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ジェフリー・ラ・ベイカーの年代記 クレシーの戦い
14世紀後半に王家の役人をしていたジェフリー・ラ・ベイカーが書いた年代記で、見ての通り内容はイギリス王よりである。オックスフォードで学んだ秀才だったようだ。
ここでは、1346年8月26日に
フランス王とイギリス王が激突したクレシーの戦いの部分だけを翻訳した。

クレシーの戦い

続く金曜日の朝、王はソンム川岸で宿営していた。フィリップ・ヴァロワ、フランスの簒奪者は対岸のイギリス軍が以前に渡河した場所に来ていた。
彼と共にボヘミア王、マヨルカ王と、数え切れないほどの軍が来ていた。軍は8つの部隊に分けられていた。
フランス軍は王とイギリス軍に向かって尊大な挑戦を声高に叫び、騎士たちは岸や浅瀬で戦闘態勢で馬上槍試合をしていた。
王は簒奪者へ使者を送り、ここで戦闘を行うことがお望みなら、平和りに、かつ安全に浅瀬の渡河を認めると伝えた。
しかし、最初の頃に王を追撃すると脅していた臆病なフィリップは他の場所で河を渡ろうと、戦闘を避けて引き返してしまった。王は一晩中待っていた。
次の日の土曜に王は軍をクレシーの平原へ移動させ、ここで簒奪者と遭遇した。
王は戦いの準備を常に整え、最初の部隊の突撃にウェールズ公を置いて、第二の部隊の指揮官を任じ、自身は第三の部隊を指揮した。
王は全てのことを神と聖マリアに委ね、全ての部下に歩行で敵の攻撃を待つように命じ、軍馬は退却する敵を追撃する時に使うべく補給品と共に後方に配置した。
フランス軍は9つの部隊に分かれた。最初の部隊は非常に頭が良く、戦い慣れしたボヘミア王が指揮した。評判を保つべく前戦の指揮で簒奪者に答えたのだ。
彼は世界で最も高貴な戦士と戦って死ぬと予言されていた。彼がイギリス王は逃げないだろうと言ったら、バカかと非難されて、前戦の指揮を任せてくれと強く求めたのだ。
フランス陣営の英雄たちは兵力故にイギリス陣営の者を捕虜と同じようなものと思いこみ特定の者らを取り合っていた。
マヨルカ王はイギリス王が欲しいと言い、他の者共は太子だのノーザンプトン伯だの他に見いだした最も高貴な者達を欲しがった。
しかし、狡賢い簒奪者は家臣達が身代金目的で貴族を捕らえることに全ての時間を費やし、勝利に向かって戦うことに余り熱意を示さないのではないかと恐れた。
そして王の旗、オリフレームと呼べと命じ、旗が立った時、捕虜を獲ってはならん、獲れば死罪にするといった。
オリフレームが呼び出されてきた時にそれとなく言った。
フランス人が慈悲をかけるのは無駄なことであり、誰もが燃え上がる油があらゆるものを焼き尽くすように命をケチるべきでは無かろう。
フランス王の右の場所に置かれた旗には大きな金の百合の印がフランス王の旗の両面に金糸で縫いつけられ、何もないかの如く固定されていた。
一方イギリス王は自身の防具のクロースに描かれたドラコンが描かれている旗を広げるように命じた。
これはドラゴンの旗と呼ばれ、豹の野生と百合の礼儀正しさがドラゴンの残酷さへと変わるだろうことを暗示していた。
部隊は朝方の半ばから昼の半ばまで戦場に布陣して停止し、フランス軍の規模の脅威は新たな増援の到着で増していた。
しかし、太陽が昇るように軍の最前列が前進を始め、トランペット、コロネットが吹き鳴らされ、太鼓や銅鑼がうち鳴らされた。フランス軍の騒音は雷のようにイギリス軍へ轟いた。
フランスのクロスボウ兵は攻撃を開始した。しかし、クロスボウの矢はイギリス軍に届かず、そのずっと手前で落下した。
クロスボウ兵の恐ろしさは大変なものだ。イギリスの弓兵はイギリスの弓兵隊は敵の密集した集団へ矢を放ち、クロスボウの矢の霰を弓矢の雨で終わらせた。
実際問題、クロスボウはイギリスに損害を与えられず、武装したフランス兵は若い軍馬に騎乗し、機敏な突撃隊はイギリス軍と彼らの間にいた七千名のクロスボウ兵を蹂躙して、
彼らなりの勇気を示しつつ、整然とイギリス軍の陣列へ真っ直ぐ突撃してきた。
フランスの騎兵隊に踏みにじられた犠牲者から大きな悲鳴が上がり、犠牲者達はイギリス部隊を殺しに行ったフランス軍の後に取り残された。
全てのフランス兵が突撃していった者達に続こうとした。
向こう見ずで荒々しい前衛は軍の中に結構な人数にのぼっていた新しい騎士で構成され、彼らは皆、イギリス王と戦いことで栄光を手にすることを求めた。
一方イギリス軍は土曜日の聖なる断食をして聖母に祈っていた。
彼らはフランスの騎兵が接近したら馬が穴で躓くように、素速く前戦近くの地面に深さ幅1フィートの多数の大きな穴を掘った。
弓兵は装甲兵から離れた軍の脇のほとんど両翼に当たる場所に配置された。
これで弓兵は装甲兵の後ろに隠れることなく、敵と対面することもなく、敵に十字砲を浴びせることができる。
前述の騎兵に踏みにじられたクロスボウ兵から、矢が当たって負傷した馬から大きな叫び声があがり、フランス軍の戦列は馬が蹴躓いたことで激しく乱れた。
フランス軍がよく装備されたイギリス軍を攻撃した時、フランス兵は剣や槍で切り倒され、
フランス軍の中央では彼らの特徴に関わらず、もの凄い圧力がかかり多くが押し潰されて死んだ。
この死闘の中で王の長男で16才のエドワード・ウッドストック(黒太子)は前戦でフランス軍相手に驚くべき武勇を示した。
馬で走り抜け、騎士どもを突き落とし、ヘルメットを叩き潰し、槍を切り裂き、敵の矢をかわした。
同様に彼は、部下を勇気づけ、自身を守り、足下に倒れた友人を助け、模範を示した。
彼は敵が死体の山を残して退却するまで自らの責務を休むことはなかった。
ここで彼は騎士としての能力を学んだ。彼は後にフランス王を捕らえたポワティエの戦いでみごとにそれを生かした。
この戦いで前戦の一握りの者たちが太子と共に持ち場を守りきった。
フランスは再三に渡って攻撃を仕掛、新たな部隊が来ては死者を出して、疲れ切り、負傷者も出て別の部隊と交代した。
太子と太子の部隊は新たな攻撃によって戦い続けることになり、敵の攻撃に向きあっていた。
ある者が太子の父の王の元へ走り、子息が大いなる危険の中にいますと進言して援軍を求めた。
父はその者に20騎の騎士を授けて太子の応援に送った。
死体の山の上で槍や剣に寄りかかって深呼吸をして休みながら敵の新たな突撃を待っている太子と太子の部下達を応援の者共は見た。
日没から夜半まで戦争の恐ろしい側面が現れ、フランス軍は三度全軍で雄叫びを挙げ、15回突撃を繰り返したが、それでも敗走し去った。
次の日、フランスの新たな4部隊がやってたが、彼らはなにもしないのと同じで、彼らは4度雄叫びを挙げて、16回突撃を行った。
イギリス軍は前日からの戦いで疲れていたが、勇ましく抵抗を続け、この大いなる、そして素晴らしき闘争の末に敵は敗走し、追撃が行われた。
戦いの始めから追撃戦まで、土曜から日曜の間で、フランス兵が三千名戦死した。
日曜の昼、二度目の戦いが終わった時、王と王の軍は死者たちから一マイル移動して勝利を神に感謝して休息し、各人に役割を割り振った。
王の全軍の中で四十人だけが殺されて発見された。
夕方に、ボヘミア王の遺体が見つかったので、遺体を温かい水で洗い、綺麗なリネンで包んで馬の上に乗せた。
ダラム司教と牧師達は王と王の部下臨席の元で死者の為に壮麗で厳粛な葬式を行った。

Richard Barber編 The Life and campaigns of the Black Prince BOYDELL 1979年」 42から45頁より翻訳

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