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黒太子の手紙

目次

  1. 黒太子から妻ジョアンへの手紙
  2. 黒太子からロンドンの有力者、議員、民衆への手紙
  3. 黒太子からウインチェスター司教への手紙

1367年4月5日 黒太子から妻ジョアンへの手紙
この手紙はナヘラの戦いの二日後に黒太子がボルドーにいた妻ジョアン当てに出した手紙である。この手紙の原本は1920年にパブリック・レコード・オフィスから見つかったものである。

 私の最も大切な、そして真実の恋人、最愛の伴侶、お知らせしたいことがあります。あなたはこのことを知りたがっていることでしょう。我々は四月の第二週にナヘラ近郊の平原に宿営し、ここで我々はスペインの簒奪者と彼の全軍が我々から二リーグ離れたナヘラ河畔にいることを知りました。次の日、朝のとても早い内に、我々は彼らに向かって移動を始め、簒奪者の状況を探るために偵察隊を送り、偵察隊は我々に簒奪者が有利な場所で部隊の準備をして我々を待っていると、報告してきました。そこで、我々は戦闘態勢に入り、神の意志と祝福により、簒奪者と彼の全ての部下は敗北しました。我々の神に感謝します。彼らの五から六千人が戦いで殺され、多くが捕虜になりました。彼らの名を我々は知りません。他にドン・サンチョ、簒奪者の兄弟、デニア伯、ベルトラン・ド・ゲクラン、マーシャル・オーデンハム、ドン・ジュアン・ラミレツ、「ナバルのジョアン」、「クラウンドン」、リーベグエ・ド・ヴィリネス、セニョール・カリロ、サンティアゴの支配者、我々の知らない様々なカスティリア人など、貴族の捕虜は二千人に上りました。簒奪者自身に関して、我々は彼が死んだのか逃げたのか何も知りません。この戦闘の後で我々は朝には簒奪者の宿営があった場所で、彼らの物であったテントの中に泊まりました。我々はこれ迄の四、五日の間よりも心地よく過ごし、次の日も一日中ここに留まりました。月曜日に、この日、これが書かれている時、我々は移動を始めてブルゴスへ向かう道をとります。我々は神の助けにより我々の旅を成功の内に完了するでしょう。あなたはこれを知れば喜んでいただけるでしょう。最も大切な伴侶よ。我々、我々の兄弟ランカスター、我が軍の貴族は全員無事です。神に感謝します。例外はサー・ジョン・フェラーだけです。彼はよく戦いました。

Richard Barber編 The Life and campaigns of the Black Prince BOYDELL 1979年」 83頁より翻訳

1356年10月22日 黒太子からロンドンの有力者、議員、民衆への手紙

 最も親愛にしてこの上なく愛しい人々よ。我々のいるこの場所からのニュースをあなたがたにお知らせしよう。我々が尊敬する主にして父たる国王に贈った言葉、それは我々がフランス内の敵に対する襲撃を意図して、ペリグーとリムーザンを通ってブールジュへ向かい、ここで王の息子とポワティエ伯を発見できるだろうと予想していた、という言葉の後のニュースを。ここへ行った主な理由は王がここに来るという噂を聞き、それを予想してのことだったが、ここでは伯も、大規模な軍も発見できなかった。我々はロアールへ向かって移動し、ここが渡れるか確認する為に何名か送った。彼らは敵と出会い、この敵と戦って何人かを殺したり捕虜にした。捕虜はこう言った。フランス王は我々や我が軍の動向を探る為にグリスモウトンへ部隊を送ったと、そして王はクラオンの支配者、サー・ボーキカウト、クレルモン元帥、その他を同じ理由で異なる方向から送ったと。王は我々がトゥールへの道を取った時に我々と戦う心づもりだと、そして王はオルレアンの方向から接近してくるだろうと、捕虜は言った。次の日、我々の宿営地に情報が飛び込んできた。その情報によると我々の宿営地の近くの城にクラオンの支配者、サー・ボーキカウトがいた。そこで我々はそこに行くこととし、城の周囲の地点を占領した。我々は城を攻撃することに決め、強引に城を奪い、多くの敵が捕虜になるか殺され、我々も幾人かが殺された。だが、クラオンの支配者、サー・ボーキカウトはこの城の堅固な塔の中へ退却し、彼らは五日間持ちこたえ、我々は城を占領した。そして彼らは降伏し、我々はロアールにかかる橋が全て破壊されていることを知り、ここでの渡河ができなかった。我々は真っ直ぐトゥールへ行き、この町に着くまでに四日が費やされ、ここに着いた時、アンジュー伯とクレルモン元帥が多くの人々と共にここにいた。我々はここを去る時に幾多の危険な河を渡る道筋を取り、我々に向かって行軍していると確かに聞いた親愛なる我が従兄弟ランカスター公と会合することを意図した。この時、ペリゴルド枢機卿が、トゥールから12マイルのモンバゾンで我々のところに来て、休戦か和平かについて長々と語り、我々は彼の語る演説にこう答えた。我らのこの上なく親愛なる主にして父たる王の命令なくして平和は望めないし、我々自身が交渉に参加することもない。我々は休戦の為に合意することが賢明であろうとは考えていない。なぜなら、フランス王は我々との戦いを急いでいると聞いていると、枢機卿に答えた。そこで我々はシャテルローへ向かい、ここでビエンヌ河を渡り、王が何をしているか調べる為に四日間ここに留まった。彼は軍を伴って我々から12マイルのシャウィグニーに、ポワティエへ向かって同じ河を越えて来て、我々が彼らと戦うために彼を捕捉できるであろう道筋に向かって急ぐことに決めたことを聞いた。だが、我々が彼と遭遇すると予想した地点に着いた時には既に彼の戦闘部隊はここを通過してしまい、彼の軍の一部、七百名の武装兵だけが我々に対して戦った。我々はアウクセレーとジョイグニー伯を捕虜にし、両陣営でカスティリアの支配者とその他数人の者が捕虜なるか殺され、我々はシャウィグニー迄、20マイルに渡って追撃を行った。そこで我々は部隊を再集結させる為にここで宿営し、翌日王の方へ一直線に向かった。我々は偵察隊を派遣し、偵察隊は彼と彼の軍がポワティエから約四マイルの平原で戦闘準備を整えていることを見いだし、我々は配置を整え、整然と接近した。我々は彼と戦うべく軍の戦闘準備を整えた。その時、前に言った枢機卿現れ、枢機卿は両陣営から選ばれた人々が和平について協議して和平が実行されるか見極めるたいから少し時間が欲しいと頼んできた。我々は協議し、枢機卿の要求を聞き届げ、交渉の為に両陣営から代表団が送られたが、何ももたらされなかった。次に枢機卿は戦闘を阻止する為に随意に和平の為に問い、我々は拒絶した。フランスは各々の陣営から選んだ騎士が合意した場所で、戦闘を必ず行うこととしようと、問うた。このような事情でこの日は延期となり、両陣営は武装したまま現在地で次の朝早くまで夜明かしをした。主力軍の間に幾つかの部隊がいたが、彼らは攻撃の為の最初の移動に応じることはなかった。なぜなら、我々は補給を切らし、そしてそれ以外の理由もあった。我々は側面移動で退却しようとしていた。それで彼らが我々への攻撃、或いは接近を望むのなら我々の不利となるいかなるやり方も取らずに戦闘を行うと、定めていた。これが行われ、聖マタイのイブ(9月21日)の前日に戦闘を行った。神を称え、敵は打ち破られ、王と王の息子、多数の他の貴族達は捕虜になるか殺された。我々のこの上なく親愛にして最愛の騎士ニール・ローリングと同様に。我々の侍従が彼自身の知っていることからより詳細なことを諸君に語っていることだろう。我々は全てを書き記すことはできないのだから。どうか彼に完全なる信頼と真実を与える様に。我々の主が諸君をお守りくださる様に。十月二十二日、ボルドーにて我々の内々の封印の下に。

Richard Barber編 The Life and campaigns of the Black Prince BOYDELL 1979年」 57から59頁より翻訳

1355年12月25日 黒太子からウインチェスター司教への手紙

 神のみての尊い父にして最も信頼できる友よ、我々のいるこの場所からニュースをあなたにお知らせしよう。我らが最後にあなたへ書き送った事件、我々とガスコーニュ諸候を含む全支配者の助言と会議により、アルマニャック伯が敵部隊とラングドック全域にいる彼の副官の指揮官であり、この地域の我らの最も名誉ある支配者や父なる王の代理人へいずれの者よりも大きな被害を与えているので、我々がアルマニャックへ進軍すべきことが同意された、それ以後のニュースを。そう、この追撃において、我々はユリアク地方を通って進軍し、ここで要塞の一つが我々に降伏した。次に我々はアルマニャック地方を襲撃し、周辺部を荒らし、初期に攻撃された我々の最も名誉ある支配者の代理人は大いに勇気づけられた。ここから我々はアスタラクへ行き、次にコミネージへこの地域の最良のサマタンと呼ばれる都市に行った。この都市の住民は我々の接近した時にはいなくなっていた。次に我々はイーゼル伯領を通過して、トゥールーズから4マイル以内の所に来た。ここにアルマニャック伯とあらゆる敵たる多くの彼の部下達が集結していた。我々はここに二日留まり、そして行軍を続け、一日でトゥールーズから4マイル上流でガロンヌとアリエージュの二つの河を渡ったが、渡河は困難を極め何名かを失うほどに厳しいものだった。そして我々はトゥールーズから約4マイル向こう側で夜を迎えて宿営した。そして、我々はトゥールーズの周囲の地を通って行軍し、この地方が非常に豊かで肥沃なので、多くの優良なる町や要塞を燃やし、破壊した。この日、通過しなかった町や、城や、要塞で我々の他の部隊により占領されたものはなかった。我々はアビニオネトへ行軍を続け、大きくて巨大なこの町を突撃により占領した。我々の全部隊はこの町で宿営した。次にカステレウデュリーへ行き、聖エバの日(10月31日)にここに着き、祝日なのでここに留まり、町の中で宿営した。ここから我々は大きな町、カルカソンヌへ行軍した。ここは多数の兵士や市民兵を引き連れた重要な指揮官により守られている。トゥールーズ周辺地域の住民の大多数はここへ逃げ込んでいるが、我々が現れた時、彼らは町を見捨てて非常に強力な城がある旧市へ後退していた。我々はここに二日留まり、全軍を町の中へ入れ、三日目に町を燃やし、ここを完全に破壊した。次に我々はカルカソンヌ周囲の地域を襲撃しながら通過し、カルカソンヌより巨大な貴族の町、ナルポンヌに着いた。ここの住民は町を見捨てて500人の守備隊がいる、或いはそういわれているナルボンヌ子爵の城へ避難していた。我々はここに二日留まった。そしてもう一度全軍を町の中に留めた。教皇が我々に安全通行権を求める為に二人の司教を派遣してきたが、我々はそれを認めなかった。我々は最も栄誉ある支配者と父なる王が望まぬ限りいかなる協定も結ぶつもりはなかった。特に父なる王が軍と共にフランスへ渡ったとの知らせを受けてからは。そう、我々は司教達に手紙を帰してこう言った。彼らが交渉を望むのなら、父なる王の元へ行くべきである。我々はたとえどんなことであろうと父なる王の指示に従うだろう。そして、司教達を送り返した。そして我々は次にどこへ行軍するのが最もよいか協議した。なぜなら、我々は捕虜や他の者どもからの情報で、敵が集結し戦闘を求めて我々の後ろから迫ってきており、我々が敵に向かって反転すれば続く三日以内に戦闘が行われるであろうと予想した。そして我々が反転した時、敵はトゥールーズへ退却した。そこで我々は敵を追撃し、トゥールーズへ長い行軍を行った。そして次に我々はトゥールーズから12マイルのカルボンヌでガロンヌ河を渡り、ここで我々はこの日と続く夜の間、休息した。真夜中になる前に、アルマニャック伯と、フランスの軍司令官と、クレールモント元帥と、オレンジ公と、この地域の他の貴族達が指揮する敵の全軍がトゥールーズを出て我々の後方約8マイルの所で宿営し、宿営した時に敵は数名の者と馬車を失ったとの報告が届いた。この時、我々は敵へ向かって行軍を行い、バーソローミュー・ブルゲーシュ、ジョン・チャンドス、ジェームズ・オードリー、ボードウィン・ボテットアワート、トーマス・フェルトン、他、約三十名を敵の大まかな情報を探らせる為に送った。偵察隊は敵に向かって進み、ある町に到着すると、そこで200名の敵後衛部隊を発見し、この敵と戦い35名の敵を捕虜にした。ここで敵は宿営地より遙か遠くへ退却し、ロムベツとサーブテラへ行軍した。この二つの町は2マイルしか離れていない。我々はその夜の内にこの町の外で宿営した。我々は敵の篝火が見えるほどに接近していた。しかし、向こうと我々の間には非常に深い河があり、夜でもあり、我々が来る前に敵が橋を破壊してしまったので、翌日に橋を直した後でないと渡れそうになかった。ここから敵はジモントの町へ移動し、同じ日に我々もそこに到着し、敵が町に入る前に敵の多くを捕虜にしたり殺したりした。同じ日の夜に我々は町の外で宿営し、翌日に戦闘が行われるであろうことを待ち望みながら待った。翌日の日の出前に我々と全軍は戦闘準備を整えていた。その時、敵の殆どが夜明け前に立ち去ったとの報告が舞い込んだ。指揮官達だけがこの巨大で強力な、大部隊に対しても持ちこたえうるであろう、この町に留まっていた。そこで我々は1/4を帰還させ、何をすべきか協議した。敵が戦闘を望んでいないことは明らかだった。そこで我々は自国へ帰還することで合意した。サー・リチャート・スタフォードはあなたに我々がこの手紙の中で言ったよりもより完全に語ってくれただろう。どうか彼に彼があなたへ語り見せたことについて、あらゆる意味での完全なる信頼を与えたまえ。神のみての尊い父にして最も信頼できる友よ、全能なる者を常にあなたが保つ様に。クリスマスの日に、ボルドーにて我々の内々なる印の下に書き記す。

Richard Barber編 The Life and campaigns of the Black Prince BOYDELL 1979年」 52から55頁より翻訳

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