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ブリニュエの戦い
14世紀、フランス南部のリヨン近郊で暴れ回っていた野武士団、グランド・コンパニー討伐の為にフランス王が軍を派遣した。しかし、この討伐軍は1362年4月6日にブリニュヘ近郊でグランド・コンパニーの奇襲攻撃を受けて壊滅してしまう。この戦いを期にフランス王は野武士団を討伐するとした方針から味方に取り込んで利用するという方向へ変わることになる。
このブリニュリエの戦いを記した同時代史料。

目次

  1. マッテオ・ヴィリアーニの年代記
  2. モンペリエのタラムス・パリュス

1.マッテオ・ヴィリアーニの年代記

3月、フランス王はスペインの部隊と戦っていたにも関わらず、オーベルニュのプチ・メシャンから侮辱を受けて少数の従者が逃亡した。
王はブルゴーニュ人到着前に急いでフランス、ドイツ、フランスの他の地域の騎馬兵約六千騎を集め、
王族のブルボン・ド・ジャックに指揮を委ねて、ブルボンナイス(たぶん地名)へは四千のサージェントを派遣した。
ちょうどこの時、プチ・メシャンの部隊はブリニュエという名の王の城を占領し、
自分の部隊から三百名を守備隊として配置し、自らはイタリア人を中心にした五千の兵力でフォレ伯領へ乗り込んでいた。
その間に、ブルボン・ド・ジャックは軍と供にブリニュエ近郊に到着して陣地を築いた。
城はすぐに陥落するだろうし、攻城戦での危険はないと、彼は信じていた。
しかし、そんなに上手くいくはずもなく、彼の助言者も呆れていた。
彼は全く警戒せず、防備も施していなかった。
プチ・メシャンは戦い慣れしていたし、彼のよく編成された部隊の隊長達は戦いたくてウズウズし、ブリニュエから一日半の所にいた。
フランスのキャンプが混乱しているとの情報に部隊の総意は一致し、
略奪の期待に誘われて、元来た道を急いで戻り、近道まで使って、
日没の数時間前にいきなりフランス軍のキャンプの前に現れ、直ぐに大きな音と叫び声をあげて攻撃に入った。
フランスは奇襲され、恐ろしい叫び声に怯え、度肝を抜かれたが、敵を迎え撃つ為に武器の所へ走った。
メシャンの部隊はフランス軍を押しまくり、フランス軍に武装する間を与えなかった。
多くの諸候や勇敢な騎士たちは不幸にも潰走して逃げ出し、多くの者が殺されたり負傷した。

「Kenneth Folwler著 Medieval Mercenaries BLACKWELL 2001」48頁
2.モンペリエのタラムス・パリュス

1362年に、敵はリヨン近郊のブリュエを奪取して占領した。
我らが王の将軍のタンカルヴィル伯ブルボン・ド・ジャック、ラ・マルシュ伯、フォレ伯、
ボージョー卿と彼の兄弟ペリノ大司祭、マーコンのバリ(名前じゃない官職名)、他多くの諸候達により
4月6日に至るまでこの城は攻撃を受けた。
昼頃(だいたい午後三時)、ブリュエの敵とソーグから来た別の敵が合流して攻城軍に襲いかかり、攻城軍を撃ち破った。
ラ・マルシュ伯、フォレ伯、マーコンのバリは負傷し、負傷から数日後に死亡した。
前述の他の偉大な諸候たちは捕虜になった。

「Kenneth Folwler著 Medieval Mercenaries BLACKWELL 2001」47頁

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