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軍制の歴史:ミュケーナイの軍制

目次
 a.はじめに
 b.軍事組織
 c.武器
 d.最後に
 e.注釈
 f.参考文献
 g.原典史料

はじめに
 おおよそ紀元前十六から十三世紀のギリシアをミュケーナイ時代という。ミュケーナイ時代の諸王国こそホメロスの描くトロイア戦争に参加した諸王国であるとする説もあるが、現在分かっている限りでは両者の相違点が大き過ぎるように思われる(1)
 現在分かっているミュケーナイ諸王国の姿は、建造物、陶器、壁画等の非文字資料と、ペロポネソス半島のピュロスとクレタのクノッソスから出土した線文字Bの書かれた粘土板の文字資料しかない(2)。その中で、ピュロスの粘土板は大型の物が多く、ある程度の国制の再現が可能である(3)。そこで、ミュケーナイの軍制として、ピュロス王国の軍制を描き出してみる。
 原史料となるピュロスの粘土板の内容は王宮落城の年の行政記録と推測されている(4)。更にはこの時期、外敵の侵入が予想されていたらしく、王国は戦時体制に移行していた(5)。従って、普段のピュロス王国ではなく、大きな危機が差し迫った極めて特殊な状態の国制しか描き出せないようである。しかし、軍制という観点から見ると、その王国の軍事力を調べるのには都合がよいと考えられる。

軍事組織
 ピュロス王国には王を頂点とした中央集権的な軍事組織が存在したらしい(6)。王軍の中核は王の側近集団たる旗本(ヘクェタース)で、彼らは連隊の指揮官として、或いはエリート部隊たる戦車隊の兵士として配置されている(7)。王軍は十一個の連隊と(8)、約二百台の戦車隊(9)、二十隻以上の艦隊を有した(10)
 沿岸地帯は十の軍管区に分けられ、各軍管区に警備部隊が配置され、連隊が割り当てられた(11)。この軍管区分けが危機に対応した臨時処置か、常置だかは分からない。
 各警備部隊は指揮官一人、副官3か4名(第六軍管区だけは7か8名)、兵士30から100名で構成されている(12)。割り当てられた連隊は担当沿岸近隣に配置されたと考えられる。

  

 基本的には武器自弁の徴兵制が引かれていたが(13)、戦車と乗員の装備は国家支給である(14)
 地方は十六の行政区に分かたれ、有力な豪族(テレスタイ)が多数存在していた。豪族の財産は一人につき王の1/3にも達し、地方の代官(コレテール)を頂点にした支配体制もあった(15)。ここから、王の権威に従いながらも地方で威を張る封建領主みたいな存在を想像できる。一つ例を出すと、ウェダネウスと言う豪族は軍艦一隻分の漕ぎ手を有していた(16)。恐らく軍艦も有していたのだろう。
 そうなると、彼らも中世ヨーロッパの領主のように自前の軍隊を持っていたと想像できる。しかし、代官の中には沿岸警備部隊の指揮官や副官を務めている者がいる(17)。故に、地方の軍事力は全て王軍の中に組み込まれている可能性があるが、どちらとも言えない。
 ピュロスの人口は最低5万人で、この数値は納税人口を四倍にして得られた数値なので(18)、兵役可能者は最低一万二五〇〇人。根こそぎ動員など、出来ないだろうから、単純に半分と見て六千二五〇人。連隊数が十一個だから、各連隊は560人くらい。少な目に見て500人程度だろう。警備部隊が30から百人だし、比較対称として問題あるが、後の前五世紀にこの辺りを支配するスパルタの動員兵力も六千人と言う点を考えれば妥当な数値だろう(19)

武器
 歩兵隊の装備は8の字型か長方形の革製の盾と、皮か亜麻布製の鎧、突き槍、剣等で、全て自弁なので装備にはばらつきがある(20)。各連隊の指揮官たる旗本だけは戦車を装備していた(21)

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紀元前十三世紀のピュロス王宮の壁画 ミュケーナイの歩兵

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紀元前十三世紀頃の壺絵 ナウプリオン考古博物館所蔵
ミュケーナイの戦車



紀元前750年のアンフォラの絵 アテナイ考古博物館所蔵
ミュケーナイの流れを汲む戦車と歩兵


 戦車隊の装備は全て国家支給で(22)、戦車は御者と旗本の二人乗り二頭立ての二輪車だった(23)。しかし、平和な期間が長く続いたせいか、大半の戦車は使用不能になっていたようだ(24)。使われた馬は小型馬のポニーで、乗馬して使うにはスタミナも馬力も小さすぎ、二頭立てで小型の戦車を引くのがせいぜいだったようだ(25)
 旗本は青銅製の鎧を身につけ(下の写真)、盾は持たず、突き槍を装備していた(26)。恐らく、旗本は弓も装備しており、戦車は現代の戦車と同様に火力支援と敵陣突破の兵器として使われたのだろう(27)

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紀元前十五世紀頃の鎧
 ナウプリオン考古博物館所蔵

 軍艦は30から52名の漕ぎ手をもつ、一段式のガレー船である(下の写真)(28)


紀元前十六世紀頃のテラ島宮殿の壁画 アテナイ国立考古博物館所蔵
ミュケーナイのガレー船
(全体図)

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上記図の船の拡大図

最後に
 現在出土している線文字Bの書かれた年、ピュロス王国は外敵の侵入を前にした緊張状態にあった。海岸地帯の防備が固められ、城塞の修繕が施され、臨時徴税が行われ、武器の総点検が行われた。
 春の収穫を間近に控えた三月末頃(29)、それは突然やってきた。
 ピュロス王宮には炎上した痕跡がハッキリと残っているが、人骨の類は発見されていない(30)
 恐らく、どこか王宮から離れた地点に敵が上陸し、決戦が行われて敗北し、その知らせを受けて王宮の人々は城に火を放ってどこかへ落ち延びたのだろう。
 同様に、紀元前1200年前後にギリシア各地のミュケーネ諸王国の王宮が炎上している(31)。ミュケーネ諸王国の滅亡原因は定かではないが(32)、ピュロスの線文字B文書を見る限りでは外敵の侵攻を予期していたのではないかと思われて成らない。
 では、どのような敵が襲来したのだろうか。
 下は前千二百年頃の壺絵だが、ミュケーネ歩兵の8の字や長方形の盾ではなく半月型の盾を持ち、半裸で描かれる事が多いミュケーネ兵とは異なり、長袖の上着を着けている。彼らが謎の敵だったのだろう。

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紀元前十三世紀頃の壺絵 アテナイ国立考古博物館所蔵
出陣図クラテル ミュケナイ美術
ピエール・レベック著 田辺希久子訳 ギリシア文明 創元社 1993年 35頁より

 似たような装備の部隊が前5世紀頃に存在している。主にアテナイで使われたエーゲ海北岸トラキア地方出身の傭兵隊ペルタ兵である(33)
 ここから、北部ギリシア辺りに住んでいた人々が攻めてきたのではと想像できる。しかし、考古学的に新たな民族の到来は否定されている(34)。恐らく、到来した敵は民族大移動と呼べるほど大規模なものではなく、数千の兵がピュロス王国主要部を襲撃したという程度のものだったのだろう。
 このようなストーリーを想像できる。
 数年前から毎年、小規模な襲撃部隊が北方から到来していた。彼らは北方から船で現れ、ピュロス王国沿岸部を荒らし回っては引き上げていった。ピュロス王国側はその対策として沿岸部の防備を固め、戦時徴税を行い、城塞を補強し、軍備の点検と整備を進めた。
 滅亡の年、例年より大規模だがピュロス王国軍に比べれば遙かに少数の敵が到来した。しかし、長き平和に慣れたピュロス王国軍は、装備も錬度も劣悪で、更に広範囲に散っていた為に、自軍より少数の敵に敗退を喫した。敗退の報に接した王宮は混乱を極め、王を含めた王宮の人々は内陸の山岳地帯へと落ち延びていった。襲撃者達は王宮や主要都市を掠奪して放火すると、再び北方へ引き上げた。
 かくして、ピュロス王国は滅亡した。と言ったところだろう。

注釈

  1. 「大類伸編 世界の戦史二巻 ダリウスとアレクサンダー大王 人物往来社 1966年」33から47頁は完全にミュケーネ諸王国=ホメロスの諸王国の説の線に乗って記述されている。しかし、「− 岩波講座世界史1 1969年」428頁によると太田氏はミュケーネ社会の高度な官僚制がホメロスには存在せず、土地所有形態が異なる点などから、ミュケーネ諸王国=ホメロスの諸王国と言う説に疑問をていしており、チャドウィック氏は「チャドウィック著 安村典子訳 ミュケーナイ世界 みすず書房 1983年」315頁でホメロスに史実を求めるのは無益であるとハッキリと否定している。
     今回はチャドウィック氏の説に全面的に依拠する。なぜなら、チャドウィック氏は1953年にヴェントリス氏と共に線文字Bの解読に成功したミュケーネ研究の第一人者として知られており、同時に彼は第二次世界大戦時にイギリス海軍将校として軍務に服し軍事にもそれなりの経験を有している。例えば、「チャドウィック著 安村典子訳 ミュケーナイ世界 みすず書房 1983年」294頁でピュロス王国に敵が侵攻するさいのルートを検討した際に実際にイギリス海軍がこの辺りで行った作戦を例に取るなどしている。そこで以後、「チャドウィック著 安村典子訳 ミュケーナイ世界 みすず書房 1983年」を参照した際は書名をと省略して記す。
  2. 1頁。
  3. 39頁。
  4. 56から57頁。
  5. 241頁の臨時税の徴収と思しき話や、292から298頁で解説されている沿岸防備等、非常事態を告げていると解釈できる記録が幾つも見いだせる。
  6. 291と292頁によると六百から七百名の船員の記録がある。これは王宮直属の艦隊要員らしい。293から297頁によると王宮直属の旗本が指揮した十一個の連隊の存在を確認できるようだ。
  7. 125頁
  8. 297頁
  9. 126頁
  10. 292頁
  11. 296と297頁。
  12. 294と296頁と「太田秀道著 ミケーネ社会崩壊気の研究 岩波書店 1968年」167と168頁。但し、兵員数は粘土板の損傷から全員を読みとれるわけではないので、この数値は最低人数である。
  13. 290と291頁。陸軍については王宮に武器庫が無く、目録も出てこないところからの推測で、海軍については「太田秀道著 ミケーネ社会崩壊気の研究  岩波書店 1968年」165頁によると村毎に一定人数を割り当てる形の徴兵が行われていた。
  14. 280から282頁。クノッソス出土の粘土板には戦車の装備目録があり、それによると戦車の大半は使用不能になっていたようだ。ピュロスからも戦車の車輪の目録と思われる粘土板が出土している。
  15. 127から132頁
  16. 125頁
  17. 131と132頁
  18. 117頁
  19. − 古代史講座5 学生社 1961年」209頁。
  20. 270から277頁
  21. 296と297頁
  22. 280と282頁によるとクノッソスから200台に及ぶ戦車隊の装備に関する詳細な目録が出土している。このような徹底した管理が行われていたところからすると、戦車隊の国家管理体制があったと推測できる。しかし、戦車保有者に装備状況を報告させて戦力の把握を図っただけで、実際に装備を調える義務は各戦車隊員にあったかもしれない。
  23. 277頁
  24. 284頁によるとクノッソス出土の戦車目録に掲載されている二四六台の戦車の2/3に装備の欠損が見られる。チャドウイック氏はこの目録を書記が文字の練習のために書いた意味のない目録だという説を支持しているようだが、ここでは戦車目録を実際に戦車の状態を記録した文書として扱う。
  25. 277と278頁
  26. 276頁によると盾を記録した文書は全く発見されておらず、将来も発見される可能性は低いと考えられている。戦車隊の装備を国家支給と考えると盾の記録がないと言うことは戦車隊は盾を装備していなかったと考えられる。「ピーター・コノリー/ユンケル著 福井芳男/木村尚三郎訳 ギリシア軍の歴史 東京書籍 1989年」8頁も旗本は盾を持っていなかったとしている。
  27. Victor.D.Hanson著 The Wars of The Ancient Greeks CASSELL&CO 1999年」31頁。
  28. 291と292頁
  29. 月末頃にピュロスが崩壊したとする説はピュロスの行政文書には収穫についての記録が殆どなく、航海の月と言う記録がある。収穫はだいたい四月頃で、航海の月は三月末頃を指す。そこから、航海の月は巡ってきたが、収穫期は巡ってこなかったと推測でき、ピュロス崩壊は三月末頃と推測されている。323頁より。
  30. 298頁
  31. 316頁
  32. 「周藤芳幸著 ギリシアの考古学 同成社 1997年」175から181頁によると、大規模な民族移動の痕跡は考古学的に認められず、これまで認められてきたドーリア人の大移動によるミュケーネ社会の崩壊という説は退けられるに至っている。他に森林資源の枯渇、環境の激変等の説もあるがどれも決め手に欠けているらしい。
  33. 「ピーター・コノリー/ユンケル著 福井芳男/木村尚三郎訳 ギリシア軍の歴史 東京書籍 1989年」20頁で、この壺絵の兵士の盾が東ヨーロッパ起源のベルテに似ており、長袖の服を着込んでいるのは寒冷地出身者ではないかとの推測が行われている。ここから、更に推測の幅を広げると彼らがギリシア北東部のトラキア出身者ではないかとの推測が成り立つと考える。
  34. 「周藤芳幸著 「ドーリア人の侵入」と考古学 西洋古典学研究45 1997年」16頁

参考文献
チャドウィック著 大城巧訳 線文字Bの解読 みすず書房 1962年 ¥1800
 線文字Bの解読の歴史を物語風に描写している。建築家のアマチュア歴史家のヴェントリスの解読までの軌跡と、線文字Bの簡単な文法の解説を織り交ぜている。解読まで、特に線文字Bがギリシア語とわかるまでが困難な時期だったといえる。一度解法が導き出された後はかなり順調に学会に受け入れられたように見える。但し、そのためにその過程を失敗も含めて学会に報告を続け、多くの研究者の支持を取り付けていたのも容易に学会に受け入れられた要因ではないかと思える。線文字Bの初級文法書としても読める。

チャドウィック著 安村典子訳 ミュケーナイ世界 みすず書房 1983年 ¥3000
 ピュロスとクノッソスから出土した線文字B粘土板を元にミュケーナイ社会を描写している。ミュケーナイの地理から社会構造、国家体制、貿易、軍事に至る社会全般が言語学的、地理学的、考古学的資料を基に推測がなされている。多くの研究者と違い、ホメロスを史料として扱うことを否定している。線文字B文書の多くがピュロスから出土していることもあり、記述の大半はピュロス社会に費やされ、史料が余りに少ない為にか、大胆な推測で構成されている。図や地図も多く大変読みやすい。

チャドウィック著 細井敦子訳 線文字B 学芸書林 1996年 ¥1600
 線文字B文書の最初の発掘から解読に至る研究史や、文書の発音、代表的な特徴やギリシア語との類似について簡単に解説している。線文字Bだけでなく、線文字Aや線文字と類似していると言われるキュプロス文字の解説もある。線文字Bの原文の写真とトレースが見所である。極めて要領よく簡易に文が構成されており、非常に読み易い。

モーリス・ポープ著 唐須教光訳 古代文字解読の物語 新潮社 1982年 ¥1900
 線文字Bの解読の経緯がまとめられている。「チャドウィック著 大城巧訳 線文字Bの解読 みすず書房 1962年」と違い、解読に至る紆余曲折は省かれ、大凡正しい道のりのみが紹介されている。流れとしては線文字Bの最初の発見者たるエヴァンス、解読の方針を導いたコーパー、解読に成功したヴェントリスに連なる研究史が見て取れる。

大類伸編 世界の戦史二巻 ダリウスとアレクサンダー大王 人物往来社 1966年 ¥490
 15から71頁にトロイア戦争をミュケーナイ諸王国が行った遠征と位置付け、ホメロスを第一の史料とし主に軍事について解説している。ミュケーナイの滅亡はドーリア人の南下とする古典的な説に従っている。日本の古典学で主流を占めている説で手堅く解説している感じである。

− 岩波講座世界史1 岩波書店 1969年 ¥1000
 409から432頁にミュケーナイ文明の概説がある。考古学史、ミュケナイ社会の概説があり、ミュケーナイと小アジア、エジプトを含む世界を東地中海世界として位置づける考えが示され、最後にホメロス世界とミュケーナイ世界の違いが概説される。ミュケーナイ世界概型の解説と言った感じである。

太田秀道著 ミケーネ社会崩壊期の研究 岩波書店 1968年 ¥1700
 線文字B文書から明らかになったミューケナイ社会を土地所有や奴隷制などの経済的側面を中心に分析している。どちらかと言えば、推測を控えて文書から読みとれる範囲で分析が行われている。原文やそこから読みとれる数値などの表も豊富にある。ホメロス社会をミュケーネ滅亡後の社会として位置づけ、ホメロスも史料としてある程度使われている。原文からの細かい分析が多いので、少々分かりづらい。

ピーター・コノリー/ユンケル著 福井芳男/木村尚三郎訳 ギリシア軍の歴史 東京書籍 1989年 ¥1800
 俗に言えば、子供向けの歴史絵本である。ミュケーナイについても、6から21頁で紹介されている。ミュケーナイ軍の想像図と遺物等の絵が豊富にあり、非常に分かり易く、想像図もおおよそ納得できる形になっている。解説も親切で意外な発見も多い。

周藤芳幸著 ギリシア暗黒時代の考古学 歴史評論543 1995年
近年、紀元前1200年頃から400年続いたと言われている暗黒時代は存在していないとする説が現れてきている。年表を400年繰り上げると言うことだ。これはその説を支持する論文のようだ。暗黒時代を挟んで文化的断絶があると従来言われてきたが、聖域は暗黒時代の前後でも連続して利用された形跡がある。紀元前1200年頃にはフェニキア人が東地中海各地に植民地を作り、活発にギリシアと交易をしていたようだ。従来の編年がエジプトの編年に依拠していたために暗黒時代を設定する必要があったが、考古学的立場からいえば暗黒時代を設定する方に無理があるようだ。

周藤芳幸著 ギリシアの考古学 同成社 1997年 ¥2500
 132から172頁にミュケーナイの考古学についての解説がある。シュリーマンの業績と合わせる形で年代毎にミュケーナイの遺物の解説が行われている。ミュケーナイ社会についての解説もあるが、線文字B文書に全面的に依拠して導かれたミュケーナイ社会像に批判的で、ホメロスをミュケーナイ研究に使うことに肯定的な感じである。

周藤芳幸著 「ドーリア人の侵入」と考古学 西洋古典学研究45 1997年
 ミュケーナイの滅亡をドーリア人の侵入とした説に対して考古学の立場から批判した論文で、ミュケーナイ諸王国の人口は王宮落城後も増加している点や遺物の特徴の連続性等からミュケーナイ諸王国滅亡後も同じ文化を担う人々が同地に居住していたと指摘している。

周藤芳幸著 ミケーネ社会の経済構造−−宮殿の内と外 東北大学西洋史研究31 2002年
 ミュケーナイ王国を従来考えられてきた王を頂点としたオリエント諸王国のような王国として考えるのではなく、ホメロスなどが描く王を中心とした戦士共同体のような社会だったことを主張している。これは古典期のポリスの原型というような社会で、従来説ではミュケーナイと後のポリス社会との関連は断絶していると考えられていたが、これを連続していると捉え直すことをもあわせて主張している。ミュケーナイ社会像の再考を求める報告で、これを受け入れるとチャドウックや太田氏の考えを受け入れて書かれているこの私の文章も大きな修正を余儀なくされてしまうなかなか厳しい報告書である。

周藤芳幸著 ワイン色の海を越えて−−紀元二千年紀の東地中海と東西文化交流への一考察−− 西アジア考古学3 2002年
 トルコ西南岸の海底で発見されたミュケーナイ時代の二隻の沈没船を元に東地中海で貿易を主導したのはシリアやパレスティナであり、従来言われていたようなミュケーナイの主導ではなかったことが主張されている。そして、従来上層の人々だけが貿易に関わっていたとされていたが、そうではなくより広い範囲の人々が貿易に関わっていたことが解かれている。東地中海の貿易について新説を土台に解説した論文である。

新村祐一郎著 ミュケナイ文明の崩壊−−その破壊者と時期についての一試論−− 大手前女子大学論集10 1976年
ミュケーナイの滅亡はアドリア海沿岸のイリュリアからの異民族の襲来とし、到来は数度に分けて行われたとしている。ヘラクレイダイの帰還と呼ばれるドーリア人の南下はイリュリアの後に行われ、彼らの到来で滅亡したミュケーナイ諸王国の後地にドーリア系諸ポリスが作られ、イリュリアからの侵入者はギリシアを抜けてアナトリア、エジプト方面へ移動した。いわゆる「海の民」となった。ミュケーナイやヒッタイトの滅亡が海の民によるものだとする説が後退している今になっては単に古典学説の一つというのに過ぎない論文である。

中井義明著 ミケーネ文明の滅亡に関する気候変動論について 立命館文学534 1994年
気候変動によりミュケーナイ文明が滅んだとする説のまとめとその有効性を論じているが、気候変動説は全般的に論証が不十分であり、ミュケーナイ文明が滅ぶ原因になったのかどうかはおろか、気候の状態がどうであったかすら十分に解明できていないということのようだ。この論文で紹介された気候説は資料収集の範囲が狭い割にはその資料からあまりに広範囲に渡る地域の気候を推測する傾向があるようだ。

山川廣司著 ピュロス文書にみえる青銅の貢納と配給 明治大学大学院紀要12−4 1974年
ピュロスの青銅関連文書によるとピュロスの青銅は王宮管理で職人へ王宮から支給されていたようだ。ただしこれは戦時の臨時的措置であった。青銅の収集はko-re-teやpo-ro-ko-re-teとよばれた王の役人が行い、職人への供給はbasileusが行っていた。このbasileusは王の役人などではなく、地方領主のような存在だったようだ。basileusがko-re-teを兼任している場合もある。青銅文書に現れる青銅の収集再分配の流れから地方役人や、地方の有力者との関係を見いだそうとした論文のようだ。

山川廣司著 ピュロス王国の軍制について 明治大学大学院紀要13−4 1975年
ピュロス王国の軍に関わる人々の社会的な地位や身分、職業人数などを線文字Bをもとに分析している。軍には鍛冶屋や武具造りなどの職人も配属され、彼らが指揮官である場合もある。私が旗本と訳したe-qe-teを戦車を与えられた王の役人と解釈している。徴集兵は王の下にありながら自立した各地の村落共同体の軍と見ている。ピュロス王国軍とは王の軍と村落共同体の連合軍である。給与代わりに亜麻が支給されたようだ。

L.R.Palmer著 The Interpretation of Mycenaean Greek Texts OXFORD 1963
 前半では線文字Bの発音から文法や文書分類法などが表を使って解説され、続いて文書から読みとれる地名や個人名、社会、経済、宗教、滅亡の状態などが解説されている。後半は各文書の原文の発音記号表記と英訳、解説等があり、文書は分類法に基づいて章分けされている。この本の記述についてチャドイック氏が「チャドウィック著 安村典子訳 ミュケーナイ世界 みすず書房 1983年」で幾度となく批評している。各文書を子細に調べるのに使える。

− A Guide to the Palace of Nestor: Mycenaean Sites in Its Environs and the Chora Museum AMERICAN SCHOOL OF CLASSICAL STUDIES AT ATHENS 1987
 ネストール宮殿の遺跡と出土物の解説本である。中心は遺跡の状態の解説である。最期の方に遺跡をセクション分けしてナンバリングした図がある。解説ではこのナンバーを指定しながら各部屋の状態やそこから出土したものを解説し、必要ならカラー写真を掲載している。宮殿内だけでなく近くの墓や当時の人々の生活の解説などもある。

原典史料

  1. 沿岸防備に関する文書
  2. 戦車
  3. 刀剣
  4. 海軍

1.沿岸防備に関する文書
 ピュロスで出土した沿岸防御を記した文書。全文あり。順番はチャドウィックの軍管区の解釈に従う。

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線文字B文書 沿岸防備を記したAn657文書の写真
アテナイ国立考古博物館所蔵
チャドウィック著 細井敦子訳 線文字B 學藝書林 1996年 68頁より

第1と第2軍管区(An657)
監視部隊は沿岸を警備する:
O-wi-to-noに指揮官 Ma-re-u:
A-pe-ri-ta-wo, O-re-ta, E-te-wa, Ko-ki-jo(この四名は副官):
Su-we-ro-wi-joにO-wi-to-noとO-ka-ra3の男達50人
(空白行)
指揮官 Ne-da-wa-ta:
E-ke-me-de, A-pi-je-ta, Ma-ra-te-u, Ta-ni-ko(この四名は副官):
A2-ru-wo-teにKu-pa-ri-soの召集兵(ke-ki-de) 20人
(空白行)
Su-we-ro-wi-joにKu-pa-ri-soの召集兵(ke-ki-de) 10人
そして彼らと共に旗本ケキオあり。
指揮官 A-e-ri-qo-ta, E-ra-po, Ri-me-ne:
O-wi-to-noにO-ka-raの男達 30人とA-pu2-kaの召集兵(ke-ki-de) 20人
そして彼らと共に旗本アコタあり。

第3軍管区(An654)
指揮官Ku-ru-me-no-jo:
Pe-ri-te-u, Wo-ne-wa, A-ti-ja-wa, E-ru-ta-ra(この四名は副官):
O-?-taにMe-ta-paの召集兵(ke-ki-de) 50人
(空白行)
U-pi-ja-ki-ri-joにKu-re-waの男達60人
彼らと共にE-te-wo-ke-re-weの息子、旗本アレノツルあり。
(空白行)
To-waに指揮官Ta-ti-qo-we-u:
Po-ki-ro-qo, Pe-ri-no, De-u-ka-ri-jo, Ra-pe-do, Do-qo-ro, Pe-ri-ra-wo(この六名は副官):
E-no-wa-roにWa-wo-u-deの召集兵(ke-ki-de) 10人, U-ru-pi-ja-joの男達10人, Ku-re-weの男達20人, I-wa-soの男達10人, O-ka-ra3の男達10人

第4から6軍管区(An519)
Ro-o-waに指揮官To-ro:
mo-ro-pa2のKa-da-si-jo, Zo-wo, Ki-ri-ja-i-jo, Wa-tu-wa-o-ko, Mu-to-na(この五名は副官):
A2-ra-tu-waにO-ka-ra3の 110人
(空白行)
指揮官Ke-wo-no:
Ka-ke-?, Tu-si-je-u, Po-te-u, ?-wo-ne?(この四名は副官):
A-pi-te-waにI-wa-soの?名
(空白行)
A2-te-po,De-wi-jo,Ko-ma-we:(何を表すか不明)
O-?-taにU-ru-pi-ja-joとO-ru-ma-si-ja-joの30名
(空白行)
Pi-ru-tにKu-re-weの50名
そして彼らと共に旗本Ku-sa-me-ni-joのロウコあり。

第7と8軍管区(An656)
Ne-wo-ki-toに指揮官Wa-pa-ro:
E-ri-ko-wo, A2-di-je-u, A-ki-wo-ni-jo, ?(この三名は副官。もう一名いるようだが、名前の判読ができないようだ):
Sa-pi-daにWa-ka-ti-jaの召集兵(ke-ki-de) ?人
そして彼らと共にアレースの息子、旗本テレコニオあり。
Ne-wo-ki-toにWo-wi-jaとKo-ro-ku-ra-i-joの男達20人。
そして彼らと共に旗本ディウィエウあり。
(空白行)
A-ke-re-waに指揮官Du-wo-jo-jo:
A2-ku-ni-jo, Pe-ri-me-de, ?, Pu2-ti-ja(この三名は副官。もう一名いるようだが、名前の判読ができないようだ):
Po-raにA-pu2-kaの召集兵(ke-ki-de) 20人
そして彼らと共にアドラストスの息子、旗本ディコナロあり。
U-wa-teにNe-wo-ki-toの召集兵(ke-ki-de) 10人
そして彼らと共に旗本ペルウロニオあり。
(空白行)
A-ke-re-waにKo-ro-ku-ra-i-joの男達50人。
そして彼らと共に旗本A-pu2-kaのカエサメノあり。

第9と10軍管区(An661)
指揮官E-ki-no:
E-o-te-u, A-ti-ro-?, I-da-i-jo, E-se-re-a2(この四名は副官):
E-na-po-roにI-wa-soの男達70人。
Ti-o-ri-joにKo-ro-ku-ra-i-joの男達20人。
Ka-ra-do-roにKo-ro-ku-ra-i-joの男達?人。
Za-e-to-roにKo-ro-ku-ra-i-joの男達20人。
そして彼らと共に旗本オロツミニオツあり。
Ti-mi-toに指揮官E-ko-me-na-ta-o:
Ma-re-u, Ro-qo-ta, A-ke-?-u, A-ke-wa-to(この四名は副官):
A2-ka-a2-ki-ri-joとU-ru-pi-ja-joはNe-do-woへ男達30人。
そして彼らと共に旗本?

注:ke-ki-deは地方の召集兵を示すらしい(L.R.Palmer 153頁)。?は判読不明。
「L.R.Palmer著 The Interpretation of Mycenaean Greek Texts OXFORD 1963」147から151頁と「太田秀道著 ミケーネ社会崩壊気の研究 岩波書店 1968年」166と167頁と、「チャドウィック著 安村典子訳 ミュケーナイ世界 みすず書房 1983年」294頁参照


2.戦車
 ピュロスで出土した車輪に関する文書の一部。分類番号順に列挙。

(Sa287):銀で縁取りされた車輪一対。
(Sa488):糸杉製の縁付き車輪一対ならびに片側一個。
(Sa682):頑丈な作りの車輪六対、使用不可。
(Sa751):ザキュントス型の縁付き車輪三二対、使用不可。
(Sa753):戦車御者の車両、旗本用車輪二対、使用可。
(Sa769):E-te-wa-jo-joの車両用、縁付き車輪二対、使用可。
(Sa774):Mo-qo-so-joの車両用、縁付き車輪一対、使用可。
(Sa787):古い、使用可能なものの数、車輪三一対ならびに片側一個。古い、従者型の車輪一二対。ザギュントス型の車輪三二対。
(Sa790):従者型の縁付き車輪六対、使用不可。
(Sa791):縁あり、縁付き車輪二対、使用可。
(Sa793):象牙の縁付き車輪三二対、使用不可。
(Sa794):青銅で縁取りされた車輪一対、使用不可。
(Sa843):使用可能なものの数、新品、縁付き車輪二〇対。

「L.R.Palmer著 The Interpretation of Mycenaean Greek Texts OXFORD 1963」325から329頁と「チャドウィック著 安村典子訳 ミュケーナイ世界 みすず書房 1983年」287頁。we-je-ke-a2(e)をパルマーは「装着済み」、チャドウィックは「使用可」と解釈しており、若干の相違がある。ここではチャッドウィックの「使用可」と言う解釈を採用した。


3.鎧
 ピュロスで出土した鎧に関する文書の一部。分類番号順に列挙。

(Sh736):Me-za-naにあるA-me-ja-to工房の新しい鎧五組。
(Sh737):鎧一組、青銅板、大きいもの二〇枚、小さいもの一〇枚、兜用四枚、頬板用二枚。
(Sh740):古い鎧五組、Wi-so-wo-pa-na用の青銅板、大きいもの二〇枚、小さいもの一〇枚。

「L.R.Palmer著 The Interpretation of Mycenaean Greek Texts OXFORD 1963」330から331頁


4.刀剣
 ピュロスで出土した文で、刀剣類が記録された文書の一部。

(Ta716):金の鎖二本、二重のロープ二本、双斧二本、剣二本。

青銅徴収命令(Jn829)

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線文字B文書 青銅徴収命令を記したJn829文書の写真
アテナイ国立考古博物館所蔵
チャドウィック著 細井敦子訳 線文字B 學藝書林 1996年 58頁より

コレテール(地方長官)、デュマル(コレテールの別称)、プロコレテール(地方長官補佐)、女祭司、無花果監督官、耕作監督官は槍と投げ槍の穂先ために神殿の青銅を捧げよ。
Pi-?地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
Me-ta-pa地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
Pe-to-no地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
Pa-ki-ja-pi地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
A-pu2-we地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
A-ke-re-wa地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
?-ro-u-so地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
Ka-ra-do-ro地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
Ri-jo地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
Ti-mi-to-a-ke-e地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
Ra-wa-ra-ta2地方 コレテールは青銅3.6kg、プロコレテールは青銅720g
?-sa-ma-ra地方 コレテールは青銅3.6kg、プロコレテールは青銅720g
A-si-ja-ti-ja地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
E-ra-te-re-wa-pi地方 コレテールは青銅2kg、プロコレテールは青銅720g
Za-ma-e-wi-ja地方 コレテールは青銅3.6kg、プロコレテールは青銅720g
E-re-i地方 コレテールは青銅3.6kg、プロコレテールは青銅720g

「L.R.Palmer著 The Interpretation of Mycenaean Greek Texts OXFORD 1963」11から16と、281から283頁と「チャドウィック著 安村典子訳 ミュケーナイ世界 みすず書房 1983年」127から128と、179から184と、215と、241頁。


5.海軍
漕ぎ手リスト(An610)
? ?-ne 漕ぎ手(e-re-ta)
? ?-e 漕ぎ手(Ki-ti-ta) 男達46名
? ?-ta 男達19名
? 漕ぎ手(Ki-ti-ta) 男達36名
漕ぎ手(me-ta-ki-ti-ta)
E-wi-ri-po 男達9名  Po-si-ke-te-re ?
A-ke-re-wa 男達25名  Wo-qe-we ?
Ri-jo 男達24名  Wi-nu-ri-jo ?
Te-ta-ra-ne 男達31名  漕ぎ手(me-ta-ki-ti-ta) ?
A-po-ne-we 男達37名  漕ぎ手(me-ta-ki-ti-ta) ?
Ma-ra-ne-nu-we 男達40名  Po-ti-ja-ke-e 男達6名
Za-ku-si-jo 男達8名  Za-e-to-ro 男達3名
Da-mi-ni-jo 男達40名  E-ke-ra2-wo-no 男達40名
We-da-ne-wo 男達20名  Ko-ni-jo 120  漕ぎ手(me-ta-ki-ti-ta) 男達26名
職人(po-ku-ta) 男達10名  We-re-ka-ra te-pa2-ta-qe 男達20名

「L.R.Palmer著 The Interpretation of Mycenaean Greek Texts OXFORD 1963」130頁

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