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狂える鳩に永久の騒音あれ


(担当 ひゃっくまん)
エドワード三世の大暴剣
その六 史上最大の大暴剣

第一章 情報戦

 さーて、いよいよクレシー戦役だ。ちまたの百年戦争本なんかによるとスロイス海戦でフランス艦隊は壊滅してイギリス海峡の制海権をイギリスが握ったんだーってか言う記述をよく目にするが実際はまったく逆だ。当時は制海権だの概念はないが、イギリスが自由に海峡を渡れる状況じゃーない。フランス艦隊も大損害は受けたものの壊滅したわけじゃーない。1346年にはほとんど回復していた。挙句にジェノヴァだの、カスティリア、アラゴンなんかの艦隊まで雇い入れてむしろ強化されていた。
 1346年、イギリス王率いる本隊がフランスに上陸してくるのは確実な状況だが、問題はどこに上陸するかだった。エドワード三世は「ランカスター公を救え!!ギュイエンヌに行くぞ!!」ってなって掛け声を繰り返した。1月にはブルターニュ軍遠征軍司令官で信頼厚いノーザンプトン伯ウィリアムを呼び戻し、ブルターニュ遠征軍司令官の後任にはトーマス・ダグワースが就任した。6月にはギュイエンヌからヒュー・ヘースティングスを呼び戻し、低地地方遠征軍司令官に任命している。これらのエドワード三世の行動や言動から誰しもエドワード三世の主力軍はギュイエンヌに向かうと考えていたが、フランス王フィリップ6世はそんな安っぽい手には騙されなかった。ってより、あらゆる可能性を考えて手を打っていた。
 まーず、ギュイエンヌ、ブルターニュ、ノルマンディー、低地地方の主要な港町の防備を固めて守備隊を配置し、守備隊とは別に地域毎にそれなりの迎撃部隊を配置して、各地域に艦隊を振り分けた。ギュイエンヌにはジェノヴァの精鋭ガレー艦隊を呼び寄せ、そこから更に北上せよと命令を出し、ノルマンディーには78隻の艦隊を配置した。上陸前に叩き潰そうって魂胆だ。
 実のところエドワードには後がない。財布はみんなそろって破産して、イギリスの世論も金ばかりかかる割りには得るところのない戦争に否定的だ。会戦での勝ちが続いているから何とか持ち堪えているだけで、一度でもでかい敗北をやらかそうものなら一気にエドワードの首が飛びかねない。飛ばずとも戦争継続は無理だろう。とはいえ今回だけは、イタリアとイギリスの商人どもの骨までしゃぶって集めた金があるんでなんとか戦える。勝利できれば戦争を継続できるが、負けとか引き分けならお終いってことだ。となればフィリップの戦略は簡単だ。負けなければそれでよい。できるなら上陸前にお引取り願えれば万々歳ってことだ。
 イギリスとフランスは互いにスパイを放ち、偽情報やプロパガンダと情報戦を繰り広げた。フィリップは地道に情報を集めてどこに来てもいいように準備を整え、エドワードはフィリップの備えを探りながら派手に上陸場所に関する偽情報をばら撒いた。6月28日にギュイエンヌに向けて出航して見せたが、風向きが悪いだのなんだの言って戻ってきている。ただ、エドワードがノルマンディーに上陸すると決めたのがいつかはハッキリしてない。通説だと、出航直前にノルマンディーから亡命してきたジョフロア・ダルクールの進言を受けてノルマンディー行きを決定したといわれている。が、一万四千の兵とそれを輸送する約750隻の艦隊の行動方針をそう簡単に変えられるものなのかって疑問と、出航前のエドワードの行動からもっと早い時期に決定したとする説もある。エドワードは7月始めごろに全艦長へ厳重に封をした手紙を配り、艦隊からはぐれたら開けよよと命じた。7月7日には8日間の期限付きでイギリスからの出航禁止令を出した。突如情報封鎖に入ったのだ。このあたりの話からすると、遅くても6月下旬にはノルマンディー行きを決定してたってことになる。実際はもっと早かったのかもしんないが。



1346年の両国艦隊の動き

第二章 史上最大の作戦

 7月11日にいよいよエドワード艦隊が出航した。艦艇約750隻、装甲兵2800名、弓兵だの軽装兵や従者なぞその他一万弱で、全体でおおよそ一万四千くらい。この内、歩兵が約8000名を占め、残りの約6000名が騎馬装甲兵と騎馬弓兵である。そして、あのエドワードの息子のエドワード・ウッドストック、かの黒太子も今回の遠征に加わっていた。ブルターニュからわざわざ呼び戻したノーザンプトン伯ももちろん同行している。
 エドワード艦隊はフランス艦隊に気づかれることなく海峡を突破し、翌12日朝にラ・ウーグに到着した。第二次世界大戦のときにノルマンディー上陸作戦が行われたユタビーチの近くだ。誰だかフランスの防備を評して大西洋の壁とかいってる研究者もいるようだ。事前の情報戦だのフランスの防備なんかを見ているとノルマンディー上陸作戦と、エドワードのノルマンディー上陸がダブって見えるんだろう。さて、中世に戻ろうか。ラ・ウーグには4月末からジェノヴァのクロスボウ部隊500名が駐留していたが、数日前に給料未払いが原因で引き上げていた。偶然なのか、エドワードの情報収集の賜物なのか、謀略なのかは分からないが、ノルマンディー守備のフランス王軍主力はハーフラーにいてコタンタン半島にはまともな守備隊すらいなかった。
 ラ・ウーグの住民は突然のイギリス軍来襲に驚き、武装船8隻と非武装船4隻あったにもかかわらず、船も町も捨てて逃げ出した。エドワードは町も船も焼き払い、最初の戦果をあげ、奇襲上陸は成功かに見えた。が、しかし、ここにはフィリップ六世の幕僚の一人でマレシャンのロベール・ベルトランがいた。1330年代にはイギリス襲撃を指揮して大きな戦果を挙げた良将の一人である。今回はノルマンディー西部防衛の指揮を任されていたが、どうも予算や兵力を回してもらえず、たいした防衛準備もできずにいたようだ。それでもベルトランは300の兵をかき集め、いまなら敵は上陸したばっかで戦闘態勢も整えてないだろうし、ましてや奇襲上陸が成功したんだから襲撃されるなんて思ってもいないだろうってなことで、正午近くに奇襲攻撃を仕掛けた。エドワード軍では数千名の兵と水夫が上陸作業にごった返していた。そこへ思いもよらぬ攻撃を受けて混乱をきたしたが、ウォリック伯トーマス・ビーチャムがすばやく反撃を行い、ベルトランの軍は壊滅した。残ったのは僅かに30名足らず。それでもベルトランは諦めず、新たな戦略でエドワードを迎え撃つ。
 13日にエドワードは息子のエドワードとほか数名を騎士に叙任した。いよいよ黒太子の騎士としての経歴の始まりである。
 16日にヒュー・ヘースティングス率いる低地地方遠征軍が出発した。戦闘用バージ15隻、弓兵250名、装甲兵数名の小規模な軍である。艦艇がすべて戦闘用バージというのはフランス艦隊と遭遇する可能性が極めて大きいと見てのことだろう。現代風に言うと輸送船なしで戦艦だけで出かけたに等しい。兵力は低地諸都市で確保できるし、目的は本隊の援護に過ぎないのだから実戦力がなくても問題ないってことだ。
 17日まで上陸作業を行い、今後の作戦方針を決定すべく会議を開いた。で、とりあえずルーアンにでも行くかって事になる。
 18日に黒太子を先鋒にしてバローニュへ前進した。バローニュの町はもぬけの空で門も開け放たれていた。艦隊は二手に分かれ、550隻が沿岸都市攻撃を、200隻はエドワード本隊の援護を担当した。攻撃艦隊はその日の内にシェルブールに到着した。シェルブール守備隊はイギリス艦隊を見るとすぐに逃げ出し、抵抗はなく町は焼き払われた。攻撃艦隊は攻撃終了後に本国へ帰還した。
 さて、フランス王軍はというと、エドワード上陸の報を受けてフィリップ六世はパリで新軍の招集を図り、ギュイエンヌのノルマンディー公の軍からノルマンディーにまわされたウー伯ラウルがハーフラーの部隊をカーンヘ移動させ、迎撃準備にいそしんでいた。ベルトランはエドワードの行軍を可能な限り遅らせようと、町に火を放ち、橋を破壊し、城の守備兵を準備してとあらゆる手を打っていた。
 19日にバローニュの町で食料などの物資を奪い、火を放ってから出発してサン・コン・デュモンでドゥーヴ河に到着したが、案の定、橋は破壊され、町は焼き払われていた。
 20日の早朝には一晩で修理した橋を通り前進を再開した。カランタンに着くと城には守備隊が配置されていた。ここでもベルトランは時間を稼ごうとの魂胆だったようだが、守備兵はあっさり降伏してしまい、食料などの物資もすっかりイギリス王軍の手に落ちてしまう。当然ここも焼き払い、勢いに乗った兵たちは逃げ遅れた住民の虐殺なんぞしてしまう。カランタンの惨状を耳にしたベルトランは今度は自分でやらなきゃだめだと思ったのか、ポン・エベールの橋を破壊してサン・ローの城で自ら指揮をして防備を固めた。
 21日にサン・ローに黒太子の先鋒隊が到着し、すぐに架橋作業が始まり、翌日には渡河を完了してしまう。あまりの手際のよさにベルトランは反撃する機会を失い、渡河されては抵抗のしようもないと判断し、最低限の守備隊を残して退却した。サン・ローはあっさりと陥落し、住民は逃げるまもなく、多くの食料やお宝が残されたままになった。町へ乱入したイギリス王軍の兵は思いっきり略奪に走り、金持ちは捕虜にして身代金を要求し、貧乏人は虐殺した。同日、ヘースティングスの低地地方遠征軍が低地地方に到着し、軍の編成に取り掛かった。低地地方に派遣されていたフランス王軍の大半はルーアンへ退却し、残りはソンム川へ退いて警戒ラインを形成した。イギリス王軍主力の位置が知れた以上、おとりに兵を裂く必要はないとの判断だろう。
 22日にフィリップ六世が王旗オリフレームを手にして本格的に軍の編成に入り、同時にスコットランド王ディヴィドへイギリス王がノルマンディーに上陸したと手紙を送った。この手紙でスコットランド王へ次の戦略を伝えている。スコットランド王がイギリスへ侵攻すればエドワードはイギリスへ帰還するだろう、そしたらフィリップ自らエドワードを追ってイギリスへ侵攻する。南北からエドワードを挟み撃ちにしようって話だ。しかし、スコットランド王はすぐには準備が整わず、少数の襲撃部隊を送り込んだだけだった。
 25日にエドワードはカーンに到着した。カーンにはウー伯、ベルトラン以下ノルマンディー西部の全兵力約千名が集まっていた。他に一万くらいの住民のかなりの数が徴用されていた。
 26日に町の包囲が完了して総攻撃が開始されて町は陥落したが、城までは落とせなかった。ベルトランが残兵を城に集めて素早く防備を固めたためだ。フランス側の戦死者は住民含めて数千にのぼり、捕虜は数百に登ったといわれている。ウー伯はトーマス・ホラントにより捕らえられた。対して、イギリスの損害は百名前後だった。エドワードはここに5日間留まり、本国から艦隊も到着して補給を受け、捕虜と戦利品を本国へ送ると共に更なる増援と補給の要請を出し、残った城を攻撃するための算段をした。
 そして、31日にカーン城攻撃のために数千の部隊を残して東へ出発した。いよいよフィリップ六世との直接対決の始まりである。そいとスコットランド王はヘンリー・パーシーを中心にしたイギリス北部諸侯の激しい抵抗にあい、9月29日までの休戦を結んだ。やっぱりこのくらい時間がないと、準備できんってことなんだろう。



1346年のカーンにいたるエドワードの進路

第三章 クレシー戦役

 エドワードがカーンを出発した31日にフィリップは軍の編成を終えてルーアンに到着していた。8月始めにエドワード軍を迎撃すべくルーアンを出発したが、3日に低地地方の軍が南下を始めたとの報告を受けて方針を変更して7日にルーアンに戻り、セーヌ河のすべての橋を破壊して渡河点の防備を固め、低地地方と王領の間の拠点の防御強化の指示を出した。エドワードの軍をセーヌ河の西に引き止め、低地地方の軍に対しては拠点による遅滞戦術で時間を稼ごうって作戦だ。時間を稼いで、できるなら諦めてお引取り願えると幸いなんて考えてたんだろう。最悪なのは低地地方の軍とエドワードの軍が合流して低地地方のフランス支配を覆すこと、或いはパリに乗り込まれてフィリップの威信が揺らぐことだ。そこで万一のことを考え、ギュイエンヌのノルマンディー公ジャンにエギヨン市の囲みを解いて北に来いと命令を発した。
 8月3日にエドワードはリジウーで教皇特使と会合した。いつものごとく教皇は戦いを止めさせようと特使を送ってきたのだ。エドワードは特使を適当にあしらい翌日にはセーヌ河へ向けて出発し、7日にエルブフーでセーヌ河に到達した。しかし、橋は既に破壊され、対岸にはフランス王軍が防備を固めていた。ここで再び教皇特使がフィリップの手紙を携えたフランスの司教を連れてきた。フィリップは大陸のエドワードの領土を返してもよい、婚姻による同盟も結ぼう、その代わりにフィリップをフランス王と認めて臣下の礼をとれと講和条件を出してきた。エドワードは将来話し合ってもよい案件だが今は話す気がないとフィリップの申し出を一蹴した。
 11日にムランに着いたが、ここの橋も破壊され対岸にはフランス王軍が防備を固めていた。今度は無理やり河を渡ろうとしたが、クロスボウの弾幕に阻まれて徒に損害を増やすばかりだった。
 12日、エドワードがパリから12マイルに迫り、フランス王側は危機感を強めた。パリがエドワードの手に落ちるようなことになればフィリップの権威は失墜、いまは黙ってフィリップについてきている諸侯や、三部会が騒ぎ出し何がおきるかわかったもんじゃない。そこでフランス王に助太刀すべく息子と500騎の騎士と共にパリに来ていたボヘミア王ヨハンにパリ防衛が任され、パリの防備が固められ、北部のジェノヴァ船から船員の大半を引き上げてセーヌ河とソンム河の都市の防備を固めるよう命令が出た。ちょっいとしたパニックが起こっていたようだ。フィリップは八千の装甲兵と六千のジェノヴァ兵を率いてパリへ向かっていた。
 13日、エドワードはポワッシーに到着して周辺地域を制圧し、破壊された橋の再建を始めた。フィリップとしてはこれも困る。セーヌを渡られたら、残る障壁はソンム河だけ。なんとしてもエドワードをセーヌ西岸に留めつつ、お引取り願うか撃破しなければならない。
 14日、フィリップはエドワードに挑戦状をたたきつけた。17日から22日の間にパリ近くで決戦をしようと。またいつもの決戦やるやる詐欺にかけようって魂胆だ。パリ近くに来てしまうのは仕方ないが、パリの城壁とセーヌ河とフィリップの軍の三つで包囲し降伏に追い込もうって腹だったのかもしれない。過去の例から考えて、挑戦状を突きつけられるとエドワードは必ず乗ってきた。だから今回も乗ってくるとフィリップは考えたのかもしれない。低地地方では、へースティングス率いる低地方面軍がフランス王軍の待ち伏せを受けて大損害を被り、事実上戦力を喪失してしまう。
 15日、フィリップはパリへ入場、16日には対岸に渡り、決戦準備に入ったが、エドワードはフィリップの申し出を無視してセーヌ河を渡り、ソンム河へ向けて北上した。まー、あれだけ何度もやるやる詐欺をしでかしてきたら、決戦好きのエドワードでもさすがにだまされないだろう。それでもエドワードはセーヌを渡った後でフィリップへ三日以内に決戦をしようと返事を出した。
 次はソンム河に向けたレースである。フィリップはパリで再びセーヌを渡ると全軍に強行軍を指示した。一方、エドワードは壊れたりしてスピードの落ちた馬車などを放棄し、徒歩の者には戦利品として手に入れた馬を配り、全軍のスピードアップに努めた。しかし、エドワード軍の兵たちは途上の町や村での略奪を望み軍の統率を維持するのが困難な状態にあった。ソンムへの行軍過程で略奪の罪により20人近くの兵を縛り首にする必要があったといわれている。
 20日、フィリップがレースに勝ち、アミアンでソンム河を渡った。フィリップとの競争ではエドワードの目論見が外れたのだが、ちょうどそのとき、ギュイエンヌでエドワードの策が功を奏する。エギヨン市を包囲していたノルマンディー公ジャンの軍が包囲を解いて父フィリップに合流すべく北上を開始したのだ。エドワードを馬鹿呼ばわりしている現代の軍事史学者のリデルハート先生の言うところの間接的アプローチってやつが成功したってことだ。
 22日にエドワードの先鋒ウォリック伯がソンム河のポン・レミの橋に着いたが、橋はボヘミア王ヨハンとエノーのジャンが指揮する部隊により防備されていた。ウォリック伯は橋を奪取しようと強襲を仕掛けたが大損害を被り退却を余儀なくされた。
 24日深夜にエドワードは下流の湿地帯の浅瀬へ進んだ。しかしここにも装甲兵500、その他歩兵3000のフランス王軍が駐留していた。深夜にこっそり渡ることを諦め、明朝ノーザンプトン伯に装甲兵100、弓兵100を授けてフランス王軍を攻撃させた。ノーザンプトン伯は弓兵の援護で装甲兵を対岸に渡し、フランス王軍を強襲して打ち破った。どうもフランス王軍側はこんなところにイギリス王軍が現れるとは思っていなかったようだ。午後にはジェノヴァ兵の守るソンム河口の港町ル・クロトワを攻撃して略奪の上で焼き払い、補給と増援を本国に求めた。フィリップはエドワードの行動に対応して出陣し、両軍は河を挟んで対峙したが、戦うことなく両軍ともに兵を退いた。この調子でいけばエドワードは低地地方に乱入してフランス王の支配を揺るがせそうだったのだが、ここでまた計算が狂う。へースティング率いる低地諸都市軍が解散したのだ。14日の待ち伏せの影響だが、戦果が上がらず諸都市軍が疲れてしまったってことらしい。エドワードの戦略の破綻といえるかもしれない。こうなると低地地方へ進軍して低地地方のフランス王支配を覆すという手は使えない。この知らせは25日迄にはエドワードの耳に届いていた。
 そして運命の26日、エドワードは決戦に全てをかけ、海を背にクレシーに布陣した。フィリップも南からエドワードへ向かって進軍してクレシーの戦いが起こる。どうもフィリップは戦いを望まず、いつもの引き延ばし作戦に出るつもりでいたようだが諸侯の暴走で戦いに引きずり込まれてしまう。それで大敗した。戦いは27日まで続いた。
 27日、敗走した兵はアミアンに集まり、フィリップも辛うじてアミアンへ逃れてきた。そして最初に下したのがジェノヴァ兵の処刑命令だった。敵味方両方からの殺戮を生き延びてやっとさ逃げ延びたジェノヴァ兵の生き残りに、負け戦の責任を押し付けて止めを刺したのだ。エドワードの方は戦場で敵が来ないかと臨戦態勢で一日を過ごし、それから二日かけて戦死者を略奪、じゃーなくて埋葬した。
 30日にエドワードは戦場を後にして北上を再開した。もはや妨げるものとてない。フィリップも息子のジャンが到着しない限り、エドワードに対抗する術とてない。とはいえ進撃を再開したエドワードとしても低地地方へ行く作戦はへースティングスの部隊が事実上消滅したので意味がない。新たな作戦が必要になっていた。とりあえずフィリップを決戦に引きずり出して叩きのめすとした当初の目標は達し、外交上有利なカードを手にしたはずだった。



1346年のカーンからクレシーにいたるエドワードの進路

注釈 (参考文献)
第一章

第二章

第三章

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