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ヘンリー・ナイトンの年代記 ネヴィルズ・クロスの戦い
14世紀後半に書かれた年代記で、著者のヘンリー・ナイトンはレスターの修道士である。主にイギリスの史料を基に年代記を書いたようである。
こここでは、1346年10月17日にスコットランド王とイギリス諸侯が激突したネヴィルズ・クロスの戦いの部分だけを翻訳した。

ネヴィルズ・クロスの戦い
スコットランド王イギリス侵入。
そこでスコットランドのデーヴィドは1346年の最後のイギリス侵攻において、襲撃し略奪した後で、
エドワード王不在のイギリス北部で、北部の有力者の醜言を信じる多くの者や、悪意に満ちた協力者や、共感を持つ者達の元を訪れた。
フランス・スタイルでより良く整えられた36000の強力な軍を率いてマーチ東部に来た。
そして真っ直ぐダラムへ向い、和平は拒絶し、トレントの水によりそれ以上一歩も前へ進めなくなるまで和平や慈悲の誓願に耳を傾けようともしなかった。
彼らはこうも話していた。イギリスには誰もいない。皆、カレー攻城に出かけている。残っているのは障害者か、虚弱な農夫か、羊飼いか、坊主くらいだ。
そこでヨーク大司教、サー・ウィリアム・ラ・ザウチェ、ロード・パーシー、残っていた騎士、牧師、この地域の修道士、全ての者が生き残る為に協力し、
王国を死から救うべく、ダラムの近く4リーグ、強大な戦力を持ち士気旺盛なスコットランド軍からほど遠からぬ所に、聖ルカの祝日の前の月曜日(1346年10月16日)に参集した。
サー・ウィリアム・ダグラスと家臣達はスコットランド軍の先鋒で、イギリス軍の到来をまったく予期しおらず、ダグラスはロード・デニンコートの従者に捕らえられ、家臣の多くは殺された。
そしてスコットランド王はこの報を聞くと、直ぐに戦闘準備をし、戦列を布き、地面が震えるほどの音量でトランペットやラッパを鳴り響かせ、部隊をイギリス軍の方へ向けた。
イギリス軍は神に全ての希望を託し、死が逃げ出すほどに正義の理想を賛美し、十字の印に全幅の信頼を寄せ、十字の旗を他の旗と共に前面に押し立て、
神の慈悲に全てを託し、失敗を恐れず、大いなる大胆さで勇敢に戦った。
そして両軍共に午後の中頃に到来し、だいたい夕方頃にスコットランド軍が打ち負かされるまで戦った。

イギリス軍がダラムでスコット軍を撃ち破る。
聖ルカのイブ(1346年10月17日)にダラムから3リーグのベア・パークにて最後は神の慈悲のみ技にてイギリス軍は敵を凌駕してめでたく勝利をおさめた。
坊主達は教会の鐘突塔に立ち、逃げていくスコットランド人を眺め、暗雲が彼らの歌う音楽で満たされるくらい声を張り上げ、神を称え、歓びの涙を流して叫んだ。
「神を称えよ!!」
坊主の聖歌が後ろの方から流れてきたことで、イギリス軍は神から巨大な勇気を授かり、敵をさらに激烈に追撃し、さらに力強く叩き潰した。
坊主達は翌日にスコットランド人へ賠償金を払う約束をしていたのであのままでは財産も借地も長くは保てなかっただろう。
されど、彼らは賠償のくびきから自由になった。
スコットランド軍は全員カレーへ出払っているだろうから彼らに抵抗するものなどこの国にはいないだろうと信じていたのでビバリーへ進み、そこからヨークへ向かう計画をしていた。

戦いで捕らえた者。
彼らはこの戦いで捕らえた者である。
スコットランド王デーヴィド、フィー伯、メンティー伯、ウィグタウン伯、キャリック伯、
サー・ウィリアム・ダグラスとその兄弟のウィリアム、サー・ウィリアム・リヴィングストン、サー・ウィリアム・ラムゼイとその息子、
サー・マルコム・フレミング、サー・デーヴィト・アナン、サー・ジョン・シンクレアー、サー・ウィリアム・モーブレイ

この戦いで殺された者。
彼らはダラムの戦いで殺された者である。
モーレイ伯、サウザーランド伯、ストラスアーン伯、サー・フィリップ・メルドラム、サー・ハンプシャー・ブロイズ、サー・ロバート・メイトランドと彼の兄弟、
サー・ジョン・チュアート、サー・アラン・チュアートと彼の兄弟、サー・マウリス・マーニー、サー・デーヴィド・デ・ラ・ヒュエ、サー・エドワード・キース、
サー・ジョン・クロフォード、サー・ジョン・ライムショー、サー・アダム・デ・ニコルソン、サー・アレクサンダー・ストラーチェンと彼の兄弟。
この戦いでサー・ウィリアム・デ・ラ・ヒュエ、サー・ジョン・デ・ラ・モル、サー・トーマス・ボイド、ロード・キースの兄弟エドマンド、サー・ウィリアム・ラムゼイの父、
サー・ジョン・セント・ヒラリー、サー・アダム・ムルグレイブ、サー・デーヴィド・フェイフ-ロバート、サー・ウィリアム・モーブレイ、サー・レジナルド・キルパトリック、
サー・ウィリアム・ハリバートン、サー・パトリック・ヘーリング。
そして加えて全スコットランドのなかでも優秀な100人以上の騎士と、20000人以上の一般民。

イギリス軍の戦死者。
ここで殺されたイギリス側の者は騎士4人と従者5人である。

スコットランド王の確保。
スコットランド王は戦いから逃げ、頭に矢が当たって負傷し、ヨーマンのジョン・コープランドによりメリングトンで捕らえられ、バムブールジュ城に監禁された。
スコットランド王は旅ができる状態になく、王の命令でロンドンへ移送するまで、しばらくロード・パーシーの元に他の多くの者と共にあずけられた。


「henry.Knighton著 G.H.Martin編訳 Knighton's Chronicle 1337-1396 CLARENDON PRESS 1995」69から73頁より翻訳

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