術
 g.アテナイの軍事組織
 h.スパルタの軍事組織
 i.まとめ

a.始めに

 紀元前371年に、スパルタとテーバイとの間で戦われたレウクトラの戦いはギリシア軍事史上、及び政治史上、極めて重要な地位を占めている。軍事史においてはエパミノンダスの発明とされる斜形陣、政治史においてはスパルタの凋落を決定づけた戦いとされている。
 現在、政治史はともかく、軍事史においてはエパミノンダスの戦術が革新的であるとした考えは否定されつつある(1)
 だが、レウクトラの戦いはテーバイとスパルタがそれぞれの方法で磨き上げたそれぞれの重装歩兵戦術の極を示した戦いと見ることが出来る(2)
 そこで、レウクトラの戦いを中心に前四世紀のギリシアの重装歩兵戦術を概観する。最初にレウクトラの戦いを出来うる限り史料に即して再現する(3)。次にレウクトラ以前の戦い、主に前四世紀の戦いを再現し、この当時の一般的な戦術を検討する(4)。最後に前四世紀の重装歩兵戦術の発展がいかな物であり、レウクトラの戦いがその中でどのような位置を占めるかを検討する。

aの注

  1. ウクトラの戦いが従来の重装歩兵戦術の繰り返しに過ぎないとする考えの急先鋒はVictor Hansonで、彼はレウクトラの戦の革新として様々な研究者が唱えてきた、斜形陣、歩騎合同攻撃、右翼への兵力集中、予備部隊の活用、選抜部隊等々が研究者の誤認、或いは従来からギリシアで使い古されてきた戦術であった点を論証している。
     詳しくは [Victor Hanson Epameinondas,The Battle of Leuktra(371B.C),and The"Revolution" in Greek Battle Tactics Classical Antiquity Vol.7/No.2 1988]
  2. 四世紀のテーバイとスパルタの戦術の発展については、[J.K.Anderson Military Theory and Practice in The Age of Xenophon UNIVERSITY OF CALIFORNIA PRESS 1970]141から224頁
  3. Victor Hanson191頁によると、レウクトラの戦いの基本史料としては「クセノポン ギリシア史6巻4章3−15」「プルタルコス ペロピダス伝20−23」、「ディオドロス 15.52−56」、「パウサニアス 9巻13.3−12」がある。そこで、クセノポンは「クセノポン著 根本英世訳 ギリシア史1−2 京都大学学術出版 1998−9年」、プルタルコスは「プルタルコス著 河野与一訳 プルターク英雄伝4 岩波書店 1953年」、パウサニアスは「パウサニアス著 飯山都人訳 ギリシア記 龍渓書舎 1991年」、ディオドロスは[CHARLES L.SHERMAN(TRAS.) LOEB CLASSICAL LIBRARY No.389 DIODORUS SICULUS LIBRARY OF HISTORY HARVARD 1952]を使用する。
     しかし、J.K.Anderson207頁によるとディオドロスの記述にはレウクトラにいなかったアゲシラオス王の息子、アルキダモスがいたり、スパルタ軍の戦死者が四千人もいたとかとかく問題が多く、現代の歴史家の多くは彼の記述を疑う傾向にあるので、他の史料を補足する形でのみ利用することとする。
     再現に際して史料の解釈と批判はJ.K.Andersonの192から220頁に従い、Victor Hanson196から199頁と「アーサー・フェリル著 鈴木主税/石原正猛訳 戦争の起源 河出書房新社 1988年」243頁により補正と追加を加える形を取る。 
  4. 料については戦いの解説毎に示すが、史料の解釈は基本的にJ.K.Andersonの141から164頁に従う。

b.レウクトラの戦い



 レウクトラの戦いの兵力はスパルタ及び同盟軍の戦力が大凡重装歩兵一万、騎兵千、テーバイ及び同盟軍が重装歩兵六千、騎兵六百である(1)
 スパルタ軍は十二列程度の戦列を組み、一方テーバイは右翼は通常通りに八から十二列程度の戦列を組み、左翼は五十列に及ぶ深い戦列を組んでいた。テーバイのエリート部隊たる神聖隊はテバイ軍左翼の前面に展開した。スパルタ軍は右翼前面に王と親衛隊が布陣した。スパルタは敵左翼への迂回機動を行うべく騎兵を歩兵の前面に展開し、歩兵の行動を隠蔽しようとした。テーバイもスパルタ騎兵の動向に対応して騎兵を前面に展開した(2)



 テーバイ軍はスパルタ軍の迂回機動に対応し、騎兵を突撃させて歩兵を援護していたスパルタ騎兵を駆逐した。敗走したスパルタ騎兵の一部は歩兵隊の中へ飛び込んでしまい、スパルタ軍の隊列が乱れ、迂回機動も停滞を来してしまう(3)



 スパルタ軍の迂回機動を阻止すべくペロピダス率いる神聖隊がスパルタ軍の進路上に立ちはだかり、スパルタ軍の進撃が止まる(4)



 テーバイ全軍が左方にいるスパルタ軍に向かって突撃を開始する。スパルタ軍は神聖隊の突撃により生じた混乱を立て直しつつ、テーバイ軍左翼の突撃を持ちこたえる(5)



 スパルタ軍は当初の混乱を収拾し、テーバイ軍と互角の戦いを展開する。恐らく、この辺りでテーバイ軍右翼のテーバイ同盟軍とスパルタ軍左翼のスパルタ同盟軍が交戦状態に入った。しかし、スパルタ同盟軍は数の上でテーバイ同盟軍を凌駕していたにも関わらず、戦意に乏しく、中には勝手に退却を始める部隊までおり、テーバイ同盟軍を圧倒するには至らなかった(6)



 エパミノンダスが当初より企画していた「蛇の頭つぶし」作戦が効をそうし(7)、スパルタ王、右翼部隊の指揮官など、スパルタ軍首脳部が全滅してしまい、その結果スパルタ軍が全面崩壊した。左翼の同盟軍もスパルタ軍の崩壊を見ると直ぐに退却した(8)

 スパルタ軍の損害は全体で千名に及び、この戦いに参戦した七百名のスパルタ市民の内、四百名が戦死するという激しいものであった(9)。しかし、スパルタ同盟軍の損害は極めて軽微で戦死者を出さなかった同盟国もあった。一方テーバイ軍の損害は小さく僅かに四十七名が戦死したに過ぎなかった(10)
 この戦いでスパルタの威信は失墜し、同盟国の多くは離反し、属国たるペリオイコイの一部も離反した。翌年に行われたテーバイ軍のペロポネソス半島侵攻により、スパルタはメッセニアを失い、ギリシアの二等国に転落してしまう。
 この戦いは軍事的にはどうであろうと、政治的にはスパルタの覇権の失墜という極めて大きな影響を及ぼしたのは間違いないようだ。

bの注

  1. アーサー・フェリル 241から242頁。
  2. 列の深さとスパルタ王と親衛隊の位置は「クセノポン6巻4章12」。スパルタの騎兵の展開についてはアーサー・フェリル 243頁の解釈に従い、神聖隊の配置はアーサー・フェリル 243頁の解釈と、Victor Hanson196と197頁のJ.K.Anderson217頁の解釈に対する批判に従う。
  3. 初の2ステップの流れは主に「クセノポン6巻4章10−13」による。迂回機動については「プルタルコス ペロピダス伝 23」を根拠にしたアーサー・フェリル 243頁とJ.K.Andersonの211から213頁。
  4. 「プルタルコス ペロピダス伝 23」
  5. の段階が最も混乱が多く、クセノポンとパウサニアスは全体で戦いが始まったように記述しており、プルタルコスはテーバイ軍左翼だけが突撃したように記述し、ディオドロスに至ってはテーバイ軍左翼は突撃を行い、テーバイ軍右翼は敵を牽制しつつ退却していたと記述している。Victor Hanson199頁によると、これは両軍の初期配置とエパミノンダスの作戦により、テーバイ軍の移動隊形が、さも斜形陣のように見えただけである。エパミノンダスはスパルタ軍最右翼のスパルタ首脳陣に向けて突撃を行った。そして最初の段階でスパルタ軍はテーバイ軍左側面を目指して移動を行っていた。故に、テーバイ軍は左斜め前へ向かって突撃を行わなければならなくなり、突撃中に全体が左から右にかけて傾斜しているような形になってしまった。斜形陣の伝説はこの時の陣形を斜形陣と誤認した者により引き起こされたと考えられる。そこで、今回はVictor Hansonの解釈に従う。
  6. パルタ軍とテーバイ軍が当初は互角に戦っていたとする点でクセノポン、パウサニアス、ディオドロスは一致している。例外はプルタルコスでスパルタ軍はテーバイ軍の速攻で崩壊したとしている。同盟軍の戦意についてはパウサニアスが指摘している。「岩田拓郎著 「ラケダイモン人のポリス」の結合と解体 東北大学西洋史研究28 1999年」13から14頁によると同盟軍はおろかスパルタの属国で、スパルタ軍と混成して共に右翼を構成していたペリオイコイもエパミノンダスが行った政治宣伝により、戦意がかなり鈍っていたようだ。
  7. 「ポリュアイノス著 戸部順一訳 戦術書 国文社 1999年」95頁の「ポリュアイノス 2.3.15」にエパミノンダスが戦闘に先立ち兵士達に蛇を手にとって「頭さえなくなってしまえば残った体はものの役にも立つまい」と作戦方針を説明した旨が記述されている。
  8. Victor Hanson200から201頁によると、レウクトラの勝敗は戦術的成功ではなく、単にスパルタ軍首脳部が全滅したことによる結果であり、偶然の要素が大きく、逆に十年後に行われたマンティアネの戦いでは似たような状況にありながら、エパミノンダスが戦死したことによりテーバイ軍の方が崩壊している。故に、この戦いの勝因はスパルタ軍首脳の全滅にあるとしている。
     しかし、もしエパミノンダスが当初からスパルタ軍首脳部の全滅を狙って作戦を構築していたとしたら、部隊と部隊の直接対決により相手の戦列の崩壊を狙う当時の戦術思考からの大きな変化ではないかとも考えられる。これは別の機会に再考する必要があるかもしれない。
  9. 「クセノポン 6巻4章15」
  10. 「パウサニアス 9巻13.12」

c.レウクトラの戦い以前

 前395年に始まったコリントス戦争は、テーバイ、アテナイ、そしてスパルタがペロポネソス戦争頃から試行錯誤を繰り返していた戦術の展覧会の感を呈している。
 テーバイは前424年のデリオンの戦いの時に初めて試した重深陣を本格的に利用し始め(1)、スパルタは全市民がプロの軍人として訓練されているその規律と錬度を生かした複雑な戦術機動を実現し(2)、アテナイは重装歩兵以外の兵種を活用する術を身につけようとしていた(3)

cの注

  1. Victor Hanson192頁による。この戦いは「トゥキュディデス 4巻93」と「ディオドロス 12.70」に記述されている。トゥキュディデスの訳は「トゥキュディデス著 久保正彰訳 戦史中巻 岩波書店 1966年」
  2. セノポンは「ラケダイモン人の国制 11章8」によるとスパルタ軍は戦術家が極めて困難と考えている戦術機動を易々とやってのけるだけの錬度を誇っていた。この著作の訳は「クセノポン著 松本仁助訳 小品集 京都大学学術出版会 2000年」
  3. テナイはペルシア戦争で騎兵を本格採用し、イピクラテスにより特殊な軽装兵を採用するに至っている。しかし、今回はあくまで重装歩兵戦術について検討しているので、除外する。

d.デリオンの戦い

 前424年、ペロポネソス戦争中最初の大会戦がアテナイとボイオティア連邦国境地帯のデリオンで行われた。参加兵力は両軍共に重装歩兵七千、騎兵が千で、他にテーバイ側に軽装兵が一万以上参加していた(1)



 右翼をしめるテーバイ軍は通常の8から12列の深さを無視し、25列の深さをもって布陣した。一方アテナイ軍は通常の慣例に従って8列の深さをもって布陣した。両軍共に両翼へ騎兵を配置し、重装歩兵の側面を援護した。右翼のテーバイ軍の深さを除き、従来と異なる点はない。この時、神聖隊が初めて戦場に投入され、彼らはテーバイ軍の最前列を占めた(2)



 右翼ではテーバイ軍が優勢に戦いを進めたが、左翼はアテナイ軍の最初の一撃で崩壊した。左翼の危機に対し、テーバイ軍の司令官パゴンダスは騎兵の一部を割いて左翼に広がる丘陵地帯を迂回させた。



 テーバイ軍左翼は右翼の友軍に向かって敗走した。アテナイ軍右翼も敵の崩壊に従って混乱を来した。アテナイ軍左翼はテーバイ軍の猛攻を支え切れずに崩壊した。



 テーバイ軍騎兵隊がアテナイ軍右翼の背後に現れた。既に混乱を来していたアテナイ軍右翼は新たな敵の出現に驚愕し崩壊し、敗走を始めた。混乱はアテナイ軍全体に広がり、ついには全軍が崩壊して敗走した。

dの注

  1. 「トゥキュディデス 4巻93」。以後この戦いを「トゥキュディデス 4巻93−96」に基づき再構成する。
  2. 聖隊の戦闘参加は「ディオドロス 12.70.1」による。

e.コリントス戦争

 コリントス戦争はテーバイの重深陣、スパルタの戦術機動が盛んに用いられた戦争であり、特にスパルタの戦術機動の妙が光り輝いていた。
 そこで、コリントス戦争の主要な戦い、メネアの戦い、コロネイアの戦い、レカイオンの戦いを再現してみる。

1.メネアの戦い 前394年
 ペロポネソス戦争に勝利し、返す刀でペルシアへも侵攻を開始したスパルタに対し、前394年にペルシアの支援を受けてコリントス、テーバイ、アテナイ、アルゴスなどのギリシアの有力諸国が連合し戦いを挑んだ。スパルタはコリントスに侵攻すべく軍を進め、連合軍もそれを阻止すべくメネアに進み、両軍はこの地で激突した(1)



 同盟軍の兵力はアテナイと同盟国六千、アルゴス七千、コリントス三千、テーバイ五千の総勢約二万一千で、スパルタ軍の兵力はスパルタ六千、ペロポネソス同盟諸国七千五百、テゲアとマンティアネ一万五百で、総勢約二万三千だった(2)



 テーバイ軍が敵左翼端を狙って右へ向かって突撃を始めた為に全軍が右に向かって斜めに突撃を行うことになった。スパルタ軍は敵左側面へ向かって移動を開始した。



 スパルタ同盟軍は連合軍の攻撃を支えられずに敗走し、連合軍はスパルタ同盟軍を追撃した。同時にスパルタ軍はアテナイ軍の左側面を捉え、アテナイ軍左翼を崩壊させた。



 連合軍はスパルタ同盟軍を追い散らし、反転して自陣営へ向けて移動中に側面をスパルタ軍に襲われた。連合軍は全面懐走陥り、二千八百名の損害を被った。一方スパルタは主に同盟軍の兵を千百名失った(3)

2.コロネイアの戦い 前394年
 ギリシア諸国がスパルタに対し戦端を開いた事を聞いたアゲシラオス王率いるスパルタのペルシア遠征軍は急遽、ボスポラス海峡を渡り、トラキア、マケドニア、テッサリアを通過してボイオティアに達した。スパルタ軍の到来に対し、テーバイ軍はアルゴス軍と共にこれを迎撃した(4)



 兵力の実数は不明だが、スパルタ軍の方が多いことだけは確実なようだ。テーバイ軍、アルゴス軍は恐らくネメアの戦いの生き残りで、スパルタの側面攻撃は心得ていると考えられる(5)



 テーバイ軍はオルコメノス軍を撃破し宿営地に至るまで追撃した後、反転して自軍の宿営地へ向かった。テーバイ軍はメネアの戦いの経験からスパルタ軍の襲撃を警戒し、戦闘態勢のまま移動した。スパルタ軍はアルゴス軍を撃破した後、反転してテーバイ軍へ向かい、両軍は正面から激突した。



 スパルタ軍は隊列に隙間を作り、テーバイ軍を通過させた。テーバイ軍はスパルタ軍の陣列通過中に混乱を来し、懐走状態に陥った(6)



 スパルタ軍は陣形を再編し、テーバイ軍を追撃した。この戦いで、テーバイとアルゴス軍は六百名以上を失い、スパルタと同盟諸国は三百五十名を失った(7)

3.レカイオンの戦い 前392年
 スパルタ軍はシュキオンを拠点とし、コリントス、アルゴス、アテナイ、テーバイ連合軍はコリントスを拠点としてコリントスの支配をめぐって争っていたが、コリントス人の一部は自国が戦場となっている事に耐えかね、スパルタとの和平を模索し始めた。主戦派のコリントス人は和平派の弾圧を強行し、和平派はスパルタをたよって国を出た。スパルタ軍はコリントスの和平派と組み、コリントス市とコリントスの港町レカイオンを繋ぐ城壁内に侵入し、コリントス市とレカイオンを遮断するように陣営を築いた。スパルタ軍の侵入に対応し、コリントス市に駐留するコリントス、アルゴス、アテナイ軍が出陣したが、スパルタ軍の背後のレカイオン港に駐留するテーバイ軍はレカイオンに留まった(8)



 スパルタ側は左翼に百五十名のコリントスからの亡命者部隊、中央に千五百名未満のシュキオン軍、右翼に六百名未満のスパルタ軍が布陣し、前面に堀と柵を巡らせ、背後に騎兵隊を配置した。スパルタと同盟軍は全体で二千名を越えなかったと考えられている。連合軍はアルゴスとコリントス軍、合わせて一万名が左翼を占め、右翼はイピクラテス率いる数百名のアテナイ傭兵軍が布陣した。そして、スパルタ軍の後方一か二キロ位の所にあるレカイオン港には恐らく数百名程度のテーバイ軍が駐留していた(9)



 コリントス亡命者部隊はアテナイ軍を撃ち破り、アルゴス軍はシュキオン軍を撃ち破った。シュキオン軍の敗退に対応し、全軍の背後に配置されていたスパルタ騎兵隊が下馬してアルゴス軍へ向かって突撃したが、全滅してしまう。



 アルゴス軍はシュキオン軍を追撃し、コリントス亡命者部隊はアテナイ軍を追撃した。シュキオン軍の敗退に対応してスパルタ軍が連合軍の側面を突き、コリントス軍を撃ち破った(10)



 スパルタ軍の出撃に気が付いたアルゴス軍は反転してスパルタ軍へ向かったが、スパルタ軍に側面を突かれて崩壊した。この戦闘後、レカイオンのテーバイ軍もスパルタ軍の攻撃で全滅した。この戦いで、連合軍は約千名の損害を被った(11)

4.まとめ
 ネメア、コロネイア、レカイオンの戦いのスパルタ軍の勝因は、戦術機動によるところが大きい。逆に、スパルタ軍に対し、連合軍側の前進と反転だけの機動の単純さが目に付く。スパルタ軍の基本的な戦術は、友軍を囮にして敵を引きつけ、その隙に敵の側面へ迂回して側面から切り崩す。レウクトラの戦いでスパルタ軍が行おうとした戦術は正にこの迂回機動だった。コロネイアの戦いでは恐らくテーバイ軍がこの側面攻撃を警戒しており、彼らは帰還を急いでいた。この二点から側面攻撃ではなく、敵と正面からぶつかった後に通過させ背後を突く戦術が選択されたと考えられる。テーバイはデリオンの戦い、メネアの戦いに見られるように一点に兵力を集中し、敵の一翼をうち砕く戦術を常套手段としていた。一方の翼に兵力を集中する戦術はエパミノンダスがレウクトラで初めて使ったのではなく、テーバイの伝統的な戦術に過ぎなかったのである。

eの注

  1. 「クセノポン 4巻2章14−15」。以後この戦いを「クセノポン 4巻2章18−23」を土台に再現する。
  2. 盟軍の兵力は「クセノポン 4巻2章17」。スパルタ軍とペロポネソス同盟軍の兵力は「クセノポン 4巻2章16」で、テゲアとマンティアネの兵力は「ディオドロス 14.83.1」に示されていたスパルタ陣営の総兵力からクセノポンの示した兵力を差し引いた値。解釈はJ.K.Anderson143頁。
  3. 害は「ディオドロス 14.83.1」による。
  4. 「クセノポン 4巻2章5−8,3章1−9」。以後この戦いを「クセノポン 4巻3章15−20」を土台に再現する。
  5. J.K.Anderson151頁による解釈。
  6. パルタ軍が隙間を空けてテーバイ軍を通したとする件は「プルタルコス アゲシラオス伝18」
  7. 軍の損害数は「ディオドロス 14.84.2」
  8. 「クセノポン 4巻4章1−8」。以後この戦いを「クセノポン 4巻2章9−12」を土台に再現する。
  9. パルタ側のコリントス同盟部隊の兵員数は「クセノポン 4巻4章9」。コリントス、アルゴス、シュキオン、スパルタの兵員数はJ.K.Anderson155頁の分析による。スパルタ騎兵隊とテーバイ、アテナイ軍の兵力は私の推測値。
  10. J.K.Anderson155頁によるとクセノポンにスパルタ軍が迂回機動を行いコリントス軍を敗ったとは記述されていないが、スパルタ軍が出撃後に陣営の柵を左に見ながら進撃し、アルゴス軍の側面を突いたとする記述を考慮すると、コリントス軍も同様の方法で撃ち破られたと解釈できるとしている。スパルタ軍の前面にコリントス軍がいたのは確実で、敵の目の前で側面を曝したまま進軍するとは考えづらいのでこの解釈に従う。
  11. 合軍の損害数は「ディオドロス 14.86.4」による。

f.前四世紀の重装歩兵戦術

 古代ギリシアの戦いは簡単に言うと、正面から敵と衝突し、相手を押し切るおしくらまんじゅうみたいなもので、テーバイの重深陣は後ろから押す人数を増やし、敵を押し切ろうとしただけのものである(1)。レウクトラで言えば、スパルタが12人で押すのに対し、テーバイは50人で押して来る。故に、この押しくらまんじゅうでどちらが勝つかは自明と思われる。
 スパルタは押しくらまんじゅうとは異なる道を歩んでいる。おしくらまんじゅうを避け、部隊散開や迂回機動などの戦術機動を利用し、敵の弱点を突く戦術を選択している。では、なぜ他国もスパルタと同じ選択をしなかったのか?理由は単純である。ギリシアの重装歩兵の多くは専業兵ではない。農業や手工業、商業に携わりながら、戦争では武器自弁で参加してくる義勇兵であり、徴集兵であった。しかし、スパルタは農業を農業奴隷たるヘイロータイに任せることで市民全員が軍事に専念できる環境が整えられていた(2)。もう一つの違いは軍事組織にも見ることが出来る。そこで、次に一般的な都市の軍事組織を持つと考えられているアテナイと、特殊な組織を持つと考えられているスパルタの組織を比較する。

fの注

  1. [V.D.Hanson The Western Way of War CALIFORNIA 2000年]172から175頁。
  2. のスパルタと他ポリスとの兵士の差を最もよく表しているエピソードが「ポリュアイノス 2.1.7」にある。スパルタのペルシア遠征中に同盟国軍の兵達がスパルタ兵の参戦数が少ないと苦情を述べた際に遠征軍司令官のアゲシラオス王は職種毎に手工業者や農民、商人に次々と起立するよう命令していった。そして、最後まで着席したままだったのはスパルタ兵だけで、同盟国の兵は本物の兵隊はスパルタ兵だけだったことを思い知らされた、という。
     クセノポンは「ラケダイモン人の国制11.8」でスパルタ人は戦術指導者が非常に困難だと見なしている戦列展開を易々とやってのけると報告している。これもスパルタ軍の専業軍としての性格を示すものであると同時に、当時の一般的な軍隊がスパルタ軍が実行できる戦列展開を実行できなかったことを示す記述と考えることが出来る。

g.アテナイの軍事組織



 アテナイは前六世紀にクレイステネスの改革が行われて以来、軍事組織の変更は殆ど行われなかった。変更はペルシア戦争で騎兵の重要性に気が付き、騎兵部隊を導入したくらいである。
 アテナイの軍事組織はアテナイの行政組織たる十部族に基づいて編成されていた。この部族とは現代風に言うと出身地であり、アテナイの部隊は簡単に言うと出身地別に編成されていた。各部族で選挙を行い歩兵隊指揮官たるタクシアルコイと騎兵隊指揮官たるピュラルコイを選出した。タクシアルコイは三百名からの兵士を率いる何名かのロカゴイを指名した。部族の構成人数は不定であり、各部隊の人数は不均衡にならざるおえなかったが、各部隊はだいたい平均して千名前後だった。恐らく、ロカゴイの数が部族毎にまちまちであったのだろう。
 最高指揮官は全市民による選挙で選ばれた十名のストラテゴスである。彼らの内、三名は国内防御の指揮官で、一人は徴兵を担当し、残りの六名が海外遠征の指揮を行う。他に、全市民の選挙により三人のヒッパルコイが選出される。ヒッパルコイは二人が各々五部族の騎兵を一人がレムノス島の騎兵を指揮する(1)。ストラテゴスが率いる歩兵部隊や騎兵部隊は作戦毎に変わり、特に決まりはなかった。
 恐らく、テーバイもコリントスもスパルタ以外のポリスはだいたいこのような編成だったと考えられる。
 見ての通り、指揮官は選挙で選ばれた只の市民に過ぎず、軍事の専門家というわけではない。兵士も市民徴集兵であり、専業軍人ではない。兵士達は時に指揮官の命令を聞かず、逆に指揮官を裁判に掛けることすらあり、作戦行動に支障を来すこともたびたびであった(2)

gの注

  1. 「アリストテレス アテナイ人の国制 61章」「大牟田章著 ギリシアの軍事組織 古代史講座 学生社 1961年 内」208頁による。アリストテレスの邦訳は「アリストテレス著 村川堅太郎訳 アテナイ人の国制 岩波書店 1980年」
  2. えば「クセノポン 1巻7章」によるとアルギヌサの海戦で勝利したアテナイのストラテゴス達は難破船の兵士を助けなかった罪により告発され、処刑され、「トゥキュディデス 7巻72」によるとアテナイのシラクサ遠征軍は敗戦後に再出撃を命令したストラテゴスの命令を無視している。

h.スパルタの軍事組織



 スパルタは幾度となく軍事組織の再編を行っており、前四世紀にはアテナイのような部族による編成は行われなくなっていた(1)
 スパルタ軍はポレマルコス率いる6つのモラに分かたれており、モラは4つのロコスに、ロコスは2つのペンテコステュスに、ペンテコステュスは2つのエノモティアで構成されていた。エノモティアは30から40名で編成されていたので、逆算すれば、ペンテコステュスは60から80名、ロコスは120から160名、モラは480名から640名で構成されていた。軍の最高司令官は二人の王で、命令は王から発せられると順に下へ向かって伝達された。各下級指揮官は命令に応じた行動を指示する術を心得ており、兵士達も混乱時ですら戦えるように自分達の基本的な役割は心得ていた。命令違反は例え王であっても厳重に処罰された。部隊編成と命令系統、厳格な軍規、これ故にスパルタ軍は当時の戦術指揮官が極めて困難だと考えている戦列展開を易々と実行できたのである(2)
 スパルタ軍のもう一つの特徴は、普通一つのポリスの軍はそのポリスの市民だけで編成されるが、スパルタ軍は属国たるペリオイコイの市民との混成で編成されている点にある。指揮官層と戦列の前列はスパルタ市民が占め、ペリオイコイはスパルタ人の指揮に従い戦列を組んだ(3)
 ペリオイコイのポリスの国制を伝える史料は殆どないが、ペリオイコイもスパルタ人と同様に農業奴隷たるヘイロータイを保有していた点や(4)、ペリオイコイを加えたスパルタ軍がメネアやコロネイア等で見せた戦いぶりを見ると、恐らくスパルタと似たような国制を持ち、スパルタ人と同様に専業兵として訓練を受けていたと考えられる。

hの注

  1. 「クセノポン スパルタ人の国制 11章」「大牟田章著 ギリシアの軍事組織 古代史講座 学生社 1961年 内」209頁による。
  2. 揮系統については「トゥキュディデス 5.66」による。スパルタ軍の下級指揮官の役割や兵士達の錬度については「クセノポン スパルタ人の国制 11章」。処罰に関して例えば「クセノポン ギリシア史 3巻5章25」によるとパウサニアス王は命令違反により死刑を求刑されて亡命し、「トゥキュディデス 5.72」によると前418年にマンティアネの戦いで王の命令に背いた指揮官が戦後、追放刑に処されている。
  3. 「大牟田章著 ギリシアの軍事組織 古代史講座 学生社 1961年 内」210頁による。
  4. 「プルタルコス リュクルゴス伝 8」による。邦訳は「プルタルコス著 村川堅太郎編 プルタルコス英雄伝 上巻 筑摩書房 1987年」

i.まとめ

 レウクトラの戦いでスパルタ軍が行おうとしていたのは彼らが必勝の戦術として多用してきた戦術機動だった。テーバイ軍がそれに対したのも彼らが必勝の戦術として多用してきた重深陣であった。スパルタ軍は迂回機動をより完全なものとするために騎兵による援護を行い、テーバイ軍は彼らの重深陣をスパルタ軍に叩き付けるために神聖隊でスパルタ軍の迂回機動を止めた。両者とも、これまでに培った戦術を尽くして戦ったに過ぎず、ここで新たな戦術的な発明が生み出されたわけではない。
 レウクトラの戦いから10年後のマンティアネの戦いで、テーバイ軍はレウクトラの戦いと同様に重深陣でスパルタ同盟軍の右翼を占めるスパルタ軍を撃ち破った。しかし、エパミノンダスが戦死してしまい、レウクトラの戦いとは逆にテーバイ軍が敗走する結果になった。レウクトラの勝利は戦術的成功ではなく、単に敵軍の首脳部が戦死してしまったことによる結果だったのかもしれない(1)
 クセノポンはこの戦いについて「しかし戦闘ではラケダイモン人にとってすべてが裏目に出て、一方テバイ人にとってはあらゆることが、幸運にもよるが、成功裏に運ばれた。(2)」と論評している。たしかに、スパルタはこの戦いでは精彩に欠き、騎兵の展開、迂回機動、同盟軍の動きと、全てが裏目に出ている。更には以前の戦いと比べると、例えばコロネイアで見せた戦闘中での散開や、レカイオンで見せた敵前での旋回機動などと比べると、行動が極めて緩慢である。
 これは戦術以前にエパミノンダスが行った政治宣伝の効果が現れた結果の様である(3)。レウクトラの戦いの数ヶ月前にスパルタで行われた和平会議の席上、エパミノンダスは和平条約にペリオイコイ諸ポリスも独立したポリスとして条約を結ぶことを主張した(4)。従来、ギリシア諸ポリスはペリオイコイをスパルタの一部と考えており、スパルタとペリオイコイを分けて考えることはなかった。そのペリオイコイを独立したポリスとして認めるエパミノンダスの発言はペリオイコイを大いに動揺させ、レウクトラの戦いから一ヶ月半後に行われたラコニア侵攻の際、ペリオイコイの多くが寝返っている。故にレウクトラの戦いで、スパルタ軍の動きを鈍らせたのはペリオイコイの動揺だったと考ることができる(5)
 以上ここまでを顧みると、レウクトラの戦いは戦術革命ではなく、従来の戦術の踏襲に過ぎず、テーバイの勝利は政治宣伝と偶然の産物だと考えることが出来る。そして、重要な点はこの戦いは重装歩兵をどの様に使うかと言う点に戦術の重点があり、伝統的な重装歩兵同士の戦い、と言う考えから逸脱していない。特にテーバイの重深陣は重装歩兵戦闘の最も基本的なおしくらまんじゅうに勝つことを主眼に置いている点で、極めて伝統的な考え方に則って構築されたことが読みとれる。
 ギリシアの重装歩兵戦術は一人の天才により革新的に進歩したのではなく、幾多の戦いの中で多くの人々の血を流しながら洗練され、少しずつ進歩してきたものなのである。

iの注

  1. Victor Hanson200と201頁
  2. 「クセノポン 6巻4章8」
  3. 岩田拓郎 13と14頁
  4. 「パウサニアス 9巻13.2」
  5. 岩田拓郎 6から14頁

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