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狂える鳩に永久の騒音あれ


(担当 ひゃっくまん)
エドワード三世の大暴剣
その二 スコットランドで大暴剣

第一章 ベーリアルの大冒険

 1332年、エドワード三世はスコットランドに対して圧倒的な優位に立っていた。強敵のスコットランド王ロバート・ブルースは死に、スタンホープ・パークの戦いで煮え湯を飲ましてくれたドナルドも異国で死んだ。新たなスコットランド王デーヴィド二世はまだ7歳で、臣下もまとまりに欠け、王位を狙う対立候補は何人もいる。その内の一人、エドワード・ベーリアルはエドワード三世の元にあり、支援を求めていた。
 機は熟した。だが、イギリスの諸候も国民もスコットランドとの戦争は望んでおらず、母が結んだ和平条約もまだ有効である。国民が戦争を望まないのはエドワード二世以来、イギリスはスコットランドに対して負けっ放しで、ある意味自信を失っていたからでもある。フランスに対してはジョン王以来、負け込んでるせいで、イギリス兵はヨーロッパでもトップクラスの弱兵だー、なんて見られるようになっていた。やれば必ず負けるんだから、戦争なんてとんでもないってことだ。
 そのせいで、絶好のチャンスなんだが、行動を起こせない。そこでベーリアルを利用することにした。自前の兵を持たぬベーリアルにしてみればなんとしてもエドワード三世の支援が欲しい。両者の利害は一致した。ベーリアルは勝った暁にはエドワード三世の臣下になることを条件に支援を求めた。エドワード三世は公式には支援を拒否したが、こっそりとベーリアルに500ポンドの資金を融通し、兵の募集を手伝った。エドワードにしてみれば成功したらラッキーだし、失敗したらベーリアル派をデーヴィドに売りつけてベーリアル派の領地や財産を差し押さえて次の機会を待てばいいってくらいに考えていたようだ。
 7月31日にベーリアルはイギリスの500騎の騎士と1000名の弓兵を率いて88隻の船でスコットランドへ向かった。ほんとうは陸路を行きたかったみたいだが、エドワード三世に陸路を行くと国民にばれるからダメだといわれたようだ。ベーリアルの計画では進入と同時に彼の支持者が直ぐにベーリアル家の旗の下に集まってくるだろうと予想し、中核となる軍があればそれほど多くの兵は必要ないと考えていたようだ。
 一方、スコットランドはマリ伯ランダルフのもとになんとかまとまりを保ち、ベーリアル到来の情報を手にして迎撃の準備を整えていた。ベーリアルの予想上陸地点はフォース湾のどこかと予想された。そこでマリ伯はフォース湾の北側に自身が率いる部隊を配置し、南側にはマーチ伯ダンバー率いる部隊を配置した。この準備にマリ伯はベーリアル軍を圧倒的に凌駕する数万の兵員を動員してことに臨んだ。
 戦略的には圧倒的にマリ伯優位が固められてきたのだが、マリ伯は急死してしまい、その後をマー伯ドナルドが引き継いだ。 
 8月6日にベーリアルはフォース湾北岸のキングホーンに上陸した。上陸すると直ぐに数千のスコットランド軍が襲撃してきたが、弓兵の活躍によりスコットランド軍を指揮する5人か6人の騎士が戦死し、攻撃を退けることに成功した。戦いが終わると直ぐに北上してテイ湾に進み、その後はテイ湾に沿ってパースへ向かった。
 8月10日にスコットランド王軍がアーン河の目前でベーリアル軍を捕捉した。マー伯の主力部隊がベーリアルの前に立ちはだかり、アーン河にかかる橋を落として進路を塞ぎ、背後からはマーチ伯率いる部隊が迫ってきた。ベーリアル軍は前後を大軍に挟まれ、窮地に陥った。マー伯は勝利を確信してこの夜、大宴会を開いてもう勝った気になって勝利を祝したのだった。
 もはやベーリアル軍に生きる道はないように思われたが、窮鼠猫を噛む。ベーリアル軍は夜陰に紛れてアーン河の浅瀬を見つけてアーン河を渡るとマー伯本陣に夜襲をかけた。スコットランド王軍は宴会に疲れて眠りこけ、窮鼠と化したベーリアル軍の兵によって一方的に虐殺されてベーリアル軍は奇跡の勝利を掴んだ。と、思いきや。夜が明けてみるとベーリアル軍が撃破したのはスコットランド王軍の分遣隊の一つに過ぎず、本隊は無傷だった。
 マー伯率いるスコットランド軍本隊は事態の異変に気がつき、隊列を整えベーリアル軍に向かった。ベーリアル軍も近くの峡谷に布陣してスコットランド軍を待ち受けた。デュプリン・ムーアの戦いの始まりである。
 しかし、奇跡は再び起こった。約一万五千のスコットランド軍に対して1500のベーリアル軍が一方的な勝利を収めた。この兵や指揮官の大半はイギリス人である。そう、負けてばかりのイギリス人の部隊が十五対一のとんでもない戦いに勝利してしまったのだ。この戦いでマー伯を含むスコットランドの主要な指揮官は戦死してしまい、スコットランド本隊は壊滅した。しかしまだ、スコットランドにはマーチ伯率いる別働隊が残っていた。
 ベーリアル軍は急いでパースへ進軍した。マー伯の敗北を聞き知っていたパース市は戦わずに開城してベーリアルを受け入れた。しかし、マーチ伯の部隊がパースに到着してパースを包囲してしまう。ベーリアルはまたもや袋のネズミになってしまったのだ。
 しかし、しかしである。奇跡が再び訪れた。パースはなんとか持ち堪えてしまい、マーチ伯の部隊は食料を切らして自然崩壊してしまう。ベーリアルはついにスコットランド王の主力部隊を完全に殲滅してしまったのだ。
 この一連の戦いの噂は国を駆けめぐり、ベーリアルのもとには支持者や転向者が押し掛けてきた。ベーリアルの勢力は急速に拡大した。そして、9月24日、ついにベーリアルはスコットランド王位についたのだった。



1332年のデュプリン・ムーア戦役

第二章 スコットランドで大暴剣

 王位に付いたとはいえベーリアルの立場は安定したとはとても言えない。ベーリアルはスコットランド全域の制圧に乗り出したが、まだデーヴィド二世派の強力な領袖アーチボルト・ダグラスが残っていた。ダグラスはベーリアル軍を待ち伏せしたが、あっさりと見つかって叩きのめされてしまう。デーヴィド二世派はこの敗北に挫けることなく反撃に出て、ベーリアルの本拠たるパース市を急襲占領した。そして、再びベーリアル軍を奇襲すべくケルソ橋で待ち伏せを仕掛け、見事ベーリアルを軍から孤立させて討ち取るチャンスを掴んだが、ベーリアルの近従が強引に河を渡ってベーリアルを救い出し、そのままデーヴィド二世派を攻撃して撃ち破ってしまう。奇襲は見事成功しのだが、強引に奇襲の効果を無効にされて撃ち破られてしまったのだ。ベーリアルの運の強さにもほとほとあきれるばかりだ。だが、運だけで勝ってばかりじゃーそう長くは続かない。ついにベーリアルが敗北する時が来た。ベーリアルの側近が裏切り、ダグラスを手引きしたのだ。ベーリアル軍は完璧に奇襲されて壊滅し、ベーリアルは身一つでエドワード三世の元へ逃げ込み再度援助を求めた。
 エドワード三世はこれをきっかけにしてスコットランド全土の征服を求めたが、議会がそれを認めなかった。議会は依然、スコットランドを征服できるとは考えていなかった。ベーリアルの失敗を見て、そら見たことか、と、消極的になっていたようだ。それでもエドワード三世は強力にスコットランド遠征を求め、結局、ベーリアルを支援するだけと言うことでようやく議会の了解を取り付けた。
 1333年2月7日にベーリアルの為の軍の募集が始まり、20日にエドワード三世はベーリアル支援の為にウエストミンスターからヨークへ移動し、スコットランド侵攻準備を本格的に開始した。3月初め頃にベーリアル率いる先発隊が出発し、13日にはベリック攻城戦が開始された。
 スコットランド軍を指揮するダグラスはエドワード二世に対した時のように、イギリス北部を攻撃してベリック攻城軍の背後を遮断すると同時にイギリス諸候の動揺を誘う作戦に出た。しかーし、エドワード二世の時のようには行かなかった。国境周辺にも十分な兵力が展開しており、3月25日にはスコットランドの襲撃部隊主力がイギリス軍部隊に捕捉されて二度に渡って撃破された。
 このダグラスのイギリス襲撃はスコットランドにとってマイナスに作用した。スコットランドの襲撃を恐れ、激高した議会はスコットランドへの全面侵攻を認め、エドワード三世は5月30日までにニューキャッスルに部隊を集結するように動員令を下し、早くも5月9日にはベリックへ向けて進軍を開始した。



ベリックに来たエドワード三世
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 ベリック攻城戦は長引き、数度にわたる突撃は失敗したが、スコットランド側のベリック救出の試みもことごとく失敗した。6月27日にベリック城はダグラスに15日以内に救援がなければ降伏すると勧告してきた。そこでダグラスは再び後方攪乱作戦を採り、イギリス北部へ侵攻したが、エドワード三世は二世の失敗にしっかりと学んでいた。まず、補給ルートには海を使い、北部の防備もそれなりに固めていた。ダグラスは補給ルートの遮断を諦め、エドワード三世の王妃フィリッパが滞在していたボムブロー城へ向かい、エドワード三世を牽制しようとしたが、エドワードは動かないし、フィリッパはより防備の堅いカーライル城へ逃げ込んでしまい作戦は完全に失敗してしまう。
 そうなると殆ど打つ手がない、もう最後の手段と、7月11日、期限最終日に集められる限りの大軍を集めてベリックのイギリス軍に対した。200騎のスコットランドの選抜騎兵隊がイギリス軍の目を掠めてベリックの城門を目指した。これに気が付いたイギリス側も200騎の騎兵が阻止線を張ってスコットランド軍を迎え撃ち大半を討ち取るか捕らえるかしたが、阻止線を突破した1騎の騎士のベリック城突入を許してしまう。これでベリック城への15日以内の救援の条項が満たされたことになり、ベリック城降伏はナシになってしまう。
 エドワード三世は欺瞞だと激怒したが、ま、それはそれとして、再びベリック市と交渉し、15日にはこんどは20日までに救援されなければ降伏することになった。こうなると、もうダグラスには打つ手がない。決戦あるのみである。エドワード三世としてはそれこそ願ってもないことだ。
 19日、スコットランド軍はベリック近郊のハリドン・ヒルの上に布陣した。イギリス王軍もベリック市を背にして布陣した。
 ハリドン・ヒルの戦いでスコットランド軍は徹底的に叩きのめされ、主要な指揮官はダグラスも含めて殆どが戦死した。エドワード三世の完勝である。
 この勝利で、ベリック市は降伏し、ベーリアルは復位し、デーヴィド二世はフランスへ亡命した。



1333年のハリドン・ヒル戦役

第三章 ぐっもーーにんぐ スコットランド!!

 スコットランドの戦いは、ヘリが飛び交い、ブービーとラップがごろごろし、略奪虐殺しほーだいで切れたヤローが勝手に王国作っちまうベトナム戦争よろしくゲリラ戦バリバリで泥沼化していった。
 1333年戦役でベーリアルはスコットランドに確かな足場を築いたが、スコットランドを制圧したわけではなかった。それと、エドワード三世との協定に基づきエディンバラからイングランドに到る南部スコットランドをエドワード三世に譲渡したせいでスコットランド人からの風当たりが強くなっきた。1334年に入る頃には、一応、スコットランド全域で支持者を持ち、ほぼ全域を制圧したといってもいい状況であったが、デーヴィド派はいまだ健在でスコットランド各地でゲリラ戦をもってイギリス・ベーリアル連合軍に対抗していた。さらに、フランスがデーヴィド派を支援し、度々艦隊を送り込んでいた。ベーリアルのスコットランドでの支持基盤は不安定で各地でデーヴィド派によるゲリラ戦が始まると、何人かの有力諸候がベーリアルの元を去ってしまい、9月に危機を感じ取ったベーリアルはイギリス支配下のベリックへ待避する始末だった。この状況にエドワード三世も対応を余儀なくされた。
 1334年2月には早くも戦費調達の為にヨークで行われた議会で直接税の徴収が決定され、臨時の間接税徴集も決定された。この時、エドワード三世は課税徴収を成功させる為に一つの切り札を使った。国内ステープルの廃止である。国内ステープルは1327年に一度廃止されているが、1333年初頭に復活していた。王としては貿易統制がやりやすい国内ステープルは美味しい金ずるだったが、生産者にとっても外国商人にとっても間に国内商人が介在してしまい嬉しくない代物である。詳しくは「最初の大暴剣第一章」。それでなんとか生産者たる諸候と外国商人の歓心を買って資金援助を仰いだわけである。しかし、それだけではまだ戦費が足りず、9月にウエストミンスターで行われた議会でも直接税の徴収が決まったが、商人達の抵抗が激しく間接税の徴集停止に追い込まれてしまう。それでもなんとか直接税だけで53500ポンドを集めることに成功し、戦費が整い戦争準備を開始することができた。
 さらにもう一つ問題が持ち上がった。フランスがイギリス王の大陸領に触手を伸ばしてきたのだ。あげくにスコットランド支援を強化するは、十字軍に参加しろと言ってくるは、と、エドワード三世にポンポンと要求を突きつけてきた。フランスとイギリスの間で問題となった件は大まかに分けて三つあった。一つはスコットランド問題、イギリスはフランスにスコットランド支援を直ちに止めるように要求し、フランスはこれを完全に無視した。次の問題はイギリス王の大陸領の問題、1324年にフランスはイギリス王位を巡るごたごたを利用してイギリス王の大陸領の一部を強引に占領したのだ。イギリス王はこれら領土の返還を求めていたが、フランスは逆にこれら領土をフランス王領に組み込むことを認めるようにイギリス王へ要求していた。最後の問題は十字軍問題でフランス王フィリップ六世は聖地へ向けての十字軍を計画していた。イギリス王にも参加するよう命令を下していた。エドワード三世は大陸領は放棄してもよいし、十字軍に参加するのもよしとしていたが、スコットランド支援だけは止めて欲しいとフランス王に願い出ていた。フランス王はエドワード三世を侮り、スコットランド支援を強化するばかりだった。逆にフランス王からスコットランドと和平を結ぶように勧告される始末でエドワード三世の思惑通りには全く進まなかった。フランス王にしてみれば弱兵ばかりのイギリス野郎共をスコットランドに釘付けにしておけば大陸領を奪い取るのは容易になるし、もしエドワード三世が大陸へ軍を派遣して刃向かってこようともジョン王、ヘンリー三世、エドワード一世と歴代のイギリス王が派遣してきた軍と同じようにボコボコにして叩き出しちまえばいい、ってな具合に思っていたようだ。簡単に言えばエドワード三世を、イギリスを完全になめきっていたのだ。事と次第によってはイギリスへ直接侵攻してエドワード三世を踏みつけてやれる、なーんて考えてたんだろう。ま、そのくらいイギリスは弱い、ってのが当時一般的な見方だったようだ。
 金、外交と悪条件が重なる中、それでもエドワード三世は1334年10月14日にはニューキャッスルに4000の兵を集結させ、23日にロクスバラへ進撃した。だいたい同じ頃、スコットランド北部のベーリアル派最大の拠点たるデュンダーグがデーヴィド派に包囲され、陥落の危機に瀕していた。ここを失うとスコットランド北部は一挙に失われたも同然の状態に陥ってしまう。しかし、たった4000の兵力ではデュンバークまでの補給ラインを確保しながら進撃するのは困難だし、ましてや途中で拠点守備の為に兵を残した上でデュンダーグに集結しているデーヴィド派と一戦交えようなんてとうていできない相談だ。やむなくエドワード三世は部隊の集結を待ってから進撃を開始することにしたが、12月になっても集結できた兵は5300名だけだった。冬に入り、補給や交通が困難になっているのが原因だった。そこで、エドワード三世は約1400名の選抜部隊に15日分の食糧を持たせて一気にスコットランドを横断してデュンダーグへ到達する作戦を採ることにした。しかし、新たな作戦準備中にデュンダーグは降伏してしまい作戦を行う必要がなくなってしまう。やむなくエドワード三世は南部のイギリス支配地域に展開するデーヴィド派のゲリラ狩りを行い、1335年2月には軍を解散してしまう。ベーリアルも1月にゲリラ狩りをしながらカーライルへと退却した。



1334年のロクスバラ戦役

 1334年戦役の後もフランスとの交渉は続いていたが、事態は全く好転せず、金も不足勝ちだったが、1335年7月にはヨークに13500の部隊を集めて、部隊を二つに分け、7月3日にエドワード三世は6500名の本隊を率いてカーライルから西へ進撃し、ベーリアルがもう一部隊を率いてベリックの北に向けて進撃を開始した。両部隊はパースに向けて進撃したが、ベーリアルがクムバーヌルド城で抵抗を受けた以外ほとんど抵抗も受けず、パースで両部隊は合流した。しかし、これこそスコットランド側の作戦だった。スコットランド軍はイギリス軍の補給ラインを遮断する作戦に出たのだ。しかし、エドワード三世の反撃も激しく、8月に入るとエドワード三世は積極的に各地で散発的な戦い繰り返してデーヴィド派の有力な諸候の二人を降伏に追い込み、一人を討ち取った。さらにスコットランドゲリラを押さえ込む為にパースからエディンバラに到る地域にちょっとした要塞網を建設した。早くも8月18日にはデーヴィド派の主要な諸候がパースのエドワード三世の元を訪れてエドワード王に降伏する旨申し入れてきた。これにより事実上スコットランドの抵抗は収まり、8月22日にエドワード三世はフランス王に対してスコットランドとの和平が樹立されたと報告した。



1335年のパース戦役

 しかし、フランス側はそれを認めず、9月初め頃にスコットランド支援を目的とした艦隊を派遣したが、どうもこれは示威行為だったようだ。冬にはいるとスコットランド近海は荒れ模様になり、艦隊を運用するのが困難になる。従って艦隊による支援も攻撃も殆どできないのだ。フランスの決意を示めそうと言うことなんだろ。ここでフランスとイギリスの和平を斡旋することで影響力を拡大できると踏んだローマ教皇ベネディクト十二世が乗り出してきたが、交渉は難航した。その結果、フランスの支援で勇気づけられたデーヴィド派は再び盛り返してベーリアル派との闘争に入った。
 11月にデーヴィド派の活性化に対してベーリアル派はキルドラム城攻撃に打って出た。デーヴィド派はキルドラム城攻撃に危機感を覚えて総力を挙げて救援部隊を組織したが、兵力は僅か800名に過ぎなかった。ベーリアル軍はデーヴィド派の集結を察知してキュルブリンの丘に布陣してデーヴィド軍を待ち受けた。11月30日のキュルブリンの戦いで勝利したデーヴィド派は勢いを増し、ベーリアル派の二つの拠点、ロシェンボルブとクパー城を包囲した。突如としてベーリアル派はスコットランド北部を失いかねない危機に立たされた。ここでエドワード三世とベーリアルはデーヴィド二世に対してベーリアル死後にスコットランド王位をデーヴィド二世に引き渡すとした譲歩案を提示したが、スコットランドを足がかりにイギリスへ侵攻しようと企んでいたフランス王フィリップ六世はデーヴィド二世に圧力をかけて譲歩案を拒否させた。フランス王はスコットランドへ軍を送ってイギリス北部を制圧し、同時にポーツマスにも軍を上陸させて南北からイギリスを征服する作戦を立て準備に入った。
 だいたいこの辺りでエドワード三世も大陸侵攻を計画するようになったようだ。やはりスコットランド問題を一気に解決する為にはその背後で策動するフランスをどうにかしなきゃーどうにもならん。ってことだろう。
 1336年6月にイギリス側はようやく反撃を開始する。エディンバラ守備隊が40名の装甲兵、160名の歩兵、ほぼ同数の弓兵を持って独断でクパー城救援に出撃した。部隊はエディンバラから32隻の小舟でフォース湾を渡り、クパー城周辺の村や畑を焼いてクパーを包囲するデーヴィド派軍の動揺を誘った。デーヴィド軍はイギリスの主力部隊が現れたと勘違いをして慌てて退却した。エディンバラ守備隊はデーヴィド軍の動揺をついて追撃を行い、多数を殺害後に直ちにエディンバラへ帰還した。この戦いによりクパー城は救われた。
 続いて6月26日にエドワード三世が五十騎の兵を率いてベリックに到着した。エドワード三世は大兵力でぞろぞろ侵攻するのではなく少数の精鋭で短時間のうちにデーヴィド派の心臓部を叩いて後続部隊で拠点を作り敵の動きを封じる作戦を計画した。6月28日には僅か100騎だけでパースに到来している。エドワード三世の最初の目的地はデーヴィド派に包囲されている北部の拠点ロシェンボルブである。準備に二週間かけて400名の装甲兵、400名の弓兵と400名の槍兵を準備し、全員に馬を支給した。7月12日に出発し、7月15日には100キロ近い行程を駆け抜けてロシェンボルブ近郊に到達した。デーヴィド軍は退却を余儀なくされ、エドワード三世はロシェンボルブを救援するとそのまま北上を続け、デーヴィド派の領地を破壊してまわった。マリー湾に到達すると進路を東に取り、東岸に到達すると岸に沿って南下、最後はテイ湾に沿って7月29日にパースへ帰還した。この進行過程でスコットランド北部東岸に二カ所の拠点を設けてフランス軍の侵攻を警戒する態勢を布き、パース周辺にも要塞網を整備した。この攻勢で北部のデーヴィド派の勢力は著しく低下し、フランス王の出鼻を挫くことが出来た。エドワード三世は要塞網の整備などを監督する為にパースに留まり、9月14日にベリックへ帰還した。



1336年のロッシェンボルブ戦役

 スコットランド遠征に行きそびれたフランス艦隊はイギリス海峡側のイギリス沿岸部襲撃を繰り返す以上のことはできなかった。10月にデーヴィド派が体勢を立て直して攻勢に出て、エドワード三世がスコットランド北部東岸を防御する為に築いた二つの拠点と、南部の拠点一つを占領した。エドワード三世も対抗して12月半ばまでには新たな拠点を築いてデーヴィド派の押さえ込みに出た。この1336年戦役でようやくデーヴィド派を押さえ込むめどがついたが、戦いはゲリラ戦の様相を呈し、泥沼化して終わる気配すら見えてこない。ここまで来るとフランスをどうにかしないことには事態の打開は望めそうになかった。

注釈 (参考文献)
第一章

第二章

第三章

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