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狂える鳩に永久の騒音あれ


(担当 ひゃっくまん)
エドワード三世の大暴剣
その一 最初の大暴剣!



エドワード三世の母イザベル
一四世紀の彫刻

第一章 最初の戦い

 1327年1月に即位したエドワード三世は6月にヨークで婚約者と合流した。婚約相手はエノー伯の娘フィリッパ。エノー伯はエドワード三世の母イザベルがエドワード二世に対して蜂起する際に軍や資金なんかを援助してイザベルを助けたのだが、その交換条件がエドワード三世とフィリッパの結婚だった。時にエドワード15歳、フィリッパ13歳。この結婚は後に政略結婚以上の利益を王家にもたらす。フィリッパはけっこう美人だったみたいで、エドワードの足の間の大暴剣はフィリッパ相手に大暴れして12人の子供をもうけてるが、ちょいと元気な子供を作りすぎて後で大きな問題になる。ま、そいつはエドワードの死後だからお父ちゃんには関係ない。フィリッパはエノー伯領のコネを生かして当時低地地方で盛んだった毛織物産業をイギリスへ導入すべく、有力な職人をイギリスにヘッドハンティングしまくって毛織物産業を興すことに成功する。エドワードがイギリスを留守にしている時にスコットランドが攻めてきた時なんかは軍を率いてスコットランド軍を叩きのめしたりもする文武両道に長けた王妃だ。まあ、簡単に言うとメチャいけてる王妃なのだ。



エドワード三世の即位
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 さて、なんで二人はヨークに来たのか。またもやブルースの脅威が迫ってきたのだ。あ、しつこいようだが、ブルースの脅威と言っても渋くて粋な音楽が攻めてくるわけじゃない。スコットランド王ロバート・ブルースがまた攻めてきたのだ。ちなみに今回ブルースは病気だったから腹心のダグラスが攻めてきた。そこで、イギリス王家を実質的に支配していた元王妃イザベルとその愛人マーチ伯モーティマーはスコットランド軍の侵攻を逆手にとって、スコットランド軍を撃破してイギリスの危機を救った英雄として威信を高めようと画策し、エドワード三世をヨークへ送り込んだのだ。エドワード三世の成功はその後見役たるイザベルとマーチ伯の成功にもなるってわけだ。
 だけど、そう都合良く行くとは限りない。なんと今回ブルースは、イギリス側が考えもしなかった新戦術を携えてやって来たからもう大変!
 当時のスコットランドは兵士に給料を払うとしたシステムではなく、相変わらず時間や人員、利用に制限の多い封建システムに近い軍制をとっていたが、イギリス侵攻ってことになると略奪品をたっぷり期待できるし、スコットランド王はイギリスに対してほとんど負け知らずだったので、たくさんの人々が軍に志願して来たので兵員数の問題は全くなかった。それと、スコットランド王が新たに採用した戦略にとっても戦闘より略奪大好きな連中の方が扱い易い。スコットランド王の方針でスコットランド軍の大半は騎乗し、馬車とか徒歩の随員をぜんぜん連れていなかった。素早く動き回れるように馬で身軽に動けるような形にしたのだ。スコットランド軍は少数のグループに分かれてイギリス北部に広く散って略奪の限りを尽くし、イギリスの大規模な軍が近づいてきたら素早く集結するか、逃げ出した。イギリス側はあちらこちらから届くスコットランド軍出現の報に混乱を来して有効な対応を取れず、当時のイギリスよりの年代記なんかは二万人のスコットランド人が馬に乗って攻めてきた、とわめき散らすほどの混乱ぶりを見せている。しかーし、スコットランド軍でまともな戦力といえるのは実は三千騎の騎馬部隊だけで、後は有象無象の略奪者集団だった。
 こういうかなり手強い相手にマーチ伯の方針は単純だった。イギリス内で敵を捕捉撃破する。それも一度だけでいぃ。そしたら、和平でも結んでスコットランド問題を解決したことにしちゃう。これで、軍事的威信は高まり、国民は大喜びってなことで、マーチ伯政権は安泰。エドワード三世はまだ子供だし、まわりにはマーチ伯の息のかかった軍事顧問がごまんといるから勝手に暴走することもない。まー、単純と言えば余りに単純な政策的戦争だね。
 方針もなにもかもいい加減なこの戦争はさい先もすげー悪かった。エドワード三世とフィリッパがヨークに来た6月7日の夜にフィリッパを護衛してきたエノーのジャン率いる780名の兵士とリンカン司教が用意した護衛の弓兵約二千名の間で戦闘が始まったのだ。ギャンブルでのちょっとしたトラブルが原因だったが、低地地方とはいえ大陸からやって来た人々に対するイギリス人の反感が根っこにあったんじゃないかと思われる。弓兵達はエキサイトしてフィリッパの宿舎に押し掛けて矢を放って外にいた護衛を数名倒してドアを蹴破って宿舎の中に攻め込んできた。護衛達は直ちに反撃に出て弓兵達を追い散らして戦いは終わり、この戦闘で護衛数名と316名の弓兵が戦死した。このニュースは瞬く間に近隣地域一帯に広がり、大陸から来た野郎共が仲間を殺りやがったと不穏な空気がこの辺り一帯に流れまくり、エドワード三世はフィリッパ達一行と行動を共にして彼女と随員を直接護衛しなければならなくなる。
 7月5日にエドワード三世は婚約者と共にスコットランド軍を求めて北進を開始した。スコットランド軍の大半はタイン川とイルシンク川の南に進出していたので、エドワード軍は二つの川の渡場を全て封鎖し、二つの川の間の5マイルの隙間に大規模な警戒部隊を配置し、本営を警戒地域の中心点となるアップルビーに置いてスコットランド軍が帰還しようとするところを撃破すべく万全の備えをして待ち受けた。そこに、ヨークがスコットランド軍に襲われたとの報が飛び込んできた。イギリス側はスコットランド軍はすぐに帰路つくと考え、ヨークからの帰路に当たるダラムへエドワード三世の主力軍を進めた。7月15日にダラム近郊に到着すると、ダラム周辺の村が炎上していた。そう、スコットランド軍がこの辺り、ダラムより南の方を彷徨いていたのだ。翌日、部隊を3つに分けて三方からスコットランド軍を追撃して捕捉する作戦が採られて部隊は南下したが、騎馬で手早く移動するスコットランド軍に馬車だ徒歩の歩兵だがうようよいるイギリス軍が追いつけるはずもなかった。結局、最後にはスコットランド軍の居場所を特定することすらできなくなる。そこで、作戦変更となった。スコットランド軍はいつかはタイン川を通るはず。なら、スコットランド軍より先にタイン川を渡って待ち伏せすればいいってことになり、夜間行軍を強行して一気にタイン川へ戻り、20日の朝にはタイン川の渡場の一つヘイドンに辿り着いた。さあ、これでスコットランド軍を撃破できると思いきや、まてどくらせどスコットランド軍は現れない。それにヘイドンの渡場はもの凄く居心地が悪い。そこでまーたまた作戦変更。偵察隊をばらまきながら南下してスコットランド軍を捕捉しようってことになった。まったく、行ったり来たりと優柔不断な参謀どもだ。エドワード三世もだいぶ頭を抱えたことだろうし、一緒についてくフィリッパもずいぶん苦労しただろう。



1327年のウェアー峡谷戦役

 28日にタイン川を渡って南下していたが、30日にスコットランド軍の所在を掴んだ。約一週間に渡るスタンホープ・パークの戦いでイギリス軍は翻弄され、完全に出し抜かれてしまい、スコットランド軍主力の脱出を許してしまった。北の警戒部隊も何も引き連れてきてしまったせいか、スコットランド軍はこの後なんら邪魔されることなく本国へ帰還した。



タイン川を渡るイギリス軍(スタンホープの戦い)
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 出し抜かれたイギリス軍はダラムへ帰還してここで軍を解散した。フィリッパの護衛についてきたエノーのジャンの部隊も帰国を許されて無事に帰国できるようにとドーバーまでの護衛と旅費が支給され、ジャン達は無事にエノーへ帰還した。
 敗北である。しかし、決戦して大敗を喫したとか言う分けじゃないから何とか誤魔化しの利く敗北である。戦闘は8月中に終わったが、この戦争の戦費が七万ポンドにのぼり、国庫が空っぽになってしまう。この後、王の結婚式はあるし、スコットランドがいつ、また、襲ってくるか分からない状況でこれは非常にやばい。マーチ伯とイザベルは金を集める必要に迫られたが、戦争の帰趨もまだうやむやな状況下で議会を招集するわけにも行かず、9月15日にリンカンで小議会というような評議会を招集して諸候と教会に直接税の徴収を要請した。さすがにみんな身近にブルースの脅威を感じていたのか、すぐに五万ポンドの金が集まった。
 それとだめ押しで、もう一つの方策が採られた。国内ステープルの廃止である。これはちょいと説明がいる。当時イギリスはヨーロッパでもトップクラスの羊毛の産地で、毛織物産業の栄えていた低地地方では原材料の羊毛をほぼ100%、イタリアも50%以上をイギリスから輸入していた。王家はこんな美味しい金ずるを生かさぬ手はないと考え、外国商人に羊毛を自由に売買する特権を与える代わりにと、金をせびり取っていた。14世紀にはいると、国内の商人もある程度成長してきて王家の財政に一役買うようになってきた。そうなると王家としては国内と国外の商人両方から金をせびり取りたいと考える。そこで考案されたのがステープル制度である。ステープルとは羊毛売買の一大基地のことを指すのだが、外国商人はステープルでしかイギリスの羊毛を購入してはいけないという法律を作ったのだ。これを最初に作ったのはエドワード二世だが、漠然とした慣習みたいな感じでヘンリー三世の治世頃からステープル制度みたいなのはあった。法ではっきりと規制して羊毛貿易の統制に乗り出したのはエドワード二世が最初らしい。ステープル制度で外国商人の活動をステープル内に閉じこめてしまい、国内の原産地からステープルまでの輸送を国内商人にやらせて国内商人の保護を目指すというわけである。外国商人にとってはいままで自由に国内を動き回って売買できた羊毛をステープルでしか売買できなくなるからもの凄く困るのだが、王を怒らせて更に不利な条件を押しつけられても困ると仕方なく従うし、国内商人はこれで巨大資本の外国商人に対抗できると喜んで、王に協力するようになる。王家としては貿易港を制限したおかげで貿易の統制や課税がやりやすくなるって寸法だった。エドワード三世は即位直後の1327年5月には国内ステープルの存続を承認していたが、9月15日のこの評議会でステープル制度を12月25日まで停止して、この期間だけ羊毛貿易の自由を認めた。このステープル廃止を餌に外国商人や国内商人から借金をしようってこんたんだ。外国商人は喜んで金を貸したが、国内商人はみな激怒して一切借金には応じなかった。当然だ、ステープル制度は国内の商人にとってありがたい制度なのにそれを止めるから金を貸せなんて要求に応じられるはずがない。国内の生産者はどうだったのか。たいてい生産元は諸候が抑えているから諸候にとっては外国商人と自分たちの間に入って利益をむさぼっていた国内商人がいなくなった分、利ざやは増える。ステープルではたいてい王の都合で最高価格制限が布かれることが多かった。それが無くなれば自由に羊毛の値段を決めることができる。それもあって彼らは評議会でも協力的だったのかもしれない。これでどのくらいの借金ができたのかは分からないが、ステープル制度は1328年4月24日にノーザンプトンで開始された議会で正式に廃止されたところから見ると、結構な金額が集まったんじゃないかと思われる。



国内ステープルの概念図

 これらの方策で何とか危機を脱し、翌年の1328年1月にエドワード三世とフィリッパの結婚式がヨークで行われた。
 2月7日にスコットランドと和議を検討する為にヨークで議会が開かれた。マーチ伯とイザベラはでっかい敗北を被る前にとっととスコットランド問題にケリを付けたかったみたいだ。今のままなら、スコットランド問題は勝利の内に解決しました、なんて誤魔化しも利く。スコットランド全権代表、あのスタンホープ・パークの戦いで大活躍したダグラスと、マーチ伯の間でスコットランドの独立を認めてエドワード一世以前の状態に国境を戻し、賠償金としてスコットランド王が二万ポンド払い、この和平の担保としてエドワード三世の妹でまだ七歳のジョアンとスコットランド王の息子で四歳のデヴィッドを結婚させるってことで和平案がまとまり、2月の議会でこの和平案が提示されて審議が行われた。エドワード一世が作り上げ、ほとんど崩壊したとはいえ形の上ではエドワード二世の治世の間も維持されてきたスコットランド領を名実共に完全に放棄するするとしたこの条約にランカスター伯ヘンリー等の一部諸候は反対した。特にスコットランドとイングランド両方に領地を持つ諸候にとっては死活問題だ。ジョン欠地王がノルマンディを失った時に大陸またぎ貴族野郎共が味わった、どっちかの王についてどっちかの領土全てを失うかの二者択一の苦しみを味合わされる。だが、大勢はマーチ伯らの抑えるところとなってしまい和平案は議会で批准される。


第二章 お母ちゃんをやっつけろ!

 スコットランド遠征は失敗して、和平案にもブーイングが出るには出たが、遠征は致命的な失敗って感じでもないし、議会も力業でねじ伏せることができ、イザベラとマーチ伯のコンビは自信を深めたみたいで、この後もエドワード三世をがっちり抑えて、今まで以上に思い通りに国制を壟断するようになる。
 スコットランド問題が一応の解決を見た頃、フランスで異変が起きていた。フランス王シャルル4世端麗王が1328年2月1日に後継者の男子を持たぬまま死去して、従兄弟のフィリップがフランス王に即位した。母イザベルはエドワード三世がシャルル4世の甥に当たり、フィリップより血筋が近いことを上げて王位継承権を主張した。同時にナバラ王フェリペ三世も妻がシャルル4世の姪だと言って王位継承権を主張していた。それと、フランドルではフランス王家の支配を嫌った都市により反乱が進行中でフランス王としては王位継承問題だけでなく、この問題も処理する必要に迫られていた。
 一方、イザベルはフランス王と戦うべく1328年7月31日にヨークで評議会を招集してフランス遠征案を提示したが、ランカスター伯とその一派の強い反対にあって遠征案は廃案になってしまう。イザベルは巻き返しを計るべく10月16日にソールズベリに議会を招集して再び遠征案を持ち出そうとしたが、ランカスター伯ヘンリー、ノーフォーク伯トマス、ケント伯エドマンドが軍を集めて武装して議会に現れ、内乱一歩手前の状態になってしまう。マーチ伯はすぐに切り崩し工作を仕掛けてケント伯を中立に追いやり、1329年1月にランカスター伯一党を降伏に追い込んだが、ランカスター伯一党はまだ十分に力を備えていたので宮廷と議会から一党を一時的に追放するのが精一杯だった。
 さて、フランス王の方だが、フランス王は最初にフランドルの反乱から処理することにして、1328年8月28日にカッセルの戦いで反乱都市民軍を撃破して、低地地方の支配を取り戻した。問題を一つ処理したところで次の問題たる王位継承権を主張する連中の処理に乗り出した。1329年3月にエドワード三世の元へ使者を送り、アキテーヌ公としてフランス王に対して臣下の礼をとれと要求した。母イザベルはランカスター一党を抑えて強気になっていたせいか、激怒して「探し出された王フィリップ」とフランス王を呼んで、「王の子は伯の子に臣下の礼をとりません!」と使者に言い放って臣下の礼を拒否した。しかし、フランス王の圧力はますます高まり、6月にエドワード三世は大陸へ渡ってアミアンでフランス王に対して臣下の礼をとらなければならなかった。低地地方の反乱を撃破して意気上がるフランス王相手に、母の後見下で身動きできないエドワードや一時的に力を失ったとはいえ巻き返しを狙うランカスター一党に背後を狙われているイザベルが対抗できるはずもなく、フランス王の圧力に屈したのだった。



カッセルの戦い
15世紀のフロワサールの年代記のミニアチュール

 フランス問題はろくでもない結果に終わったが、ここで一つの朗報が飛び込んできた。1329年6月7日にスコットランド王ロバート・ブルースが病死した。死因はハンセン氏病と考えられている。ブルースは死の直前に大親友で最高の腹心、ダグラスに心臓は聖地で焼いてくれと頼んだ。親友思いで忠臣のダグラスはこの言葉を忠実に守ろうとして心臓を防腐処理して6人の騎士を伴って聖地へ出かけてしまう。旅の途中、フランドルに来たところでカスティリア王アルフォンソ11世がグラナダ王ムハンマド4世と大規模な戦いに入ったとの話を聞き、聖地へ行くついでにカスティリア王でも助けてみるかな、と変な気を起こしてカスティリア王の軍に参加したはいいが、1330年8月にイスラーム教徒に囲まれてボコボコにされて部下共々見事討ち死にしてしまい誓いを果たせず、生き残った部下が辛うじてブルースの心臓をスコットランドに持ち帰って埋葬した。ブルースの病死、ダグラスの離脱でスコットランドの強敵は完全にいなくなってしまい、これが後にエドワード三世に思いっきり有利に働くことになるが、それはお母ちゃんのイザベルを倒した後の話である。
 マーチ伯、イザベルはスコットランドの朗報はいいとして、スコットランド独立の承認、フランス王位継承問題での失点と、立て続きに失策を続けて立場が結構ヤバくなってきた。こうなると一刻も早くランカスター一党を叩き潰して政権を安定させる必要が出てくる。そこで、手始めにケント伯エドマンドに濡れ衣をかぶせて1330年3月に処刑した。これに力を得て、7月にフランスから再度臣下の礼をとるように要求があったが、今度は拒否している。
 1330年3月にはケント伯の処刑以上に重要な事件が起こっている。3月4日にウェストミンスターでフィリッパ王妃が男の子を産んだのだ。後のブラック・プリンス、エドワードである。フィリッパはこの時15歳。6月15日にオックスフォードのウッドストックで王子誕生の祝賀会が開かれ、キリスト教徒としてリンカン司教ヘンリー・ボーヘルシュによって洗礼を受けた。王子が生まれてエドワード三世は王としての自覚が芽生えたのか、この辺りからマーチ伯とイザベルの専横について真剣に考えるようになったようだ。
 王子誕生はめでたいが、ケント伯の処刑はマジヤバイ、次はランカスター伯の番だ。ランカスター伯と支持者達は危機感を募らせ、10月に何とか密かにエドワード三世との会見に成功し、エドワード三世からマーチ伯とイザベルの逮捕の許可を受けた。
 そして、10月19日に逮捕が決行されることになった。
 この日、ノッティンガム城で会議が行われた。会議を主導したのはマーチ伯で、会議終了後、諸候はノッティンガム城から退去を命じられ、ランカスター伯は城から5キロ先で、他の諸候は1キロ先で宿営するように命じられた。深夜に諸候は「マーチ伯は王の主、イザベル女王の愛人だ」等と不満を漏らしていた。ランカスター伯はこれら不満諸候にも内密に信頼できる同志、宮廷護衛官ウィリアム・モンタギューや、エドワード・ボーフン、ホーンビー卿ジョン・ネヴィル、ノッティンガム城の衛兵ホラントのロバートなどと共にノッティンガム城の秘密の抜け道から城内に進入した。城の内情は衛兵ロバートが熟知しており、抜け道もイザベルやマーチ伯の居場所も分かっていた。彼らは抜け道を通って城の台所に抜け、そこから広間を通ってイザベルの寝所に行き、完全武装したエドワード三世と合流した。ランカスター伯らは部屋の外にエドワード三世を待たせて寝所へ押し入った。ここで王の執事の騎士トルピントンのヒューがマーチ伯とイザベルを守ろうとランカスター伯に抵抗して、ホーンビー卿に殺された。マーチ伯とイザベルはベッドで一緒に寝ているところを捕らえられた。ランカスター伯らはマーチ伯とイザベルを広間に引っ立て城の鍵をエドワード三世に渡した。この騒動は朝になるまで外の諸候に知られることはなかった。朝になると、外の諸候に王の名においてマーチ伯の逮捕が伝えられ、ランカスター伯の手配でレスターやロンドンにいたマーチ伯の腹心も逮捕された。マーチ伯と腹心達はロンドン塔に送られ、イザベルは政治的な権利を剥奪されてノーフォークのライジング城に幽閉された。11月26日に今回の騒動を審議する為にウェストミンスターで議会が招集され、11月29日にマーチ伯の処刑が決議されてマーチ伯はタイバーンで絞首刑に処された。この議会でエドワード三世はマーチ伯やイザベラのような摂政を廃して自ら直接国事を司る親政の開始を宣言した。時に、エドワード三世18歳。ついにエドワードが本格的に始動したのだ。



ウェアー峡谷戦役後からエドワード三世親政開始までの事件

注釈 (参考文献)
第一章

第二章

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