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軍制の歴史:ヒッタイトの軍制

目次
 a.はじめに
 b.軍事組織
 c.武器
 d.最後に
 e.注釈
 f.参考文献

はじめに
 ヒッタイトとはアナトリア半島、現在のトルコ東部にあった国である。紀元前15から13世紀の間、西はアナトリア半島のエーゲ海岸から、東はティグリス・ユーフラテス河、北は黒海岸、南はシリア全域に至る地域を勢力下に収めた古代帝国の一つである。ヒッタイトについての学問が始まったのは1905年のボアズキョイの発掘からで、この発掘でここにヒッタイトの首都ハットゥシャシュがあると解り、本格化したのは1916年にハットゥシュシュで出土した楔形文字が解読されてからのことである。ヒッタイト研究はまだ90年足らずしか経っていない若い学問である故に、概説書の類も少なく、好き勝手なことを書くには都合の良い対象である。というのは冗談だが、かねがね鉄器を操り、芸術に乏しく、強大な軍事国家であったという話を耳にしたことがあり、それほどの国ならさぞかし面白い法を施行していたのだろうと思っていた。そこでまず、敵国民に対する集団処刑システムたる軍制からあたってみることとした。軍に関する史料にはカデッシュの戦い関連のものが圧倒的に多いので、ここで取り上げた軍制は紀元前13世紀頃のものと見て良いだろう。しかし、中には時代のポイントを定めずに様々な時代の史料をごちゃ混ぜにしている書籍も多いので必ずしもカデッシュの戦い辺りの軍制とは言い切れないところだ。



前14世紀頃のヒッタイトの属国

軍事組織
 ヒッタイト軍は大まかに分けて王直属の常備軍、有事の際に徴集される徴集軍、属国から集める同盟軍の三種がある。その他に軍役と引き替えに土地を与えられた自由人も徴集兵と常備軍との中間層と言った感じで少数おり、補助部隊として傭兵部隊も使われている。たいていの戦いは王直属の常備軍と戦場の近くにいる同盟軍だけで行い、戦線が広い場合やエジプトのような大国と戦う場合に徴集兵が徴集された。恐らく大まかに分けて、常備軍のみ、常備軍と軍役兵、常備軍と軍役兵と徴集兵の全て、と言う具合に三段階の動員体制があったのだろう(1)。常備軍の兵力は解らないが、大規模な戦役で徴集軍を動員した時の兵力はヒッタイト本国だけで1万名くらいになり、恐らく最大規模の兵員が動員されたと思われるカデッシュの戦いでは同盟国なども含めて全体で四万七千五百名の兵員が動員されている(2)
 軍の最高司令官は王である。次の独立して軍を運営するクラス、軍司令官クラスはたいてい王族の者で皇太子やカルケミッシュ王の様な王族に連なる属国の王、王の親族が勤めることが多い護衛隊長やワイン長官などだが、なかには地方守備を任せられた王族以外の者が軍を指揮することもあるようだ(3)。次のクラスが元来は宮廷の召使いなどをしていたと思われる官位の集団で王族以外の有力者や高級士官で構成された旅団長クラスと言った感じだろう。旅団長クラスの下で千名規模の部隊を指揮する大隊長クラスは右翼戦車隊長、左翼戦車隊長、右翼歩兵隊長、左翼歩兵隊長、右翼羊使い隊長、左翼羊使い隊長等と呼ばれた者達である。次のクラスが百人程度の部隊を率いる中隊長クラス、その下は20から30人程度を指揮する小隊長クラス、最も下は十人程度を指揮する分隊長クラスだった(4)。階級分けが明確で、上から下へ向かって命令が伝達されるシステムになっている。
 この軍組織のどこに位置するかは解らないが、監視塔の支配者と呼ばれる役人達がいる。彼らは担当地域の国境要塞網の整備や国境警備を統括している。他にも公共建設の指揮や税の徴収など軍事関係以外の仕事もしており、地方の代官と言った感じの役職だったようだ。彼らの部下たる国境警備隊員の多くは地元の農民である。国境警備隊員達は午前に要塞勤務をこなし、敵が来襲していなければ午後に本業の農業をこなしていた(5)
 編成がこれだけ明確に作られている原因は、というよりこれだけしっかりしたシステムがあるから可能なのかはわからないが、ヒッタイト軍は奇襲攻撃を試みる傾向が強い。カデッシュの戦いもその典型例といえる。この戦いでは偽情報でエジプト軍を待ち伏せ点へ誘い込み、エジプト軍の戦闘隊形が整う前に側面へ奇襲攻撃を行っている。他にも前14世紀にはトットハリア王が夜陰に紛れてアルザワ主力軍を包囲して撃破し(6)、シュッピルリウマ王は最初にシリア方面に陽動攻撃をかけてミタンニ軍をミタンニ東部のシリア方面に誘き寄せたところでミタンニ北部からミタンニ本国を急襲して首都を占領した後、そこから転じてシリア方面に進んでミタンニ主力軍を背後から撃破するとした戦略的な奇襲を成功させ、ムルシリ二世もカスカ族討伐戦で攻勢方向を幾度となく変更して敵を惑わせ、敵を有利な地点へ誘い出したところで奇襲攻撃を行い、勝利をものにしている(7)。これら組織的な奇襲攻撃を成功させる秘訣は王の能力もさることながら、王の命令を確実に実行できる様に整備された軍事組織にもあるのだろう。
 兵科としては戦車と、歩兵、騎兵、海軍、補給隊、工兵隊等がある。戦車は最上位のエリート部隊であり、全軍の数パーセントを占めるに過ぎないが(8)、カデッシュの戦いでは戦闘に参加したのは戦車だけで、歩兵は後方基地の警備など脇役に徹している。これを根拠に戦車をヒッタイトの主力兵科だとする説もある(9)。歩兵は人数から言えば主力部隊だと言える。歩兵の中核は常備軍の中枢たる王の護衛隊で、平和な時は首都の常設駐屯所に駐屯し、警察活動や建設計画等に携わっていたようだ。常備軍歩兵、軍の仕事を毎日こなしてはいるが本業との兼任なので常備軍の内に入らないかもしれないが、他に国境警備隊がいる。国境警備隊は常時国境要塞に駐留或いは国境のパトロールに従事していた(10)。騎兵隊は戦闘部隊としてではなく、偵察や連絡に使われただけのようだ(11)。海軍は同盟軍に依存し、自らのものは持っていなかった(12)。補給部隊は軍と共に行動し、ロバや牛に牽かせた4輪の荷馬車を多数要し、ある程度の食料や武器などの物資を備蓄していたようだ(13)。戦車も戦場に着くまでは荷馬車に積まれて輸送されたようだ(14)。工兵隊は主に要塞建設などに使われたが、ヒッタイト軍の使う破城槌や攻城塔を作り、或いは管理し、壁に届かせる坂の建設、トンネル工事などにも従事したであろう事が想像できる(15)。攻城にはたいてい数ヶ月を要したが、ミタンニの最後の拠点カルケミッシュ市の様な大都市でも数日で陥落することがまれにあったようだ(16)


ヒッタイトの軍事組織

武器
 ヒッタイトというと軍事力の重要な要素は鉄製の武器にあったとする話を聞いたりするが、当時の鉄は金よりも高価な貴金属で、武器としてではなく装飾品の材料として使われている。ヒッタイトの武器も周辺国と同様に青銅製だった(17)
 次にヒッタイトの主力武器として知られているのが、三人乗り2輪戦車である。前14世紀のムワタリ二世の時世には二人乗りであったが、前13世紀のカデッシュの戦いの時には三人乗りに変えられている。三人乗り戦車の一人は運転手で、一人は盾を持って防御を担当し、一人は弓か槍を持ち攻撃を担当した。カデッシュの戦いでは二人乗りのエジプト軍の戦車を圧倒するのに三人乗り戦車は有効に機能したようだ(18)。しかし、平野の多いシリアと異なりアナトリア半島の山がちな地形では戦車が有効の機能せず、戦車は王族や高級士官の移動道具としてだけ使われていたようだ(19)

カルケミッシュの浮き彫り
初期の二人乗り戦車
ラメセウスの浮き彫り
後期の三人乗り戦車
ヒッタイトの戦車

 歩兵の装備は地域によりまちまちで、シリアなどの平野の多い地域では長い槍を装備した部隊が多く、アナトリア方面の部隊は短い突剣か短剣を使っていたようだ。他に補助兵器として斧が使われ、飛び道具として弓が使われていた。歩兵の防具の基本はヘルメットで、一部は盾を持ち、革製の鎧を身につけていた(20)

カルケミッシュの浮き彫り
シリア方面の歩兵
ハットゥシャの浮き彫り
アナトリア方面の歩兵
J.G.Macqueen The Hittites THAMES&HUDSON 1957 62番図版より
ヒッタイトの歩兵

最後に
 ヒッタイト軍は軍組織のヒエラルキーの整序、常備軍の設置と、動員システムの整備、地域に合わせた部隊装備、欺瞞を生かした合理的な戦術等々、実に良く整備された軍事システムを持っているように見える。この軍事システムこそヒッタイトが前14から13世紀にかけてアナトリア全体からシリア、メソポタミアに至る地域を支配下に収めるに至る主要な力だったのだろう。そして、ヒッタイトにはもう一つの強力な力の源があった。鉄である。鉄は金の五倍、銀の四十倍もの価値があった。この鉄こそがヒッタイトの軍事力を生み出した経済的源泉だったのだろう(21)。他に当時主流であった青銅器についてもヒッタイトはその材料の一つたる銅の豊富な産地であった。青銅を造るためのもう一つの材料、錫は乏しかったが、錫は他のオリエント諸国に邪魔されずに交易が可能なダニューブ河流域の錫が利用できた。そのおかげで青銅も豊富に所有することが可能となり、鉄と青銅という二つの経済的武器により他のオリエント諸国に対して有利な位置を占めることができたのだろう(22)
 しかし、強力な軍事力と経済力を持ってしても滅亡から免れることはできなかった。絶頂期に入った前13世紀に突然滅亡し、歴史の表舞台から完全に消え去り、再びその名が日の目を見るまでに三千年以上の時が流れ去っていた。

注釈

  1. Jack.M.Sasson編 Civilizations of the Ancient Near East CHARLES SCRIBNER'S SONS 1995 内 Richard.H.Beal Hittite Military Organization 547頁と、Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 111頁と、J.G.Macqueen The Hittites THAMES&HUDSON 1957 97頁
  2. Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 101から102頁。
  3. Richard.H.Beal Hittite Military Organization 546頁と、Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 110頁。「前14世紀のヒッタイトの拡張戦争」 や Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 110頁を見るに、前十四世紀には西部国境守備軍をキスナピリス将軍やハンナッティ将軍など王族以外と思われる者に任せてい。
  4. Richard.H.Beal Hittite Military Organization 546から547頁と、J.G.Macqueen The Hittites THAMES&HUDSON 1957 97頁。
  5. Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 16頁
  6. デッシュの戦いは 「エジプト・ヒッタイト戦争」、トットハリア王の戦いは Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998 135頁
  7. .0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952 90頁。
  8. Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 111頁
  9. 0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952 87から90頁
  10. Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 111頁と、J.G.Macqueen The Hittites THAMES&HUDSON 1957 96頁
  11. Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 111頁
  12. Richard.H.Beal Hittite Military Organization 549から550頁
  13. J.G.Macqueen The Hittites THAMES&HUDSON 1957 97頁、0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952 88頁
  14. Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 113頁
  15. 兵隊の存在は 0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952 88頁が指摘している。実際の利用についての記述が見えないが、Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 115から116頁、Richard.H.Beal Hittite Military Organization 551から552頁の攻城の記述は工兵隊の存在を前提にしているように見受けられる。
  16. Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002 116頁
  17. Richard.H.Beal Hittite Military Organization 548頁
  18. Richard.H.Beal Hittite Military Organization 548頁と、0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952 87頁、J.G.Macqueen The Hittites THAMES&HUDSON 1957 97から99頁
  19. J.G.Macqueen The Hittites THAMES&HUDSON 1957 99頁。しかし、0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952 90頁によるとアナトリアにおいてもヒッタイトの主力は戦車であり、ヒッタイトの基本戦術は敵を戦車が利用し易い平地へ誘き寄せることにあったとしている。
  20. J.G.Macqueen The Hittites THAMES&HUDSON 1957 99から103頁。
  21. 紺谷亮一著 ヒッタイト帝国成立の背景 筑波大学歴史人類27 1999年 148頁。
  22. 紺谷亮一著 ヒッタイト帝国成立の背景 筑波大学歴史人類27 1999年 126から125頁。

参考文献
飯島紀著 楔形文字の初歩 泰流社 1994年 ¥10000
 シュメールからペルシャ語に至る楔形文字の解説を行った書で、ヒッタイト語の解説もある。内容は例文と変化表を交えた紹介と言った感じである。他の楔形文字と比較するには都合がよい構成といえるが、文法を知る上では説明不足な感じである。

大村幸弘著 鉄を生みだした帝国 日本放送出版会 1981年 ¥700
 著者のヒッタイトの製鉄所を探す、学術的な模索を綴った一種の個人研究史みたいな著作。ここで登場する考古学と文献学を駆使した探求法には見習うべき点が多い。特に、一つの場所を特定する為に、その場所の名前が登場する全ての文献に当たる方法は、言うのは易しいが、現実にはなかなか実行できるものではない。数万点の文書や注釈を相手にそれを実行してしまうとは、さすが専門家は違う。と驚きを持って感心してしまった。

原田慶吉著 楔形文字法の研究 清水弘文堂書房 1967年 ¥2300
 古代オリエントの法を比較検討している。その中にヒッタイトの法書も含まれている。全体は法の全訳と解説の二部から構成されている。ヒッタイト法書100項の全訳があり、各項に解説のどの部分を見るべきかが示されている。解説は一つの法を解説するという形ではなく債務、保証などと言う具合に項目別にその項目に関わるオリエントの法を示す形で行われている。文体が古く、法学者らしい難解な書き方で読みにくい。

大城光正/吉田和彦著 印欧アナトリア諸語概説 大学書林 1990年 ¥8000
 ヒッタイト語の解説書。他にヒッタイトの従属国だったパラー語やヒッタイト以前にアナトリアへ進入したルウィ人の言語も解説されている。書き言葉としてはバビロニア系の楔形文字が使われている。楔形文字の記述というとたいていの本では発音記号だけの記載となるのだが、この本では楔形文字も記載されている。例文として王の伝記や神話などがあるが、最も重要なのは法書の訳だろう。訳と共に碑文のスケッチと発音記号も掲載されている。

杉勇編 筑摩世界文学大系1巻 古代オリエント集 筑摩書房 1988年
 ヒッタイトの神話、「クマルピ神話」、「竜神イルルヤンカシュの神話」、「テリピヌ神話」の三本の全訳が収録されている。この中で、「クマルピ神話」はギリシア神話の祖型だとの説が存在しているようだ。元の碑文に欠損が多く、虫食いだらけの状態になっている。 

− 岩波講座 世界歴史第1巻 古代1 岩波書店 1969年 ¥1000 内 岸本通夫著 印欧語族の移動とヒッタイト王国の擡頭
 発掘からヒッタイト語の解読、印欧語族の移動とヒッタイト人のアナトリア定住、鉄器、馬と戦車、社会構造、アヒヤワがどこかの問題など、ヒッタイト研究に関する概説がある。ヒッタイト人の定住から滅亡を経て北シリアに現れたヒッタイト系の小王国の歴史に至る概史もある。ある意味、著者のこれまでの研究の紹介と言った感じでもある。

モーリス・ポープ著 唐須教光訳 古代文字解読の物語 新潮社 1982年 ¥1900
ヒッタイト語の解読の経緯が掲載されている。ヒッタイト語はヒエログラフに対するシャンポリオン、線文字Bのヴェントリスの様に一人の学者が解読の中心的存在になることがなく、多くの学者の積み重ねによって解読された言語だという。余り劇的な物語を構築し難い為か他の言語に比べて割かれている頁数は少ない。

クルート・ビッテル著 大村幸弘/吉田大輔訳 ヒッタイト王国の発見 山本書店 1991年 ¥5000
 ヒッタイトの発掘について解説している。特に首都、ハットゥシャで出土したものや首都の建物の構造、発掘史の解説である。これを読む限りでは首都は経済、政治中心としてよりも防御に主眼が置かれて作られているように感じる。他に、ヒッタイトの聖所と考えられているヤズカルヤの解説などもある。

C.W.ツェーラム著 辻ひかる訳 狭い谷・黒い山 新潮社 1975年 ¥2500
 ヒッタイトの研究史を物語り調で、観光案内風に物語っている。だいたい前16世紀から12世紀のヒッタイトの歴史のトピック集もある。発掘物のスケッチや写真も用意されている。ヒッタイトに関する読み物と言った感じだ。

流沙海西奨学会編 アジア文化史論叢2 山川出版 1978年 内 丸田正數著 ヒッタイト王国史序説−− とくに土地所有制をめぐって−−
 ヒッタイト王国の土地制度をヒッタイトの法書から検討している。法書の中に現れる語句の解釈と意味の特定、そこからヒッタイトの土地所有形態を探ろうとしているようだ。牧畜業、果樹園業が中心で経済の基本単位は家、工業は首都に集中している。封建的と考えられているヒッタイトの土地と引き替えに行われる軍役と考えられていた法は必ずしも封建的な軍役を指しているわけではないようだ。明確な答えが出ているわけではない。

前田徹/川崎康司/山田雅道/小野哲/山田重郎/鵜木元尋著 歴史学の現在 古代オリエント 山川出版社 2000年
ヒッタイト史の最新の研究状況と、史料、文献などがまとめられている。史料の文法的な特徴から年代特定が可能になり、時系列的な位置づけが可能になったようだが、王の順序や年代区分については未だ確定するには到っていない。社会構造などはかなり判明してきている。出土している文書の多くは宗教関連の物が多い。ヒッタイト関連ではシリアの研究状況もある。

小野哲著 ヒッタイトの経済文書に関する一考察 早稲田大学西洋史論叢14 1992年
 ヒッタイトの経済文書のGIS HURと呼ばれる文書について検討している。この文書は王宮に届けた品物に対する内容証明のようなものだったようだ。ヒッタイトでは在庫確認を行った際に入荷品の内容証明たるGIS HURと比較して何が出ていったのかを確認していたと、この論文では推測している

大城光正著 ヒッタイトのMadduwatta文書における問題点−−とくに言語学的位置を中心にして−− オリエント21−2 1978年
 マットトワッタ文書の成立年代を検討している。当初この文章はヒッタイトの混乱した状況を表す記述が多いところからヒッタイト滅亡前夜たる前13世紀の出来事を記録したものと考えられていたが、この論文では言語的特徴から文書が作られたのは前14世紀頃と結論している。内容の大半は文書内の個々の言語についての検討でヒッタイト語の知識が必要だ。マットトワッタ文書の概要もある。

大城光正著 ヒッタイト中王国時代の国王系譜について 古代文化31−11 1979年
 トットハリア2世からシュッピルリウマ一世に至るヒッタイト王家の系図を検討している。結論としてトットハリア二世、アルヌワンダ一世、トットハリア三世、ハットウシリ二世、シュッピルリウマ一世の順に王位が続いたとされている。

岸本通夫著 ヒッタイト歴史地理考1−2 京都大学西南アジア研究7-8 1961−1962年
 ヒッタイト関係の史料に現れる地名の場所を検討している。考察範囲はアナトリア全土に及んでいる。その過程でムルシリ二世のアルザワ遠征やマットワッタの事件などの概要解説もあり、ヒッタイトの事件史としても読める。地図があればよりよかったのだが、地図はない。

岸本通夫著 Mycenae,Arzawa,Hatti 西洋古典学研究11 1963年
 ヒッタイトの文書に現れるアヒヤワと言う語が、ギリシアを指す語なのかどうかを検討している。当時、ギリシアは自らを「アカイオイ」と呼んでいた。これがルウィ人によりヒッタイトへ「アハヤワ」と伝えられ、ヒッタイトでは「アヒヤワ」と記述されたとする説を展開している。

中村光男著 ヒッタイト史研究の現状 歴史評論543 1995年
 1915年のヒッタイト語の解読から1990年代に至るヒッタイトの研究史を概説している。主にヒッタイト語についての概説である。1970年代後半から新たな発掘が盛んになり、様々な史料の出土が続いているようである。ここで見る限りでは1990年代以降と以前では史料の量にかなり違いがありそうだ。ヒッタイトに関する邦語文献のリストと王りストも掲載されている。

三木正文著 アナトリアの帝国−−ヒッタイトの興亡−− 関大西洋史論集:富沢霊岸先生古稀記念 1996年
 前20世紀のヒッタイト建国から前13世紀の滅亡までのヒッタイトの概史だが、0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952の概史の章を土台としているようだ。序文では簡単な研究史の紹介もなされている。私の見た日本語のヒッタイトの概史の中では最も良くまとまっていると思う。

紺谷亮一著 ヒッタイト帝国成立の背景 筑波大学歴史人類27 1999年
 アナトリアの鉱物資源の銅と、アナトリアでは僅かにしか取れないが、当時の主流となっていた青銅を作る上で欠かせない錫の流通ルートからヒッタイトの成立状況を検討していて、初期のヒッタイトはこの銅の産出点と錫の交易点を押さえることを主眼として支配地域を固めたようだ。ヒッタイト初期の歴史を記録したと言われるアニッタ文書の全訳とアナトリアの銅の鉱脈図や錫の交易図などもつけられている。

山川廣司著 ミケーネとヒッタイト 北海道教育大学史流22 1981年
 ヒッタイト古王国の王の諮問機関とも言うようなパンクシュについて概説的な検討を行っている。この機関は裁判や新しい王の選出などを行っていたが、15世紀頃に王権の強化に伴い消滅した。ミュケーナイとの比較も若干行われている。ミュケーナイは王権がヒッタイトほど強化されずに地方共同体を残し、それがポリス社会へと転化されていった。両者とも現地への移動前には似たような制度を持っていたが、定住地での環境により異なる状態になったと、解説している。

0.R.Gurney The Hittites PENGUIN BOOKS 1952
 最も基本的なヒッタイトの概説書として知られている本のようだ。ヒッタイトの概史に始まり、ヒッタイトの社会と王室、生活と経済、法と国制、戦争、言語と民族、宗教、文学の解説が行われている。解説は簡潔で注釈などは殆どない。図や写真は白黒だが豊富に用意されている。

J.G.Macqueen The Hittites THAMES&HUDSON 1957
 ヒッタイトの概説書の一つだが、概史は余り無い。関連事項の中で語られる程度である。主にヒッタイトと関わった周辺国とヒッタイトの関係からの解説が多いように見える。例えば軍事に関しては北方のカスカ族に対する防衛施設や国境守備隊のパトーロールなどの防衛システム、西方に対する緩衝国の設置や防衛網の解説など周辺国に対する防衛に関する記述が多い。

Robert Drews著 The End of The Bronze Age PRINCETON UNIVERSITY PRESS 1993
 ミュケーナイ、ヒッタイトなどの諸王国の滅亡を海の民の戦闘方や装備に求めている。紀元前1200年の東地中海での大変動の解説に始まり、当時の戦車を中心とした戦闘方や装備などが解説されている。東地中海諸王国は戦車を中心とした軍であったが、海の民は重装歩兵を中心にした軍であり、この軍制のちがいが海の民の軍事的優位を決定づけた。しかし、海の民に関する従来の説が否定されつつある状況下では説自体を受け入れるのは難しい。当時の軍制を解説した本として使うなら、それなりに使えそうな感じである。

Trevor Bryce The Kingdom of The Hittites CLARENDON PRESS 1998
 前20世紀頃から13世紀頃までのヒッタイトの通史。主にヒッタイト出土の史料に即してヒッタイトの歴史の再構築を目指している。史料不足から推測による部分も多いが、史料の引用を多用しながらヒッタイトの政治史を解説している。周辺国の解説はヒッタイトとの外交関係の上での解説に留まっている。

Trevor Bryce Life and Society in The Hittite World OXFORD 2002
 ヒッタイトの社会を社会を構成する人々の職業という視点から解説が行われている。戦士の章では、戦士の所属した軍事組織や戦争に向かう姿勢、戦利品などが解説されている。解説がある職業は、王族、宮廷役人、書記、農夫、商人、戦士、治療師(医者のようなものだが、医者と言うよりは治療師の方がしっくり来る)がある。このような職業人だけでなく、法と人々の関わり、葬式、祭り、神話などの市民生活と関わりのある事柄についての解説もある。

Jack.M.Sasson編 Civilizations of the Ancient Near East CHARLES SCRIBNER'S SONS 1995 内 Richard.H.Beal Hittite Military Organization
 ヒッタイトの階級組織と軍編成、軍の規模や招集方法の違いによる軍の種類、兵種、野戦や攻城戦での一般的な手法など軍に関わる事柄の概説がなされている。特別コラムとしてカデッシュの戦いの解説もある。

Trevor Bryce Madduwatta and Hittite Policy in Western Anatolia HISTORIA35-1 1986
 ヒッタイトのアルザワなどの西方諸国に対する政策をマットトワッタ文書から検討している。ヒッタイトは西方に対しては本格的な征服支配を実行するのではなく、ヒッタイトへの服従を誓わせるに留めている。西方はヒッタイトに敵対せずに安定していればそれでよいとする政策だったようだ。更にヒッタイト本国と敵対する可能性がある国の間にマットトワッタの国のような緩衝国を設けることもこの政策の一環だったようだ。

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