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ヘンリー・ナイトンの年代記 クレシーの戦い
14世紀後半に書かれた年代記で、著者のヘンリー・ナイトンはレスターの修道士である。主にイギリスの史料を基に年代記を書いたようである。
こここでは、1346年8月26日にフランス王とイギリス王が激突したクレシーの戦いの部分だけを翻訳した。

クレシーの戦い

クレシーの戦い。
そして次に、フィリップ・ヴァロアがそこから軍を率いて移動をし、エドワード王は家臣と共にクレシーの森へ行った。
そしてだいたい昼頃、エドワード王へフィリップ王が部隊を三つに分けて戦闘準備を整えているとの新たな報告が入った。
エドワード王はこの報告を歓び、家臣をまとめると、クレシーの橋へ行軍し、だいたい夕暮れ時かその少し前に敵の接近を確認した。
イギリス軍は長い時間しっかりと動かず、フランス軍を待ち受けるべく立っていた。
そして一度にラッパとトランペットが鳴り響き、ここに激しい雨が恐ろしい雷をともなって降ってきたが、摩訶不思議な嵐は直ぐに通過した。
第一の戦列には王の長男でウェールズ公のエドワードと、ノーザンブトン伯、ウォリック伯と彼らの家臣があり、
彼らは神のご加護でフランスの第一陣を撃退し、第二陣を持ち堪えた。この第二陣にはボヘミアとマヨルカ王の2人の王と、ロレーヌ公、他多くの貴族がいた。
そして太子はドイツ王とエノーのジャンを伴ったフランス王率いる第三陣相手に三度目の戦いをし、神の祝福により敵に打ち勝ち、撃破した。
フランスの王、フィリップ王は矢を表に受けて、王の馬が殺されたが、王は他の良馬に乗り換えて逃げだし、イギリス軍は彼が来たことにすら気がつかなかった。
そして他の多くの者も逃げ出した。

この戦いでのフランスの戦死者の総数。
ここで2000人の騎士、装甲兵、従者と、数え切れないほどの歩兵が殺された。
フランス王と共にやってきた兵力は騎兵12000、歩行の装甲兵50000で、三度の突撃で2000の装甲兵と、32000のそれ以外の兵が殺された。
彼らはクレシー郊外のウエストグリィーズで戦い、夜に死んだ。

2人の王と、16人の伯と200人以上が殺された。
ここで16人の伯が殺され、ボヘミア王とマヨルカ王の2人の王と、ロレーヌ公、ゼー大司教、ノアイヨン司教、ホスピタル騎士修道会のフランス支部長、コルビ修道院長も殺された。
エドワード王は軍と共に夜通しこの戦場に留まり、フランス軍は日没前に16回攻撃を行った。
神の意志により、深夜には月が輝いていた。日の出のようにフランス軍は戦場でイギリス軍に何度も押し寄せ、神の恩恵により攻撃は成就しせず、
イギリス軍に向かってきた者は逃げ出し、イギリス軍は彼らを追撃して多くを殺した。

3人のイギリスの騎士が戦場で殺された。
イギリス側では戦いの前に従者が一人殺され、戦闘中に騎士が三人殺された。神のご加護の元で安らかに。
そして多くの貧しいイギリス人が騎士になった。

「henry.Knighton著 G.H.Martin編訳 Knighton's Chronicle 1337-1396 CLARENDON PRESS 1995」61から65頁より翻訳

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