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文書

目次

  1. ニシンはどこから−−1429年のニシンの戦いに関して−−
  2. 王様の革命−−十四世紀イギリスの軍事革命に関して−−
  3. 海の男の艦隊勤務−−十四世紀の海軍に関して−−

ニシンはどこから−−1429年のニシンの戦いに関して−−

第一章 狂った空想に身を委ね...
 1429年2月、パリから大量の武器弾薬食料を満載した300台の馬車が、オルレアンを包囲中のイギリス軍に向け、1500名のイギリス兵と数千尾の塩漬けニシンに護衛されて出発した。補給部隊の到来を知ったオルレアンを守るフランス・スコットランド連合軍は補給部隊を迎撃すべく7000の兵を差し向けたが、フランス軍主力の4000名の到着が遅れ、しびれを切らした400名の自殺志願者スコットランド神風部隊は補給部隊に特攻を敢行してしまう(1)。だが、補給部隊を守るのはドクターイービルの開発したミュータントスズキに鍛えあげられた粗野で短気で獰猛な塩漬けニシン達だった(2)。塩漬けニシンは目にも止まらぬスピードとノリで、次々とスコットランド兵の頭を噛み砕いた。スコットランド兵も負けじと、バグパイプのリズムに合わせてスカートをひらめかせ、ニシンの群れに突っ込んでは、自爆してニシン達を吹き飛ばした。されど、ニシンはスコットランド兵の自爆ごときでひるむ柔な魚じゃない。その昔アーサー王を震え上がらせたニの騎士は、なんとニシンで森一番の巨木を切り倒せると豪語した(3)。そう、ニシンは巨木を切り倒せるほど丈夫に出来ているのだ。しかし、一人二人ならともかく四〇〇人ものスコットランド人が自爆するとなると、さしものニシンもかなわん。塩で血を洗う激しい戦いが終わってみると、一面にニシンとスコットランド兵の死体が類々と転がる結果となった。スコットランド兵はどうでもいいが、ニシン達の余りにタフでアグレッシブな戦い振りと、彼らのおびただしい量の死体に驚いたフランス、イギリスの将兵達は、ニシン達の勇猛を永久に伝えるべく、この戦いをニシンの戦いと名付けた(4)。さて、この勇猛果敢にして粗野で短気で獰猛な塩漬けニシン達はどこから来たのだろうか?

第二章 ニシンは偉い
 ニシンはヨーロッパのみならず日本でも安価で庶民的な魚として親しまれてきた。ニシンは産卵期に大挙して沿岸部に押し寄せてくる。日本だと17世紀から1950年代頃まで北海道沿岸に春頃に現れ(1)、ヨーロッパではデンマークやノルウェー沿岸等に夏頃現れる(2)。ヨーロッパでも日本でも、ニシンは海が真っ黒になるくらいの大群で現れるので、網を落として取りたい放題とれたようだ。そのお陰で安価でもあった。
 ヨーロッパでは復活祭前の四〇日間の四句節時期、春分直前あたりに、肉を食べることが禁じられるので、肉の代用として魚が食された。その中でも安価なニシンは四句節には無くてはならない魚だった。しかし、この四〇日間、ニシンばかり食うのは相当ストレスが貯まるらしく、四句節が終わるとニシン踏みのお祭りが行われ、皆思う存分ニシンを踏みにじって楽しんだ(3)。四句節にニシンを食うのはキリスト教の断食が起源というわけではない。ニシンは古代ゲルマン信仰の中で太陽を象徴するものと見なされていたらしい。太陽神は「ヘーリングスケーニヒ」、「ニシンの王」と呼ばれており、ニシンは太陽神の取り巻きと考えられ、ゲルマン人の間では新年や夏至冬至に豊穣を願ってニシンを食べる習慣があった(4)。ヨーロッパでは何か季節の変わり目になるとニシンばかり食べるようになるらしい。日本でもニシンはアイヌの民から「カムイチェップ」、「神魚」と呼ばれて敬われており、日本海沿岸のニシンの漁場では春になるとニシンを迎える為のお祭りが開かれていた(5)。ようするに、ニシンは季節を運ぶ神の使いであり、庶民の食卓を賑わす庶民の味方でもあり、とっても偉い魚なのである。


ニシン 全長30cm
「鈴木勤編 カラー図鑑百科3魚貝 世界文化社 1971年」16頁より

第三章 ニシンをどこで
 イギリス軍はニシンをどこで入手したのだろうか。補給部隊の物資はパリで調達されたものだった(1)。と言うことは、パリの市場で入手した可能性が大きい。
 ニシンの戦いから約80年前に発布されたパリ市に対するジャン二世の勅令に、パリで販売されるニシンについての規定がある。これによるとニシン千尾の最高価格は十二ドニエで、他の魚なら一篭で六ドニエである。一篭の魚の量は鯖なら六十尾で、鱒なら十二尾である(2)。要するに、ニシン千尾は鯖百二十尾、鱒二十四尾と同じ価格だから、おおよそ鯖の1/10、鱒の1/40の価値しかない。それに十二ドニエと言えば、見習い大工の日給の二倍で、最も易い黒パンを4kg買える額である(3)。とにかく、ニシンはパリでも安い。生ニシンについての規定があるところからすると、近海物のニシンもあったようだ。だが、規定の中で特に生ニシン以外は薫製に出来ないと規定しているところからすると、入荷するニシンの多くは加工品のように見受けられる(4)。塩漬けニシンの製造年による販売規制もある。二年以内の品であれば自由に売れるが、それ以上たった品は売る場所が制限され、販売する時に年代物のニシンだと申告しなければならない。そして、塩漬けニシンが大樽で入荷されると規定される所からすると、塩漬けニシンは生ニシンとして入荷されて塩漬けにされるのではなく、最初から塩漬けニシンとして入ってくるようである。それと、年代物の塩漬けニシンが来ると言うことは結構遠方から入荷している可能性もある(5)。これらから分かることは塩漬けニシンはパリで極めて容易に安価で購入可能であり、塩漬けはパリでは行われない、ということである。

第四章 ニシンはどこから(スカネールから)
 ニシンはパリで入手した。ならば、どこからパリに来たのだろうか?
 ニシンはヨーロッパではデンマークとか、ノルウェーとか北の方にやってくることが分かっている。と言うことはフランス北部の港町から来た可能性が大きいだろう。
 当時、ヨーロッパ北部の商業を牛耳っていたのはドイツ・ハンザ商人であるが、イギリスやオランダ商人が台頭し、ハンザ商人達と激しく争っていた時期でもある。しかし、1429年の段階ではハンザ商人の優位は覆されていない(1)。ニシン貿易も殆どハンザの独占状態にあった。当時のニシンの一大産地はデンマークのスカネールである。スカネールでは毎年8月15日から10月9日迄がニシンの漁期であると定められており、8月24日以前に塩漬けされたニシンは劣等品の扱いを受けた。それで、漁期の最盛期は9月頃になった。漁は独立のデンマークの漁師やハンザ商人の雇ったドイツの漁師が行った。捕ったニシンはハンザ商人が管理する加工場に陸揚げし、選別と加工と梱包が行われた。これらの作業をこなすのはハンザ商人の雇った現地の女性である(2)。そう、にいちゃん達が海に出て、捕ってきたニシンはねえちゃん達がさばくのである。
 無精ひげのに合う筋骨隆々としたでかい胸と尻の馬鹿でっかい図体のマッチョなデンマークのにいちゃん達の大木のような腕から放たれた網に掛かったニシンはスカネール港に運ばれ、港で待つでかい胸と尻の馬鹿でっかい図体のグラマナスなねえちゃん達に渡される。グラマナスなねえちゃん達は雪のように白く透き通った肌のたくましい腕を振るい、ナタのような包丁でニシン達の頭を叩き落とし、返す包丁でニシンの腹を切り裂き内蔵を引きずり出す。北方美人のねえちゃん達に身支度を整えられたニシンは塩をたっぷりとかけられ、大きな樽の中に詰められていく。メルヘンだなーー。いっちまいそうだぜ。
 塩漬けニシンはハンザ商人の手でまず、バルト海側のリューベックへ送られ、そこから北海側の陸路ハンブルクへ送られる(3)。ハンブルクから北海を渡り、北海岸はおろかイギリス海峡を越え大西洋岸の港町へと輸出されていく。
 ニシンを塩漬けにする塩はどこから来たのだろうか。リューベックの南にあるリューネブルクでとれる塩が使われていたようである。他にもフランスのべー産の塩が使われたが、量はわずかだった。スカネールの市場をハンザ商人が独占できた理由の一つがこのリューネブルク産の塩だった(4)
 そうすると、ニシンの戦いで飛び散ったニシンはスカネール近海でとれ、リューネブルクでとれた塩を使ってデンマークの美白美人が加工したハンザ印の塩漬けニシンだったのではと考えられる。

第五章 ニシンはどこから(アムステルダムから)
 1420年代にはノルウェー近海で操業していたオランダ漁民のとったニシンがフランスのベー産の塩を使って加工され輸出されており、ハンザ印のニシンの驚異になり始めていた(1)
 オランダ人は当初イギリスのヤーマウス港を拠点としてニシン漁を営んでいたが、同港が砂で埋もれて使えなくなると、塩漬け加工能力を持つ大型漁船で北海へ赴き、捕った現場で塩漬けニシンを作り、アムステルダムに運んで、そこからヨーロッパ各地へ輸出した。15世紀初頭、スカネールのニシンの漁獲量が減少しだし、加えてハンザとデンマーク国王が戦争を始めてくれたおかげで、オランダニシンの市場が一気に広がった(2)
 少し細身でプリティな、陽気で金にがめついオランダにいちゃん達は歌って踊りながらニシン達を油断させ、ニシン達も踊りだしたところに網を投げ、一気にニシンを引き上げ、包丁握ってニシンを優雅にさばき、塩をたっぷりぶっかけ、ニシンは塩漬けさようなら、てなぐあいに樽の中へと叩き込む。一連の動作が一つのダンスのよう。アホみたいに踊り狂ってボロ儲けってね。
 更に、塩についても14世紀後半からリューネブルク産より安価なフランス西海岸のベー産の塩が台頭してくる。リューネブルクの塩はハンザが抑えていたが、ベイの塩はオランダ商人が抑えていた。そして、安価なベーの塩はリューネブルクの塩を圧迫した。例えば15世紀後半にはプロイセンのハンザ都市ダンチッヒですら、リューネブルク塩ではなくベー塩の方を盛んに輸入するようになっている(3)
 ニシンも、塩も当初はハンザの独占商品であったが、14世紀頃からオランダ商人が台頭し、15世紀後半にはオランダ商人に独占を突き崩されて商業的優位すら奪われたようだ。ニシンの戦いは、ハンザニシンがオランダニシンに取って代わられるちょうど過渡期に行われた戦いであるから、ニシンの戦いのニシンがオランダ印のニシンであった可能性も大いにある。

終章
 ニシンの戦いのニシンは、デンマークから来たか、オランダから来たかは、分からない。もしかすると近海物か全く違うところから来たかもしれない。可能性としてはスカネールか、オランダが最も大きいのだろう。そうすると、スカネールからフランス沿岸までハンザ商人が運び、或いはアムステルダムからフランス沿岸までオランダ商人が運び、そこからパリ迄はフランスの商人が運び、パリでイギリス軍が買い付け、オルレアンへと運ばれたのだろう。実際の所、ニシンの戦いのニシンがどこから来たのかの確証は得られない。あくまでも、当時の状況に照らした推測だけである。
 おー、すげー。小さな戦いから、北部ヨーロッパ全域に関わる商業へと考えを広げてくのは気持ちいーぜ。あんまり気持ちよくて、またいっちまいそうだぜ。
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塩漬けニシンの流通ルート

注釈
第一章

  1. 釈なんて面倒なシステム、誰が考えたんだ。自殺志願でスカートはいてバグパイプ吹くしか脳のないスコットランド神風部隊の勇姿はビデオ「モンティパイソンフライングサーカス第3シリーズ第4巻 ポリドール」第二話にある。奴らは天皇の為に志願し、日本人教官山本の指導によりエディンバラ城で秘密の訓練を受けた三万人の隊員を要するエリート部隊で、頭を叩き壊さないと自爆するとってもお茶目な兵器だ。しかし、ロシアの不発スコットランド兵処理班のウォッカによりあっさりと片づけられてしまう。情けない兵器でもある。
  2. 漬けニシンの師匠ミュータントスズキは機関銃で武装した悪の秘密結社の社員の頭を一発でミンチにできる。ミュータントスズキの勇姿はビデオ「オースティンパワーズ ポニーキャニオン」で余すところなく鑑賞できる。ミュータントスズキに頭を食いちぎられた秘密結社の社員の友人達のエピソードはお涙ものだ。そして、その弟子たる塩の採りすぎで頭の壊れた塩漬けニシンもいかれ野郎の頭を一瞬でミンチにできるんだろう。
  3. の騎士の恐ろしさはビデオ「モンティパイソン アンド ホーリーグレイル 東北新社」に描かれている。彼はアーサー王に低木を献上させ、ニシンで森一番の大木を切り倒せと要求する。アーサー王はあまりの恐ろしさに、何も見なかったことにしてその場を立ち去ってしまう。二の騎士が「ニシンで!」と叫ぶシーンは圧巻だ。
  4. ともなことは「レジーヌ・ペルヌー/マリ=ヴェロニック・クラン著 福本直之訳 ジャンヌ・ダルク 東京書籍 1992年」378から380頁、「木村尚三郎編 世界の戦争5 中世と騎士の戦争 講談社 1985年」211頁、「堀越孝一著 ジャンヌ=ダルクの百年戦争 清水書院 1984年」38から41頁、「ジャン=ポール・エチュヴェリー著 大谷暢順訳 百年戦争とリッシュモン大元帥 河出書房新社 1991年」172頁、最も詳しいのは「レジーヌ・ペルヌー著 高山一彦訳 オルレアンの解放 白水社 1986年」119から123頁。原典史料として「パリ一市民の日記」、「オルレアン篭城日記」、「モンストルレの年代記」がある。

第二章

  1. 「高村象平著 ハンザの経済史的研究 筑摩書房 1980年」109頁。
  2. 「今田光夫著 ニシン文化史 共同文化社 1986年」144から145頁
  3. 「石井美樹子著 中世の食卓から 筑摩書房 1991年」56から65頁。
  4. 「日置孝次郎著 Hering「鰊」の語源について−比較言語学的一考察− 岩手大学 Artes liberales24 1979年」1から3頁。
  5. 「今田光夫著 ニシン文化史 共同文化社 1986年」15頁

第三章

  1. 「木村尚三郎編 世界の戦争5 中世と騎士の戦争 講談社 1985年」211頁、「堀越孝一著 ジャンヌ=ダルクの百年戦争 清水書院 1984年」39頁
  2. 「高橋清徳著 パリ市の一般警察および諸職に関する国王ジャン二世の勅令(1351.1.31) 千葉大学法学論集1−2 1987年」。魚関係は全て第八編に含まれ、価格は第十九条、一篭辺りの鯖の量は第三十三条、鱒は第三十四条にある。
  3. 大工の給料は「高橋清徳著 中世パリの大工職−−パリ同業者規約集四十七篇 訳・註解−− 千葉大学法経研究12 1982年」の第二条に規定されている。黒パンの価格は「高橋清徳著 パリ市の一般警察および諸職に関する国王ジャン二世の勅令(1351.1.31) 千葉大学法学論集1−2 1987年」第二編第三二条。
  4. 「高橋清徳著 パリ市の一般警察および諸職に関する国王ジャン二世の勅令(1351.1.31) 千葉大学法学論集1−2 1987年」。生ニシンの規定は第八編第三十七条。
  5. 「高橋清徳著 パリ市の一般警察および諸職に関する国王ジャン二世の勅令(1351.1.31) 千葉大学法学論集1−2 1987年」。塩漬けニシンの規定は第八編第四十四条。

第四章

  1. 「高橋理著 ハンザ同盟 教育社 1980年」212から225頁
  2. 「高村象平著 ハンザの経済史的研究 筑摩書房 1980年」107から109頁。
  3. 「谷沢毅著 ハンザ盛期におけるバルト海・北海間の内陸易路−−リューベック・オルデスロー・ハンブルク−− 社会経済史学63−4 1997年」99から100頁
  4. 「高村象平著 ハンザの経済史的研究 筑摩書房 1980年」114から115頁。

第五章

  1. 「高村象平著 ハンザの経済史的研究 筑摩書房 1980年」121頁。
  2. 「高村象平著 ハンザの経済史的研究 筑摩書房 1980年」131から132頁。
  3. 「谷沢毅著 15世紀末リューベックのバルト海貿易 長崎県立大学論集32−4 1999年」37頁。

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王様の革命−−十四世紀イギリスの軍事革命に関して−−

第一章 近頃
 近頃、欧米の学会が「軍事革命、軍事革命」とやたらうるさい。どうも、十六から十九世紀のヨーロッパにおける軍事力の飛躍的な増大を「軍事革命」と言って騒ぎ立てているようだ。ところが、今度は十六世紀では気にいらん、「軍事革命」はもっと速く始まったという人が出てきて、話がややこしくなっている。何か新しいムーブメントが始まると、その起源をやたらと古くしたがる人が必ず出てくる。だから気にする必要はないかもしれんが、それがエドワード三世に関わるとなると話は別だ(1)。これは調べねば気色悪いし、調べれば気持ちよさそうである。さてそこで、エドワード三世の軍事革命とはいかなるものか一発ヌいてみよう。

第二章 騎士
 中世と言えば騎士である。騎士と言えばでかい槍もって大げさな鎧着けて馬に乗ってる変な奴である。フロイトによると槍とはチンチンの象徴であり、馬に乗るとはSexするという意味だそうだ。そう、騎士とはでかいチンチン振りかざして犯りまくるとんでもなくスケベな連中でなのだ(1)。しかし、犯るのは好きだが犯られるのは大嫌い、だから大げさな鎧で貞操を守る臆病者でもある。そのせいか奴らの戦いは戦死者が異様に少ない。1127年のフランドル戦争では千名以上の騎士が激突したが、死者は一人だけ。1214年のブーヴィーヌの戦いではフランス騎士三千人の内、戦死者は二人。1217年のリンコルの戦いでは三人しか死なず、1119年のブレムールの戦いでは九百人の騎士が激突して戦死者三人と、とにかく死傷者が少ない。死傷者が少ないのにはもう一つ理由がある。殺すより捕虜にして身代金を取った方が徳なのだ。相手に軽く一物叩き込み、気持ちいい思いをしたら、ひっくり返った相手を捕まえて身内から身代金をふんだくる。騎士同士の戦争は勝つと二重に美味しく、死ぬ心配がない(2)。騎士達が戦いの準備をしている間、騎士を守るのが歩兵の役目である。歩兵は騎士がお化粧直しをしている間、槍襖とクロスボウの弾幕で壁を作り騎士の控え室を守るのだ(3)。相手の騎士も歩兵相手じゃ金にならんし、痛そうだからたいていは敵の準備を待っている。準備が出来たら、歩兵は後ろに下がって、花々しい騎士同士によるチンチンのつつき合いが始まる。これが中世の戦争の実態だったようだ。

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ブレムールの戦い
14世紀のフランス大年代記のミニアチュール

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ブーヴィーヌの戦い
14世紀のフランス大年代記のミニアチュール

第三章 血塗れ天使が舞い降りた
 十四世紀に入り、騎士がイイ思いできる時代にも終わりが訪れた。この頃、騎士軍が市民歩兵軍に撃ち破られる事件が多発した。騎士同士の戦いと異なり、歩兵に対する戦いでは夥しい数の死者がでる。1302年のクールトレーの戦いではフランス騎士三千の内(1)、四十から五十%の騎士が失われ(2)、1311年のケピションの戦いではこの戦いに参加した七百名のフランス騎士で生き残ったのは二人だけ(3)、1314年のバノックバーンの戦いでは数百名のイギリス騎士が戦死した(4)。この原因は歩兵の戦闘隊形と武器にあった。たいてい歩兵は密集隊形を取り、捕虜を取ろうと隊列を離れると隊列が乱れるので捕虜を取るわけにはいかない。だから殺してしまう。それと、歩兵の武器の主力はハルバート、弓、クロスボウである。これらの武器の特性上、騎士が手に届く範囲に来る前に騎士を殺してしまうことが多い。それと、歩兵の大多数を構成する市民や農民には戦闘で捕虜を取るとかいう感覚は薄い(5)。騎士同士の優雅なチンチンのつつき合いと違い、市民歩兵は死に物狂いで相手を殺そうとする。と言ったところのようだ。
 十四世紀初め頃の歩兵軍の立て続けの勝利は地形や騎士軍のミスによるもので、新たな戦術の登場というわけではないようだ(6)。例えば、クールトレーの戦いではフランドル歩兵は河が背後にあり、沼が前面にある地点に布陣した。兵力はフランドルが一万人前後で、フランス軍が騎士三千、歩兵五千くらい。最初にクロスボウによる射撃戦が始まり、続いてフランス軍は歩兵を前進させた。フランス歩兵はフランドル歩兵を圧倒し、そのまま行けば勝利できそうであったが、チンチンいきり立たせて待っていた騎士達がこのままじゃ自分達が楽しめないと怒りだし歩兵に退却命令を出した。騎士達は沼を無理矢理押し渡ろうとしたが、馬が泥に足を取られて上手く進めず、かろうじてフランドル歩兵の元に達した騎士は槍襖をつらねて待っていたフランドル歩兵にあっさりと撃破されてしまう。勢いに乗ったフランドル歩兵は逆に突撃に移り、沼に馬の足を取られて動けなくなっていた騎士達を手当たり次第にぶっ殺した。結局この戦いはフランス軍の判断ミスによる勝利と言うことだそうだ(7)

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クールトレーの戦い
14世紀のフランス大年代記のミニアチュール

 バノックバーンの戦いも殆ど同じ様な流れで、イギリス騎士軍はスコットランド歩兵軍に大敗している。こちらも最初は弓の撃ち合いで始まったが、イギリス軍は歩兵ではなく、いきなり騎士軍を突撃させて、いきなり敗退した。ただ、こちらの場合、沼ではなくそこら中に穴ボコが掘ってあり、次にでかい溝があり、溝を越えるとようやく三面を森に囲まれた平坦な場所に出ると言った地形で、平坦地の奥にスコットランド軍が布陣していた。イギリス騎士軍は穴ボコや溝を苦労して乗り越えてようやく、スコットランド軍の元にたどり着く頃にはバラバラで、そこには槍襖が待っていてあっさりと撃ち破られた(8)

第四章 エドワード立つ
 1327年に即位したエドワード三世は従来の騎士軍の終わりを敏感に感じ取っていたのか、エドワード一世頃から始まったイギリス軍の改革を一気に加速した。まず、エドワード一世により導入されたウェールズ長弓が改良され、長弓の長さが四フィートから六フィートに延ばされ破壊力が25%アップされた(1)
 そして、エドワード二世が1322年にバラブリシッジの戦いで試した新戦術が本格的に導入された。この戦術とは騎士を下馬させ市民歩兵がやるように密集して槍襖を築き、両翼に弓兵を配して騎士を援護させる方法で、この戦術を実行するために編成上の改革も試されている。従来、騎士は従者をつれて自らの判断で勝手に戦闘を行っていたが、従者を騎士から切り離し、兵種毎に編成し直した。それにより、騎士も騎士が連れてきた弓兵も総指揮官指導の元にまとめて運用できるようになったのである(2)。バラブリッジの戦いはオユーズ河を挟んでエドワード二世派の軍とランカスター伯トーマス率いる反乱軍が対峙する形で始まった。エドワード王軍はオユーズ河にかかる橋の前に騎士を下馬させ、他の歩兵達と共に中央に配置し、歩兵達の両翼に弓兵を配置した。少し離れた浅瀬にも同様の編成で部隊を配置した。一方、ランカスター軍は従来の騎士と従者ごちゃ混ぜ編成で、橋に主力を配置し、浅瀬にも部隊を派遣し、王軍へ突撃を行った。しかし、前進中に弓兵からさんざん打たれまくり、たどり着いたところを槍襖でつつきまわされて退却を余儀なくされた(3)。ここに火力部隊と白兵部隊の有機的運用を可能にした新戦術が現れてきたのである。


イギリス軍の戦術
中央に歩兵を配し、両翼に弓兵を配置する。

 1335年にエドワード三世がスコットランドへ遠征した時、新たな兵種が育ってきていた。この時の動員兵力は一万三千名、その中に約三千四百名の騎馬弓兵がおり、その内約千四百名が弓兵部隊としてひとまとめに編成されていた。戦場での騎馬弓兵の数は次第に増大し、逆に徒歩の弓兵は減少した。1335年のスコットランド遠征では兵力一万三千の内、六千以上が歩兵だったが、1342年のブリタニー遠征では五千三百名の内、歩兵は千七百名に過ぎず、1359年のフランス遠征では一万万名の内、歩兵は僅か一割に過ぎなかった。軍全体の騎馬化が進んでいた。歩兵が減少した原因は歩兵の最大の供給源である、州毎の動員が行われなくなったことにある。同時に、騎士に対する騎馬弓兵の比率も増大し始めていた。エドワード三世の時世は騎士と騎馬弓兵の数はほぼ同じなのだが、リチャード二世の時世には騎馬弓兵の方が多くなり、ランカスター朝の時代に入る頃には騎馬弓兵と騎士の比は三対一になり、ランカスター朝の終わり頃には十対一にまで騎馬弓兵が増大している。騎馬弓兵の増大は従軍する騎士層や富裕農民層の意識の変化によるようだ。騎士層や富裕農民層は騎士と弓兵の社会的経済的地位の差が殆どないと考えるようになり、富裕農民層は弓兵と騎士が同じ身分だからと馬に乗るようになり、騎士達は従来の重い鎧と槍という装備から弓へと装備を変えていったようだ。この軍は乗馬して移動を行い、戦場で下馬し、馬を陣地の背後に置いて戦った。戦場で乗馬するのは勝利して追撃を行う時か、敗北して逃げ出す時くらいに限られていた(4)

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イギリスのスコットランド遠征
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 エドワード三世の時世に王、或いは王に任命された指揮官により一括して指揮される弓兵と騎士の兵種に別れた騎馬軍が完成され、戦術も中央に密集歩兵を配置し、両翼に弓兵を配置して中央の歩兵を援護するとした形が整えられた。この軍は騎行のため迅速に移動でき、戦場では白兵戦力と火力戦力を発揮できる新しい形の軍であった。
 但し、弓の力を過大に評価するのは避けたほうがいい。1415年のアザンクールの戦いで、弓は馬にしか効果が無く、フランス第一陣の騎馬隊撃破は成功したが、徒歩で来た第二陣には精神的な効果しかなく、敵を幾分動揺させ、隊列を幾分乱す効果があったに過ぎなかったようだ。しかし、この場合重要なのは白兵戦に至る迄に相手の隊列を乱すことにあるので、その意味では十分に効果があったようだ(5)

第五章 いっ、くっ
 三代に渡るエドワード王の「軍事革命」の呪いは三代目にして成就した。王軍は王を中心とした高機動で破壊力のある軍として完成した。しかし、より中途半端な「フランス征服」の呪いは成就せず、次代のランカスター朝に受け継がれ、ついには成就できなかった。
 戦場へ向かう間は獣欲の固まりみたいな騎士共と一緒に幾分冷静な商人やら農民も性欲の象徴たる馬に乗っけて気をはやらせて急がせる。欲望渦巻く戦場についたら、はやる奴らを馬から引きずり下ろして頭とあそこに冷や水ぶっかけ、冷静に敵をぶっ殺すことだけを指導する。敵は馬に乗って猛り狂うチンチン振り回して突っ込んでくるしか能ないから、少し冷静になれば簡単にぶっ殺せるというわけだ。それに敵が来るまでお預けくって待ってたせいで優雅なつつき合いなんてできゃしない。獣欲に任せて徹底的に犯りまくるから死人が出まくる、出まくる。
 なんて、素晴らしい。エドワード王達はより効率よく犯る方法を模索した結果、騎馬で迅速に移動し、戦場では火力の支援下で集団戦闘を実施できる新型軍にたどり着いたのだ。

注釈
第一章

  1. かし、注釈とはめんどくさい。たまには制約ヌキで、思いっきりめちゃくちゃカイてみたいものだ。「軍事革命」論については、軍事革命十四世紀論も含めて「大久保桂子著 ヨーロッパ「軍事革命」論の射程 思想881 1997年」に概要がある。前倒しを主張したのは「Clifford.J.Rogers著 The Military Revolutions of the Hundred Years'War THE JOURNAL OF MILITARY HISTORY 57 1993年」である。

第二章

  1. 「フロイト著 安田徳太郎/安田一郎訳 精神分析入門 角川書店 1970年」171から173頁。
  2. 「Clifford.J.Rogers著 The Military Revolutions of the Hundred Years'War THE JOURNAL OF MILITARY HISTORY 57 1993年」255と256頁。
  3. 「Clifford.J.Rogers著 The Military Revolutions of the Hundred Years'War THE JOURNAL OF MILITARY HISTORY 57 1993年」245頁。

第三章

  1. 「Kelly DeVries著 Infantry Warfare In The Early Fourteenth Century BOYDELL 1996年」14頁。
  2. 「Kelly DeVries著 Infantry Warfare In The Early Fourteenth Century BOYDELL 1996年」19頁。
  3. 「Kelly DeVries著 Infantry Warfare In The Early Fourteenth Century BOYDELL 1996年」64頁。
  4. 「Kelly DeVries著 Infantry Warfare In The Early Fourteenth Century BOYDELL 1996年」82頁。
  5. 「Clifford.J.Rogers著 The Military Revolutions of the Hundred Years'War THE JOURNAL OF MILITARY HISTORY 57 1993年」256と257頁。
  6. 「Clifford.J.Rogers著 The Military Revolutions of the Hundred Years'War THE JOURNAL OF MILITARY HISTORY 57 1993年」247と248頁。
  7. ートルレーの戦いの流れについては「Kelly DeVries著 Infantry Warfare In The Early Fourteenth Century BOYDELL 1996年」12から19頁。評価は「Clifford.J.Rogers著 The Military Revolutions of the Hundred Years'War THE JOURNAL OF MILITARY HISTORY 57 1993年」248頁。
  8. 「Kelly DeVries著 Infantry Warfare In The Early Fourteenth Century BOYDELL 1996年」72から81頁。

第四章

  1. 「Clifford.J.Rogers著 The Military Revolutions of the Hundred Years'War THE JOURNAL OF MILITARY HISTORY 57 1993年」249頁。
  2. こは「Clifford.J.Rogers著 The Military Revolutions of the Hundred Years'War THE JOURNAL OF MILITARY HISTORY 57 1993年」251頁と「Andrew Ayton著 Knights and Warhorses BOYDELL 1994年」12と13と18から21頁、「Kelly DeVries著 Infantry Warfare In The Early Fourteenth Century BOYDELL 1996年」93と94頁の説のごちゃ混ぜ。
  3. 「Kelly DeVries著 Infantry Warfare In The Early Fourteenth Century BOYDELL 1996年」93から97頁。
  4. 「Andrew Ayton著 Knights and Warhorses BOYDELL 1994年」10と21頁。
  5. 「John.Keegan著 The Face of Batttle PIMLICO 1991年」98頁。

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海の男の艦隊勤務−−十四世紀の海軍に関して−−

第一章 百年戦争好きの女子高生なんているのかい?
 海の男はセーラマーン、セーラーマーンの制服セーラーフーク、セーラーフークなら女子高生、おいらはセーラーフークよりブレザーがスーキ、フークよーり当然中身がスーキ、中身は当然女子高生、好みを言うならメガネっ子、肩に掛かるくらいのセミロングー、二重で鼻筋通った丸顔のー、笑顔の似合う可愛い子ー、趣味は当然史料調べー、百年戦争の史料調べが好きな子がー、おいらにゃ一番好みだなー。そーんな、変な子いるわきゃない!(1)
 ってなことで、海の男の艦隊勤務ー、月月火水木金金じゃない百年戦争の海軍のことについて調べてみよう。

第二章 船の種類はどんなもの?
海軍語るにゃ、最初はやっぱり船の種類から行くが、本道だろう。
 英仏百年戦争で使われた船種は大きく分けて帆船と手漕船である。イギリスは主に北ヨーロッパでもっとも一般的なコッゲと呼ばれた帆船と戦闘専門艦としてバージと呼ばれる手漕船を使い、フランスはコッゲ船とイタリアで建設された手漕船のガレーを使い、フランスと同盟していたカスティリアはガレーと地中海形のカラベルと呼ばれる大型帆船を使っていた(1)
 コッゲ船はバイキング船の発達した形で、バイキング船と同様に船首と船尾が同型で船体は鎧張りで作られ、四角い帆を持つ一本マストを有している。バイキング船と違い、櫂はなく、舵は両舷に一つづつの二つではなく、船尾に一つの現代と同じような舵である。櫂がなく二つの舵を持つ船はネフと呼ばれ、その後消え去ったようだ。コッゲ船の船尾舵はその後、地中海にも広がり、舵の主流になる。同時に積載量を増やすために船体も130トン位の積載量を持つほどに巨大化した。そして、船首と船尾部分に乗り込み戦闘や弓などの射撃兵器を利用するための戦闘甲板たる楼閣が備え付けられるようになった。コッゲ船がさらに巨大化し、最大で200トンクラスのホルクと呼ばれる船も登場する。しかし、ホルクについては史料が余り残っておらず、コッゲとの違いがよくわかっていないが、コッゲ船より船体が大きく船首と船尾楼が船体と一体化して巨大化しているのが特徴のようだ。百年戦争で使われたのはこのホルク船のように見受けられる。といっても、ホルクはたいていはコッゲ船の一種として分類されることが多いので、コッゲ船と記載されることが多い(2)


左がコッゲの船体図、右がホルクの船体図
「The Evolution of The Wooden Ship 1988年」に掲載されたコッゲとホルクのスケッチ。
「Richard W.Unger編 Cogs,Carauels and Galleons The Sailing Ship 1000-1650 CHARTWELL BOOKS 1994年」45頁より

 バージは手漕船だが、ガレーと違って衝角がなく、単なる大きなはしけだったようだ。戦闘時には風任せの帆走より、自由度の高い手漕ぎの方が有利であるところから戦闘艦として利用されたようだ(3)
 そして、純戦闘用といえるのがガレーである。ガレーは手漕ぎで活動の自由度が大きく、乗り込みや射撃兵器による攻撃の他に衝角による攻撃も可能であったが、大型のコッゲ船にガレー船が衝角を打ち込むと、衝角を引き抜く前にコッゲ船の高い位置からの攻撃にされされたり、沈没に巻き込まれる恐れが大きく、衝角の利用は容易ではなかったようだ。そこで、突き刺した後で衝角を切り離して迅速に離脱できるように改造されたガレー船も作られ、カスティリア海軍がラロシュ海戦で使ったようだが、やはりリスクの方が大きいと感じられたせいか、北方では衝角による攻撃は余り行われなかったようである。ま、コッゲ娘はおぼこなら、突っ込んだとたんに痙攣起こして痛い思いをした上に、病院送りになって恥ずかしい思いをしなけりゃならないし、テクニシャンなら突っ込んだとたんに一物相手の穴芸を披露され、一物捕まれ動けなくなったところを、びんたにパンチ、しまいにゃロウソク垂らされ、鞭でしばかれボロボロにされてしまう。こんな恐ろしいコッゲ娘にガレー兄ちゃんも自慢の一物突っ込むのはオソロしかことだろう。だから、コッゲ相手には、ガレーもバージと同様に柔軟な機動力と火力を利用した戦闘を行っていたようだ(4)
 カラベル船はラテーン帆と言われる三角形の縦帆を持つ帆船である。カラベルとは平張りと言う意味で、カラベル船は船体が平張りで作られているところから名付けられた名なのである(5)

第三章 船を沈めるにゃどうするの?
 エドワード三世の時世に行われた海戦といえるような戦いは1340年のスロイス、1350年のウィンチェルシー、1372年のラロシュの三回しかない。なぜこれだけ少ないかというと、当時は制海権を取るとか、敵主力艦隊の殲滅を目指すというような言う感覚がなく、海軍の主要な任務は陸軍の輸送だからである(1)。それでも軍艦が軍艦としてどのように戦うか見てみないことには当時の軍艦がどのようなものかがわからない。そこで、3つの海戦を概観してみる。
 スロイス海戦はイギリス艦隊がスロイスに停泊するフランス艦隊を攻撃したことにより始まった。戦力はイギリス艦隊が160隻で、フランス艦隊は500隻だったと考えられている(2)。両軍は早朝にスロイス港近海で対陣した。フランス艦隊は3つの集団に分かれ、他にカスティリア艦隊が一つの集団を形成していて多様だ。フランス艦隊の各集団は、集団内の各船を鎖で繋ぎ密集してイギリス艦隊へ突撃を行ったが、どうもイギリス軍は奇襲に成功したようで、フランス艦隊は人員不足の状態で出撃していた。更に、イギリス艦隊は風上に立ち、太陽を背にする位置につき、有利な地点をも押さえ、圧倒的に有利な状態にあった。最初はイギリス側も3つの集団に分かれ、集団毎に弓やクロスボウによる射撃戦が行われていた。続いてイギリス側は艦隊を集結させ、カスティリア艦隊を引きつけるために分遣隊を出し、本隊がフランスの3つの集団を一つづつ潰す作戦に出ている。最初に攻撃を受けた集団は人員不足の上に兵力が各船に分散されていたためにイギリス側の乗り込み戦闘で簡単に制圧された。第二集団も第一集団と同様に兵力不足の上に第一集団の末路を見たためか士気の低下が著しく、イギリス艦隊の攻撃が始まると大半の兵が艦から海に飛び込み逃亡してしまった。最後の集団を攻撃する頃には夜になっており、最も小さな集団だった第三集団の三〇隻はこの暗闇を利して逃亡した。フランス艦隊の敗北によりカスティリア艦隊は降伏、或いは逃走した。この戦いでイギリスは二〇〇隻の帆船と三〇隻の手漕船を捕獲した(3)

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スロイス海戦
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 次のウィンチェルシー海戦はスロイスに駐留していたカスティリア艦隊が本国へ帰還する途上をイギリス艦隊が襲撃する形で始まった。カスティリア艦隊の多くは大型帆船で弓やクロスボウはもとより大砲も装備した強力な艦隊だったが、乗船していた兵士はそう多くはなかったようだ。カスティリア艦隊は交戦を避けようとしたが、風向きの関係から逃げられなかった。そこで、カスティリア艦隊は艦の大きさを生かし、上から打ち下ろす形での射撃戦に持っていこうとしたようだが、イギリス艦隊は射撃による損害をものともせずに肉薄し、白兵戦に引きずり込み、カスティリア艦隊をうち破った。カスティリア艦隊は一四隻を失い、残存艦艇40隻は逃げ延びたようだ(4)
 最後のラロシュ海戦はイギリス側が敗北した唯一の海戦である。1372年にアキテーヌのイギリス軍を増強するために3000名の兵を15隻の大型帆船と3隻の戦闘用帆船を含む大凡35隻の船でアキテーヌへと送ったのだった。ラロシュ港にイギリス艦隊が近づいたとき、そこに12隻の戦闘用ガレーで構成されたカスティリア艦隊も近づいていた。両艦隊はラロシュ港近海で激突した。初日は射撃戦と乗り込み戦闘が中心で、この時カスティリアのガレーに備え付けられていた簡単に取り外せる衝角が効果を発揮したようだ。おかげでイギリス軍は2隻のバージと4隻の帆船を失った。日没とともに両艦隊は退却し、ラロシュ港近海の洋上に投錨した。翌日早朝から戦闘が再開され、カスティリア艦隊は油を使ってイギリス艦隊を焼き討ちにし、イギリス艦隊の士気を挫いた。どうやら、火船が使われたようだ。イギリス艦の多くが焼け落ちて沈没し、生き残りは降伏した。旗艦も生き残り、司令官のペンバークと共に降伏した(5)

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ラロシュ海戦
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 この三つの海戦を見る限り、イギリスは乗り込み戦闘が好きなようだ。陸戦で、敵が突撃してくるまで我慢する、戦い方とはえらく違う。とにかく敵船目指して突貫して、強引に相手の体を奪ってしまう、まるでレイプだ。まったく芸がない。少しは工夫というものがほしいね。一方のフランス、と言うよりカスティリア艦隊は大砲まで使って射撃戦を行おうとしたり、特殊な衝角を使ったり、油まで使いと、バラエティーに富んでいる、さすが未来の大航海時代をリードする国家だけのことはある。ま、女を口説くなら、レイプじゃなくてこのくらいの工夫はほしいものだ。しかし、カスティリアがいろいろと工夫しようと主要な戦闘方法は乗り込み戦闘であることには変わりなかったようだ。

第四章 船をふんだくるのはどうやるの?
 海軍を作るにも、船がなければ始まらない。さて、エドワード三世はどのようにおもちゃ、じゃなくて船を手にしたのだろうか。
 イギリス艦隊の艦艇は五種類の方法で集められていた。一つはローヤルネービーならぬ、キングスシップである。簡単に言うと王の持ち船である。自分の持ち物だからどう使おうと王の自由だし、装備も一流、たいていの船は戦闘艦で、大型バージはもとよりガレーもあるが、数が少ない。最も多い時期で四〇隻程度しかなかった。
 二つ目が、沿岸防御の義務と引き替えに王から特権を受けた港からの徴発船である。御用港は一年に一度、一五日間だけ、船員も付属装備や消耗品も含めて五七隻の船を自費で用意して王に貸さなければならない。ただ、基本はこうなんだが、王の希望、或いは御用港側の都合で色々と条件は変わったようだが、船の数と利用期間の制限はある程度増減したにせよ適用されていたようだ。
 三つ目は議会の命令で建造された船で、船の建造費は議会が用立て、管理は議会が指定した諸侯に委ねられたが、これは僅か十数隻しかなかったようだ。多くは戦闘用バージで、特注品だけあり高価で優秀だったようだが、管理を任せられた諸侯が勝手に売却してしまったり、管理を怠り腐らせてしまったりと余り役には立たなかったようだ。
 四つ目は王や諸侯が外国の船を雇う方法である。海の傭兵といったところである。といっても、これはもっぱら輸送用に利用されただけらしい(1)
 さて、五つ目が最も重要かつ最大の調達方法であった。それは、全土の船主に対する強制徴発である。スロイス海戦の時、エドワード三世は無理矢理ひっかき集めてようやく260隻の艦艇を調達できた。しかし、本土防衛のために一〇〇隻を残さざるおえなくなり、実際に投入できた艦艇数は一六〇隻に過ぎなかった。スロイス海戦の後、船主リストの作成や、徴発拒否者に対する懲罰、艦艇徴発のための行政官の地方派遣等々により、艦艇徴発行政を強化した。その結果としてスロイスの海戦から六年後のカレー攻城戦では七〇〇隻に及ぶ船を用意でき、この年に徴発された船は一〇〇〇隻に及んでいる(2)。一〇〇〇隻というと一五世紀に北方貿易を独占していたドイツ・ハンザ籍商船の総数に匹敵する大変な数である(3)。おそらく、商船のみならず漁船に至るまでイギリス中の船が根こそぎ集められたのだろう。それだけのことができる、当時のイギリスの行政機関の能力も大変なものだといえるのかもしれない。同時に、イギリスの船主達の受けた損害も大変なものだろう。イギリスの商人達は十四世紀に入った辺りから活発に活動を始めており、1388年には当時北方貿易を独占していたドイツ・ハンザの牙城たるプロイセンでの自由行動を認められるまでになっているが、ドイツ・ハンザと本格的に衝突を始めるのは十五世紀に入ってからであり、十五世紀後半を通して行われた闘争で勝利を収めたのはハンザであった(4)。イギリス商人の活動の遅れと、十五世紀における闘争の敗北の一因は百年戦争での商船の大規模徴発にあったと、言えるかもしれない。
 1380年以前は徴発された船にかかる費用は徴発された船主が払い、王室からも議会からも援助はなかった。船を失ったり、損傷しても保証金が払われることも滅多になかった。これでは徴発される方はたまったものではない。そのせいか1380年以降は船の積載量に応じた給与が支払われるようになった。金額はだいたい一トンにつき二シリングだった(5)。二シリングというと、騎士装備の兵士に支払われる給与に匹敵する(6)。船一隻につき数十人の騎士に匹敵するくらいの価値があると見られていたと言うことなのだろう。

第五章 またまた革命だ!
 当時の海戦は陸戦と余り変わらない。しかし、次の時代への模索は始まっていた。フランスとイギリス艦隊は相も変わらず乗り込み戦闘ばかり繰り返していたが、未来の大航海国家たるスペインの土台たるカスティリアは違っていた。最初はスロイス、ウィンチェルシーと敗北続きで精彩を欠くカスティリア艦隊であったが、衝角の改良や大砲の利用、油の活用などひと味違う味わいを出している。
 大陸に行くには船がいる。船を持ってるのは商人に漁民のみなさん。そこでエドワードは、王の権力を最大限に使って彼らから船をふんだくって、船をかき集めた。その過程で船をふんだくるための全国規模の行政組織を作り上げたのだった。これは従来の封建契約に基づく封建諸侯の動員による戦争から、全市民を上げた総力戦体制への変革の序曲といえるかもしれない。
 おーおーおー、これはエドワード三世の海の革命みたいじゃないかい。陸軍の動員や編成を変えただけじゃ気が済まず、海軍すらも変えちまったぜい。エドワード三世。なかなかいけてるキャラじゃーねいかい。おいらはまたまたイッちまったぜい。

注釈
第一章

  1. 釈、注釈楽しいなー。みんな揃って本ならべー。ヨーンだホーンを自慢してーってね。全くこんなとこ読んでるやつなんかいないよーー。だからー、いい加減、注釈なんてやめようよー。てなことで、「西川魯介著 SF/フェチスナッチャー 白泉社 2000年」にコーンな感じの可愛いメガネっ子のブレザー系女子高生がたくさん描かれている。残念ながら主人公の髪はショートだ。それに、変態やフェチフェチはたくさん出てくるが歴史フェチは出てこない。うーん、オッタツには十分だが、ヌクには今一歩インパクトが足りない。やっぱり、エドワード三世フェチとか、ジャンヌダルクフェチが出てこないとおいらはヌケないよ。

第二章

  1. 「Richard W.Unger編 Cogs,Carauels and Galleons The Sailing Ship 1000-1650 CHARTWELL BOOKS 1994年」50頁。イギリスのバージ使用については「J.W.Sherborne著 The Hundred year's War --The English Navy:Shipping and Manpower 1369-1389 PAST AND PRESENT37 1967年」168−169頁。
  2. イキング船からコッゲ船への発達は「ビョールラン・ランドストローム著 石原裕次郎監修 世界の帆船 ノーベル書房 1976年」73から82頁、「ロモラ/R.C.アンダーソン 帆船6000年のあゆみ 成山堂書店 1999年」37から54頁、「Richard W.Unger編 Cogs,Carauels and Galleons The Sailing Ship 1000-1650 CHARTWELL BOOKS 1994年」30から37頁。
     コッゲやホルクのトン数や形の違いは「高村象平著 中世都市の諸相 筑摩書房 1980年」264から265頁、「ビョールラン・ランドストローム著 石原裕次郎監修 世界の帆船 ノーベル書房 1976年」82と83頁、「Richard W.Unger編 Cogs,Carauels and Galleons The Sailing Ship 1000-1650 CHARTWELL BOOKS 1994年」44と45頁。
  3. 「J.W.Sherborne著 The Hundred year's War --The English Navy:Shipping and Manpower 1369-1389 PAST AND PRESENT37 1967年」166と167に幾つかのイギリス艦隊構成例が示されているが、どれもガレーとバージを別に分類している。「Richard W.Unger編 Cogs,Carauels and Galleons The Sailing Ship 1000-1650 CHARTWELL BOOKS 1994年」21頁によるとバージは巨大なはしけだと解説されている。おそらく、衝角の有無がガレーとの違いなのだろう。「高村象平著 中世都市の諸相 筑摩書房 1980年」264頁によるとバージは私略船として使われ、「J.W.Sherborne著 The Hundred year's War --The English Navy:Shipping and Manpower 1369-1389 PAST AND PRESENT37 1967年」168から169頁によると戦闘艦を必要とした議会はコッゲ船ではなくバージ船を建造している。
  4. 「Richard W.Unger編 Cogs,Carauels and Galleons The Sailing Ship 1000-1650 CHARTWELL BOOKS 1994年」56頁
  5. 「Richard W.Unger編 Cogs,Carauels and Galleons The Sailing Ship 1000-1650 CHARTWELL BOOKS 1994年」8から9頁

第三章

  1. 「J.S.Kepler著 The Effects of The Battle of Sluys upon The Administration of English Naval Impressment1340-1343 SPECULUM 48-1 1973年」70頁
  2. 「J.S.Kepler著 The Effects of The Battle of Sluys upon The Administration of English Naval Impressment1340-1343 SPECULUM 48-1 1973年」74と75頁
  3. 「Archibald.R.Lewis/Timothy.J.Runyan著 European Naval and Maritime History 300-1500 INDIANA UNIVERSITY PRESS 1985年」125頁。ここの記述はGeoffrey le Bakerの年代記の記述から推測した戦いの流れである。
  4. 「Archibald.R.Lewis/Timothy.J.Runyan著 European Naval and Maritime History 300-1500 INDIANA UNIVERSITY PRESS 1985年」125と126頁。ここの記述はFroissartの年代記の記述から推測した戦いの流れである。カスティリア艦隊の艦艇数は「Anne Curry/Michael Hughes編 Arms,Armies and Fortifications in Hundred Years War BOYDELL 1994年」187と188頁。
  5. 「J.W.Sherborne著 The Battle of La Rochelle and the War at Sea 1372-5  BULLETIN OF THE INSTITUTE OF HISTORICAL RESEARCH VOL.42-NO.103 1969年」18から20頁。カスティリアガレーの衝角については「Richard W.Unger編 Cogs,Carauels and Galleons The Sailing Ship 1000-1650 CHARTWELL BOOKS 1994年」56頁

第四章

  1. 「J.W.Sherborne著 The Hundred year's War --The English Navy:Shipping and Manpower 1369-1389 PAST AND PRESENT37 1967年」166から170頁
  2. 「J.S.Kepler著 The Effects of The Battle of Sluys upon The Administration of English Naval Impressment1340-1343 SPECULUM 48-1 1973年」75から77頁
  3. 「高村象平著 中世都市の諸相 筑摩書房 1980年」263頁
  4. 「高橋理著 ハンザ同盟 教育社 1980年」219から230頁
  5. 「J.W.Sherborne著 The Hundred year's War --The English Navy:Shipping and Manpower 1369-1389 PAST AND PRESENT37 1967年」165頁
  6. 「Clifford.J.Rogers著 War Cruel and Sharp BOYDELL 2000年」133頁の注33

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