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狂える鳩に永久の騒音あれ


(担当 ひゃっくまん)
エドワード三世の大暴剣
その五 フランス囲んで大暴剣

第一章 羊毛独占の戦い

 さて、平和であるが、期限付きの平和である。この平和の間、金を集め、軍備を整え、戦略を練り直す。平和と言うより次の戦いに向けての準備期間のようなもんだ。
 ブルターニュから帰還して2ヶ月目の1343年4月にさっそく金策作戦を開始した。まずは4月27日に大商人を集めて金を無心した。これは翌日にひかえた議会へ向けての予備折衝のようなものだ。商人達は大小幾つかの要求を出したがその中でも大きいのはブリュージュ・ステープルの廃止と借金返済の保証である。
 国外ステープルの廃止にはちょいと説明がいる。ステープルとは「その一 最初の大暴剣!」に解説した通り、貿易基地である。当初商人達は国外ステープルの設置を強く求めていた。なぜなら、生産地からステープルまではイギリスの商人が輸送し、ステープルから消費地までは外国の商人が輸送した。そうすっと、ステープルが消費地のすぐ側にあれば生産地から消費地までイギリスの商人の担当となり、消費者とイギリス商人の間に入って利益をむさぼる外国商人を排除できるって寸法だ。だからイギリス商人どもは最大の消費地たる低地地方にステープルを作ってくれるように運動を続け、ブリュージュにステープルを設置させるのに成功していた。しかしである。ブリュージュ・ステープルにあがる羊毛の最大の消費者たるフランドル諸都市、特にヘント、ブリュージュ、イープル市は共同戦線を張り、羊毛価格の操作に乗りだしてきたのである。ブリュージュ・ステープルに持ち込んだ羊毛は事実上この三市でしか売れない、その三市が共同戦線を張って対抗してきたもんで羊毛価格の下落がおき、イギリス商人達が見込んだ利益が出なかった。こうなるとブリュージュ・ステープルは三市にとって都合がよいだけでイギリス商人にとってはただのお荷物でしかなくなる。そこでイギリス商人達はブリュージュ・ステープルを廃止して三市に対抗しようとした。しかし、三市は低地地方におけるエドワードの最大の同盟者で、ブリュージュ・ステープルは三市の友好を繋ぎ止める鍵になっていた。従って廃止することは出来ない。そこでブリュージュ・ステープルを大商人の組合の管理下において組合による独占を許し、この組合に許可なく違法に持ち込まれた羊毛を没収してもよいとのお墨付きを与えた。
 借金返済の保証については今後徴集予定の羊毛に関わる税を借金に相当する分まで免除し、税の徴収権を与えると約束することで解決した。しかし、エドワードはイギリス商人に約束する以前に同じ約束をイタリアのバルディとペルッチ商会にしていた。そう、これは両商会の借金を踏み倒すとの宣言にも他ならなかったのである。まぁ、外国商人の借金を踏み倒すのはイギリス王の伝統のようなもんだし、イギリス商人にしてみればライバルが減る分嬉しいってわけで、さして問題にもならんかったようだ。それに両商会の資金力はエドワードの無茶な要求が続いたせいで限界に達していた。エドワードにしてみれば金の切れ目が縁の切れ目ってことだろう。エドワードはイギリス商人達に外国商人を切り捨ててこれだけ譲歩したんだから新しい税を認めて欲しいと要求した。商人達はエドワードの要求を受け入れた。
 商人の要求を無事クリアしたことで4月28日の議会も無事乗り切れると思いきや、議会は商人達とエドワードが議会を無視して勝手な決まりを作ったと激怒した。特に新たな税を商人と相談しただけで決めてしまうとは何事だ、新たな税の負担は我ら生産者にも被さってくるんだぞって生産者たる諸侯やら州代表などが主張した。これに対してエドワードは羊毛の最低価格「ノッティンガム価格」を引き上げ、これを厳守するように法をしくと約束することでなんとか議会の承諾を引き出すことに成功した。
 とりあえず最初の金策作戦はうまくいったが、1344年に早くも和平条約は破棄され、再戦が決定的となった。戦争再開と戦費捻出のために1344年6月7日、議会が開かれた。6月15日にエドワードは議会で「イギリス王国防衛の為に、我らの正当なる権利を回復する為に、これは絶対必要なことだ!!」と演説を打ち熱心に戦争の必要性を訴え、新たな税の徴収を求めた。これに対して議会では羊毛貿易独占から締め出されていた中小商人と生産者が手を組み、羊毛貿易独占の打破を目指していた。生産者は「ノッティンガム価格」で最低価格が保証されているとはいえ独占のせいでこの最低価格が事実上の価格として固定されてしまい、思うように羊毛を販売できない。そこで羊毛貿易から締め出されていた中小商人と生産者は手を組み、独占と最低価格を撤廃して自由貿易を復活しようと目論んだ。彼らに言わせればイギリスの羊毛はヨーロッパ一。ヨーロッパ中からイギリスの羊毛を求めて商人が集まってきている。なのに独占のせいで販売先が低地地方に固定されて他の地域へ思うように売ることが出来ない。貿易が自由にさえなればどこにでも売りさばくことが出来、価格もこちらの思うがままになるってな事だ。そして独占の温床にして自由貿易の障害であるブリュージュ・ステープルも廃止せよと要求した。
 議会は紛糾し、最終的にエドワードが議会の要求を丸飲みにして新たな税の徴収を認めてもらった。まーしかし、エドワードにしても独占を認めた大商人達の資金は早くも枯渇を始め、いずれ破綻するのは見えていたってのもあり、ここは新たな資金源たる中小商人達に目を付けた方がいいって判断もあったようだ。外国商人を切り捨てた次は大商人を切り捨てたってわけだ。
 これでなんとか軍資金調達のめどが立ち、対フランス戦の準備を進めることが出来るようになった。
 そこでエドワードはフランスを包囲攻撃する雄大な戦略を立てた。戦場は3つ。低地地方と、ブルターニュ、ギュイエンヌである。どうも当初はブルターニュ、ギュイエンヌで陽動をかけて本隊は低地地方から侵攻するとした計画を立てていたようだ。13世紀にジョン欠地王が立てた計画の焼き直しを再び使おうってハラだった。問題は低地地方の外交状況が著しく悪くなっている点だった。諸侯と諸都市の対立は先鋭化し、結果的に諸侯の大半はフランス王につき、諸都市はイギリス王についた。諸都市にしてみれば羊毛貿易で懇意にしているイギリスと仲良くなって、なにかと金をせびってくる諸侯に味方するフランス王と敵対するのは自然な流れで、諸侯も諸都市と戦う為にフランス王に接近するのは自然な流れだったようだ。そのせいもあって王妃フィリッパの実家のエノー伯家ですら、フランス王陣営に走っていた。1340年前後の時のように諸侯の一部が味方してくれる状況にはなかったのだ。
 準備が整った1345年1月にエドワードに切り捨てられたイタリアのバルディとペルッチ商会は揃って破産した。バルディは13万8千ポンド、ペルッチは9万2千ポンドをエドワードに踏み倒された結果だった。羊のメリーちゃんの色香に迷ったイタリア人らしい最後であった。
 一方ドイツの商人集団ハンザは相変わらずメリーちゃんの色香に迷うことなくエドワードに金を貸そうとせず、デンマーク王すら叩き潰した武力を背景に特権を維持して地道な商売を続けていた。まー、エドワードとしては財布として利用できんがむげにもできん厄介な相手ってことだろう。こうなると頼みの綱は国内の商人だけである。



1345年のエドワード三世の描く大戦略

第二章 エドワードの大戦略

 1345年5月22日、いよいよフランス大包囲作戦の開始である。この日、第一陣のダービー伯ランカスターのヘンリー率いるギュイエンヌ遠征軍150隻、装甲兵500、軽装兵500、弓兵1000が、サウザンプトン港を出航し6月6日頃にはバヨンヌに上陸した。副将はペンブルック伯、オックスフォード伯で、参謀は1342年にブルターニュ半島で大活躍したサー・ウォルター・マーニーである。実際の所、1345年のギュイエンヌ遠征での実際の作戦指導はほとんどマーニーがやっていたようである。
 マーニーはこの年39歳。フランスはノルマンディー地方のマニーの小領主の末っ子で、最初はエノー伯に仕えて21歳の時にフィリッパの供の一人としてイギリスにやってきた。10歳代の段階で口減らしの為にエノー伯の元へ丁稚奉公に出されたって所だろう。フィリッパやエドワードに気に入られ、22歳の時には早くも王直属の準騎士になり、25歳の時に騎士に叙任された。26歳でデュプリン・ムーアの戦いに参加し、それに続くエドワードのスコットランド遠征にも参加した。一連の戦いで武勲をたてて才覚を現し、20代後半には早くも城代や州長官を歴任し、31歳で北方艦隊司令官になり、キャドザントの戦いに参加し、スロイスの海戦でも艦隊幹部として重要な働きをした。その後、低地戦役、スコットランド戦役と主要な戦いに参謀として参加、1342年のブルターニュ戦役では一軍を率いて大きな戦果を上げ、エドワード王の幕僚の中でもトップクラスの軍事指揮官として一目置かれるようになる。マーニーに代表されるようにエドワード王の元には小貴族や庶民出の優秀な軍事指揮官が数多く現れてきている。最も有名な例はイタリアで傭兵として活躍した元仕立屋のジョン・ホークウッドであるが、似たような経歴で若くして功績を立てて貴族に登りつめた者は少なくない。
 これを人を見る目の優れたエドワードとフィリッパならではの功績と、個人を持ち上げてばかりの伝記作家だったら声を荒げて騒ぐところだろうが、この人事にはエドワード1世頃から本格的に導入された兵員動員システムたるインデンチュア制度と、ヘンリー二世頃から加速した庶民からの役人の登用の伝統におうところが大きいようだ。この伝統と制度にエドワードとフィリッパの思いきった人材登用が重なって有用な人材の発掘と育成が目立った形で現れてきたってことだ。この制度や伝統の素地があったおかげで、王だけでなく、伯やら大領主なども人材登用には熱心で彼ら諸侯に見いだされた人材も少なくない。
 さてエドワードが大戦略をぶったてた頃、フランス王はエドワードがブルターニュか低地地方に侵攻するとふんでいた。いつでも軍を動かせるようにフランス各地に軍の動員を指示し、一部を北部へ向かわせていた。フランス王フィリップ6世も5月末にはパリを出て低地地方へ向かっていた。
 ブルターニュ方面では5月にモンフォール伯ジャンがフランスを脱出してイギリスに逃げ込んでいた。そこで6月始め頃にノーザンプトン伯ウィリアムを主将とした遠征軍がモンフォール伯ジャンと共にブルターニュに向かい6月中頃にブレストに上陸した。上陸するとすぐにトーマス・ダグワース率いる先発隊がブルターニュ奥地へ偵察に出た。
 トーマス・ダグワースも若くして立身出世を重ねてきた指揮官の一人である。ダグワースはサフォークのジェントリーの末っ子である。この当時にジェントリーってことは貴族ではない。大農場主の子供だったようだ。ダグワースは財務官として出世し、王の側近になった。1343年に働きぶりを認められオルモンド伯の未亡人エリザベスとの結婚が斡旋され、貴族の仲間入りをした。今回はノーザンプトン伯の下級指揮官の一人としての出征だった。
 6月末にはエドワード三世率いる主力部隊艦艇300隻、兵力2000名がサンドウィチ港に集結した。いよいよエドワード三世の大戦略が起動したのだ。
 しかし、エドワードの大戦略はいきなり躓いた。ってより発動前にほとんど躓いていた。エドワードの同盟者の低地諸都市は派手な内紛を起こしており、諸都市の指導者と目されていたジャック・ファン・アルテフェルデは諸都市をまとめきれなくなっていた。そこへフランス王の意向を受けて低地地方にやってきたナバラのルイが諸都市に揺さぶりをかけて小都市を狙い撃ちにしながら切り崩し工作に出てきた。エドワードはというと7月3日にようやく出航し、5日にスロイス港に到着した。7日にヘントからアルテフェルデがエドワードの元に現れ、それから他の諸都市の代表もおいおいエドワードの元にやってきた。それでも低地地方の情勢は微妙であり、エドワードは軍を動かすわけには行かなかった。7月17日にヘント市参事会はアルテフェルデに帰還を命じ、アルテフェルデが帰還すると職人の反乱が勃発し、アルテフェルデは反乱に巻き込まれて死んだ。これ以降低地諸都市では、職人組合、都市貴族、商人などが党派に別れて争い続けることになる。主流は職人組合だが、組合の間でも染め物工と、織物工の間の対立など多くの対立が内包されていた。こうなると戦争どころではない、エドワードとしては諸都市の友好を保てたことで良しとしなければならなかった。まー、友好的中立に留まったってことだ。7月22日にエドワードはイギリスへ帰還し、エドワードの大戦略の一端が崩れた。フランス王も低地地方は低地諸侯だけで大丈夫だと判断し、戦力をギュイエンヌへと振り向け、自身はパリへ帰還した。
 戦略の立て直しが必要である。イギリスに戻ったエドワードは新戦略の為に金策に奔走し、去年切り捨てた大商人達にブリュージュ・ステープルの復活とそこでの独占をエサに金の無心をしたのだが、大商人達の多くはエドワードの誘いに乗らず、というより資金が枯渇していたせいで乗ることが出来ず、この時エドワードからお呼びのかかった大商人の多くは数ヶ月後に一斉に破産して消え去った。
 戦争が再開されたばかりというのにエドワードは短期間の内にイタリアとイギリスのでかい財布を一気に失った。
 この段階での情勢はかなり悪い。当初はスコットランド相手の戦争だったのに、エドワードの暴走でいつのまにやらドイツ皇帝、低地地方、ブルターニュまで巻き込んでフランス王との大戦争に発展し、あげくにエドワードは議会に相談もせずにフランス王を僭称し、馬鹿でかい課税要求に質の悪い金策陰謀、そこまでして金を集めて戦火を拡大しておきながらいっこうに戦況はよくならず、首まで泥沼に漬かって先が見えない。一歩間違えれば王室破産に陥りかねない。こう見ると戦局次第では、諸侯、議会、しいては全臣民の怒りを買って前王エドワード二世の二の前を踏みかねない危険な状況だったといえるかもしれない。

第三章 前座の大暴剣

 6月下旬に戦いがスタートした。最初の戦場はギュイエンヌである。ダービー伯の遠征軍が到着する前にギュイエンヌを統括するイギリスの統治官ラルフ・スタフォードが行動を開始し、ブレイを包囲した。ブレイ攻城戦を皮切りにギュイエンヌ各地でフランスとイギリス・ギュイエンヌ軍が小規模な衝突を繰り返した。
 さてさてラルフ・スタフォードとは?ラルフはこの年、42歳で、エドワードが抜擢して出世した一人である。ラルフはスタフォード州のまあまあの家柄の貴族、スタフォード家の長男なんだが、家の状態がぼちぼちだったせいか、24歳の時にエドワードの小姓として家を出されて旗持ちになり、エドワードの側近くでスコットランド、低地地方、ブルターニュと、エドワードが直接指揮した幾多の戦いに参加した。特に1332年のデュプリン・ムーアの戦いでは中央最前線の一番厳しい部署を指揮して勝利に貢献している。そして1345年にギュイエンヌの統治官に任じられた。エドワードの側元での働きと忠節を認められての抜擢だったようだ。ここでもエドワードの目は確かだ。ラルフはマーニーには劣るようだが、軍事指揮官としてはけっこう有能な部類に入る人物だった。
 8月9日にダービー伯の本隊がボルドーに到着した。フランス側もアルマニャック伯とラ・イル伯率いる軍がイギリスの拠点の一つモンキューを包囲した。ダービー伯はフランス王軍主力の攻撃を意図してブレイ攻撃中の部隊をボルドーに呼び戻した。そして、だらだらと8月24日までボルドーに留まり、出発してからもだらだらとガロンヌ川を遡っていった。イギリス王軍に張り付いていたフランス王軍の偵察部隊はモンキューの主力軍へイギリス王軍の動きを伝え、アルマニャック伯とラ・イル伯はイギリス王軍のだらだらぶりに到着はかなり先だと油断した。しかしどーも、この最初のだらだらぶりが作戦だったようだ。ランゴンに到着したところでと突如スピードを上げ、一昼夜かけて一気にモンキューへ到達した。イギリス王軍の到着はまだ先だし、偵察隊からは何も報告がないと、油断していたフランス王軍はメチャ驚いた。武器を取る間もなく混乱してそのまま潰走に陥ってベルジュラックへ逃げ出した。イギリス王軍は後を追い、フランス王軍の後に続いてドルドーニュ河に架かる大橋を渡ってベルジュラック市内へ雪崩れ込んだ。ラ・イル伯はラレオールへ逃走し、アルマニャック伯はペリグーへ逃走した。これでフランス王軍のギュイエンヌ方面軍は事実上壊滅したが、低地地方にまわされる予定であった軍、ブルボン公の軍とノルマンディー公の軍がギュイエンヌに接近していた。
 ダービー伯は2週間ベルジュラックに留まり、様子を窺い、ペリグーのアルマニャック伯の軍が弱体なままなのを見抜いてまずこちらを攻撃すべく動き出した。9月10日に装甲兵2000、歩兵6000を率いてペリグーへ進出し、10月中頃までにはペリグー周辺を制圧して孤立させることに成功した。これに対してノルマンディー公は装甲兵3000と歩兵沢山をポワティエのルイとラ・イル伯に預けてペリグー救援に送り出し、イギリス王軍を退却に追い込み、ペリグー救援に成功した。
 ダービー伯は退却に際してペリグー周辺の拠点の強化に務め、時間稼ぎに出る作戦に出た。フランス王軍はイギリス側の拠点を虱潰しにする作戦に出て、まずはペリグー近郊のイギリス側最大の拠点たるオーブロッシュをラ・イル伯とポワティエのルイ率いる主力軍で包囲した。そこでタービー伯は10月21日にオーブロッシュを奇襲し、ラ・イル伯を捕らえて、ポワティエのルイに致命傷を与えて大勝利を飾った。ポワティエのルイは戦いの後で怪我が元で死去し、フランス王軍の主力軍は再び壊滅の憂き目にあったのだった。
 敗戦の報を聞いたノルマンディー公はまだ充分な戦力を有していたにも関わらず、これ以上の戦いは無意味だと軍を退き、11月4日に冬の到来を理由に軍を解散してしまう。
 ギュイエンヌ戦役はイギリス側の大勝利で第一ラウンドを終えた形だ。



1345年のギュイエンヌ戦役

 ほぼ同時期に低地地方でも大規模な戦いが起きていた。イギリスとなじみ深いフランドルではなくフリースラントではあるが、エノー伯支配下の地域である。フリースラントの諸都市はエノー伯支配に反発し蜂起した。エノー伯ウィリアム、エドワード三世妃フィリッパの兄貴はフリースランド制圧を目指してアムステルダムに上陸した。そしてユトレヒトを攻撃して6週間で下し、次にドルトレヒトへ進んでそこで船に乗り、フリースラント北部の反乱軍の総本山と目されていたスタバーンへ向かった。9月26日にスタバーン市近海に着くとすぐに上陸して市へ向かった。エノー伯の軍にはホラント、フランドル、ブラバンドなどの低地諸侯の兵だけでなくフランス王やドイツ皇帝からの援軍なども含まれていたという。フランス王のバックアップがあったってことだ。しかし、エノー伯軍はスタバーンの戦いでフリースラントの諸都市軍に敗れて敗死した。そのすぐ後にエノーのジャン率いる後詰めが到着したが、エノー伯主力軍の惨状を見て軍事活動は一切起こさず、遺体を収容して引き揚げた。フリースラントの大勝利である。低地地方でも親イギリス側が勝利を収めたってことだ。



1345年のエノー伯のフリースラント遠征

 ブルターニュ戦役の最初の戦いはイギリスとブルータニュを結ぶ連絡路に位置するガーンジ島の攻略で始まった。8月24日にトーマス・フェロー率いる水夫で構成された部隊がガーンジ島のフランス王の拠点コルネット城を奇襲して占領し、守備兵を全員殺害した。これでブルターニュへ向かうイギリス艦隊を襲撃するフランス艦隊の根拠地が失われた。1342年戦役でもガーンジ島のフランス艦隊はナント占領を目指して出撃したイギリス艦隊を襲って退却に追い込んだ実績がある。
 ブルターニュでは6月末頃に戦いが始まるには始まっていたが、トーマス・ダグワースの先発隊がブルターニュ各地を飛び回って小規模なフランス王側の部隊や町、村を襲撃して小さな勝利を繰り返していただけだった。一時はレンヌ近郊の多くの村々を占領するに至ったが、数が少なく大した戦果は上げられない。主力を率いるノーザンプトン伯にしてもモンフォール伯派の軍をあてにしての出陣だけあり、数百名の兵力しか有していなかった。一方、フランス王側のブロアのシャルルもまったく準備ができていなかった。この頃はまだフランス王の主力は低地地方戦役の準備をしているところであり、ブルターニュに回せる戦力がなかったのだ。
 事態が動いたのはようやく7月末頃で、エドワードが低地地方から離れたことでフランス王の主力が動き出してからだった。ブロアのシャルルはまずカンペールを占領した。モンフォール伯もすぐに奪還すべく軍を動かし、8月11日に強襲をかけたが、大損害を被って失敗して退却した。そこへブロアのシャルルが大軍を率いて現れ、モンフォール伯の軍は恐慌に陥って敗走して壊滅した。モンフォール伯自身はとある城館に追い詰められたが、夜陰に乗じてエンヌボン城へ脱出した。そいで数日後に病臥に伏せ9月26日に死去した。後を継いだのは僅か5歳のモンフォール伯の息子ジャンだった。エンヌボン防衛の英雄で伯の妻ジャンヌ・ドゥ・フランドルは伯の死のショックで発狂した。こちらは他の地域と比べて幸先が悪い。10月にノーザンプトン伯は拠点確保を目指して軍を動かしたが、攻略戦はことごとく失敗し、ブルターニュを無為に彷徨くだけだった。ブロアのシャルルが1342年の経験を生かして決戦を避けてフェビアン戦略に徹したせいで、ノーザンプトン伯は決戦で事態を打開することも出来なかった。モンフォール伯なき今、シャルルとしては現状を維持するだけでおのずとブルターニュ公の椅子が転がり込んでくるのは明らか。ここで無理をしてモルレの戦いのような失敗をしでかしても馬鹿なだけである。ここは戦いを避け、拠点を確保し続ければノーザンプトン伯はじり貧になり、いつかは逃げ出すだろうってことだ。
 そんなこんだでいつまでたってもノーザンプトン伯は拠点一つ獲れず、一度思い切った賭に出た。11月29日深夜に騎馬兵だけでカレから70キロ近くを一気に駆け抜け、30日の夜半にラ・ロッシュ・デリアンに至り、町の防備が整う前に攻撃を開始して三日で占領した。ここにいたってようやく戦果を上げる格好になった。



1345年のブルターニュ戦役

第四章 ランカスター伯の大暴剣

 さーて、ダービー伯はギュイエンヌでの大活躍により昇進してランカスター伯になったのでした。うそです。本当は父親のランカスター伯が死んで後を継いでランカスター伯となった。
 オーブロッシュの戦いでフランス王軍の脅威が去り、腰を据えて戦いが進められるようになると、、実際に計画を立てたのはマーニーだろうが、ランカスター伯は方針を変更した。ペリグー包囲をやめてガロンヌ河流域の拠点制圧に乗りだした。まずはフランス側最大の拠点ラレオール攻略である。11月初め頃にランカスター伯の主力部隊が攻略戦を開始した。同時に分遣隊がガロンヌ河周辺に展開し、各所の拠点を占領していった。この辺りはイギリス王に好意的な住民が多く、オーブロッシュの戦いの勝利と相まって多くはイギリス王軍の到来と同時に降伏した。11月末頃にガロンヌ河とロット河の分岐点に位置する重要拠点、エギヨン市に統治官のラルフ・スタフォード率いる分遣隊が到着すると、エギヨン市民はフランス王直属の守備隊を虐殺して門を開いた。ランカスター伯はここの重要性に注目し、そのままラルフ・スタフォードを守備隊長としてここに駐屯させた。
 各地での攻略作戦は順調だったが、ランカスター伯はラレオール攻略に手間取っていた。3週間に渡る攻防戦の末にラレオール守備隊は、あと5週間以内にフランス王の救援部隊が現れなければ降伏すると通告してきた。焦ったのはこの地域に残っていたフランス王軍、ペリグーに駐留するアルマニャック伯とアジャンに駐留するブルボン公である。アルマニャック伯はペリグー攻防戦で兵力を著しく消耗しており、ブルボン公は兵の徴集が思うように進まない。なにせ、オーブロッシュの敗戦のせいで、親イギリス派は勢いづくし、日和見主義者どもはひよるし、親フランス王派はびびっちまうしで、兵がまるで集まらない。もたもたしている内に5週間過ぎてしまいラレオールは降伏した。
 年が明けた1346年もイギリス王軍は活発に活動を続け、フランス王軍は冬営に籠もって動きが鈍く、ブルボン公の駐留するアジャンも遠巻きに包囲されてしまう。3月までにガロンヌ河とロット河流域の大半がイギリス王軍の手に落ちた。だーが、この辺りからフランス王側の巻き返しが始まる。ブルボン公はトゥールーズへ退き、そこでボーベ司教と共に軍を編成してガロンヌ河を北上した。ノルマンディ公もギュイエンヌの危機にようやく動きだし、軍を編成してロアール河を南下した。ノルマンディ公はブルゴーニュ公、ブーローニュ伯などの低地諸侯に加え、アテネ公などの遠方からの諸侯まで呼び寄せて大軍団を作り上げていた。3月初め頃に両軍は合流を果たした。この時の兵力は1400名のジェノヴァ傭兵含む、一万五千から二万と言われている。このフランス王軍は4月1日にエギヨン市郊外に到着した。エギヨン市を守るイギリス王軍は僅かに装甲兵300、弓兵600名に過ぎなかった。しかし、ここにはあの名将サー・ウォルター・マーニーがいた。但し守備隊長ではない。隊長はあくまで統治官のラルフ・スタフォードで、マーニーの同僚指揮官としてコーモントのアレクサンダーまでいたもんで、自由な裁量を振るう機会はなかったようだ。6月16日にフランス王軍は補給の為に補給船を呼んだ。これを見たエギヨン守備隊は小型船と、コーモントのアレクサンダー率いる100名の装甲兵を出撃させた。この出撃でみごと補給船を奪うことに成功したのはよかったが、100名の装甲兵の多くが殺され、生き残りはコーモントのアレクサンダーも含めて捕虜になった。あげくにロット河に架かる橋とそこを守る城塞まで奪われてしまう。
 ランカスター伯の軍はノルマンディ公の軍に比べればあまりに小さく、あの名将マーニーもいない。結局、なにもできずにボルドーへ引き返すしかなかった。だーが、ランカスター伯は諦めなかった。7月に入ると、伯はラレオールへ移動し、小規模な襲撃部隊をエギヨン周辺へ派遣してフランス王軍の補給や通信の妨害に打って出た。同時にエギヨン守備隊もマーニーの指揮でこっそりと出撃しては襲撃を繰り返した。フランス王軍は小うるさい襲撃や妨害に苦しんだようだが、大勢はフランス王軍優勢で動かない。
 この段階でフランス王軍は全前戦にわたって優位に立った。ブルターニュではシャルルの不戦の戦略とモンフォール伯の死で戦況はかんばしくなく、低地地方はまだ睨み合いの段階、そして有利だったはずのギュイエンヌもノルマンディー公の大軍の到来で一気に形勢が逆転してしまう。エドワードはまたまた危機に陥った。
 しかーし、悪い話ばかりでもない。エギヨン攻防戦の最中にブルターニュから一つの朗報が飛び込んできた。6月9日にトーマス・ダグワース率いる180名の遊撃隊がサン・ポル・ド・レオンの戦いで数十倍に及ぶシャルルの軍に勝利を収めた。凄い勝利ではあるが、勝利の反響が少しあっただけで大勢には影響のない大して意味のある戦いではなかったようだ。それでもシャルルがよりいっそう慎重になって戦いを避けるようになり、イギリス王軍は自身の力に自信を深めたって影響はあったようだ。
 いよいよ、前座は終わり、メインイベントの始まりである。



1345年のギュイエンヌ戦役

注釈 (参考文献)
第一章

第二章

第三章

第四章

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