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ジャン・ル・ベルの年代記 クレシーの戦い
ル・ベルはイギリス王にもフランス王にも仕えたエノーのジャンの従者である。ル・ベルの年代記は百年戦争前半戦を記録した年代記の中ではバランスもよく、完成度も高いと考えられている。
エノーのジャンの証言を中心に、フランス、イギリス両陣営の貴族から証言を集めて記録しているようである。
こここでは、1346年8月26日にフランス王とイギリス王が激突したクレシーの戦いの部分だけを翻訳した。

クレシーの戦い

フィリップ王はイギリス軍に追いつこうと先を急ぎ、何人かの騎士と従者を敵の位置を偵察すべく前方へ送った。王は敵はそう遠くには行っていないと考えていた。
王が3リーグ前進したところで、斥候が戻ってきてイギリス軍が4リーグほど前方にいると報告した。
次に王は他の4人より最高に勇敢で武器の扱いに熟練した騎士に、前進してイギリス軍の跡をつけ、そして隊形や状態を報告するように命じた。
勇敢なる騎士たちはものスゲー喜んでそれを実行し、王の元へ向かった。イギリス軍から1リーグ離れたところで王の旗手と出会い、後続を待った。
次に彼らは王の元へ行き、ここから1リーグほどの所にイギリス軍がいることと、イギリス軍の状態を報告した。
3部隊に分かれて、待機した。会議で王は何を行うか熟慮した。
王は前述の修道士と呼ばれた騎士に問うた。この騎士が武装するのに相応しい状態になって以来、常に彼の意見を採り入れていた。
この騎士、バッザーリ修道士は他の者より先に喋ることを良しとはしなかった。それにも関わらず、彼は喋ることに同意した。それで彼は王に言った。
「陛下、陛下の家臣は戦場全体にとても広く散らばり、既に昼を過ぎているので全軍が集結する頃にはすっかり遅くなっているでしょう。
私は陛下に軍を宿営させて、明日の朝、ミサの後、戦闘準備をし、神と聖ジョージの名の下で敵に向かうことをお勧めします。
敵が逃げることは決してありません。しかし、私ができるのは陛下がお決めになることを待つだけです。」
この助言に王は大満足で、激しく喜び、続いてこう宣言した。
イギリス軍が近くで戦闘態勢を整えているので、各人は王の旗の下に引き返せ。王は翌日まで宿営することを望んでいる、と。
引き返そうとする諸侯は誰もなく、ましてや最初に反転して先頭に立とうなんて奴がいるわけもなく、前衛では彼らにとって不名誉に見える退却をしようと望む者はいなかった。
そして前衛は移動せずにそこに留まり、後ろの者達は前へ進もうとし、価値ある騎士の助言に従わずに破滅に向かう全てのことが名誉欲と妬みによって引き起こされていた。
故に秩序無く名誉欲と嫉妬に駆られた騎馬競争が、3つの部隊に分かれて整然と布陣したイギリス軍が視界に入るまで続いた。
それに続いて間近で敵を見た時に起きた退却の不名誉の反動も大きなものとなった。
ジェノヴァの、クロスボウの、軽歩兵の指揮官が諸侯の部隊より前でイギリス軍へ射撃しようと部下を前進させた。
彼らの部隊が進むと両陣営は相手に向かって射撃を行った。
軽歩兵とジェノヴァ兵はあっという間に弓兵によって打ち負かされて逃げ出した。
しかし、偉大な諸侯の部隊は互いに競争心を燃え上がらせ、他の者を待つこともせず、完全に混乱し、いかなる秩序も見いだせないくらいゴチャ混ぜになって、攻撃に出た。
軽歩兵とジェノヴァ人は諸侯の部隊とイギリス軍の間に挟まれて逃げられなくなった。
そのせいで虚弱な馬はぶっ倒れ、他の馬は誰かを踏みつけ、群がった豚のように他の者の上にひっくり返った。
一方相手陣営では、弓兵が驚くべき射撃を行い、馬は逆刺のある矢を感じ取ると、
矢に驚いて騎手を無視して、何頭かは前へ進もうとしなくなり、他は狂ったように飛び跳ねたり、怯えて立ち止まって飛び上がったり、敵に後ろを見せて引き返したりした。
何頭かは逃げられずに倒れた。イギリスの諸侯は歩行で前進し、自身の力でも馬によっても身を守れなくなった敵を刺し貫いた。
フランス軍に降りかかった災難はこのような感じで深夜になるまで続いた。戦いが始まった時には夜の到来が間近だった。
フランス王も王の直衛隊もこの日、戦いに加わることが出来なかった。なぜなら王はここから離れる必要があり、王の家来は王の為にこの大きな悲劇から王を遠ざけたのだ。
王の心身の警護をしていたエノーのジャンはラ・ブロイに到着するまで馬を駆っていた。ここで王は巨大な悲しみに暮れた。
翌朝、王はアミアンへ行き生き残りの家臣を待つことにした。フランス軍の生き残り−−諸侯、騎士、その他は以後に控えし者−−は敗者のように退却し、
何処に行ったらよいかわからず、夜になったせいで極度に密集し、町や村もわからず、一日中食べ物を口にすることが出来なかった。
彼らは3つか4つの集団で迷子のように彷徨していた。彼らの主や知り合い、兄弟が死んだのか、無事に逃げたのかを知るものは誰もいなかった。
キリスト教徒に降りかかった不幸でフィリップ王とその臣下に降りかかった不幸以上のものはない。
これは西暦1346年、聖バルトロマイの祝日の土曜日の翌朝から昼頃に(8月26日)、クレシー・アン・ポンテェイユの直ぐ近くで起こった。
夜の間中、フランス軍は我を失い、諸君らが耳にした通り、フランス軍は惨めに夜を過ごしたのだ。

私は可能な限り真実に近い事を書いた。私は我が主人で友人のエノーのジャン自身の口から、ジャンの家臣で同僚の十か二十人の騎士から、
勇敢で高貴なボヘミア王と共にあり馬を殺された者たちから、聞いたことを物語った。
そして、私は相手側陣営で戦いに参加した数名のイギリスやドイツの騎士が同じように語るのも聞いている。

さあ次は、高貴な王エドワードがいかに戦列を布いたかを説明しよう。
イギリスの勇猛な王が金曜日(8月25日)の朝にフィリップ王がとんでもなく大勢の騎士を連れてアブピルにいたことをよく知っていたことを諸君は知っている。
それで王は、各人休養し、我らが主に栄誉と歓びをもたらしたまえと祈ろうぞ、と、臣下に大いなる激励と言葉をかけた。
王は正当なる伝統に則って防御すべく、それ以上前進も後退もしなかった。フィリップ王がここに来るなら、来るのを待つつもりだった。
次の朝、王は宿営地から家臣を引き出し、武装させ、近くの森に軍の全てのカートや馬車を使って出入り口が一つの巨大な円陣を作らせ、その中に全ての馬を置いた。
次に特筆すべき陣形と割り当ての陣列を布いた。
第一の部隊は長男のウェールズ公率いる1200の装甲兵、4000の弓兵、3000のウェールズ兵で、
ウォリック伯、スタフォード伯、ケント伯、サー・ゴッドフレイ・ハーコート、その他私の知らない何人かの者が公の守りについた。
第二の部隊はノーザンプトン伯、サフォーク伯、ダラム司教が率いる1200の装甲兵、3000の弓兵である。
王自身は第三の部隊を指揮し、第一と第二の部隊の間に布陣し、1600の装甲兵と4000の弓兵を率いた。
そしてここにはサー・レーシズ・マズーラと6人のドイツ人弓兵がいたことが知られている。私は他の者の名前は知らない。
勇敢な王が穴ぼこも裂け目もない優良な平原で戦闘態勢を整えた時、王は一同の元へ行き、各々の義務を遂行するように快活に訓戒した。
そしてやさしく答えて、臆病者でも勇気を奮い起こすような訓戒をした。
王は、戦列を乱したり、獲物を捕ろうとしたり、持ち場を離れなくても生者からだろうと死者からだろうと略奪をしようとする者は、縛り首に処すと命令を出した。
このことが彼らの利益になるのなら、各々には略奪に充分な時間ができるだろうし、幸運が再び戻ってくるのなら、彼らはいかなるものも求めたりしないだろう。
王はあらゆる布陣を終えた段階で、ラッパで合図する迄、飲食の為に持ち場を離れても良いと命じた。合図で各々は持ち場へ戻ることとなった。
各々は王を愛し、恐れる様子もなく乱暴な命令を出す王を恐れた。
昼頃、フィリップ王が全部隊と共に直ぐ近くにいるとの報告が高貴な王に入った。直ちに王はラッパで合図し、遅れることなく軍を整列させた。
彼らはフランス軍が到来するまで待ち、賢明にそして完璧に幸運は彼らの有利な方に向いていた。
全てのことが終わり、夜のとばりが下り、王は命令し、宣言した。王が許可するまで追撃してはならず、略奪や死体の処理をしてもならぬ。
彼らは朝にはより良く再編成されていた。王は各々が武装を解かずに宿営に戻って休むよう命令し、全諸侯は王と共に食事をとった。
王はマレシャンに軍は警戒態勢に入り、良好な監視体制を維持せよと命令した。
申し分なく、誰もが高貴なる王を喜ばせることが出来、王の全諸侯は食事をし、夜通し幸運を神に感謝し、
そのような小さな部隊は自身を守りフランス軍の全パワーに対して持ち場を持ち堪えた。
朝には大きな騒音が起き、イギリス兵の多くが王の命令で、再集結したフランス軍を確認しに行った。
それで彼らは町から、藪や、穴ぼこや上垣の中で眠っている大群を見た。
そして彼らは相談した。彼らは自陣営の王や主君が何処にいるか知らず、それにより何が起こるかも不明であることを話し合った。
フランス軍はイギリス軍が向かってくるのを見た時、フランス軍はイギリス軍を味方だと思い待っていた。
イギリス軍は羊に群がる狼のように思うがままに殺しまくった。イギリスの別の部隊は危険を冒して他の部隊と合流し、彼らの主君の情報を求めて戦場を通り抜けた。
ある者は指揮官を、ある者は知り合いを、ある者は自分の部隊を探していた。イギリス兵は見付けた者を手当たり次第に殺した。
午前も中程の頃、イギリス軍は王と一緒に宿営地に帰り、諸侯は多くを聞き、彼らの冒険を語った。
次に王は紋章の知識において非常に秀でた騎士サー・レジナルド・コブハムに命令を与えた。
何人かの諸侯が彼と共に全紋章、死体の全てを見渡して、彼らが確認した騎士全てについて書き記し、高位諸侯や偉大な諸侯を一方に運び、各々一人づつ名前を書き記した。
前記のサー・レジナルド・コブハムは命令通りに実行し、9人の高位諸侯がそこに横たわっていたことを見いだし、
1200の騎士と、その他−−従者、ジェノヴァ兵、その他−−15000から16000を見いだした。彼らが見いだしたイギリスの騎士の死体は300だけだった。
申し分なく、ここで道理を弁え、私は諸君らに対してのみここに死体があった高位諸侯を再び数え直してみよう。最後までは行き着けないだろう。
まず、最も高貴で最も生まれの良い者から始めよう。
勇猛なボヘミア王は完全に目が見えず、戦いでの一番槍を求め、首を落とされる覚悟で家臣の騎士により前へ導くように命令し、何人かの敵に対して剣を振るった。
次に高位な諸侯はフランス王の兄弟、アランソン伯。次が、前述の王の姉妹の息子、ブロアのルイ。次がサルモィアーのサルム伯。次がハーコート伯。
次がオーセール伯。次が、サンセール伯。そしてたった一日で、クールトレーでも、ベネヴェントでも、他のいかなることでも、聞いたことがないほど多くの諸侯が殺された。
次の日、勇猛なる王エドワードはこの日の間中、フィリップ王が再び家臣を集めてやって来ないかと、戦場に留まったが、彼はやって来なかった。
そして価値ある王は軍と共にここから出発し、王は近くの修道院へ家臣の死体を運び、王自ら周辺地域を焼き、荒らす前に、先行してそれを実行させるべくマレシャンを派遣した。

「Clifford.J.Rogers編 The Wars of Edward III BOYDELL 1999」131から135頁より翻訳

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