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狂える鳩に永久の騒音あれ


(担当 ひゃっくまん)
エドワード三世の大暴剣
その三 低地地方で大暴剣

第一章 フランス侵攻準備

 1336年、フランスとの関係は悪化し、そのせいでスコットランドの戦いは泥沼化し、大陸領はおろかイギリス本土すらフランスの脅威に晒され、エドワード三世は苦しい立場に陥っていた。この苦しみを打破する方法は一つ。諸悪の根元たるフランスを叩くしかない。しかし、過去イギリス王たちはフランス王に連敗続きである。あの偉大なエドワード一世すらフランスには勝てなかった。議会も勝ち目の薄い戦いをやる気がない。エドワード三世はというとやる気十分で、当初はアキテーヌからフランス中枢へと侵攻する計画を抱いていたが、低地地方の状況が都合のよい方向へ流れ出すにいたって作戦を変更して低地地方から侵攻する計画変更して低地諸候に向かって積極的な働きかけを行うようになる。
 低地地方にはフランス王が積極的に影響力拡大を目指して介入を繰り返していた。当時の低地諸候は大まかに分けてフランス王かドイツ皇帝を封主としていたが、皇帝派の諸候はフランス王の介入をあまり快く思っていなかった。そのような中、エドワード三世の義理の父エノー伯ウィリアムは低地諸候と広く血縁関係を結び、同時に皇帝とも血縁関係を結ぶだけでなく、フランス王とも友好的な関係を作り、低地地方に大きな影響力を有していた。しかーし1335年頃、フランス王フィリップ6世はエノー伯の勢力がこれ以上拡大することを快く思わず、エノー伯が計画していたブラバンド公の息子とエノー伯の娘の結婚の妨害に打って出た。エノー伯はフランス王の妨害に対抗してエドワード三世に援助を要請した。これによりエドワード三世は低地地方からのフランス侵攻作戦の土台を手にすることになる。しかし、低地地方は戦いをあまり望んでいなかったようでフランス王とエドワード三世の和平を斡旋したりしている。フランス王を牽制する目的でエドワード三世に近づいただけだった。
 エドワード三世は低地地方との連携を強めるために金をばらまくことにした。低地諸候と年額いくら出すから軍を出せ、といった感じの傭兵契約みたいなものを結びまくったのだ。例えば、エノー伯には三万ポンドで千名の装甲兵の提供を受ける契約を結んでいる。全体で、22万ポンドで7千名の兵の提供を受けることになっていた。金は分割払いで3年かけて完済する予定になっていた。
 さあ、ここで問題になるのが金だ。ふつーの状態で年収三万ポンド、議会の承認があってやっと九万ポンドの収入しかないのだ。だーが、エドワード三世には必殺の金のなる木があった。羊である。イギリスの羊は金の卵を産むは、人を食い殺すは、外国人を色仕掛けで籠絡するは、となかなか素敵な生き物なのだ。
 羊の使い道は金儲けだけではない。1336年8月、フランス側についた低地諸候に揺さぶりをかける時にも、この秘密兵器が使われた。低地地方への羊毛輸出を禁止したのだ。低地地方の諸都市の主要産業は毛織物である。材料の羊毛は英国から輸入していた。そう、羊毛の禁輸は低地地方の商人、職人に対して途方もない打撃になるのだ。低地地方のフランス側諸候もイギリスとの通商禁止命令で対抗したが、これは逆効果だった。商人や職人などの都市民達は低地諸候に対して通商再開を懇願したが、諸候はこれを蹴り飛ばし、都市と諸候との対立が先鋭化する結果となった。エドワード三世の望んだ通りの効果が出たのだ。それと、この禁輸命令にはもう一つの狙いがあった。この禁輸命令は税の支払いに応じた大商人には適用されなかった。ようするに、羊毛輸出の独占を一部商人に売りつけたのだ。しかし、一部商人に貿易を独占させるってことは競争が起こらないってことだ。ようするに羊毛の値段の決定権を商人が握ることになる。これは羊毛生産者たるイギリスの諸候にとって困る話である。そこで、エドワード三世はもう一つの手を打っておいた。商人には貿易の独占を許す代わりに、羊毛の最低価格を商人達に認めさせたのだ。これで商人が不当に安い価格で諸候から羊毛を買い集めるというわけにはいかなくなった。この価格は「ノッティンガム価格」と呼ばれた。
 とはいえ、禁輸作戦だけではまるで金が足りん。そこで羊のメリーちゃんによる色仕掛け作戦が行われた。イタリアのバルディ、ペルッチの両商会から羊毛貿易の特権と引き替えに多額の借り入れを行った。愛に生きるイタリア人はメリーちゃんの色香に迷って20万ポンドもの金を貢いだ。エドワード三世は美人局戦法で今度はドイツ人からも金を巻き上げようとしたが、ドイツの商人集団ハンザはドイツ人気質を発揮してメリーちゃんの色香に迷うことなく、無理な貸し付けはしなかった。実際の所は、イタリア商人にくらべて資本力が圧倒的に小さく、大規模な貸し付けが出来なかっただけではあるが、イタリア商人と違って自滅するほどの貸し付けは控えたようだ。
 当然、羊のメリーちゃんにだけ頼っていたわけではない。議会に計って動産税の徴収も認めさせた。エドワード三世はこれで何とかなるかと思ったが、そう簡単にはいかなかった。禁輸命令も課税も商人には迷惑な話なのだ。商人達はしぶしぶ税の支払いを承認したが、いざ払う段になると支払いを拒否するは、税の徴収を妨害するは、と、税の徴収に抵抗した。おかげで思うように徴集が進まず期待した額の金が集まらなかった。
 1337年に入っても財政状況は好転しなかったが、戦雲はいよいよ厚みを増していったのだ。2月にフランス王はアキテーヌの略奪を決定し、国境の町に奇襲攻撃をしかけたが、攻撃は失敗して軍事作戦は中止になった。本腰を入れて攻撃する気はなかったようだ。エドワード三世に対する示威行為の一つだったのだろう。それでも、強硬姿勢を崩さないエドワード三世に対して、フランス王は5月にアキテーヌのエドワード三世の領土没収を宣言した。
 エドワード三世もそれに対抗してアキテーヌから攻勢に出る計画を立てた。その計画は、昔ジョン王が使った戦略の焼き直しだった。ジョン王の戦略は南北から同時に攻勢を仕掛けて、フランス王を南に誘い出し、北の主力がパリを襲うというものだった。エドワード三世の戦略は全く逆で、低地地方の同盟者達が陽動を仕掛けてフランス王を北に誘い出し、カスティリア王と同盟を結んで、エドワード三世の主力軍が南に上陸してカスティリア・イギリス連合軍で南からフランス王領の中枢を襲うというものだった。しかし、6月にはカスティリア王との同盟交渉の失敗がはっきりして、作戦の変更を迫られることになった。そこで味方の低地諸候との同盟を再確認して低地地方に主力を上陸させて北でのみ作戦を展開することにし、9月に戦略の変更を通達した。
 しかし、作戦が決まっても金がなければどうにもならない。6から7月に主要な商人と交渉し、その商人達に羊毛の独占売買権を与えて羊毛三万袋の一括購入と売却を命じた。この一括売買により40万ポンドの利益が見込まれ、その関税として4万ポンドを王が受け取る手はずとなっていた。商人達はその代償として羊毛を販売する段で20万ポンドを王に前貸しすることになった。ただ、これだけの出費を一度に商人が請け負うのは厳しいので、商人が羊毛を購入する際は後払いの形にすることが定められた。そして、9月に議会を招集して非常事態を宣言して再度税の徴収を認めさせた。
 これでなんとか戦費が整うかと思いきや、羊毛の買い付けが上手くいかない。11月までに集まった羊毛は一万袋に過ぎなかった。集められた羊毛は直ぐにドルトレヒトへ送られた。エドワード三世は羊毛がドルトレヒトに送られると商人に予定額より多い276000ポンドの前貸しを求めた。商人にしてみれば予定の1/3の羊毛しか集まっておらず、あげくに前貸しの額が増えたのではやってられんと、前貸しの支払いを拒否した。急いで金が欲しいエドワード三世は商人の前貸し拒否にあっさり切れた。1338年2月に羊毛を全て差し押さえて勝手に売却してしまったのだ。羊毛を買い集めた商人には「ドルトレヒト証書」と呼ばれる借用書を発行したが、この証書の債務が履行されることは殆どなく、証書は表示額の百分の一から二百分の一で取り引きされた。現代風に言うと国債が表示額の百分の一から二百分の一に暴落したようなものだった。この暴挙で王の信用はがた落ちになり、イギリス商人、特に中小商人は大打撃を被った。その後、羊毛貿易の統制強化と、間接税の増額が定められたが、税の支払い拒否や密貿易横行した。そこで今度は外国商人、イタリアのバルディと、ペルッチに羊毛の独占貿易権を与えて三万五千ポンドの金を借りたのだが、まだまだ全然足りない。しかたなく、関税の減額を条件にイギリス商人からも金を借りることにした。このイギリス商人の中で飛び抜けた存在が、ウィリアム・ド・ラ・ポールだった。彼は七万ポンドもの金をエドワード三世に貸し付け、王室財政の中心人物へとのし上がったのだった。
 まー、足りないといえば足りないが、なんとかフランス戦役を発動させるだけの金が集まり、大陸での最初の作戦を発動させるのだった。とはいえ、最初の作戦は金策でごたごたしている中で行われている。1337年11月10日にフランス王に味方する有力な低地諸候の一人、フランドル伯に対して襲撃作戦が行われて、チョイトした会戦がキャドザントで起こり、イギリス王軍が大勝利を治めた。これが大陸で行われた最初の会戦となる。まー、大げさな言い方をすれば百年戦争最初の会戦だってことだ。



キャドザントの戦い
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 1338年7月、満を持してエドワード三世は大陸へ渡った。イギリスから連れてきた兵力は1350名の装甲兵、2000名の弓兵だけ。皇帝派の低地諸候の連れてくる兵力に期待しての大陸出兵だった。しかし、エドワード三世の期待は直ぐに裏切られることになった。皇帝派の低地諸候は皇帝か代理人の命令がない限り、フランス王とは戦えないと言い出したのだ。諸候としても君主でもないイギリス王から軍を出せと言われてホイホイと軍を出すわけには行かないのだ。軍を出すには建前として君主たる皇帝のお墨付きが必要だってことだ。だけど、兵を連れて来たのだから金は払ってくれといってくる。そこで、エドワード三世は皇帝から六万ポンドで皇帝の代理人の称号を買い、皇帝の封臣たる低地諸候が軍を出す際に必要な大義名分を手にした。9月に大々的に皇帝の代理人就任のセレモニーを開いて低地諸候に自らの地位をアピールした。
 しかし、エドワード三世が大陸作戦を発動できないでいる中、戦いは既にフランス王主導の形で始まっていた。スコットランドではソールズベリ伯、アランデル伯の軍がダンバーでスコットランド軍と対峙し、3から4月にはフランス艦隊がイギリス海峡側のイギリスの諸港を襲撃し、ガスコーニュ防衛の要たる二つの要塞がフランス王軍の攻撃を受けていた。



1337−8年の戦役

第二章 カンブレーの大暴剣

  1339年に入っても状況は好転しなかった。スコットランドではスコットランド中部支配の要たるパースが攻撃を受け、ガスコーニュでは防衛ラインを形成する5つの要塞を奪い取られ、防衛部隊の中心格たる二人の諸候が捕虜になり、ガスコーニュはフランス王の手に落ちる寸前の状態に陥っていた。イギリス南部沿岸に対するフランス艦隊の攻撃も活発になっていた。
 この状況の中、エドワード三世はフランス王を決戦して撃ち破り、この勝利をテコに外交交渉で事態を打開しようと考えていたようだ。決戦についてエドワード三世は絶対の自信があった。スコットランドでの一連の戦い、デュプリン・ムーアハリドン・ヒルで威力を発揮した弓兵と装甲兵の連携戦術に、低地諸候の兵力が合わさればフランス王の主力と戦っても負けるはずがないと考えていたようだ。フランス王側にはこのような連携戦術の経験がないし、1300年代初頭に行われたクールトレーや、アルクエモンス・エ・ペーウェルなどの戦いで戦術的な弱点を露呈している。
 7月にガスコーニュの中心都市ボルドーにフランス王軍が到来した。ここが落ちればガスコーニュは完全にフランス王の手に落ちてしまう。スコットランドでも北部の要衝パースとクパーが陥落し、スコットランド北部は失われた。こうなると、一刻も早く行動を起こさないとみすみすガスコーニュとスコットランドを失うことになりかねない。兵力は1100名の装甲兵、1100名の騎馬弓兵、1700名の歩行の弓兵の4600名しか集まっていなかったが、これ以上兵の集結を待つわけにはいかなかった。エドワード三世はフランス王の領域に攻撃を仕掛けるつもりでいたが、一部の低地諸候はあくまで帝国領の防衛が目的であり、フランス王に攻撃を仕掛けることが目的ではないと主張してフランス王の領域とされている地域に踏み込むことに抵抗を示した。そこで、エドワード三世はフランス王を誘き出すために低地地方の皇帝領とされている地域内にいるフランス側諸候の攻撃に打って出た。最初の標的はカンブレー司教領である。ごたごたと色々とあって、実際にエドワード三世が攻撃を開始できたのは9月に入ってからだった。
 エドワード三世はカンブレー司教領を荒らしながら兵力の集結を計った。9月30日にはブラバンド公が到来し、10月3日にはドイツ皇帝ルートヴィヒの息子のブランデンブルク伯が到着した。兵力は確実に増大した。10月9日にフランス王フィリップ六世がナバラ王フェリペ三世とボヘミア王ヨハンを伴ってペロンヌに現れた。この時、エドワード三世はペロンヌから30キロほど北のセント・マーティンに布陣していた。フランス王の戦略は不戦の戦略だった。とにかくエドワード三世軍の近くにいて補給と進撃を妨害し、エドワード軍が自然に瓦解していくのを待つつもりだった。なにせ、エドワード軍の主力は低地諸候の寄せ集めなのだからそう長くは持たないだろうとの読みがあったようだ。
 10月10日前後にローマ教皇から和平を斡旋する使者がエドワード三世の元を訪れた。エドワード三世は使者に対して自分がいかに和平に努力したかを説明し、その上でもはや戦争以外に解決策はないと主張している。教皇の使者はエドワード三世の主張を聞いた後、フランス王の元へ向かった。エドワード三世にしてみれば教皇の使者を通してフランス王に対して挑戦を突きつけたつもりだったのだろう。
 10月14日にエドワード三世はフランス王の目の前をかすめてオリグニーへ移動した。そして、ここでも大規模な略奪を繰り返してフランス王に誘いをかけた。略奪範囲は広範囲に及び略奪隊の一部は本隊から25キロも離れたクレシーの町をも焼き払った。しかしそれでも、フランス王はエドワード三世の誘いに乗ろうとはしなかった。
 略奪は大規模に行われていたがそれでも連合軍の補給状態は悪化し、天候も悪化して雨が降り続くようになり、冬も近づいてきたことでエドワード三世の同盟者の間に動揺が広がった。10月17日には最大の同盟者の一人ブラバンド公がエドワード三世に苦情を申し立ててきた。これ以上、戦いが長引くようなら国へ帰ると言い出したのだ。しかしここで、救いの手がフランス王から差し出された。18日にフランス王から21か22日に「森も、沼も、川もない決戦に向いた場所で相見えよう」という内容の手紙が届いたのだ。エドワード三世は有頂天になって喜んだ。さっそく有利な戦場を求めて移動が始まり、フランス王も後を追った。そして約束の21日には戦場へ向けて移動を続け、次の22日に全軍を戦闘配置につけてフランス王を待ち受けたが、フランス王は戦場には現れなかった。翌日、エドワード三世と同盟者達は会議を開き、このままアベーヌへ移動して軍を解散させることにした。と、そこへ再びフランス王から明日決戦をしようとの手紙が届いた。そこでもう一度だけフランス王を待つことにしたが、今度はただ待つだけでなく積極的にフランス王へ揺さぶりをかけるべく偵察を盛んに行い、フランスの偵察部隊を捕らえて、フランス王の宿営地の位置や状態の情報収集に務め、夜にはフランス王の宿営地に小規模な夜襲を仕掛けて数名の者を捕虜にした。
 24日決戦の日、エドワード三世は第一線を英国兵で固めて両翼に弓兵を置き、弓兵を支援すべく弓兵の側面にウェールズ人軽装兵部隊を配置し、中央に下馬した装甲兵を配置する得意の布陣をしき、低地諸候の部隊は後方において予備とし、準備が整った所で捕虜の一人に馬と金を渡してフランス王に早く戦場に来いと伝えてこいと言って、釈放した。フランス王は直ぐに戦場に現れ、部隊を3つに分けてエドワード三世軍に対した。イギリス弓兵隊が射撃を開始し、両軍の間で罵倒合戦が始まったが、どちらの軍も動こうとはしなかった。フランス王の陣地では攻撃すべしとする意見とここに留まるべしとする意見がぶつかり合っていた。最終的にフランス王は宿営地への退却を命じて、宿営地を塹壕と木柵で補強するように命じた。フランス王は決戦で確実に勝てる見込みがない上に、エドワード軍が補給の問題から分解寸前であることを見抜いていたのだ。一説には星占いで今日戦えば負けると出たから退却したという話もある。
 24日の決戦がおじゃんになったことで低地諸候は完全にやる気を失い、エドワード三世軍はアベーヌへ退却して解散した。フランス王も低地地方のフランス側諸候の防衛に成功したとして退却した。エドワード三世としては決戦も行えず、フランス王側の諸候を皇帝側に寝返らせることも出来ず、ただ金を浪費するだけで得る所のない戦いだった。他の戦線への影響もそれほど大きいものではなかった。ガスコーニュ戦線が少し楽になったていどのようだ。



カンブレー戦役

第三章 1340年の戦役

 1340年にも低地地方での戦役が計画されたが、金がない。それでも、エドワード三世は諦めない。1月にさっそく低地地方に渡って、低地諸候や諸都市と相談し、低地戦役を更に進めるためには皇帝の代理人だけじゃいまいち弱い、いっそのこと自分こそが正当なるフランス王だと名乗りを上げた方が低地諸候も支持しやすいって話になり、ここはいっちょ正式にフランス王を名乗ろうかって話になった。そして、1月26日にヘントで大々的なセレモニーを開いてフランス王に即位して、低地地方全域に宣言文をばらまいた。これで1339年戦役の時のようにフランス王の領域には踏み込めない、なんてことを言われなくて済むだろうってことだ。こうなったらとエドワード派の低地諸候も都市民も腹をくくって低地地方におけるフランス王最大の拠点たるトゥールナイを攻撃しようってことで話しがまとまった。
 こうなるともっと金がいる。エドワード三世は金策のために2月にイギリスへ帰還して、3月に議会を開いてさっそく金を無心した。しかーし、議会はそう簡単には金を出そうとはしなかった。議会としては王の暴走に一定の歯止めが必要だと感じていたようだ。まず、王が自由に課税してはならないと、定めた。以前なら、輸出課税ならある程度自由に決めることができたのだが、この権利を奪われたのだ。そして、議会はエドワード三世がフランス王を僭称したことにも嫌悪感を示した。これじゃ、イギリス王がフランス王より格下みたいじゃないかって言うのだ。そこで、エドワード三世はイギリス王の臣民がフランス王に従属することはないし、ましてや格下のわけがないと宣言しなければならなかった。譲歩に譲歩を重ねてようやく課税要求を通したのだが、これで直ぐに金が手にはいるわけではない。やけど、それまで待ってられんから、イタリアのバルディとペルッチから5万ポンドを借り入れた。この勢いならもっと借りることができるかと、イギリス商人達にも借金を申し入れたが、イギリス商人はドルトレヒト事件を忘れていない。びた一文とも貸せませんと、エドワード申し入れをきっぱりと断ったのだ。
 エドワード三世が本国で金策に苦しんでいる頃、低地地方ではトゥールナイ攻撃作戦がスタートしていた。4月に低地諸候、諸都市軍、イギリス派遣軍の3軍に分かれて三方からトゥールナイへ進撃する作戦だ。
 イギリス派遣軍は六千名の低地地方の兵と四十名のイギリス兵で構成されていた。4月21日にイギリス兵が先発してリール近郊に来たところ、リール守備隊がそれに気づいて飛び出し、イギリス派遣軍を全滅させた。派遣軍の指揮官のサフォーク、ソールズベリ伯と他12名の騎士が捕虜になり、取り残された他の兵は逃走した。
 エノー伯率いる低地諸候軍はのんびり略奪を繰り返しながら進んでいた。トゥールナイへ向かう途上の拠点は既に抑えてあったので余裕があったのだ。しかーし、イギリス派遣軍を潰したリール守備隊の動きは軽く、エノー伯の拠点を占領してしまった。エノー伯はやむなく、手薄そうな別の拠点、ウーバトン城を奪おうとしたが、攻撃は失敗して進撃を断念して退却してしまう。


ウーバトン攻城戦
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 第三の諸都市軍だけが、トゥールナイ門前に到着したが、他の部隊の惨状を聞いて諸都市軍も退却してしまう。これで、最初のトゥールナイ攻撃は完全な失敗に終わる。
 イギリスの最初の挫折に続いて今度はフランス側が攻勢を取った。5月にはいるとフランスの低地方面の主力部隊がエノー伯領目指して進撃を開始した。フランスの反応に対してイギリスからもウォリック、ノーサンプトン伯率いる増援が送られた。フランス王軍はイギリス王側の低地諸候の城を幾つか攻撃したが、攻撃はことごとく失敗した。低地諸候もエノー伯を中心に軍を集めたが、フランス王軍と衝突することなく睨み合いが続くだけだった。まあ、なんとか防衛に成功したってことだ。しかーし、フランス側は低地諸候だけでなくイギリス本土を攻撃する作戦も立てていたのだ。エドワード三世は低地地方での作戦が行き詰まったせいで、別の戦線でフランス側の目を逸らす作戦も取れず、この侵攻をまともに受けるしかなくなっていた。そこで、エドワード三世は起死回生の大博打に打って出る。
 フランス艦隊はスロイス港に集結していた。兵力は陸兵2万、艦艇200から500隻、イギリス中枢部を直撃して占領するのに十分な兵力である。エドワード三世は王国の危機を叫んで全土から船をかき集めたが、本土防衛用の艦艇を除いて集まったのは160隻に過ぎなかった。兵力は僅かに、1300人の装甲兵と1000名の弓兵だけ。イギリス艦隊は6月23日にスロイス近海に到達し、翌朝戦いが始まった。
 フランス艦隊は3つの集団に分かれ、他にカスティリア艦隊が一つの集団を形成していたようだ。フランス艦隊の各集団は、集団内の各船を鎖で繋ぎ密集してイギリス艦隊へ突撃を行ったが、どうもイギリス軍は奇襲に成功したようで、フランス艦隊は人員不足の状態で出撃していた。更に、イギリス艦隊は風上に立ち、太陽を背にする位置につき、有利な地点をも押さえ、圧倒的に有利な状態にあった。最初はイギリス側も3つの集団に分かれ、集団毎に弓やクロスボウによる射撃戦が行われていた。続いてイギリス側は艦隊を集結させ、カスティリア艦隊を引きつけるために分遣隊を出し、本隊がフランスの3つの集団を一つづつ潰す作戦に出ている。最初に攻撃を受けた集団は人員不足の上に兵力が各船に分散されていたためにイギリス側の乗り込み戦闘で簡単に制圧された。第二集団も第一集団と同様に兵力不足の上に第一集団の末路を見たためか士気の低下が著しく、イギリス艦隊の攻撃が始まると大半の兵が艦から海に飛び込み逃亡してしまった。最後の集団を攻撃する頃には夜になっており、最も小さな集団だった第三集団の三〇隻はこの暗闇を利して逃亡した。フランス艦隊の敗北によりカスティリア艦隊は降伏、或いは逃走した。この戦いでイギリスは二〇〇隻の帆船と三〇隻の手漕船を捕獲したイギリス艦隊の大勝利である。


スロイスの海戦
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 イギリス本土へのフランスの侵攻の危険性がなくなったところで、エドワード三世は再び低地地方での作戦を再開することとした。目標は引き続きトゥールナイであるが、トゥールナイ攻撃の真の目的はフランス王を引きずり出して決戦して打ち破ることである。スロイスの大勝利で外交的には有利なカードを手にしたが、まだ決定打にかける。そこでもう一押しフランス王を野戦で撃破して、陸海でイギリスの強さと、フランス王の弱さを見せつける必要があった。
 7月にエドワード三世は低地地方に渡っていよいよ作戦が開始された。1300のイギリスの装甲兵、3000人の弓兵、5500人の低地諸候や都市民兵の約1万のエドワード三世率いる主力軍はトゥールナイに直行し、諸都市の約15000がサン・オマーを攻撃した。サン・オマーへ向かった諸都市軍はサン・オマー郊外でブルゴーニュ公とアルマニャク伯率いる軍とぶつかり、敗退してやむなくトゥールナイのエドワード三世本隊と合流した。
 フランス王率いる主力軍二万千はアラスに駐屯していた。そこで、エドワード三世は再三に渡ってフランス王に挑戦状を送って挑発を繰り返したが、なかなかフランス王は乗ってこない。フランス王は、エドワード三世軍はそのうち補給を切らして内紛起こしてバラバラになると踏んでいたのだ。それにたとえ兵力が多くとも、一発勝負で危険が危ない一大会戦などに運命を委ねる気など全くなかった。
 8月1日にトゥールナイ攻城戦が開始された。トゥールナイ守備隊はウー伯、フランスのコンスタブルなどが率いる装甲兵4000名と、歩兵それ以上の総兵力約1万前後。エドワード三世軍に匹敵する大兵力である。エドワード三世軍もここまでにブラバンド公やエノー伯、諸都市軍の残存部隊などが合流して7から8千名の装甲兵とその他歩兵15000から18000、合計22000から26000名に達していた。攻城開始と平行して周辺地域に対する大規模な略奪作戦を行いフランス王に対する挑発を欠かさなかった。
 フランス王もエドワード三世はうるさいし、トゥールナイからは早く助けてくれと怒鳴られるしと、しかたなく8月4日に前進を開始した。それでも、前進はゆっくりしたもので、20日にようやくトゥールナイから27キロのところに到達した。
 8月26日にエドワード三世はトゥールナイに降伏勧告を行うと、直ぐに小規模な突撃を行い、翌日にも引き続き攻撃を行ない、9月2日にも攻撃を行った。この攻撃はトゥールナイへの揺さぶりを目的としたものだった。
 9月9日にフランス王もさすがにこれはヤバいと思ったのか、トゥールナイ近郊に侵出してエドワード三世と対峙したが、結局戦いは起こらなかった。14日にエドワード三世がトゥールナイに降伏を呼びかける矢文の雨を降らすと、再びフランス王が出張ってきて両軍は対峙したが、またまた戦いもなく終わってしまう。このあたりで、ローマ教皇が和平に向けて本格的に動き出した。同時にエノー伯夫人が中心になって低地諸候の間でも和平の動きが始まる。更に、エドワード三世陣営内では低地諸候と諸都市の指導者の間でごたごたが始まり、一時ブラバンド公が怒って帰還しそうになる事態にまで発展した。もうこうなると戦争どころではない。エドワード三世以外は戦う気を失ってきたのだ。


トゥールナイ攻城戦
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 9月25日にフランス王もイギリス王も低地地方から手を引いて休戦するとした条約が結ばれて低地戦役は終了してしまう。低地諸候や諸都市にとってはフランス王の影響力が排除されて万々歳であるが、エドワード三世にとっては面白くない。これだけ金をかけて得る物は何もなかったからである。まー、フランスと休戦できたことでアキテーヌへの攻勢は治まるだけでよしとしなきゃならんてところだ。
 エドワード三世の低地地方作戦はほぼ完全に失敗した。アキテーヌに対するフランス王の圧力は低地地方戦役の間、弱まりはしたが相変わらず続いているし、スコットランドの戦いも続いている。低地諸候も諸都市も、もうやる気がない。こうなると、新たな地域で新たな作戦が必要となるが、大陸での新たな味方は見つからず、金もないこの状況ではどうにもならなかった。


1340年の戦役

注釈 (参考文献)
第一章

第二章

第三章

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