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狂える鳩に永久の騒音あれ


(担当 ひゃっくまん)
エドワード三世の大暴剣
その四 ブルターニュ半島で大暴剣

第一章 デーヴィドの逆襲

 1340年12月、エドワード三世は低地諸侯から金を払えとせまられて、低地地方から離れられずにイギリスからの送金を待っていた。しかーし、送金の代わりに来たのは密告の手紙だった。カンタベリー大司教の妨害により金が集められない。大司教さえ逮捕してしまえば、いくらでも金を集めることができると、王の官僚が伝えてきたのである。そう、議会はカンタベリー大司教を中心に王の莫大な要求に不満の声を挙げていた。スコットランドで泥沼にハマっているのに、今度はフランス王に手を出しやがった。手を出しただけならまだしも、無駄に浪費して得るものがなかったって言うじゃねーかっ、それで更に金をだせだと!!!ってなことで議会はお怒りだった。
 これを聞いたエドワードは間髪を入れずに沸騰し、少数の随員と共に本国へ帰還した。エドワードにしても、請け合った金を充分に用意できねーくせに何いってやがんだ!!てめーらが金を用意できネーから勝てねーんだろ!!ってな感じでお怒りなのだ。
 しばらくエドワードとカンタベリー大司教との間で噛みつき合いが演じられた。聞き分けの悪い大司教に頭に来たエドワードはカンタベリー大司教派の排除を決意して1341年4月にウェストミンスターに議会を招集した。この時、子飼いの者で議会の入り口を封鎖してカンタベリー大司教派の議会入りを阻止!!これで安心して議会を運営できると思い、さっそく税の徴収を命じたのだが、怒っていたのはカンタベリー大司教派だけではなかった。エドワードの要求に議会を代表してサリー伯とアランデル伯が反対の意を伝えた。こうなるともう、どうしようもない。エドワードは議会と和解して要求を撤回しなければならなかった。フランス戦どころではない。議会が納得しないことには金がない。しかし、悪いことばかりでもない。税の徴収は認められなかったが、三万袋の羊毛の徴発が認められた。
 エドワードは強引に商人オドして役人を叱咤して、議会も協力して商人オドして役人を叱咤して、なんとかかんとか二万袋を引っ掻き集めた。この引っ掻き集め作戦では一部の大商人に特権を与えるアメも用意されていた。輸出できる港を十五港に制限して王の特別の許可を受けた商人だけが羊毛貿易ができる事とした。許可が欲しければ協力しろってことだ。この作戦で二十三人の大商人が許可と引き替えに協力した。但し、王が徴発する分とは別に商人が輸出する羊毛にはちゃっかり関税がかけられた。徴発分は自分の懐に、商人が独自に売りさばく分には関税をってなぐあいに、二重に儲けようって腹だ。
 7月頃には約九千袋が集まり、なんとか集めた羊毛を一袋十ポンドの価値があるとわめき散らして低地諸侯にばらまいた。ゲルターランド公には千袋、ブラバンド公には三百袋ってな具合に兵を出した代金としてばらまいたのだ。一応これで低地諸侯は納得したらしい。
 エドワードが金策で苦しんでいる中、スコットランドで緊急事態が発生した。1341年10月、北部の要衝スターリングが攻撃を受けたのだ。エドワードは直ぐにヨークへ飛んでいき、軍の集結を命じた。羊毛で儲けた金があるのでなんとかかんとか戦争ができるってことだ。それにスコットランドの危機となれば北部の諸侯も動き出す。さぁ、軍も整った出発だ!とはいかなかった。スターリングが陥落した。
 ヨークでこの報を受けたエドワードは、それでもダラムを通ってニューキャスルに駒を進め、補給を支援すべく艦隊を呼び寄せた。軍の規模は伝えによると騎兵六千、歩兵四万の大軍だったとか。さあ、今度こそ出発だ!と思いきや。今度は艦隊が嵐にあって壊滅してしまう。生き残った船の多くは全く反対方向のフランドルやらフランスやらに流されてしまう。これは効いた。エドワードの進撃は完全にストップしてしまう。しかしだ。スコットランド側もあせっていた。エドワードの大軍に対してスコットランド軍は実に少ない。そこでスコットランド側はエドワードに和平の使者を立てた。エドワードも打つ手が無くなりどうしょうもなくなっていたこともあり、スコットランドと休戦を結んで軍を解散してしまう。この休戦を利用してスコットランド諸侯はフランスに亡命中のデーヴィド二世に帰っておーいでと、使者を送った。デーヴィド二世は使者の要請にこたえて遂にフランスを後にし、スコットランドへ帰還した。パースに着くと大規模なお祭りを開いて大々的に帰還を宣伝してスコットランド諸侯にアピール、イギリスに反感を持つスコットランド諸侯や民衆は大喜びってな具合に相成ったのだ。
 さー、ここからデーヴィド二世の大反攻が始まる。デーヴィド二世は最初に味方になりそうな諸侯に向けて使者を送りまくった。そして直ぐにオークニー伯がデーヴィド二世の呼びかけに応えて大軍を持ってはせ参じ、それに続いて続々と軍が参集した。近くはスコットランドから、遠くはスェーデンやノルウェーから兵が馳せ参じたとか伝えられている。集まった兵力は歩兵60000、騎士3000といわれている。この数値はたぶん誇張だろうがとにかく凄い大軍が集まったそうだ。
 デーヴィド二世率いるスコットランド軍はパースを出発して南下したが、エディンバラ、ロクスバラ、ベリックなどのスコットランド南部のイギリスの拠点をことごとく迂回してイギリス北部ノーサンバーランドに侵入し、これまでの恨みを思い知れとばかりに略奪と破壊の限りを尽くした。これに対してニューキャッスル城近隣のイギリスの騎士達、約200騎がスコットランド軍に夜襲を仕掛け、スコットランド軍に大損害を与えた上にマリー伯を捕虜にしてニューキャッスル城へと逃げ込んでしまう。デーヴィド二世は夜襲に対してニューキャッスル城攻撃で応じた。しかし、城の守りは固く徒に損害を増やすだけだった。デーヴィド二世は攻城戦で時間を浪費する愚を犯してもしょうがないと、そうそうに攻撃を切り上げて更に南下を続け、ダラム司教領に侵攻してここでも大規模な略奪と破壊を繰り広げたのだった。
 デーヴィド二世の侵攻の報を受けたエドワードは直ちに軍を起こしてウォーク城へと前進した。しかーし、ここでとある美女に一目惚れ、足の間の大暴剣が猛り狂う。なんとかやっちまおうと口説いたが、むげもなくあしらわれて無駄に時間を食っただけ。彼女はソールズベリ伯爵夫人と伝えられているが、名前がアリスとか、キャサリンだとか、後に黒太子の妻になるケントの美女ジョアンとか、色々伝えられているが実際の所誰かわかっていない。この事件はシェイクスピアもネタにしてけっこう大きく扱っている。足の間の大暴剣を満たせないなら、手に持つ大暴剣を満たそうと戦いに向かうことになる。
 さて再び戦いの方だが、エドワードが寄り道を食っている隙にデーヴィド二世は退却してしまう。エドワードも跡を追い、なんとかベリックの北辺りでデーヴィド二世を補足するのに成功し、ここで両軍は陣地を築いて3日にわたって小競り合いを繰り返してた。



ベリック近郊での小競り合い
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 両者共にここで決着を付けることは不可能だとの考えに達して和平交渉を始めてしまう。デーヴィド二世はフランス王にお伺いを立ててなんとか二年の休戦を結ぶことになり、その証としてエドワードは今回の戦いで捕らえたマリー伯を釈放し、デーヴィド二世はフランス王に頼み込んで1340年の低地戦役で捕虜になったソールズベリ伯を釈放した。フランス王はスコットランドの状況をよく理解してたんだろう。今は力を貯める時ってことだ。それに、エドワードもこの酷い金欠病状態では戦いを続けられないってことだろう。なんせ、スコットランドの収支は主要都市の守備隊の費用だけで年一万ポンドもかかるのに、あがりはたったの二千ポンドに過ぎないってんだから、やってられん。
 まったく、足の間の大暴剣も、手に持つ大暴剣も満足できずに終わっちまった最低の遠征だった。ま、スコットランドの侵攻を一時的に押さえ込めたんだから、それでよしとしなきゃならんってことだろう。



1341−42年のスコットランド戦役

第二章 ブルターニュで大暴剣

 さてさて、エドワードがスコットランドで遊んでいる間に大陸ではチョイトした騒動が持ち上がっていた。1341年4月30日にブルターニュ公ジャン三世が後継者のいないまま死去し、相続争いが始まった。後継候補はジャン三世の異母弟のモンフォール伯ジャン、もう一人はジャン三世の姪のジャンヌと、その夫のシャルル・ドゥ・ブロワ、フランス王フィリップ6世の甥でもある。当然フランス王は甥っ子を支援してブルターニュ継承戦争に介入してきたが、先手を打ったのはモンフォール伯だった。まずナント市へ進撃して市民の熱い歓迎を受け、そのままブルターニュ半島制圧戦をオッ始め、僅か2ヶ月で半島全域を制圧してしまう。そして、イギリスへ渡りエドワードをフランス王と煽て上げてエドワードの家臣になると誓い、ナントへと帰っていった。ここまでしたのはいずれフランス王家と戦わなければならないのは自明だったんで、強い味方を引き込む必要があったってことだ。



ナント市民の歓迎を受けるモンフォール伯
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 11月になってようやくシャルルが動き出す。シャルルの大軍はモンフォール伯の籠もるナントへ侵攻した。モンフォール伯の部隊がシャルルの軍の動静を探ろうと出撃してきたが、あっさりと撃ち破られて多くが捕虜になってしまう。そして、こともあろうにシャルルは捕虜達の首を刎ね、その首を投石機でナント市内へ撃ち込んできたのだ。その数31個。ナント市民はびっくり仰天、上を下への大騒ぎの果てに降伏する。モンフォール伯はシャルルの捕虜になり、パリへ送られた。大将を失ったモンフォール伯派は脆かった。またたくまに半島の大半はシャルル派の制圧するところ。シャルルはフランス王の息子のノルマンディー公ジャンの援軍を受けて勇気百倍、これで戦いも終わりかなと思われた。



ブルターニュ制圧戦中、ジュゴン・レ・ラック市民の歓迎を受けるシャルル・ド・ブロア
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 しかーし、しかしである。そう事は簡単には運ばなかった。モンフォール伯の妻、ジャンヌ・ドゥ・フランドルがギリギリのところで踏ん張った。ジャンヌはエンヌボン城に立て籠もってイギリス王に援軍を要請したのだ。



エンヌボン城攻城戦
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 援軍の要請を受けたエドワードだが、そう簡単に応えられる状況にはなかった。この頃はスコットランドとの戦いは続いているし、金も用意できない。なんとかかんとか、スコットランド王と和平を結んで、金と軍を用意して、最初の救援部隊が出発したのは1342年3月、それも兵力は騎馬弓兵210騎、騎馬装甲兵133騎の343名に過ぎなかった。で、あげくに悪天候に翻弄されて現地に着いた時には5月になっていた。救援軍は遅れはしたが、救援軍が到着するまでジャンヌは救援を信じて鬼の如く戦い続けていたおかげで手遅れにはならずに済んだ。
 到着してからのイギリス遠征軍指揮官サー・ウォルター・マーニーの動きは素速い。その夜、シャルルの家臣スペインのルイス率いる攻城軍にたいして夜襲行い、攻城兵器の大半を破壊してルイスの軍に大損害を与えた。翌朝、ルイス軍は攻城の継続を断念し、オーレーを攻城中のシャルルの元へ退却した。シャルル軍はイギリス遠征軍の到来に対応してオーレー周辺地域の城を攻撃してこの地域を制圧した。そしてルイスは艦隊でカンペールへ侵攻し、マーニーもそれに対応してカンペール救援に赴いたことでカンペールで戦いが起こり、ルイス軍は壊滅的な敗退を喫した。しかし、この程度で形勢が逆転することはなかったが、タイに持ち込むことはできた。後はしばらく互いに城を取り合う城取合戦の状況にもつれ込んだ。
 マーニーの活躍はロンドンに勝利の報として届き、イギリスの諸侯や国民は沸き立った。弱い弱いとバカにされ続けたイギリスがヨーロッパ随一の強さを誇るとかほざいていたフランス野郎の大軍を僅かな兵力で翻弄して撃ち破ったと、大喜び。一番喜んだのはエドワードだろう。さっそく遠征軍第二陣の出発が決定された。諸侯もこの戦いは勝てると見たのか協力的で、ノーザンプトン伯を総司令官に、デヴォン伯、スタフォード卿を副将とした騎馬装甲兵320騎、騎馬弓兵310騎、弓兵10名の第二陣が8月14日に出帆した。
 そいと思いっきり余談だが、この遠征軍には後にイタリアでとんでもない活躍をする一人の人物が参加していた。ジョン・フォークウッドである。彼はフランスでの戦いの経験とコネを生かして傭兵隊を起こし、イタリアへ渡って傭兵隊長としてやりたいほうだい大暴れする。この皮なめし屋の次男坊は1340年に父が死んだ時には家業を継げる見込みもなく、何か別の生計の道を見付けなけりゃならなかった。最初はロンドンで仕立屋を営んでいたのだが、あんま稼げなかったようだ。そいで、ノーザンプトン伯の家臣の募兵に応じて弓兵として参加したらしい。
 さて本筋に戻ろうか。遠征軍は18日にブレスト近郊の砂浜に上陸し、ブレストへ向かった。ブレストを攻撃していたフランスの先発隊は大した抵抗もせずに退却した。これに対してシャルルはブレストへ向かう途上にあるモンフォール伯派の拠点ガンガンを速攻で陥落させ、ブレストへ向かう準備をした。8月の末頃にロバート・ドゥ・アリトゥス率いる装甲兵170、弓兵220名の増援が到着し、モンフォール伯派の兵も集まり、軍が整った9月2日にノーザンプトン伯はモルレへ進撃して強襲したが、攻撃は失敗した。そこで、攻撃法を包囲に切り替えて攻撃を継続した。シャルルはモルレ救援の為に大規模な軍を招集して、9月30日にモルレへ進撃した。ノーザンプトン伯はシャルル接近の報告を聞きすぐに、モルレ攻城を中止して良好な地形を求めて進軍し、モルレから6キロほど東の森に陣地を築いてシャルルを待ちかまえた。両軍はモルレ近郊で激突し、シャルルの軍は敗退して壊滅した。



1342年の第一次、第二次ブルターニュ遠征軍の戦役

 ノーザンプトン伯は直ぐに勝利の報をロンドンへ送り、エドワードと国民、諸侯はこの大勝利に驚喜した。一回だけじゃなく、また勝った。これは偶然じゃネー!イギリスは強い!ってな感じだろう。エドワードは装甲兵1400、騎馬弓兵1400、歩兵1700の合計約4500名の兵と、グロスター伯、ウォリック伯、ペンブルック伯、ダービー伯、ソールズベリ伯、サフォーク伯、オックスフォード伯などの主要なイギリス諸侯を率いて10月23日にブレストへ向けてサンドウィチ港を出帆した。参加した諸侯のお歴々を見る限り、諸侯からはかなり大きな支持を受けての出兵だったらしいが、金がないのか諸侯の人数のわりには兵力自体が大きいわけでもない。ただ、年代記者達は兵力は2万にのぼったのなんだのと大騒ぎしている。諸侯が多いだけあり、出陣は花々はいものだったんだろう。エドワードは国のことを息子のエドワード太子に任せた。黒太子この年12才。だいたいこのあたりから黒太子がエドワードの政治的補佐として議会に主席したりなどの活動をするようになっている。いよいよ、政治デビューってわけだ。
 エドワードは27日にブレストに到着した。一方、シャルルは再び軍を立て直して諸悪の根元ジャンヌを討伐すべくエンヌボン城攻撃に打って出ていた。ジャンヌさえ捕らえてしまえば、モンフォール伯派は瓦解するだろうし、モンフォール伯派が瓦解すればイギリス軍がブルターニュに留まる理由はなくなるって読みだったんだろう。しかし、冬が到来しても持ち堪えた。シャルルはやむなく冬営のため、ナントへ退却した。
 イギリス軍は冬営することもなく、活発に活動を続けていた。まず、モルレ城攻略が行われ、裏切りにより落城させることに成功した。そして次にブルターニュ最大の都市ナントを海から一気に攻略するとした作戦がロバート・ドゥ・アリトゥスにより立案され、実施に移された。ロバート・ドゥ・アリトゥスは一端イギリスに戻ってリッチモンド伯と共に出撃したが、スペインのルイ率いる艦隊にガーンジ島近海で待ち伏せに会い、嵐のおかげでなんとか難を逃れたが、後退を余儀なくされた。再出撃したロバートは目標を変更して、バンヌ近郊に上陸した。



ガーンジ島海戦
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 ロバートはバンヌを速攻で陥落させるべく策略をめぐらした。まずは地形を充分に調べ突撃の準備も十二分に整えるべく数日を費やした。バンヌの門は3つあり、オリヴィエ・ド・クリソン指揮の元で防備は固い。最初に、弓兵の大規模な援護射撃下で装甲兵を城壁へ前進させた。被害は軽微だったが、攻撃は失敗した。しかし、この攻撃失敗こそが作戦の第一段階だった。この夜、バンヌ守備隊は攻撃の直後だけあり敵の攻撃はないと思い、守備をほとんど解いてい惰眠をむさぼっていた。ロバートは手薄な守備と夜陰に紛れて門に焼き討ちをかけた。突然の夜討ちに守備隊は慌て、門に集結した。その隙に、ロバートの主力は門から離れた城壁を梯子で越えて市内へ侵入し、門の守備についていた守備隊を背後から襲って潰走させたのだった。クリッソンと守備隊の多くはナントへ落ち延びた。
 卑劣な手でバンヌを奪われたと頭に来たクリッソンはシャルルから増援を得てバンヌ奪還に舞い戻ってきた。ロバートは直ちに出撃してクリッソンに挑んだが多勢に無勢、直ぐにバンヌへ押し返されてしまう。ここでバンヌに籠もるのも手だったが、問題はバンヌ住民が親シャルル派で、バンヌに籠もることは外と内に敵を抱えることになる。籠城は不可能と判断したロバートはエンヌボン城への退却を決意した。クリッソンは追撃をしかけたが、ロバートの巧みな退却のせいでほとんど損害を与えることが出来なかった。しかし、ロバート自身は重傷を負ってエンヌボン城についたところで死亡した。
 ロバートの失敗を受けてエドワードはブルターニュを徐々に征服するのではなく、フランス側が冬営に入り動きが止まったこの時を狙って一気に征服するとした作戦に切り替え、ブルターニュの主要都市、レンヌ、バンヌ、ナントの三市を同時に攻撃することとした。11月8日に前進基地を設けるべくカレへ進撃して速攻で占領した。ここで軍をノーザンプトン伯の北方軍集団と、エドワード自ら率いる南方軍集団の二つに分け、北方軍集団はレンヌをめざし、南方軍集団はバンヌ、ナント両市の占領を目指し、11月11日に進撃を開始した。25日にはバンヌ攻城が開始され、月末にはナントの攻撃も始まった。ナントにいたシャルルは冬なのに冬営もせずにブレストから進軍してきて攻城を開始するなど非常識極まりれないと驚き、ナントから逃げ出してしまう。北方軍集団はポンティビー、プロエルメル、ルドンとフランス側の拠点を短期間の内に降して南方軍集団からいくぶん遅れて作戦通り、レンヌ攻城を開始すると同時に、周辺地域に大規模な遊撃部隊を派遣して敵の力を削ぐことに余念がなかった。ウォリック伯率いる部隊はディナンまで進出して略奪を行っている。
 さてここで、百年戦争前半戦のフランス側の主役級の人物が登場する。ベルトラン・ド・ゲクランである。御歳22才。ゲクランはレンヌを守る親フランス側の兵の一人としてこの戦いに参加していた。身分はいまだ従者であった。
 シャルルは叔父のフランス王に泣きついた。フランス王としてもイギリス王自ら出張ってきたことだしここは俺が立たなきゃイカンだろうってな具合で5万とも伝えられる大軍を用意してブルターニュへ侵攻した。これに対してエドワードは全軍を持ってこれを迎え撃つべしと檄を飛ばし、全軍にバンヌ集結を命じた。フランス王はノルマンディー公率いる軍がレンヌへ、フランス王の本隊が幾らか遅れてバンヌへ向かう道をとった。フランス王とノルマンディー公はプロエルメルで合流してバンヌへ向かった。
 エドワードはバンヌを包囲しながらフランス王を迎え撃つこととした。フランス王にはいままでさんざん会戦を誘ったが果たせずにいた。そこで、これだけ魅力的な状況を演出してやればさしものフランス王も載ってくるんじゃないかって思ったんじゃねーか。そしてハリドン・ヒルの戦いの再来を狙らおぅって魂胆だ。だが、兵力に不安がある。イギリス本国に増援の要請をしているがなしのつぶて。
 ここでローマ教皇クレメンス6世の仲裁が入ってしまう。エドワードは普通なら蹴り飛ばして戦いを続けるところだが、やはり兵力に不安があるので、教皇の提案を受けた。フランス王の方はといえば、とりあえず現状維持ならいくらでも状況をひっくり返すチャンスがあると、教皇の提案を受け入れた。ここでもフランス王とイギリス王の決戦はなく、現状維持で2年間休戦と決まり、ブルターニュ戦役は終了してしまう。エドワードは1343年2月に本国へ帰還した。ブルターニュに戦いの基盤をおき、胸のすくような大勝利を得て一時的にでも国民を盛り上げることが出来たんだからこれで良しとしなきゃならんって事だろう。しかし、全体的に見ればなんら状況は好転していない。スコットランド北部は失われ、低地地方に続いてブルターニュでも外交的に有利な状況を作り出すような勝利は得られず、単に金を浪費するばかりだった。但し、スコットランド、フランス両者に対して約2年の休戦期間は体勢を立て直す上で大きかったのかもしれない。



1342年の第三次ブルターニュ遠征軍の戦役

注釈 (参考文献)
第一章

第二章

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