古典期のスパルタの教育

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目次
 a.序
 b.前五から四世紀の著作に現れるスパルタ教育のイメージ
 c.クセノポンからプルタルコスへ
 d.プルタルコスとクセノポンの描くスパルタの教育の相違
 e.まとめ

発音についての注:

 ギリシア語のカタカナ表記は基本的に母音の長短の区別をせず音引きはしない。
 ΦΧΘはΠΚΤとを区別せず同じように表記した。

a.序

 スパルタ教育とは、家族から子供を引き離して国家に委ねる、国家による徹底的した管理教育で、苛酷な体罰と肉体的訓練を伴う厳しい教育方法を指す言葉として定着している。そして、スパルタがこの様な教育を作り上げたのは軍事目的によると言われている。このイメージを現代に伝えた最も大きな要因はプルタルコスによる「リュクルゴス伝」であったと考えられる。
 この「リュクルゴス伝」に現れたスパルタの教育像は西洋の教育史を概説したわが国の文献によく現われている(1)古代ギリシア史の研究者も概ね、このイメージをそのまま取り入れている場合が多い。欧米の研究者では、H.I.Marrou(2),A.H.M.Jones(3),Manfred Clauss(4),A.J.Toynbee(5),Forrest(6)がプルタルコスを典拠としてこのイメージに基づきスパルタの教育を解説している。The Oxford Classical Dictionary Third Edition,1996 41頁の[agoge]の項は恐らくプルタルコスを主な典拠としているが、その記述を古典期の出来事と、古典期以降の出来事に切り分けている。W.Jeagerは前7世紀頃のスパルタの詩人、テュルタイオスを最も重要な典拠とし、プルタルコスやクセノポン、アリストテレス、プラトン等を補助的な史料としてスパルタの教育の解説を行っている(7)A.Powellはプルタルコスを使わず、クセノポンとアリストテレスから読みとれるスパルタの教育を解説し、教育の目的を対ヘロット対策としている(8)しかし、どれも国家が主導した管理教育であるとしたイメージはそのままの様に見受けられる。日本でも多くの古代ギリシア史の研究者がこのイメージを抱いており(9)代表的なスパルタ研究者の新村氏や(10)清永氏(11)漠然とこのイメージを抱いているように見受けられる。
 そこで、古代スパルタの教育の実態が、このイメージ通りであったのかを検証する。
 本論では最初にスパルタが最盛期を迎えたといわれる前五世紀から四世紀のスパルタの教育についてのイメージを、当時の様々な著作、喜劇や悲劇、哲学に国制論、歴史、文学等から導く。この際に、その導き手として前五から四世紀の様々な著作に現われてくるスパルタのイメージを分析した論文集 Powell,Hodkinson(eds): The Shadow of Sparta ,The Classical Press of Wales,1994 を使う(12)
 次に、スパルタの国制を最もよく伝えているとされている後二世紀のプルタルコスの「リュクルゴス伝」を、前四世紀の著作の中で最もスパルタの国制を詳しく解説したとされるクセノポンの「ラケダイモン人の国制」と比較することでスパルタの最盛期たる古典期のスパルタの教育とはどのようなものであったかを検討する。そこで、両著の違いが前四世紀から後二世紀に至る時間の流れからくるスパルタの国制の変化による違いなのか、近年スパルタの教育を様々な視点から検討した Nigel.M.Kennell: The Gymnasium of Virtue,University of North Carolina Press 1995 を導き手として検証する。
 最後に、前5から4世紀のスパルタの教育のイメージと、プルタルコスとクセノポンの著作の比較から現れてきたスパルタの教育内容とを合わせて検討し、古典期のスパルタ教育とはどのようなものであったかを導きだし、続いて今後の課題を検討する。

aの注

  1. の最も端的な例は 梅根悟著 西洋教育史(新評論社 1967年)55から59頁で、スパルタの教育の解説がプルタルコスのリュクルゴス伝の引用だけで構成されている。他に 東岸克好著 西洋教育史(玉川大学出版部 1986年)16頁ではプルタルコスに依拠すると明記されてその著作の要約といえるものが掲載されており、教育目的も軍事的なものと解説している。他に、依拠した史料を明記してはいないが、 石山脩平著 古代ギリシア教育史(日本図書センター 1978年)101から123頁、 長尾十三二著 西洋教育史(東京大学出版会 1978年)8から11頁、 渡辺晶/木下法也/江頭恭二編 教育演習双書9 西洋教育史(学文社 1972年)1から6頁、 E.P.カバリー著(川崎源訳)カバリー教育史(大和書房 1985年)24から25頁等がプルタルコスのみを根拠史料としてスパルタ教育を解説しているように見受けられる。  
  2. マルー著(横山壮英/飯尾都人/岩村清太訳)古代教育文化史(岩波書店 1985年)31から33頁。  
  3. A.H.M.Jones: Sparta , Basil Blackwell 1967 34と35頁  
  4. Manfred Clauss: Sparta , C.H.Beck Munchen 1983 143から145頁  
  5. トインビー著(歴史の研究刊行会訳)歴史の研究5巻(1970年)90から94頁  
  6. フォレスト著(丹藤浩二訳)スパルタ(渓水社 1990年)68から69頁  
  7. Werner Jueger: PAIDEIA1, Gilbert Highet(Trans.) OXFORD 1945 79から87頁
  8. Anton Powell: Athens and Sparta, Routledge 1988 229から231頁  
  9. 桜井万里子/木村凌二著 ギリシアとローマ(中央公論社 1997年)100から102頁、太田秀通著 スパルタとアテネ(岩波書店 1970年)87から90頁、岩田拓郎著 アテナイとスパルタの国制 岩波講座 世界歴史第1巻 古代1(岩波書店 1969年)内 547頁、貝塚茂樹/村川堅太郎/池島信平監 世界の歴史2 ギリシャとローマ(中央公論社 1961年)66と67頁、村川堅太郎著 スパルタ 下中彌三郎編 世界歴史辞典11巻(平凡社 1952年)内 3頁。  
  10. 新村祐一郎著「第2メッセニア戦争とスパルタ−−Lykurgos体制成立時期と関連して−−」西洋古典学研究]]T(1973年)27頁  
  11. 清永昭次著「スパルタの都市国家」歴史教育13−4(1965年)25頁、
    清水昭次著「ポリスの世界」学習院大学史学28(1990年)68頁
  12. 後この著作内の論文については論文名のみを記す。

b.前五から四世紀の著作に現れるスパルタ教育のイメージ

 前五世紀から四世紀に書かれたスパルタに関わる著作の中でスパルタの教育についての最も重要な情報を提供する書は、プラトン「法律」クセノポン「ラケダイモン人の国制」である。しかし、前五から四世紀にかけての著作物にはスパルタに関するイメージ、或いは実際の見聞に基づく著述が幾つか見受けられる。そこで、それらの著述の中から、スパルタの教育に対する当時のイメージを構築する。
 プラトンは「法律」の中で、スパルタの国制について語っている。プラトンはスパルタの国制を他の国制を例にとりながら、遠回しに、或いは穏やかに批判している。その中でスパルタの教育についても非難の矛先が向けられている。プラトンのスパルタ批判を列挙すると、帝国主義戦争と肉体的勇気[626b-631a]、快楽に直面した際の弱さ[633c-636e]、酔いに対する間違った態度[636e-650b,671a-674c]となる(1)。この幾つかを具体的にスパルタの教育に当てはめて解釈してみると、[626c]ではスパルタやクレタの国制は戦争に強い国造りを目指しているので、教育の目的も強い軍隊の創造に他ならないとある。これに対し、[628c-e]で国家の目的は平和でなければならないと遠回しに批判している。[633a-d]で、肉体的な苦痛に耐えることを目的としたスパルタ流の訓練のあらましについて述べられ、それに対しても[634a-c]で、それが単に肉体的な苦痛を克服するためだけの訓練でしかない点が遠回しに指摘されている。これらをよりはっきりと示しているのは[666d-667a]で、スパルタの国制は軍隊向きであり、教育は単に勇敢な兵士を作るだけのものとして批判している。
 プラトン「法律」から見えるスパルタ教育のイメージは明らかに、単純な兵士の教育に他ならない。
 もう一つ現われてくるのは[696a]の全ての人が同じ教育を受けられたという点である。ここで主張されている教育とは少年に対するもので(2)、ここから全市民に対する平等な公共教育がスパルタにはあったとするイメージの存在が窺える。
 しかし、プラトンの描くスパルタ像も「法律」以前の著作を見るとかなり異なっている。例えば、前期の著作として位置づけられる「アルキビアデスT」[1.122c]によるとスパルタ人は礼儀正しく、困難に耐え、勇気と忍耐に富み、名誉を愛すると評され、同じく前期の作品と言われている「プロタゴラス」[342a-b]ではスパルタは古来から知を求める哲学の営みを行っていると分析している。中期の「国家」[544c]ではスパルタを現実世界にある最良の国制を持つ国家と定義している。最良の国がスパルタである以上、ここでプラトンの語る最良の国はスパルタをモデルとして構築されたのだろう。[547d]で最良の国は戦士階級が農業や手工業から遠ざけられ、体育や戦争の為の特別な訓練に励むとしている。[376e-412b]に現われる体育と音楽による教育、音楽については教育は元より作詞、作曲も国家管理として単純な形態とし、体育も競技者としてではなく、様々な困難に堪える兵士を育成するように単純なものとする等はとりもなおさず、当時プラトンの念頭にあったスパルタの教育のイメージを記述したととらえることが出来る。
 「法律」にしても、「国家」にしても、それを是とするか否とするかの違いだけで、スパルタ人が優秀な兵士を育て上げることを第一にした国家管理の教育態勢を作り上げたとするイメージには変わりはない。「プロタゴラス」[342-343]の記述を見ると、スパルタは極めて優れた哲学教育を実現しているとしたイメージも持っていたようだが、晩年の作品と言われている「法律」には、このイメージが現れていない。
 スパルタの女子の教育についてもプラトンは幾つか記述している。「法律」[806a]によるとスパルタでは女子が音楽や体育の教育を受けている。「国家」[452a]では女子にも音楽と体育教育を男子と同様に課す必要性が説かれている。ここから、プラントはスパルタでは女子も男子と同様の教育が課せられていたとするイメージを持っていたことがわかる。

 もう一つのより重要な証言はクセノポンの著作の中に数多く現われている。
 ディオゲネス・ラエルティオス[2.51-54]によるとクセノポンはスパルタの国賓として扱われ、二人の息子はスパルタで教育を受けた。故に、彼は実際にスパルタで生活した可能性が高く、実際の見聞を元に記述していると思われ、証言は信頼性は高いと考えられる。クセノポン「ラケダイモン人の国制」[2-3]によるとスパルタの教育は基本的にプラトン「法律」と同様に肉体的な苦痛に耐える訓練が主となっている。もう一つの特徴的な訓練は、スパルタ人が狡猾であるといわれた原因と思われる、盗みの訓練がある。子供たちに十分な食事を与えず、飢えをしのぐために盗みをする様にし向けた。盗みが見つかれば罰っせられるが、それは盗みをしたからではなく、盗みが見つかったから罰っせられるのである。教育は子供たちを一纏にして、教育監督官(パイドモス)といわれる役人と、彼の助手により行なわれる。集団教育の他に、ある青年が個人的に特定の少年を教育するとした同性愛的な個人教育もあった。青年になると役人や親族の監視の元、何らかの作業に従事し、謙虚さを身につけるための訓練が義務づけられる。この謙虚さというのは、目上の者に従順であるとした考えで、この点は特に多くの識者の目を引く点らしく、ヘロドトス[2.80.1]、エウリピデス「アンドロマケ」[917]、プラトン「アルキビアデスT」[1.122c]等がこの点を指摘したり称賛したりしている。ここで言う子供とは7才から18/19才で、青年とは18/19才から20才のことの様である(3)
 クセノポンが描くスパルタの教育もプラトンが描く教育と同様に兵士の教育に他ならない。女子の教育についてはクセノポンも「ラケダイモン人の国制」[1]でプラトンと同様に体育を課していたこと述べている。その目的は健康な子供を産むためとある。
 もう一つの管理教育という一面も教育監督官という役人が一括して子供を監督するという点に現われている。

 アリストテレスは「政治学」[1337a]と「ニコマコス倫理学」[1180a]でスパルタが若者の教育に力を入れていた点を指摘している。「ニコマコス倫理学」[1179b-1180a]によると若者は懲罰により節制と我慢強さの教育を施したほうがよく、これが法により実行されているのがスパルタだとある。スパルタの教育に纏わるアリストテレスの断片[Rose,f611.13]によると、子供達は飢えに慣れさせられ、戦時に徹夜で行動できる様にと盗みの訓練を受け、簡潔に話をすることを教わる。「政治学」[1338b]によると体育教育は体育競技用にはできておらず、まるで獣の様だとあり、同[1339a-b]によると音楽教育はない。音楽教育がないという部分がプラトンとは異なるが、他の点に於いてはプラトン、クセノポンの報告と一致している。簡潔にものを言うという点は、クセノポンの「ギリシア史」[1.1.23]のスパルタ人の敗戦報告や、ヘロドトス[3.46]のスパルタ役人の忠告にみられ、トゥキュディデスもスパルタ人のこの話し方に注意していたようである(4)。プラトンは「プロタゴラス」[342]で、スパルタ人が要点を掴んだ短く圧縮された言葉を投げかけられるほどに高度な言論の教育を受けていると述べている。故に、スパルタ人は寡黙であり、この喋り方は教育によるものだとするイメージはかなり広く伝わっていたようである。最終的に、アリストテレスの見るスパルタの教育とは「政治学」[1324b]のスパルタ人の教育は戦争を目的としたものである、と言う記述に示される。もう一つの国家管理の平等な教育体制という点も、「政治学」[1294b]で全ての人が区別なく同じ教育を受けられると述べている点に現われている。アリストテレスのイメージも戦争目的に組織され、全市民に均一に施される管理教育という点では、プラトン、クセノポンの持つイメージと同じである。

 アリストパネスの喜劇や、エウリピデスの悲劇に現われるスパルタ像は、それが作られた時代のスパルタがモデルになっていると考えられ、これらの作品に現われるスパルタ人の姿も同時代のスパルタ人に対するイメージを表すものといえる(5)。アリストパネスの描くスパルタ人像は軍国主義者と言う姿ではない。軍国主義者として描いているのは、「女の平和」[1236-8]で、平和の祭典で軍歌を歌うのがスパルタ人だと描かれている部分だけである(6)。エウリピデスは「アンドロマケ」[724-6]で、スパルタ人が軍事に偏った人々だと非難している(7)。エウリピデスの記述は当時アテナイがスパルタと戦争をしていたという点を考えると単に敵国を非難する目的のくだりかもしれないが、スパルタが軍事中心の国家であるというイメージをアテナイ人が持っていたとも考えられるくだりでもある。
 アリストパネスの「バビロニア人」[fr98]で潰れた耳と言う表現があるが、プラトンの「プロタゴラス」[342.b]や「ゴルギアス」[515.e]にも同様の表現があり、これはスパルタ人の事を表す語らしく、スパルタの体育訓練が過酷であることを示すものと考えられ、アリストパネスもスパルタの体育教育が過酷なものであるとしたイメージを持っていたと考えられる(8)
 スパルタ人の狡猾さがはっきりと、或いは狐などの狡猾さの代名詞となる言葉に託して「女の平和」[1269-70]や、「平和」[622-3,1067]、エウリピデスの「アンドロマケ」[445-53]、「嘆願する女たち」[184]に示されている(9)クセノポン「ラケダイモン人の国制」[2.7]によると スパルタでは少年に盗みをさせることにより兵士としての狡猾さを学ばせるという、これらはこの事に対する当て擦りともとれる。クセノポンも「アナバシス」[4.6.14]で、スパルタの少年に課せられた盗みの訓練のことをスパルタ人指揮官への当て擦りとして持ち出している。
 アリストパネスの描くスパルタ女性像、特に「女の平和」[70-90]のラムピトーの描写を見るに、スパルタ女性が体育を盛んにやっていたとするイメージ、或いは知識をアリストパネスも持っていた事が窺える。エウリピデスも「アンドロマケ」[590-606]を見るに、スパルタ女性について同様の見識を持っていたと考えられる。

 トゥキュディデスは著作に際して国毎に平均的な人間像を作り出し、登場人物とその人間像を比較したり、密着させることで人物を描き、スパルタの人間像は愚鈍で用心深いとしている(10)トゥキュディデス[1.84-85]のアルキダモス王の演説の中に、愚鈍と見えるのは沈着な分別からくるもので 、それを培うのは己れを抑制するよき戦士として、無用な知恵や芸を身につけず自己鍛練にいそしみ、実践の準備を怠らない教育の賜であるとするくだりがある。ここから、トゥキュディデスがイメージするスパルタの教育は、優秀な兵士の教育であったことが窺える。

 まとめると、当時のスパルタの教育に対するイメージは、肉体的な訓練と耐乏生活により優秀な兵士を育てることを目的とし、全ての市民に平等な管理教育が施された、と読み取れる。
 スパルタでは女性が男性のように、或いは男性と共に運動をしていたという点については、かなり一般的なイメージとして定着していた。そうなると、スパルタの少女の教育の一環に体育が入ってと想定されていたのだろう。
 
 スパルタ流の簡潔な話し方は広く知れ渡っており、これが高度な言語教育によるものだと考えられていたようである。プラトンの記述を見るにこの話し方を主要な根拠として一部哲学者の間にはスパルタが高度な哲学教育を実現していたとするイメージが流布していたようである。
 均一な管理教育であり、肉体的に苛酷な軍事教育であるとするイメージは現代のスパルタの教育に対するイメージにも通じる。

bの注

  1. Anton Powell: Plato and Sparta:modes of rule and of non-rational persuasion in the Laws 298頁  
  2. Anton Powell 296頁  
  3. Christopher Tuplina: Xenopon Spartns and the Cyropaedia 153頁
    (年齢は以下に基づいている。Hodkinson: Social order and the conflict of values in Classical Sparta Chiron13 1983 242,245頁、Willets: Ancient Crete:A Social History 1965 113頁)  
  4. トゥーキュディデース著(久保正彰訳)戦史 中巻(岩波書店 1966年)427頁の訳注150,6  
  5. William Poole: Euripides and Sparta 3頁 ,
    David Harver: Lacomica:Aristophanes and the Spartans 35頁  
  6. David Harver 39頁  
  7. William Poole 10頁  
  8. David Harver 37頁  
  9. David Harver 39頁 , Christopher Tuplina 158頁  
  10. Alfred S.Bradfprd: The duplicitious Sparta 69頁  

c.クセノポンからプルタルコスへ

 スパルタの教育を記録した文献として最も重要なのはプルタルコスの「リュクルゴス伝」と、クセノポンの「ラケダイモン人の国制」である。両著者共にスパルタを訪れたことがあり、二人ともその経験を著作に生かしている。両著は年代的に約五百年くらいの隔たりがある。前一世紀頃にスパルタを訪れたキケロ[Flacc.63]によるとスパルタは七百年間国制が変わっていないという。もし、変化していないのなら、両著作の比較は著者の見解の相違に他ならず余り意味がないが、前四世紀から一世紀迄でもスパルタの国制、同時に教育をも変化させる歴史的事件が数多く発生している。スパルタの制度が大きく変更されたと考えられる事件を列挙すると、前三世紀のクレオメネス王の改革、マケドニア王によるスパルタ占領とそれに伴う反動、前二世紀のナビス王の改革、アカイア同盟への編入に伴うリュクルゴス体制の廃止、ローマによる自由都市宣言に伴うリュクルゴス体制の回復と、幾度となくリュクルゴス体制は動揺し、それへの回帰を叫んだ改革が行なわれている(1)
 もし、リュクルゴス体制への回帰が完全であれば、たとえ幾度変わろうとも、改革の度に古典期と同じ体制へ戻っているので、ローマ期と古典期のスパルタの国制に変わりはないことになる。逆に、改革の度に変化を繰り返したとしたら、ローマ期と古典期の教育内容は異なることになる。そこで、比較的内容を追い易いクレオメネスの改革の内容を検証し、改革が新たな変化なのか、古制への回帰なのかを検証する。

 プルタルコスの「クレオメネス伝」[8-11]によると前227年にクレオメネス王はクーデターによりスパルタの実権を握ると、ストア派の哲学者スパイロスの助言の元で、リュクルゴス体制への回帰を謳った改革を実施した(2)。この時、スローガンの一つとして挙げられたのが、スパルタ古来からの教育制度だといわれているアゴゲ[αγωγη]という制度の再建で、その作業がスパイロスにより行なわれた。
 まず問題は当時のスパルタ当局が古典期の教育の内容を知っていたのかどうかだが、ヘレニズム期とローマ期のスパルタで使われた教育の指導書は前四世紀にアリストテレスの弟子のディカイアルコスが書いた「スパルタの国制」で、この書は現在は既に失われているが、啓蒙的色彩が強くスパルタの国制を詳細述べたものではなかったと考えられている(3)。プルタルコスの「アギス伝」[3-4]によると、前三世紀にはリュクルゴス体制は有名無実と化していたようで、おそらく古典期からの教育体制もほぼ消え去り、その名と漠然とした概念だけが残っていたと考えられる。この概念の大半もディカイアルコスの書によるものだったのだろう。そうなると、スパルタ当局、この場合はクレオメネス王が知っていたのは漠然とした概念だけだったと考えられる。
 そうなるとスパイロスは何らかの文献を元にスパルタの教育を再建したものと考えられる。では、スパイロスは何を元に教育を再構築したのだろうか。ディオゲネス・ラエルティオス[7.178]とアテナイオス「食卓の賢人たち」[4.141c]によると スパイロスは、スパルタの国制についての著作を著しているが、この著作は一つの断片を除いて全て失われており、スパイロスの他の著作もほとんど失われている(4)
 ディオゲネス・ラエルティオス[7.37]によるとスパイロスはストア派の創始者たるゼノンの弟子で、その死後はゼノンの弟子のクレアンテスの弟子になっている。そうなると、彼が師匠の影響を深く受けていたであろうことは想像できるが、彼らの著作も失われている。
 プルタルコスの「ラコニアの慣習」[1-14]にはストア派の価値観の影響が色濃く反映している(5)。この著作の元となった作品は前二世紀の中頃に書かれたものという点を考えると(6)、スパイロスやゼノン等のスパルタ国制論がプルタルコスの「ラコニアの慣習」に深く影響を与えた、或は彼らの著作からの引用を含んでいる可能性が考えられる。
 スパイロスがストア派の価値観に基づいて、スパルタ教育を構築したであろう点は疑いなく、それが古典期の教育をそのまま再現していないであろうことも想像に難くない。なぜなら、それは哲学者の理想を再現しようとしたもので、現実の要請により構築された本来の姿を目指したものとは考えられない。故に、スパイロスの改革でスパルタの教育が大きく変化したであろうことは確実だと考えられる。
 スパルタの教育を表す、アゴゲという言葉は古典期の著作には現われてこない。この語が始めて使われたのは前三世紀に入ってからである。恐らく、アギスやクレオメネスの改革時にスパルタの古制への回帰を宣伝した際に、一つの目玉商品としてスパルタの教育が挙げられ、それを表現する宣伝文句として現われてきた言葉だと考えられる(7)
 もう一つこの改革で登場した教育を特徴づける要素がある。クレオメネスの改革目的である。クレオメネスはリュクルゴス体制の回復をスローガンとしていたが、真の狙いは市民軍再興による軍事力強化にあった。彼はスパルタ市民の広い支持を集めていたわけではなく、彼のクーデターは僅かな友人と傭兵により成し遂げられ、クーデター成功後に三千三百から四千三百人の外国人や下層民を市民に編入し、市民数の拡充に努めた。当時のスパルタ市民数が五百人程度と言う点を考えると、伝統を守るという側面より、軍事力強化に主眼が置かれているように見受けられる(8)。故に、教育制度も伝統にとらわれず、より軍事を重視した形に組織した可能性も大きい。この目的意識が古典期からのスパルタの教育のイメージと重なり、結果として極めて軍事色の強い教育が現れたと考えられる。その意味でも、この改革で現れた教育が従来からの教育とは大きく異なる形を持っていたであろう事が想像される。

 クセノポンとプルタルコスの著作内容の違いは時代による違いではなく、両者の執筆姿勢や動機の違いであるとする考えもある(9)。しかし、二人ともスパルタを訪れており、その際の見聞が彼らの著作に影響を与えていないとは考えづらい。例えば、プルタルコスは「リュクルゴス伝」[18]で実際の見聞をスパルタの教育の特性を表す証拠として示しており、プルタルコスにスパルタの制度が古典期から変化したものだとという意識があったとは考えづらい。なぜなら、プルタルコスはスパルタの古制を著述するのに元本として前二世紀のものを使い、著作に自らの体験をも反映させているということは、スパルタの制度は変化しない、変化しても改革により古制への回帰が完全に行なわれてきたとする意識の表われだと考えられる。故に、両著の違いを単に執筆姿勢や動機の違いによるとは考えられない。

 後二世紀のローマ帝政期のスパルタの教育は古典期とは大きく異なり、プルタルコスはローマ期の教育を著述し、クセノポンは古典期の教育を著述したと考えられる。そこで、プルタルコスとクセノポンの描く、スパルタの教育の姿を比較する事で、古典期のスパルタの教育の姿を浮き彫りに出来ると考えられる。

cの注

  1. Nigel.M.Kennell 7から14頁  
  2. Nigel.M.Kennell 12頁  
  3. Nigel.M.Kennell 19頁(スーダ,s.v.のディカイアルコスの記述を根拠としている)  
  4. Nigel.M.Kennell 99頁  
  5. Nigel.M.Kennell 106頁  
  6. Nigel.M.Kennell 102頁(Kennel氏のこの記述は Nachstade/Sieveking/Tichener Plutarchi moralia Vol2 1935 65-167頁、Fuhrmann Plutarque:oeuvres morales 1988 132-133頁、Tigerstedt Legend of Sparta in Classical Antiquity 2 1965-74 232-34頁 を元としている。)  
  7. Nigel.M.Kennell 114頁(Kennel氏のこの記述は Wilamowitz Antigonos von Karystos 1881 301-41頁 を元としている。)  
  8. 古山正人著「アギスとクレオメネスの改革--前三世紀後半のスパルタの諸階層と改革の結果」史学雑誌91編8号(1982年) 10から11頁  
  9. Jean Ducat Perspectives on Spartan education in the classical period 52頁
    Powell AND Hodkinson(eds) SPARTA:New Perspectives Duckworth 1999
     内  

d.プルタルコスとクセノポンの描くスパルタの教育の相違

 プルタルコスの「リュクルゴス伝」、クセノポンの「ラケダイモン人の国制」は両著とも、出生から成人する迄の教育のあらましについて著述しているので、この時間の流れに沿って比較していく。
 「リュクルゴス伝」[16]によると、子供が産まれるとその子を集会場に連れていき、そこで長老達の検査を受けさせる。ここで、不適性とされた子は捨てられてしまう。しかし、クセノポンは子供が産まれた時に行なう検査のことは何も書いていない。「ラケダイモン人の国制」[1]に健康な子供を産むために両親が、特に母親をいかにすべきかの規定が記述されているだけである。捨て子はギリシアでは一般的な習慣であった。故に、捨て子を特殊として記す必要はないとクセノポンは判断したのだろう。しかし、アテナイでは捨て子の決定は父親が行なうが(1)「リュクルゴス伝」[16]によるとスパルタでは長老達が行なう。「ラケダイモン人の国制」[2.1]で、出産について詳細に述べたというクセノポンがこの違いをなぜ見逃したのかが疑問である。

 「リュクルゴス伝」[16]によると子供は7才になると、少年隊に配分されて共同生活に入る。「ラケダイモン人の国制」[2.2]によると少年達は一括して教育監督官の監督下に入るが、必ずしも共同生活をしているとした記述はない。教育監督官がいない場合の代理人の規定や、少年隊毎の指揮者の規定などを見ると、教育監督官も常に子供達を監督しているようではない。更に、「ラケダイモン人の国制」[6.2]の「父親は子供にいかなる恥ずべき指図もしないという信頼が相互にたもたれるようになる」とか、子供が父親に告げ口をしたら等、子供に対する父親の規定を見るに、子供と家の関係は緊密で教育では父親も重要な役割を担っていたように見受けられる。そしてもし、子供が共同生活に入ってたとすると、これは他の国とはかなり異なる規定ということになる。他国では子供に専属の家庭教師を付けるが、スパルタでは子供全体を監督する教育監督官を付けるという全体教育ですら特殊であるとしているのに、それから進んで共同生活となると更に特殊な教育である。この様に奇異な制度をクセノポンが記録に加えなかったとは考えづらい。故に、古典期にはプルタルコスの言うような共同生活があったのか疑問である。

 「リュクルゴス伝」[16-17]や「ラケダイモン人の国制」[2]によると少年達は食事を十分には与えられず常に空腹な状態に置かれ、衣服も一年に一枚しか与えられず、サンダルは与えられずに裸足で生活するように仕向けられた。これは、欠乏した状態に堪える訓練だという。食料を盗むことが奨励されたが、盗みを見付けられると、盗みをしたからではなく、盗みに失敗したことを理由に鞭打ちに処された。これは、兵士としての狡猾さを身につける訓練だという。少年は特定の青年と同性愛的な関係になり青年から教育を受けた。この際、青年は少年を優れたものにするよう努力する限りにおいて、同性愛的関係を結ぶことが出来た。この辺りの少年教育についての記述はクセノポン、プルタルコス、共に一致している。各少年隊の指揮者について、クセノポンは国から指定された青年がつくとしているが、プルタルコスは少年隊の中から選び、更に青年の中からも選んだという。少年隊の指揮をとる青年がいた点では一致しているが、少年隊の中の少年をも指導者とする点が異なる。しかし、少年集団の中に自然発生的に少年の指導者らしき人物が現われるのは、不自然な事ではない。故に、少年隊毎の指揮者についての記述も一致していると考えられる。

 「リュクルゴス伝」[19]によると少年達は要点を押さえた短い話し方を学ぶ。クセノポンはこの教育に触れていないが、古典期にスパルタ流のこの話し方はよく知られていた。例えば、クセノポンだと「ギリシア史」[1.1.23]にはスパルタ艦隊全滅の報せがこの様な短い言い回しで伝えられており、ヘロドトスは[3.46]でスパルタ人が長い言い回しを好まず、短い言い回しを好む点が指摘されているし、トゥキュディデスも知っていたようである(2)アリストテレスの断片[Rose,f611.13]やプラトンの「プロタゴラス」[342]によるとこれは教育の一環として存在していたという。これは逆に広く知られた事実としてクセノポンが記述しなかった可能性がある。故に、プルタルコスがここで言う教育は古典期にも存在したであろうことが推測できる。

 「リュクルゴス伝」[21]によるとスパルタは音楽教育に熱心だった。しかし、クセノポンはこの点について何も述べていない。古典期にスパルタが音楽教育を重視したと記述しているのはプラトンくらいである。アリストテレスは逆に政治学[1339a-b]で、スパルタは音楽教育を行なわないと述べている。しかし、アルクマンやテュルタイオス等のスパルタを代表する詩人の詩が様々な形で伝わっている点や、戦闘時にスパルタ軍がパイアンを歌う点、アリストパネスの描くスパルタ人が、例えば「女の平和」[1295-1532]で歌を歌う点などを考え合わせると、戦場でスパルタ兵は歌を歌ったのだろう、ということは全く音楽教育がなかったわけではないが、クセノポンがそれほど意を払わず、アリストテレスが音楽教育がないという点から考えると、それほど重視していなかったと考えられる。

 「リュクルゴス伝」[14]は少女の体育教育については、多くを語っているが少年についてはそれほど多くは語っていない。クセノポンも少年の体育教育については多くは語っていないが、少年の体育教育は当然のこととして、多くは記述しなかったのだろう。

 「リュクルゴス伝」[18]で成人式の儀式として記録されているアルテミア神殿での鞭打ちの儀式をクセノポンは記録していない。アルテミス神殿での出来事も、「ラケダイモン人の国制」[2.9]では儀式として描かれてはいないし、鞭打ちをする場所としてではなくチーズを盗む場所として描かれているに過ぎない。成人式の鞭打ちの儀式は前一世紀頃のキケロの著作以前には記録がなく(3)、この儀式はヘレニズム期のクレオメネス三世により制定されたようである(4)

 少女の教育については、健康な子供を産む為に体育教育が施された点が両著者により指摘されている。第二章で述べたとおり、スパルタの少女に対する体育教育は古典期から多くの著者により指摘されていることであり、少女への体育教育がギリシアでは特殊なことで、スパルタでは大々的に行なわれていたであろうことがこれらの著作から推測できる。
 少女の教育で「リュクルゴス伝」[14]において指摘されているもう一つの点が裸でいることに慣れさせる為に、祭儀の際に裸で行進し、歌ったり踊ったりしたという点であるが、クセノポンはこの点ついては何も語っていない。私の見た限りでは古典期の他の著作にもこの様な記述は現われてこない。エウリビデス「アンドロマケ」[600]やアリストテレス「政治学」[1269b]、プラトン「法律」[806a-c]のスパルタ女性の評価等に見られるように、スパルタ女性はギリシア世界では放埒であるとして知られていた。もし、古典期にこの様な習慣があったとしたら、スパルタ女性が放埒であるとした証拠として挙げられただろう。この様な点を考えると、プルタルコスのこの記述のようなことが古典期にもスパルタの習慣としてあったのか疑問がある。

 ここまで見てくると、出産時の検査、七才からの共同生活、成人式での鞭打ち、祭儀での裸の行進等、明確に規則化されたような形式張ったものが「リュクルゴス伝」にあって「ラケダイモン人の国制」にないものだといえそうである。唯一の例外が教育監督官(パイドモス)であろう。これは両著に存在している。
 欠乏、盗み、簡潔な言い回し等、実際の教育内容や指針は一致しているが、音楽教育の件だけがクセノポンに記述されておらず、前5世紀の著作の記述も一致を見ない。これら教育内容や方針は元来スパルタ人が持っていた生活慣習としても捉えることが出来る。

 次に、「リュクルゴス伝」[16-17]によるとスパルタの教育には年令に伴う段階が存在しているように見受けられる。まず、出産時に検査を受ける。次に七才の時に共同生活に入る。十二才になると衣服の量が制限され、年上の教育係兼愛人がつく。という具合に年令毎にカリキュラムが変化し、その年令が明確に定められている。
 一方「ラケダイモン人の国制」[2-3]をみると、プルタルコスに見られたような明確な年令分けや、年令によるカリキュラムの変化は見受けられない。強いて年令分けをするとしたら、少年、青年、成年と言うくらいだろうか。「ラケダイモン人の国制」[3]によると青年と少年に対する教育との違いは、青年には暇を与えずに仕事を与え続けたと言う点くらいで、この仕事がどのようなものかは明記されていない。更に、少年と青年を分ける明確な線が存在していないようである。恐らく、この仕事というのも慣習的に目上の者が青年達に課したもので、特に決まりとして存在していなかったのではないかと考えられる

 ここで相違点をまとめと、教育内容はほぼ一致している。しかし、それらをどのように実現していたかが、一致していないように見受けられる。プルタルコスには明確な年令分けとそれに伴う教育カリキュラムの変化や様々な儀式が現れている。一方、クセノポンには明確な年齢分けは見受けられず、教育カリキュラムもプルタルコスほど明確ではなく、儀式も成年に達した者による選抜戦のようなものしか見受けられない。教育に対する国家機関の関わりもプルタルコスでは出産時にレスケーと呼ばれる集会場で長老達が選別を行い、その後の教育は共同生活により教育監督官の全面的な監督下にはいる。しかし、クセノポンでは教育監督官が子供の教育に携わるが、父親の責任が強調されており、プルタルコスほど教育監督官の役割を強調しているようには見受けられない。

 プルタルコスが描いたスパルタの教育は彼が言うように古来よりリュクルゴス体制として受け継がれたものではなく、後の時代になって作り出されたものに見受けられる。クセノポンとの相違はそのような点から現われてきたと考えられる。プルタルコスには見られ、クセノポンには見られないものには、共同生活や成人式での儀式、年令による細かいクラスわけと教育カリキュラムの変化など、いかにも形式的で儀式張ったものが多い。これは前三世紀にクレオメネスの改革によりスパイロスが定式化して、後二世紀のスパルタの観光地化にともない強調されたものと考えられる(5)。しかし、古典期にも少女の体育教育や肉体的な耐久教育、喋り方の教育等、教育の形式よりもより漠然とした慣習に即した教育は行なわれていたと考えられる。

dの注

  1. 村川堅太郎著 古代ギリシア市民−−殺人についての意識をめぐって
    76と77頁

    − 岩波講座 世界歴史第2巻 古代2(岩波書店 1969年) 内  
  2. トゥーキュディデース著(久保正彰訳)戦史 中巻 岩波書店 1966年 427頁の訳注150,6  
  3. マルー著 430頁の原注  
  4. Nigel.M.Kennell 79頁(Kennellの記述は Spawforth: The image of tradition 207頁 Cartlege and Spawforth: Hellenistic and Roman Sparta Routledge 1989 内 を元としている。)  
  5. Spawforth The image of tradition 207から211頁
    Cartlege and Spawforth Hellenistic and Roman Sparta Routledge 1989 内  

e.まとめ

 現在一般的に考えられているスパルタの教育とは、簡単に言うと兵士の育成を目的に、肉体的に苛酷なカリキュラムを課した公共教育である。このイメージはスパルタが最盛期から凋落期に入る前五から四世紀の著作物を概観する限りではギリシア世界でも一般的なイメージであった。しかし、古典期のスパルタの教育が必ずしもこのイメージ通りのものであったかは疑問のあるところである。特に兵士の育成を目的として教育が組まれたという点が疑わしい。むしろ、古来からの慣習が継続的に残ってきただけで明確な目的により組織されたものではないと考えられる(1)。古代の著作はスパルタの教育を兵士の育成を目的とした訓練と解釈する傾向があるが、これはスパルタの教育に対する彼らなりの合理的解釈だと考えられる(2)
 このイメージでしかなかった、スパルタの教育が現実の物として実体を持ったのは前三世紀のクレオメネスの改革でスパイロスの改革案を実施した時点からである(3)。スパイロスも従来からのスパルタの教育のイメージから自由であったとは考えられない。むしろ、このイメージを強調する方向に改革案を作ったであろう。そして、プルタルコスの著作に現われるが、クセノポンの著作に現われてこない鞭打ちの儀式や共同生活、詳細な年令わけによる教育カリキュラムの変化など、形式的な、或は儀式的な内容がこの時に付加されて、クセノポンの時代には漠然としていた教育カリキュラムも明確化され、教育全体の形式が整えられたのだろう。
 故に、古典期のスパルタの教育には、明確な規定は教育監督官位しかなく、後は漠然とした慣習だけが教育方針、或いは子供達の遊びの中に現れていただけなのではないだろうか。

 今後の課題として以下が考えられる。スパイロスはストア派の哲学者なので、当然スパイロスの改革案にはストア派的要素が盛り込まれていただろう。そこで、プルタルコスの描くスパルタの教育からストア派的要素を取り除ければ、より本来的な形のスパルタの教育像が浮かび上がってくるかもしれない。或は、ローマ期のスパルタの教育像でプルタルコスが描ききれなかったであろう部分が浮かび上がってくる可能性がある。
 マルーによると、スパルタではアルカイック期に古代ギリシアでは一般的であった教育が、古典期に入っても変化せずに残っていただけだという(4)。そこで、アルカイック期の古代ギリシアの教育像を調査し、クセノポンやプルタルコスの描く教育像と比較を試みる。イェーガーによるとアルカイック期のスパルタの詩人テュルタイオスの詩はスパルタの教育理念を表しているという(5)。アルカイック期のスパルタの詩人の詩を検証し、アルカイック期のスパルタの教育の再構築を試みる。
 これらを総合すれば、アルカイック期からローマ期迄のスパルタの教育の流れを描きだせるだろう。

eの注

  1. マルー著 25頁、
    高山一十著 ギリシャ社会史研究 未来社 1970年 371から373頁、
    安藤弘著 古代ギリシアの市民戦士 三省堂 1983年 125から126頁、
    Jean Ducat 59頁(ここは Jean Ducat氏の主張ではなく、Jean Ducat氏がまとめたBrelich氏の Paides e Parthenoi,Roma,1969 で行なわれた主張である。)  
  2. Jean Ducat 60頁  
  3. Nigel.M.Kennell 114頁  
  4. マルー著 25頁  
  5. Werner Jueger PAIDEIA1 Gilbert Highet(Trans.) OXFORD 1945 79頁  

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