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文書2

目次

  1. 軍事バブルの到来だ−−十四世紀の軍事革命に関して−−
  2. 自立した女達−−十四世紀の女性に関して−−
  3. 牛発射!−−投石機に関して−−

軍事バブルの到来だ−−十四世紀の軍事革命に関して−−

第一章 グーン事革命は楽しいな
 ぐーん事革命、ぐーん事革命たのしいなってなことで、今ナウな歴オタのおっさんたちの間ではやりのグーン事革命とやらを中世イギリスに当てはめて語ってみようかなってなことで(1)。百年戦争期、そうエドワード三世王戦争とも言われる英仏の戦争で、イギリスの行政、経済、軍事のシステムは大きく変化してしまった。しかし、エドワード三世の時世に一気に、革命的に変化したのではない。単にエドワード三世の時世に入り、ある程度完成された形となって現れ、その効果がはっきりと見えてきただけで、その変化はゆっくりと進んでいた。恐らく、行政や軍事上の変化は12世紀のヘンリー二世頃から始まり、13世紀のジョン王の時世末にフランス領の大半を失ってイギリスの諸侯がイギリス王を中心としてまとまる方向に向かい、エドワード一世の時世に多くの慣習が成文化されて法の整備が進み、エドワード一世の時世にこれまでとは比べものにならないほどに大規模な財政支出と軍事上の要求に応じてこれまで進んできた行政、軍制の変化が一気に加速され、エドワード三世治世にある程度完成された感じである。その後のことはよーしらん。方向性としては王を中心とした官僚機構の整備が色々な形で進み、とは言ってもやっぱり封建制、給与の支払いは教会領の授与が中心だし、任用方法は個人的な人的結合を、えーいややこしい、かんたんに言えば給与は金が払えないから土地をくれてやり、任用はコネ中心ってことだ。王が権力を強めてくるの対して諸候は自らの権利を王に保証して貰う形で自らの権力を認めさせ、王の権限を何とか制限しようとする。但し王と諸候の動きは時に対立的になる事もあるが、諸候は王の存在を否定するのではなく、王も諸候の存在を否定しているのではない。妥協点や共通点を探りながら両者の利害を融合させようとしている感じである(2)
 さて、イギリスの事情はおいといて、軍事革命とはいかなものだろうか?簡単に言うと軍事にかかる人員物資、費用の飛躍的な拡大と、その拡大に伴う国制の変化を指して言う。その際、どのような軍事技術が原因で、とか言う問題も現れてくる。中世の場合どうかというと、最初に中世の戦いの主力たる重騎兵、騎士が歩兵に取って代わられる現象がイギリスの長弓兵、スイスのハルバート兵、フランドル市民歩兵の活躍とか言う形で現れ、次に火器の発達によりイギリスの大規模な大砲の運用とか、フス派の銃兵とか、フランスの砲兵隊とか言う形で現れて攻城戦のやり方とか歩兵の戦い方が変化する。これらの変化が原因で安価な歩兵の需要が拡大し、軍の規模が一気に巨大化してしまう。と言うような流れだ(3)

第二章 イギリス王軍の変化
 イギリス王軍の変化で最も重要だと思われる事は下の二つの史料により表せる。最初のものは11世紀に征服王ウィリアムがヘイスティングの戦いの後でイギリス国内の反乱を鎮圧する為に臣下に出陣を命じた証書である。二番目の証書は14世紀中頃にエドワード三世の臣下スタフォード候が家臣にフランス遠征へ向けて軍の準備を指示したものである(1)
1.1066年か1078年に征服王ウィリアムが封臣のイーヴシャム修道院長エゼルウィへ出した召集令状 (2)
2.1347年のフランス遠征の際にスタフォード候ラルフとその封臣ヒューグとの間に結ばれた軍務契約書 (3)
 最初の証書は封建制の特徴の一つが示された証書である。正直言って封建制なる物を理解するのは案外難しい。例えば共産主義なんかで有名なマルクスが主張した経済的な意味の封建制とか、法学者なんかが言う軍事的な意味での封建制とか、とにかく話が入り組みやすく議論も多い。今回は軍制を語るので軍事的な意味での封建制、ドイツだとレーエン制とか言うものに絞る。
 レーエン制とは臣下が君主から幾つかの義務と引き替えに土地とか地位とか給料のような定期金とか武器とかの物をもらう制度である。たいていは土地をもらう事になる。臣下は君主の求めに応じて軍務についたり、王に助言する義務を負う。そう、最初の文章は征服王ウィリアムが臣下のエゼルウィに対して軍務につくよう求めているのである。エゼルウィが連れてくる事になっている騎士達は征服王ウィリアムの臣下ではない。あくまでエゼルウィの臣下であり、この召集令状が届いた後、エゼルウィは似たような召集令状か口頭で臣下の騎士達に出陣を求める。出陣に際して、戦争にかかる費用は各人持ちで君主から臣下に何らかの援助が出る事は基本的にない。だから、食料も武器も、必要なら傭兵の費用も全て臣下が負担しなければならない。君主についても同じで、自分の分は自分で出さなければならない(4)
 この封建軍の招集は王から始まり、順次最下層の騎士へと招集が行われていき、招集に時間がかかる。更に騎士達の従軍義務は1年に60日しかない(5)。従軍期間が短い為に長期の戦役は行えず、全てが兵士の自弁なので補給に難があり大規模な戦役も戦えず、封建契約に基づいた兵員数しか招集できないので兵員数にも限界があった。実際、14世紀までに欧州で行われた戦役の兵力は多くても数千名レベル、数百名しかいない場合も多い。宗教的情熱や野心に駆られた人々が大集合した十字軍は例外中の例外と考えた方がいい。他に巨大な例だと、1214年のブーヴィーヌの戦いでドイツ皇帝とフランス国王が各々、騎士千騎程度、歩兵五千名程度を動員しているが、この兵力は当時一人の君主が集められる殆ど最大級の兵力と考えていいだろう(6)。1216年にイギリス王ヘンリー三世とフランス王太子ルイのイギリス王位を巡る戦いの決戦とも言うべきリンカンの戦いではイギリス側は400騎の騎士と500名程度の歩兵を動員できたに過ぎず、フランス側でさえその倍程度の兵力を動員できただけ(7)。どちらの戦いにおいても動員期間は数ヶ月だけだった。
 これが大きく変化し始めたのが、イギリスで言うのなら13世紀後半のエドワード一世の治世だ。前記した2番のタイプの証書が本格的に利用され始めたのだが、当初は封建的招集と新たな招集法の2種類の方法が混在する状態が続いていた。軍全体が2番の証書に基づいて招集されるようになったのは1330年のエドワード三世のスコットランド遠征以降の事である(8)。2番目の証書と1番目の証書の違いは兵士に対する給与の支給や労働条件の明示などであるが、他にもこの証書から読みとれる事がある。軍馬に関する費用は全て王が負担するとしている点である。これは従来従軍者個人が負担していた必要物資の補給を王が責任を持つという形で一本化している事を示している。従軍期間も契約の中で1年と定められ、これは従来の封建軍に比べて長期化していると、同時に契約書の中に期間を明記する事で契約毎に期間を変更できる余地を残す措置とも言える。慣習的に従軍期間を定めていた封建軍から見れば大きな変化である。従軍する兵力についても封建契約に基づく動員と違い、金さえあれば幾らでも増員できた。ある意味、傭兵を雇うのと同じような事なのだが、この証書を発行する相手が封建契約に基づく動員でも動員可能なイギリスの諸候である点や、諸候が集めてくる兵の多くも自分と社会的、或いは封建契約等で自分と繋がりがあるイギリスの富裕農民層や騎士層などで、主にジェノヴァやウェールズなどの外国人やグランドコンパニーのような野党集団など、社会的な繋がりがない人々を利用する従来の傭兵とは大きく異なる(9)
 この結果、動員兵力の飛躍的な増大が見られた。軍務契約書が導入されたエドワード一世治世には早くも兵力の増加が見られる。1277年と1283年のウェールズ遠征では約一万、1294年には三万六千名の兵員を動員し、1297年のフランス遠征では九千名、1296年のスコットランド遠征では大半が非武装で動員期間が数ヶ月に過ぎなかったが、六万名もの兵員を動員している(10)。1335年にエドワード三世がスコットランドへ遠征した時の動員兵力は一万三千名で、1342年のブリタニー遠征では陸兵だけで五千三百名とこれを輸送するのにほぼ同数の水夫も動員している。1346年のカレー攻城戦では一万三千名と同数の水夫、1359年のフランス遠征では一万名と同数の水夫が動員されている。だいたい一万から三万の兵力が動員されており、動員期間は一年に及び、兵力的にはエドワード一世治世と同じだが、期間は延びている。百年ほど前にヘンリー三世の動員できた兵力が千名足らずで、動員期間が数ヶ月だった頃と比べると大変な増大ぶりである。それから、二番目の証書で目に付く点の一つに軍馬を重視している点がある。12名の兵士とおそらくその倍くらいの従者の為に45頭の馬と8頭の驢馬を用意するように指示し、その維持費は全て王が持つというのである。これはエドワード三世治世に入って進められた軍全体の騎馬兵化に関係がある。エドワード三世が即位したばかりの頃、軍内における徒歩の兵士の比率は大凡50%だった。しかし、二番目の証書が作られた1340年代には2割くらいの減少し、それから10年後には1割以下に減少している。軍全体が騎馬の装甲兵と騎馬弓兵ばかりで構成されるようになり歩兵が減少していたのだ。しかし、いざ戦いとなると全ての兵士は下馬し、徒歩で戦うのが常であり、乗馬するのは勝って追撃する時か負けて逃げ出す時に限られていた。戦場では馬の役割が低下していたのだ。馬はあくまで戦場に着くまでの機動力を高める為に利用されたに過ぎない(11)。但し、戦場で下馬して戦う慣習はエドワード三世の治世に始まったものではない。1066年に行われたヘイスティングの戦いでノルマン貴族達は馬に乗ったまま戦ったが、この時のサクソン軍の戦い方から学んだのか、これ以降の戦いでは下馬して戦う事が多くなっている。例えば1105年に征服王ウィリアムの二人の息子が王位をかけて戦ったタンシプレーの戦いでは両軍とも全軍下馬して戦い、1116年のアランソンの戦いでもイギリス軍は全軍下馬して同じく全軍下馬して防御を固めていたアンジュー伯軍へ突撃を行い、1119年のブレムールの戦いや1124年のブルグテンロールの戦いではフランス側は騎乗して戦ったが、イギリス王軍は下馬して戦いフランス軍の騎馬突撃を撃破している(12)。要するにノルマン朝の頃からイギリス王の戦いは下馬しての戦いが多かったわけであるから、騎馬兵が会戦時には下馬して馬を使わないとした戦い方は慣習的なもので新しいものではない。

第三章 まとめてみようかね
 エドワード三世治世の軍事革命、そう、軍の大規模化の局面がエドワード三世治世に見られたのである。その原因は戦争の長期化、新戦術の効用、新兵器の登場、戦域の拡大、まあどのような言い方をしようと局限すれば戦争が原因と言えるのかもしれない。そして軍の規模と活動期間を拡大する為に軍務契約というシステムが作られ、活用された。
 戦争の大規模化と長期化の原因は戦争のやり方の変化にあり、と言うのが軍事革命論の基本なんだが、最近別の意見も現れてきている。軍の大規模化の原因は戦争ではない。むしろ、大規模な軍の創設と維持を可能にした政府システムの登場におうところが大きいという。これは戦争が軍の大規模化を要求し、それにあわせて大規模な軍を創設維持できる様な政府システムが作られていったとする従来の見解と逆の考えである。政府システムの拡大に合わせて戦争が後を追う形で大規模化していったと言う事だ(1)
 たしかに、百年戦争期のイギリスだけを調べているだけでも、この様な論争が現れてくるような気がする。おいらは最初に戦争にかかる費用をどのように捻出していったのかを調べていた。その際、税とか、裁判費用だとかの様々な方法で金を集めるシステムが作り出されると同時に、殆ど詐欺行為とも言える外交、内政活動が行われて莫大な額の戦費が調達された(2)。なにせ、エドワード三世時の王の年間収入はせいぜい3万ポンドで、議会を説き伏せても最大6万ポンド程度追加できるに過ぎない。しかし、議会が追加課税の要求を呑む事はそう滅多にない。それが、対仏戦を前にした1334と1335年には10万ポンド、対仏戦が開始された1338年には30万ポンド近くの戦費を集めるに至たり、1339と40年にも16万ポンドもの金を集めている(3)。これは正に戦争が大規模な費用を要求し、それに合わせて収入が拡大する現象と見て取れる。しかし、更に調べを進めていくと、これだけ急激に収入を増大させる事ができた背景にはヘンリー2世頃からコツコツと作り上げられた国王を中心とする全国的な行政機構の整備が欠かせない事がわかってくる(4)。むしろ、大規模な戦費調達が可能だったからこそ大規模な遠征を行う気になったと言った感じである。例えば、フランスへ渡る為の船を集める事一つとっても船の徴発を全国規模で行い、実に千隻に及ぶ船を1年に渡り動員することに成功している。これは船主リストの作成や徴発作業、拒否者に対する罰則の適用など全国規模の行政機構の働きがあってこそ可能な事業だった(5)。ようするに、戦費調達にしても、兵員の動員にしても、戦争資源の徴発についてもそれなりの行政機構とその権力が整えられて始めて可能だったのであり、逆にそれだけの国家的動員能力を見込めたからこそあれだけ大規模な戦争に踏み切る気になったと言う事になる。
 だが、ここで更に別の見方ができるように感じられる。たしかに、戦争を大規模化させる最大の要因は大規模な戦争を実行できる行政機構が整備されたからなのだろう。そして戦争はこの行政機構が耐えられる範囲内で実行されたのだろう。しかし、行政機構をそこまで拡大させる原因となったのはやはり戦争からの要求だったのではないだろうか。いや、それとも王の権力が拡大し、王の目、王の手足が全土に張り巡らされ、王国として統一へ向かう過程に現れた副産物なのだろうか。ま、とりあえず今はどっちもありって事で。

注釈
第一章

  1. 事革命の概要については「大久保桂子著 ヨーロッパ「軍事革命」論の射程 思想881 1997年」にあり、これまでの軍事史と軍事革命論との違いは「大久保桂子著 軍事史の過去と現在 國學院大學國學院雑誌98−10 1997年」にある。軍事革命論の主流を形成するに至った論文やそれに関する主要な論文をまとめた「Clifford.J.Rogers編 The Military Revolution Debate WESTVIEW 1995」が軍事革命論を知る上では最もよい。軍事革命論関係の著作としては「ジェフリ・パーカー著 大久保桂子訳 長篠合戦の世界史−−ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500〜1800年 同文館 1995年」が最も有名である。軍事革命論は「新軍事史」などと皮肉を込めて呼ばれることもあるが、実際のところは「軍事に関わる歴史」であり、従来軍事史として位置づけられてきた戦争そのものについての研究とは異なり、戦争が国家形成にどのような影響を与えたかを研究する手法の一つと言うところらしい。
  2. ギリス行政機構、特に収税システムの変化については以下がよい。主要な地方役人については「小山貞夫著 中世イギリスの地方行政 創文社 1968年」。一五世紀のイギリス財政を論じた「城戸毅著 中世イギリス財政史研究 東京大学出版会 1994年」。百年戦争期のイギリス財政を支えた大黒柱といえる羊毛貿易に対する関税について論じた「桜井清著 イギリス・ステープル制度の史的研究 白桃書房 1974年」。王に近い中央行政機構ともいえるような機関の変化について概説的に論じた「S.B.クライムズ著 小山貞夫訳 中世イングランド行政史概説 創文社 1985年」。事件史を交えながら13世紀のイギリスの国政の変化を論じた「城戸毅著 マグナ・カルタの世紀 東京大学出版会 1980年」や「富沢霊岸著 イギリス中世史概説 ミネルヴァ書房 1970年」もなかなかよい。役人の任用や給与についてはキングス・クラークについて論じた論文が多数掲載されている「東出功著 中世イギリスにおける国家と教会 北海道大学図書刊行会 2002年」にある。
  3. 「Andrew Ayton/J.L.Price編 The Medieval Military Revolution TAURIS 1995」2頁参照。「Clifford.J.Rogers編 The Military Revolution Debate WESTVIEW 1995」に収録されている「Clifford.J.Rogers著 The Military Revolutions of the Hundred Years'War」もこの流れに合わせて中世の軍事革命を論じている。

第二章

  1. 「Anne Curry/Michael Hughes編 Arms,Armies and Fortifications in Hundred Years War BOYDELL 1994年」21から38頁に収録されている「Anne Curry著 English Armies in the Fourteenth Century」はこの軍務契約書の登場を14世紀のイギリス軍の特徴であると捉えている。
  2. 「ヨーロッパ中世史研究会編 西洋中世史料集 東京大学出版会 2000年」98頁から引用。
  3. 「Clifford.J.Rogers編 The Wars of Edward III BOYDELL 1999」121から122頁から引用。
  4. 建制の概要、特にレーエン制については主に「ハンス・K・シュルツェ著 千葉徳夫/浅野啓子/五十嵐修/小倉欣一/佐久間弘展訳 MINERVAライブラリー22 西洋中世事典 ミネルヴァ書房 1997年」40から79頁参照
  5. 「富沢霊岸著 イギリス中世史概説 ミネルヴァ書房 1970年」98頁から99頁参照
  6. 「J.F.Verbruggen著 Sumner Willard/R.W.Southern訳 The Art of Warfare in Western Europe BOYDELL 1997年」239から260頁参照
  7. 「Nicholas Hooper/Matthew Bennett著 Illustrated Atlas Warfare The Middle Ages 768-1487 CAMBRIDGE 1996年」66頁参照 。この辺りの話についてはおいらの「ヘンリー三世」に詳しくある。
  8. 「Anne Curry/Michael Hughes編 Arms,Armies and Fortifications in Hundred Years War BOYDELL 1994年」22から23頁参照
  9. 「Anne Curry/Michael Hughes編 Arms,Armies and Fortifications in Hundred Years War BOYDELL 1994年」31頁によると1359年に動員された一万名の内、大陸の傭兵は七百名に過ぎない。残りは全てイギリス本土で動員された兵である。
  10. 「Michael Prestwich著 Edwards I YALE UNIVERSITY PRESS 1997年」180、190、221、392、470頁参照。この辺りの話についてはおいらの「エドワード一世」に詳しくある。
  11. 「Andrew Ayton著 Knights and Warhorses BOYDELL 1994年」10から14と21頁参照。水夫の動員数は「J.W.Sherborne著 The Hundred year's War --The English Navy:Shipping and Manpower 1369-1389 PAST AND PRESENT37 1967年」172から173頁の1370年代の水夫と陸兵の対比を見るにだいたい両者は1対1の関係にあり、そこから水夫の人数を推測した。
  12. 「Jim Bradbury著 The Medieval Archer BOYDELL 1985年」41から50頁参照。この辺りの話についてはおいらの「ヘンリー一世」に詳しくある。

第三章

  1. 「Clifford.J.Rogers編 The Military Revolution Debate WESTVIEW 1995」95から114頁収録の「Jeremy Black著 A Military Revolution? A 1660-1792 Perspective」が政府が先の説を主張している。「ジェフリ・パーカー著 大久保桂子訳 長篠合戦の世界史−−ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500〜1800年 同文館 1995年」の日本語版への序言の中ででパーカーはブラックの説に反論を展開している。この辺りの説の解説と研究史については「大久保桂子著 ヨーロッパ「軍事革命」論の射程 思想881 1997年」でまとめられている。
  2. ドワード三世の戦費調達政策については「桜井清著 イギリス・ステープル制度の史的研究 白桃書房 1974年」「山村延昭著 エドワード三世の財政方策 上下 西南学院大学商学論集12−1、2 1965年」「山村延昭著 エドワード三世の後期財政方策と羊毛貿易 西南学院大学経済論集2−2 1968年」、「M.m.Postan/E.E.Rich/Edward Miller編 The Cambridge Economic History of Europe CAMBRIDGE 1963年」459から465頁を主に参照した。
  3. ギリス王の収入については「Clifford.J.Rogers編 The Wars of Edward III BOYDELL 1999」62頁にある1925年にラムゼイが算出した値と、「M.m.Postan/E.E.Rich/Edward Miller編 The Cambridge Economic History of Europe CAMBRIDGE 1963年」459頁の解説による。
  4. ギリスの行政機構の発達については「小山貞夫著 中世イギリスの地方行政 創文社 1968年」「S.B.クライムズ著 小山貞夫訳 中世イングランド行政史概説 創文社 1985年」「東出功著 中世イギリスにおける国家と教会 北海道大学図書刊行会 2002年」を参照した。
  5. 「J.S.Kepler著 The Effects of The Battle of Sluys upon The Administration of English Naval Impressment1340-1343 SPECULUM 48-1 1973年」75から77頁参照。

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自立した女達−−十四世紀の女性に関して−−

 シェイクスピアの「ヘンリー五世」にネルっちゅう居酒屋の女将が出てくる。ネルは「ヘンリー四世」にも出てくるが、寡婦で独身で、居酒屋を一人で切り盛りする完全に自立した女性だ。「ヘンリー五世」で娼館の女将みたいなことを言われる場面があるが、彼女は力強く、はっきりと否定して「マジメに針仕事をしているご婦人を二、三十人泊めただけだよ」と主張している。この針仕事の婦人達は娼婦と勘違いされたところからすると、夫付きじゃなく、未婚か、既婚だけど夫と行動を共にしていなかったってことだろう。そう、シェイクスピアの生きた十六世紀か、舞台となった十五世紀には男に頼ることなく、自活している女性がイギリス社会には当たり前のように存在していたってことなんだろう。
 だけど中世の女性というと、十代で家同士の都合で結婚するなんてイメージが強いみたいだ。実際、貴族の家なんかではそんな事も多々あった。そのイメージからか、庶民の世界も似たような状態だったと考えられがちだ。しかーし、実際に裁判記録や税金の記録なんかを元に当時の女性達の結婚年齢とか、職業なんかを調べてみると意外に結婚年齢は高く、未婚で職を持っている女性が多い。
 まず女性の平均的な結婚年齢だが、裁判記録などによると20代前半迄の女性の大半が未婚であり、10代で既婚というのが殆どいないところから、都市部の女性の初婚年齢は20代半ばと推測されている。男性はそれより2、3歳高い事が多く、男性の初婚年齢は20代後半が一般的だと考えられている。夫婦の年齢差も余り大きくなく、たいていは数歳の差しかない。結婚は個人的な恋愛結婚が主流で、たいていは職人になるための奉公期間中に婚約して、職人になると同時に結婚というパターンが多いみたいだ。現代の日本に置き換えてみると、高校、大学の時に知り合って就職すると同時に結婚って言った感じだろう。
 それから、女性が一人で自立して生きていくためには職が必要である。どのくらいの女性が職にありついていたのだろうか?
 正確な数値は分からないが、目安になりそうな数値はある。14世紀のイギリスの農村部における男女の構成比率は1.22対1で男性の方が多いが、都市、特に何らかの産業が栄えた産業都市などでは、だいたい0.9〜0.8対1で女性の方が多い。都市部に住む女性の多くが近隣の農村出身者だが、かなり遠方の出身者も少なくない。都市に来た年齢は男女ともに10代前半が多く、この年齢は職人になるための奉公開始年齢とほぼ一致しており、女性の平均的な初婚年齢と合わせて考えると、都市へ来た目的が職人になる事だったと推測できる。
 女性が就く職業で最も多いのは食品関係で、金属加工関係が最も少ない。これは全ての都市について言える事ではなく、ヨークでは45%が呉服商で働いている。この傾向はイギリスに限らず、フランス、特にパリでも同じだったと考えられる。1268年に制定されたパリの同業者組合規約によると服飾関係の組合には、絹紡組合など、女性だけの組合が存在しており、1300年の課税台帳によると毛織物業で働く人の内、女性は1割近くを占め、羊毛商人に至っては50%が女性だった。「ニシンはどこから−−1429年のニシンの戦いに関して−−」でも書いたが、北欧のハンザ商人が経営する鰊加工工場なんかも主に女性を雇用しており、男性の雇用は少なかったみたいだ。パリの組合規約によると結婚している女性も働き続ける事ができるし、規約上、夫が一人で働き続けるよりも夫婦で働いた方が有利な事が多く、おそらく結婚後も女性は働き続けたであろうことが想像できる。例えば、弟子を取るにしても一人につき何人とか規約があって夫婦二人で働いている事にすれば通常の二倍の弟子を取る事ができる。
 金属加工関係の職にも少数の女性が就いており、映画「ロック・ユー」に出てきたような未婚で若い女鍛冶士がいたであろうことが容易に想像できる。あの映画はなかなかイカす映画だったが、女鍛冶士が突飛なフィクションじゃなく実際にもいたって言うのは、なかなかイカす話だ。
 中世を、女性には就業機会がなく家の都合で結婚相手が決まり妻は家に籠もって家事ばかりで夫は外で娼婦を買って遊んでばかり、みたいな男尊女卑な社会と捉えるのは大きな間違いってことになりそうだ。むしろ、現代と同じように自立した女性がたくさんいて、結婚は主に自由恋愛で、生涯独身を通した女性もいた、って感じだろう。そうすると、カンタベリー物語のパースの女房みたいにキリスト教の道徳観に囚われず、多くの男との関係を楽しむような粋な女性もけっこういたんじゃないかと、想像したくなる。やっぱキリスト教的道徳観が支配する無味乾燥な世界より、仕事にせよ、男女の楽しみにせよ、自身の楽しみ求めて躍動する世界って方が、楽しくって、すげーいいねー。

参考文献
酒田利夫著 イギリス社会経済史論集 三嶺書房 2000年
高橋清徳著 中世パリにおける絹関係諸職業−−パリ同業者規約の訳・註解−− 千葉大学法経研究15,16 1984年
高橋清徳著 中世パリの毛織物業−−パリ同業者規約の訳・註解−− 千葉大学法経研究17 1985年
・ウィリアム・シェイクスピア著 小田島雄志訳 ヘンリー四世第一部 白水社 1983年
ウィリアム・シェイクスピア著 小田島雄志訳 ヘンリー五世 白水社 1983年
・チョーサー著 桝井迪夫訳 カンタベリー物語中巻 岩波書店 1995年

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牛発射!−−投石機に関して−−

まずは愚痴
 う〜ん、注釈がめんどい。史料や説の対比、評価もめんどい。というよりそんなことをマジにやってちゃー、な〜んも書けん。だいたい意見なんてもんはバランバランで、史料はどうとでも解釈できるもんバッカ。最近旧説を駆逐するように新説がボッコボコでてるからいよいよもってめんどい。そこで、今回は新説を出しまくってる研究者の一人で、中世の軍事技術の第一人者とか言われてるデヴェラの説に全面的に依拠して投石機の歴史なんか書いてみようかと思う。デヴェラは議論が好きな人みたいで色々と挑発的な論文なんかも書いている面白い人だ。投石機の概史に関してはデヴェラの説明と19世紀のラルフ卿の説明にそれほど違いはない。旧説つぶしのデヴェラですら19世紀の頃の説からそれほど逸脱してないってことは投石機に関する見解はそう変化はないってことだろう。
 投石機というと思い浮かべるのはうんこ、クビ、腐った死体に、馬に馬糞。きたねーなーと思うだろうが、実際に中世ではこんな物を投石機で敵の城へ打ち込んでいた。敵の城に病気を蔓延させたり、精神的揺さぶりを掛ける為だ。時には巨大ウサギに、インコなんかも撃ったとか撃たないとか。アヒルも発射したっけな。けっこうおもろい。無味乾燥な大砲と違って色々とおもろい物を発射できる投石機においらはロマンを感じちまう。

弓形投石機
 明確な呼び名がないからとりあえず弓形と呼んでおく。これは簡単に言うとでっかい弓である。下の図は15世紀末期の代物だが、弓と同じ原理でボウのしなる力を利用して石を飛ばす。紀元前399年にシラクサで発明されたのが最初だが、最初は少々大きめの弓を台座に固定した程度だった。ボウは木と骨と動物の筋などを組み合わせて作られた合成弓が使われていた。最大射程は500メーターくらいだと考えられている。紀元前360年にウィンチが取り付けられて引っ張る力が増大した。下の図でいうと以前はハンドルの部分がなかったってことになる。代わりに大勢で弦を引っ張って固定していた。このクラスのものになってくると最大で162キロの石を飛ばすことができた。


15世紀の大型弓形投石機

捩り式投石機
 前353から341年頃にマケドニアの技術者が捩り式投石機を開発した。これまでの弓の部分を捩り式の弓に置き換えたもので下図のような形をしている。


ローマのバリスタ

 捩り式の原理はゼンマイと同じようなもので、巻いた紐が元に戻ろうとする力を利用して石を飛ばす。捩りの部分は下図のような感じである。下図のCの状態が捩った状態で捩られた紐がBの状態に戻ろうとする力を中央のボウを通して石へ伝えるわけである。


捩り式の捩りの部分

 アレクサンドロスの東征で活躍したのはこの時開発された投石機である。アレクサンドロスの死後にローマやカルタゴなどに広くこのタイプの投石機が普及し、長い間、ヨーロッパの投石機の主力の地位を保つことになる。
 ローマでこの投石機は大きく変化する。まず、以前に比べて小型になった。これは破壊力や射程よりも扱い易さと機動力を重視した結果だった。ローマは投石機を攻城戦の道具としてだけでなく野戦時の支援兵器としても利用したのだ。この手の投石機をバリスタとか、スコーピオンとか呼んでいる。


ローマの小型バリスタ

 新たな型の投石機も現れた。弓形とは異なる下図の型の投石機である。捩りの部分が一つになっている分、以前の型に比べて構造が単純で扱い易いのが特徴だった。


ローマのカタパルト

牽引式天秤型投石機
 この投石機は中国で発明され、7世紀頃にイスラーム世界を通してヨーロッパに伝えられた。初期のタイプはだいたい1から59キロの石を85から133メートル飛ばすことができた。中世の映画なんかで有名な形のカウンターウェイト式の天秤形投石機に似ているが、こちらは純粋に人手や馬などの力で石を飛ばす形になっている。下図もその一種である。


牽引式天秤型投石機

 左側のカギの部分に紐を付けて右側の方に紐を伸ばして数人で一斉に紐を引いて石を飛ばす。構造が極めて単純で捩りタイプなどに比べて故障も少なく、速射生にも優れていた。例えば、1147年にリスボンを攻撃したキリスト教徒軍は10時間の間に2台の投石機で五千発の石を発射している。十五秒に一発のペースで十時間ぶっとうしで撃ち続けたのだ。十五秒に一発という速射性と、十時間使い続けても壊れない耐久力がウリなのだ。ただ、欠点は人手がかかると言うところだ。リスボンの戦いでは二台の投石機を発射するのに百人の人員が必要だった。交代要員も含めたら、結構な人数になる。大型のものになると250人もの人手が必要になる。

カウンターウェイト式天秤型投石機
 牽引式から発達したタイプがカウンターウェイト式の投石機である。このタイプの投石機は12世紀中頃に地中海岸に現れ、そこからヨーロッパや北アフリカ、中東へと広がっていった。
 牽引式との大きな違いは人が引っ張る紐の代わりに紐が付いていた場所に重しが付いたところである。平均的なもので、重しは4500キロから13600キロになり、45から90キロの石を300メートルくらい飛ばすことができた。カウンターウェイト式は重しを持ち上げ、その重しが落る力を利用して石を飛ばす。構造は単なる天秤だから、重しの付いている方をウィンチなどを使って上にあげて固定する、固定をはずして重しが落ちてくればその力がそのまま天秤を通して石に伝えられるという形だ。
 このタイプの投石機はウィンチなどを使って重しを持ち上げるので発射準備に時間はかかるが人手はそう必要ではない。牽引式に比べて発射速度は劣るが、人手は少なく、発射準備にかける時間と重し次第ではかなり大きな石でも発射できるし、射程や破壊力も拡大できる。
 このカウンターウェイト式に続いて出てきたのが、大砲である。大砲の発達に伴い、投石機は姿を消すことになる。


カウンターウェイト式天秤型投石機

参考文献
「Kelly DeVries著 Medieval Military Technology BROADVIEW 1992」127から140頁
Sir Ralph Payne-Gallwey著 The Crossbow HOLLAND PRESS 1995年」249から315頁:図は全てこの本から(原図は1903年の物)。

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