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ニシンの戦い 史料集
1429年2月にオルレアン攻城中のイギリス軍の元へ向かった補給部隊がルーヴレ村でフランス軍の攻撃を受けた。この戦いでフランス軍が敗れ、戦場には補給品のニシンがまき散らされた。このニシンが散らかった光景により、この戦いはニシンの戦いと呼ばれるようになった。
ジャンヌ・ダルク登場寸前に起きたオルレアンを巡る戦いの一つである。

目次

  1. モンストルレの年代記
  2. パリ一市民の日記

モンストルレの年代記
 モンストルレの年代記は15世紀中頃に書かれたものである。

 とかくする内に、パリのベドフォード公はノルマンディの国境から四,五百台の車や馬車を集め、地方商人達の確かな協定により、これらの車両に食料や大砲、他の必需品などを積み、オルレアン攻城中のイギリス軍の元へ送った。輸送部隊はベドフォード公のグランド・マスター・ハウスホールドたるサー・ジョン・ファストル指揮の元におかれ、イル・ド・フランスからの数人の士官と千六百名の兵士、千名に及ぶ非戦闘員が同行した。彼らは水曜日にパリを離れ、ジャンヴィルとオルレアンの間にあるボースのルーヴレ村にたどり着くまでの短い行軍を秩序を持ってこなした。
 この段階でイギリスの輸送部隊の到来する時期を知ったフランスの指揮官達は輸送部隊に対する為に武装兵の一団を集めた。この軍にはブルボン公シャルル、二人のフランス元帥、スコットランド元帥と彼の息子、大勢の名のある貴族達がいて、全部で三から四千名の戦闘員がいた。イギリス軍はこの地域を守る為に敵部隊が集結した事に気がつき、素早く輸送部隊の車両で全員が収まるほど十分に大きい大円陣を組み、二カ所だけ出入り口を設け、そこを弓兵で防護した。イギリス軍はより防備の堅いところに商人や御者、従者や他の非戦闘員を馬と共に配置した。
 そして布陣を終えたイギリス軍は二時間に渡って敵を待ち受け、敵軍は騒々しく到来して円陣からの射程外で戦闘態勢を整えた。フランス軍は優勢な兵力を示すことで脅威を与えればすぐに敵を制圧できるだろうと考え、イギリス軍の退路を封鎖した。イギリス軍は様々な国の者で構成されていて本当のイギリス人は六百人しかいなかった。だが、フランス軍の幾人かの者達には自信がなかった。その理由は指揮官達が戦列の組み方について同意していなかったのだ。特にスコットランド人は徒歩で戦うことを望み、他の者達は騎乗で戦うことを望んでいた。とかくするうちに、スコットランド元帥と彼の息子、全スコットランド人は下馬して、すぐその後、スコットランド人達は幾ばくかの徒歩の者達と騎馬の者達と共に敵に対して総攻撃を行い、イギリス軍は大いなる勇気を持ってスコットランド人に対した。
 次にイギリス軍の弓兵が馬車の防護の元、厚く素早い矢の雨を降らし始め、それらは非常に正確で敵の乗馬兵と歩兵の両方は共に退却した。出入り口の一つでスコットランド元帥と彼の部下達が戦っていたが、すぐに押し戻され、ここで殆どの者が殺された。この辺りには六人のスコットランド騎士と六百人の他の兵士の死体があり、死体の殆どがスコットランド人だった。残ったフランス軍の指揮官達は退却を望み、ここから去っていった。
 イギリス軍は僅かに休憩してから素早く行軍し、ルーヴレの町を取り、ここで夜を過ごした。次の日、イギリス軍は再び輸送部隊の全装備、甲冑、ヘルメット、クロスボウ、矢、他の必需品と共に隊列を整えて出発し、数日後に麗しの都市オルレアンの前に到着し、彼らは成功の故に、攻城軍の為に食料を届けた故に、歓呼で迎えられた。この戦闘は後にニシンの戦いとして知られるようになった。なぜなら、食料馬車の大半がニシンと四句節の食料品を積んでいたからである。
 シャルル王は、ますます悪くなる状況を目にし、この彼の運命に対する更なる破滅を耳にし、発熱して病気になった。このルーヴレの戦闘は四句節の最初の日曜(1429年2月12日)の夜、深夜の後の大凡三時間に渡って行われた。この最中、イギリス軍はパリの事務官サー・モービーの甥、ブリーサンティーウという者を一人だけ失った。三人の者がこの日、イギリス軍により騎士に叙された。この戦闘での彼らの人数は勇気を試された千七百名の戦闘員であり、この数の中には非戦闘員は含まれていない。フランス軍は三か四千人である。シャトーブリューの貴族がブルボン公シャルルにより騎士に叙された。この日の捕虜は一人だけで、彼はスコットランド人だった。

Peter Thompson編 Contemporary Chronicles of The Hundred Years war THE FOLIO SOCIETY 1966年」 296から298頁より翻訳

パリ一市民の日記
 この日記は戦いの直後に書かれたらしい。

 パリの住民達はオルレアンの軍へ小麦粉を提供した。彼らは小麦粉を満載した300台以上の馬車を集めた。馬車と馬、関連するあらゆる物の代金はパリ周辺に住む人々が支払ったが、彼らがパリに来た時から続く9日間の支出は別だった。彼らは長く滞在する予定ではなかったが、9日間は自らの費用で留まり、馬も含めて、大いなる損失を被った。彼らは2月12日に大部隊に護衛されて出発し、エタンプ迄は問題なく進んだ。彼らがボーズのジャンヴィルとルーヴレ・サン・ドニと呼ばれる村の間の少し先に来た時、彼らの眼前に優良なる七千のアルマニャク軍がやってきて、小さな子供達の間で踊りが起こるように一緒くたになった。起こったことを考えると、我が方の人々は動かないようにその場で体勢を整えた。彼らは端が鋭く、もう一方に金具の付いた大きな杭を多数所有していた;それを敵の方に傾けて地面に刺した。パリの弓兵達とクロスボウ兵が片側で一翼を形成し、他の翼はイギリスの弓兵が構成した。本隊は真ん中にあり、アルマニャック軍七千名に対して我が方は合わせても千五百名を越えず、敵十三に対して我が方は二であった。アルマニャック軍は我が軍の陣列から少し離れたところまで接近し、次に戻って、我が方の人々と同じように自らの位置を定めた。我が方の人々は次に敵へ捕虜の身代金をどうするのか聞くべく使者を送った;敵は答えた(特にボーバン候が);力強き神は頭髪が抜け落ちようと、全く剣を抜くまいと、決して助けんぞ;使者がまた戻ってくれば、奴らは殺されるぞ、と。使者達がこのことを報告すると、我が方の人々は馬車の背後に隠れ、我らが主に我が身を委ね、勇敢に戦うべく互いに励まし合った。アルマニャック軍が我が方の人々の物資を略奪しようと背後から攻撃する危険が起こりうる、いや多少は起こる、いや実際に多分に起こるので馬車と御者を十分に防備した。御者の幾人かは敵が来るのを見て馬を外して逃げようとしたが、アルマニャック軍と出会った彼らの多くが負傷し、幾人かが殺され、略奪品が敵の手に落ちた。しかし、彼らは逃げ延びたことがとても喜ばれ、非常に歓迎された。略奪者達がこうして近づかずにいたが、アルマニャック軍は我が方に近づいてきた。敵の大半を占めるのはよい馬を持つガスコーニュ人達で弓兵や、クロスボウ兵、パリの人々に対し、スコットランド人はイギリス人に対する形で、敵の主力は我が軍に対した。騎兵が接近してくるのが見えたので、ガスコーニュ人が頭を下げ、馬を守るように前で槍を回したその時に、パリの人々はぶ厚く素早い射撃を始めた;敵は激しく拍車をかけ、相手のところにたどり着ければ必ず叩き潰せると確信していた;しかし邪悪で呪われた不幸な男達は目前に横たわる危険が目に入らず;我が方の人々に向かって拍車をかけたせいで馬が杭の上に飛び込み;杭が馬の胸、胴、足を貫き;馬はそれ以上進めずに多くが倒れて死に、その後を追うように乗り手達も死んだ。落馬した敵が仲間に”ヴィラー、ヴィラー”と叫んだ−−これは”もどれ、もどれ”と言う意味だ;敵は逃げようとしたが杭で負傷して倒れた馬が二、三人を蹴り倒し、次に来た者がそれにつまづいた。スコットランド人他は、味方が戦い、狼に追われる獣たちのように逃げ出し始めるのを全て見ていた;彼らは我が方が敵を追撃して接近し、多くの者を殺したり打ち倒すのを確認した。戦場には四百名以上の敵の死体が横たわり;非常に多くの者が捕虜となった。そして卑劣な人々が逃げようとした時、オルレアンでは籠城している人々が彼らを出迎えようと外に出て戦闘で死んだよりも多くが殺された。この災難はあらゆる剣を向けられるほどの、慈悲など与えられないほどの、彼らの罪故に起きたが、彼ら全てが彼らの敵の剣から自身を守ろうとした。その後で我が方の人々は軍へ食料を届けて1428年2月19日にパリへ戻ってきた。4人と逃げようとした御者数名が殺されただけでパリから出発した者全てがそこにいた;多くの者が負傷した。両陣営もいかにも恐ろしい。キリスト教徒がわけもわからず互いに殺し合うことが!100リーグ(約480キロメートル)も離れたところにいたある男と男が、ここに来て互いに殺し合い、僅かな金を勝ち取る−−或いは縛り首になってぶら下げられたり、貧しい魂故に地獄に堕ちるのだ。

「Janet Shirley編訳 A Parisian Journal 1405-1449 OXFORD 1968年」227から230頁より翻訳
パリ一市民の日記の他の部分が読みたければ、ここを見ろ! http://www.toride.com/~canossa/ms/parisj01.htm

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