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フロワサールの年代記 ネヴィルズ・クロスの戦い
エドワード三世妃フィリッパの従者のフロワサールがの戦いに参加した者から聞いて書いた記述である。
こここでは、1346年10月17日にスコットランド王とイギリス諸侯が激突したネヴィルズ・クロスの戦いの部分だけを翻訳した。

ネヴィルズ・クロスの戦い
イギリス王国の防衛に痛く心を悩ましていたイギリス王妃、あらゆる混乱から王国を守護すべく、
彼女は周囲に熱意を示し、ニューキャッスル・アポン・タインに来た。
彼女はここに居を構え、王国各地から部隊が馳せ参じると予期して待った。
スコットランド軍はニューキャッスルにイギリス軍が集結しているとの報告を受け、そこへ進撃し、前衛を送って町の近くで前哨戦をしかけた。
前衛は反転し、周辺の小村を幾つか焼き払った。町からの煙と火があがり、イギリス軍は我慢できずにこの損害に反撃に出たが、
これは指揮官が許可を与えたものではなかった。
この直後、スコットランド王はあらゆる種類の兵4万と共にニューキャッスルから3マイル以内に来て、ロード・ネヴィルの土地の1/4を占領した。
ロード・ネヴィルは町の軍へ情報を送り、彼らが喜んで外に出てきたら、彼らを待たせて戦わせただろう。
イギリスの諸侯と聖職者は彼の知らせに応え、主と王の王国と自身の命をかけたのだった。
彼らはだいたい1200名の装甲兵、3000名の弓兵、ウェールズ人を含むその他7000名の兵力で出陣した。
スコットランド軍はイギリス軍に対して布陣した。各軍は戦闘態勢を整えた。
イギリス王妃は軍が布陣した場所に来て、4部隊が布陣を終えるまでそこにいた。
最初の部隊はダラム司教とロード・パーシーが指揮した。
第二の部隊はヨーク大司教とロード・ネヴィルが指揮した。
第三の部隊はリンカン司教とロード・モーブレイが指揮した。
第四の部隊はロード・バリオル、ベリックの役人、カンタベリー大司教、ロード・ルーズにより指揮された。
各部隊は装甲兵と弓兵の割合がちょうどよく当を得た物になっていた。
王妃は彼らの側へ進み、彼らに彼らが主と王の名誉を守るべく義務を果たし、神の愛により全力で戦うようにと懇願した。
彼らは王妃に約束した。彼らは忠誠の義務を最大の力で果たし、王がここにいる時よりも力を出すと。
王妃はその場を離れ、神と聖ジョージの加護を祈った。
二つの軍は直ぐに行動を開始し、両陣営の弓兵は射撃を始めた。しかし、スコットランド軍は長くは続けず、イギリス軍は絶え間なく射撃し続けた。
部隊が接近戦に入った時、戦いは激烈でよく戦った。
だいたい9時に戦いが始まり、昼頃に終わった。
スコットランド軍は致命的な打撃を与える非常に固く鋭い斧を有していた。
しかし、多くの兵を失う貴重な損失の上に、最後はイギリス軍が戦場を征した。
スコットランド軍では戦場でシィ伯、ドストレ伯、パトリス伯、フューラント伯、ダストレデュアー伯、マー伯、ジョン・ダグラス伯、
サー・アレクサンダー・ラムゼー、騎士の旗手、他の多くの諸侯騎士、準騎士などが倒れた。
スコットランド王は捕虜になった。彼は最も勇猛に戦っていたが酷い怪我を負い、ノーザンバーランドの準騎士ジョン・コープランドにより捕らえられた。
彼は王を捕らえると直ぐに群衆へ押し出し、他の8人の同僚と共に引っ立て、戦場から約15マイル離れるまで止まらなかった。
彼は夕方頃にブライス河のオグレ城へ来て、
この捕虜、スコットランド王は男であろうと女であろうとイギリス王以外対して降伏しないだろうと宣言した。
同じ日に、マリー伯、マーチ伯、ロード・ウィリアム・ダグラス、ロード・ロバート・デ・ウェズリー、
アバディーンと聖アンドリューの大司教、他多くの諸侯と騎士が捕虜になった。
ここで15000の者が殺され、残った者は彼らよりはよりよく自身を守りきった。
この戦いはニューキャッスルの近くで1346年のミシェルマス(10月17日)に行われた。

「Jean Froissart著 Thomas Johnes訳 Chronicles LONDON 1852年」174から177頁より翻訳

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