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軍務契約書
14世紀に入った頃、イギリスの軍の招集方法は従来の封建契約に基づいた武装及び費用自弁の招集軍という形から、戦役毎に一定の雇用条件と給与が保証された軍務契約を結んで従軍する有給の招集軍という形へ移行している。軍務契約書は百年戦争期のイギリスの軍の状態を知る上で重要な史料の一つだと言える。

目次

  1. 1066年か1078年に征服王ウィリアムが封臣のイーヴシャム修道院長エゼルウィへ出した召集令状 (比較用)
  2. 1347年のフランス遠征の際にスタフォード候ラルフとその封臣ヒューグとの間に結ばれた軍務契約書

1066年か1078年に征服王ウィリアムが封臣のイーヴシャム修道院長エゼルウィへ出した召集令状
この史料と他の軍務契約書を見比べると従来の封建契約に基づく招集と新しい軍務契約に基づく招集の違いがよくわかる、と思われる。
封建契約の場合、責務は受封の時点或いは慣習で定められた通りとされ、単に集合日時と場所と兵力が示されるに過ぎない。


 イングランド人の王ウィリアムがイーヴシャム修道院長エゼルウィに挨拶を送る。余は汝に命じる。汝の管轄・裁判権下にあるすべての人々を招集し、彼らが余に供すべきすべての騎士を装備させ聖霊降臨祭の1週間後にクラレンドンの余のもとへつれて来るように。汝もまたその日余のもとへ参じ、修道院に関して汝が余に供すべき5人の騎士を装備させ伴って来るように。証人、宮廷執事ユード。ウィンチェスターにて。

ヨーロッパ中世史研究会編 西洋中世史料集 東京大学出版会 2000年」98頁

1347年のフランス遠征の際にスタフォード候ラルフとその封臣ヒューグとの間に結ばれた軍務契約書
 この契約書はサー・ラルフことバロン・スタフォードを一方とし、サー・ヒューグ・フィツ・シモンをもう一方として彼らの間で以下の事の証文として作られた。前述のサー・ヒューグが前述のサー・ラルフの旗本として4人の騎士と8人の準騎士と供にこの証書の日付から1年の間留まり、サー・ラルフが望む場所にならどこにでも戦争へ行き、宮廷からの直接の援助がないのならサー・ラルフの随意で、一日につきヒューグ自身に4シリング、各騎士に2シリング、各準騎士に12ペンスの慣習に従った給与を受け、1年全体でヒューグへの報酬は100マルクとなる。そして前述のサーラルフは前述のサー・ヒューグへ海を渡る前に報酬の半分たる50マルクを支払う契約を結び、ヒューグの給与は前述と同じであり、1年分の1/4を前渡しとする。そしてサー・ラルフが宮廷からの直接の援助を望むのなら、彼、彼の騎士達、彼の準騎士達、彼らの従卒達は45頭の馬と8頭の驢馬のための干し草と穀物、馬小屋と馬丁の給与が与えられるだろう。そしてサー・ラルフは個人的にサー・ヒューグに乗馬を与えるだろう。
 そして加えて前述のサー・ラルフはサー・ヒューグの偉大なる馬が王や王の評議会によって、サー・ラルフの偉大なる馬と同じ状態にあると評価されるようすべく契約する。そしてサー・ラルフはサー・ヒューグの前述の馬がサー・ラルフに仕えている最中に失われたと判断されたら、サー・ヒューグへ失われた馬の補充を行う責務を負うだろう。そして前述のヒューグか彼の部下によって捕らえられた捕虜に関して、前述のサー・ラルフは捕虜の身代金や儲けなどの半分を取る。・・・(証人などが列挙されているがここは省略)・・・。エドワード三世治世21年目(1347年)3月16日、ロンドンにて書かれた。

「Clifford.J.Rogers編 The Wars of Edward III BOYDELL 1999」121から122頁より翻訳

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